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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 中泊町   Tags: つがるみち  

中里の義経伝説1「白旗神社」ーつがるみち258


白旗神社


 安東氏以前に十三湊を支配していた十三氏(十三藤原氏)の祖・藤原秀栄(ひでひさ)は藤原秀衡の弟であり、平泉との交流も深く、十三湊から得られる収益は、平泉繁栄の一翼を担っていたともいわれています。
 また、平成5年の大河ドラマ『炎立つ』では、平泉に亡命中の源義経が十三湊を訪れるという設定でロケも行われるなど、十三湖一帯の市町村には、いわゆる「義経北行伝説」が多く残っているわけですが、旧中里町(現中泊町)もそのひとつです。今回は、そんな中里町の宮野沢に鎮座する白旗神社を訪ねてみました。


観音堂一の鳥居


 宮野沢の集落は、縄文時代の遺跡が見つかったり、平安時代には大きな古代集落が誕生したとされるなど、太古からの歴史の流れを感じさせる土地です。
「宮野沢」という地名は、文明13 年(1481)、南朝の皇子が逗留したことにちなんで名づけられたという伝承もあるようです。

 現在は中泊町運動公園となっている丘陵地帯は、中世の城館があった場所だとされていますが、その運動公園の入口付近に、白い注連縄が張られた鳥居があったので立ち寄ってみました。

 鳥居をくぐって、参道の石段を上ると、そこにはひとつのお堂が立っていました。ここは観音堂で、集落の名前から「宮野沢観音堂」と呼ばれているようです。
 ここには、「申の子」「金毘羅」「二十三夜」「庚申」「山の神」が祀られていますが、中を覗いてみると、神様の小祠や石碑、御神体を描いた掛図などが並んでいました。線香のにおいが漂っていて、お参りする人々も絶えないようです。このような観音堂や地蔵堂が点在しているのも、奥津軽の特徴です。

◇宮野沢観音堂

 
参道
宮野沢観音堂
観音堂内①
観音堂内②
観音堂内③



白旗神社入口


 観音堂を過ぎて、運動公園へと続く坂道を歩いて行くと、途中の田んぼの中に鳥居がポツンと立っているのが見えます。そして、その奥には小さな森。どうやらここが白旗神社のようです。
 田んぼと畦道の中にひっそりと立っている神社ですが、やがて、田植えの時期を迎え、田んぼに満々と水が張られる頃には、まるで湖の中に浮かぶ小島のように見えるのではないでしょうか。そんな感じの風景です。

 一の鳥居の注連縄は、ここも白。この注連縄は、宮野沢の方々が「白旗」という神社名に因んで、例年、奉納している白いビニール製のものだということです。
 ⇒新聞記事より
新聞記事より


 参道を歩いて行くと、やがて境内へと至りますが、社号標と鳥居、社殿が立っているだけのいたってシンプルな社です。社殿の前に、小さな狛犬がありましたが、片方の狛犬の前足は、だいぶ風化して細くなっており、今にも折れそうでした。

 この白旗神社については、
【創建年代は不詳であるが、天正年間、八幡宮が袴腰岳より深郷田に遷る際に仮殿を建てた場所に、後年創建されたと伝えられる。※中泊町史跡・文化財マップより】とあります。
 
 袴腰岳(はかまごしだけ:627.8m)は、運動公園からも登山道が続いている山ですが、その山頂からは、十三湖をはじめ、日本海、北海道渡島、津軽海峡、下北半島、陸奥湾、八甲田、岩木山、津軽平野などを一望できるとあって、登山客に人気のある山です。その頂には小鳥居
袴腰岳山頂(※web 東奥「あおもり110山」より)
があるようですが、ここに、元々の八幡様が祀られていて、この白旗神社に遷座、そして現在は深郷田(ふこうだ)の八幡宮の御祭神となったということのようです。

 さて、この神社には、次のような伝説が残されています。
【中里町の東方、中山山脈のふもとにある宮野沢に昔、源義経と家来が落ち延びて来たという。ここで山子(木こり)になって山仕事をし、木で烏帽子を作っていた。
 何年か経って、義経はこの烏帽子を村人に与え、野原に源氏の白旗を立ててこの地を去り、三厩に向かった。この白旗を立てたところに神社を建て、烏帽子を祭ったのが白旗神社だという。※『青森の伝説』角川書店
 ー 蝦夷へと旅立つ前の義経の姿を描いた伝説です。

 ところで、「白旗」という名のつく神社(白旗神社)は、関東地方・東北地方・中部地方に分布していて、その数は70社ほどとされています。その中には、源氏の氏神である八幡神を主祭神とする社もありますが、多くは源頼朝を主祭神としているようです。
 ここ宮野沢の白旗神社の主祭神もまた源頼朝。 ー 義経伝説を語り伝える社の祭神が頼朝とは、何とも皮肉な話です。

◇白旗神社

 
白旗神社一の鳥居
参道
境内
社殿
狛犬


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  水虎様  

国道をはさんで「原子八幡宮」ーつがるみち257


ふきのとう


 私は五所川原方面へ出かけるときは、黒石から浪岡・大釈迦へ出て、そこから国道101号線を通ります。
 大釈迦を過ぎて少し走っていくと、道路沿いに色鮮やかな真っ赤な鳥居が見えてきます。この鳥居は、「何という神社なのだろう。」と、いつも気になっていました。
 地図で調べてみると、一帯の住所は「五所川原市原子」となっており、神社は八幡宮であることがわかりました。


一の鳥居


 実は、この道路沿いの鳥居は二の鳥居で、社号標と一の鳥居は、道路をはさんだ向かい側の集落の中にあります。そちらへ行ってみると、入口に大きな神馬が置かれた一の鳥居がありました。そこからは、遠くにさっきの二の鳥居が小さく見えました。つまり、参道は、国道101号線をはさんで、長く延びているわけです。

 二の鳥居から少し進むと、そこには、猿田彦を祀る赤い鳥居があり、猿田彦碑と二十三夜塔が立っていました。ここを左に折れると八幡宮の境内へ出ます。雪解けがだいぶ進んだとはいえ、参道の両脇には雪が残っています。しかしながら、確実に春はやってきており、道ばたにはふきのとうが顔を出していました。

◇一の鳥居から

 
神馬
二の鳥居
猿田彦・二十三夜塔①
猿田彦・二十三夜塔②
参道



四の鳥居


 杉の大木にはさまれた参道を歩いて行くと、やがて四の鳥居。そしてさらに鳥居をもうひとつくぐって境内へと出ました。
 拝殿のとなりに、コンクリート造りのお堂がありましたが、そこには、石像が二体。一体は観音像だと思いますが、もう一体は「亀に乗った女神」・・・津軽の水神である水虎様
水虎様
でした。
 
 岩木川流域の西北津軽地方に多く祀られている水虎様ですが、大きな川もないこの辺りに祀られているのは、少し意外な感じがします。
 ですが、ここ梵珠山の麓一帯には、農業用のため池があちこちにあることなどを考えると、灌漑工事の安全を祈願して祀られているのかも知れません。この原子八幡宮の御祭神に、譽田別尊とともに水神・闇おかみ神が祀られていることもまた、そのこと(水の安全祈願)をよく表していると思います。

 さて、この原子八幡宮ですが、
【八幡宮の創建は不詳ですが天正年間(1573~93)に勧請されたのが始まりと伝えられています。境内は浪岡城の支城である原子城(城主は北畠氏の重臣原子平内兵衛)の一画にあることから城の鎮守社か原子氏の氏神として勧請されたものかも知れません。明治時代に入り小神社の統合が行われ八幡宮は明治6年に一端磐余神社に合際されますが明治8年に複社し明治9年に村社に列しています。※HP 『青森県 歴史・観光・見所』より】と紹介されています。
 紹介にあるように、境内は戦国時代の城郭があった場所のようですが、今は、その面影はありません。この原子城は、大浦(津軽)為信の浪岡城攻撃の際に、ともに攻撃されたものとされています。

 拝殿には、見事な龍が彫られており、木鼻もなかなかの迫力でした。

◇拝殿と水虎様

 
境内
水虎様と観音像①
水虎様と観音像②
拝殿の龍
木鼻


 昨年の秋に、平川市の阿蘇神社を訪ねたときに、拝殿の四方の軒下を取り囲むように、十二支の像が彫られているのを見ましたが、この神社の拝殿にも彫刻がなされていました。

 ここに彫られているのは「馬」。その中には翼が生えた「天馬」を思わせるものもあります。動きがあり、一体一体が生きているような感じのする力作です。

◇馬の彫り物と本殿

 
馬の彫刻①
馬の彫刻②
馬の彫刻③
馬の彫刻④
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 大鰐町   Tags: つがるみち  

狐・きつね「宿川原稲荷神社」ーつがるみち256


境内から


 大鰐町に宿川原という集落がありますが、町のHPでは、次のように紹介しています。
【河原宿(かわらじゅく)あるいは宿川原(しゅくがわら)の地名は、全国に百以上あり、いずれも中世の大商業地で、大鰐の宿川原もそうでした。
 その理由(一)として、年貢を中央へ送るには基地が必要で、津軽各地からの道路が一本化する宿川原は、集散どちらにも適している。理由(二)として、米は馬での大量輸送が困難なため、布・染料などに交換されたが、その際、倉庫・市・宿泊所などが必要だったためです。】
 ー 今回は、そんな宿川原に鎮座している稲荷神社を訪ねました。


一の鳥居


 村落の中に社号標が立っているようですが、どうやら私はそこを通らず、別の道を来たらしく、直接、神社へと出てしまいました。
 神社の回りは小高い山で、りんご園になっています。境内からは、すぐそばを走る東北自動車道や大鰐方面の山々が見えました。

 坂道を上って行くと、途中に赤い一の鳥居が見えます。さらに進むと今度は白木の二の鳥居。ここから左に曲がったところが境内です。

 この二の鳥居の隣には、二十三夜塔や庚申燈、猿田彦の石碑などがまとめて立てられています。特に猿田彦碑は、大小様々なものがありました。中には倒れているものも。
 この石碑群の後方には馬頭観音碑が6基。その中には、三十三観音像の形式の碑もありました。参道の入口には、昇り龍と降り流が彫られた神門が立っていました。

◇鳥居、石碑、神門

 
二の鳥居
猿田彦碑ほか
馬頭観音碑①
馬頭観音碑②
神門



境内


 稲荷神社といえば「おきつね様」ですが、この神社には狛犬はおらず、稲荷様の使いであるきつね像が拝殿に向かってズラーッと並んでいます。
 その数は合わせて4対(8体)で、神門から小・中・大と、拝殿に近づくにつれて大きなきつね像になっていました。

 子犬を思わせるものや、いかにもきつねを思わせる目がつり上がったものなど、表情も様々です。拝殿前の2体は、とりわけ大きな像で、一方は木の実(どんぐり?)を抱いたもの、片方は子ぎつねを抱えたものでした。

◇きつね像

 
きつね①
きつね②
きつね③
きつね④
きつね⑤



力試石


 境内には大きな「力試石」が2つ置かれています。説明が書かれた碑も立っていますが、それには、
『左一石石 この石は当時部落で持ち上げられた若者は2、3名でありました。』
『右九斗石 この石は部落で56名が担ぎ上げたと言われています。』
『二ツ共明治の頃より大正初期に部落に置き当時若者達がこの石を担ぎ上げ力を競い合った石であります。』と書かれていました。
 ー 力比べで賑わった往時の様子が浮かんでくるようです。

 この宿川原稲荷神社については、
【御祭神:猿田彦命、倉稲魂命、大宮比売命  創建年月不詳、 明暦元年 (一六五五) 村中で再建、 江戸時代前期、 神宮長利家が宿川原で生活していたこともあって、 宿川原正一位稲荷大明神として祀られていたが、 神仏分離令により、 明治六年稲荷神社として大鰐羽黒神社に合祀され、 一時産土神が村からなくなっている。 その二年後明治八年に、 元稲荷宮地に、 羽黒神社より遷座し現在に至る。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 猿田彦命と倉稲魂命はおなじみの神様ですが、大宮比売命(おおみやひめのみこと)についてはよく知りませんでした。いろいろ調べてみると、
○「古代の神祇・祭祀の官庁であった神祇官に奉斎した神々のうちの一柱。天照大神の
 御前に近侍された神」
○「心が和楽していっさいの憂いや苦悩がなくなるよう、霊魂を平らかにする神。 宮
 殿の守護をつとめ、君臣の和合をもたらす神」 とありました。
  佐田彦大神(猿田彦命)と倉稲魂命とともに、「稲荷大神三座」として祀られることも多く、猿田彦命の妻で天の岩戸神話に登場する天宇受売命の別名ともされているようです。

 拝殿の注連縄はジャンバラ型の豪華なものでした。本殿のわきに、末社が建っていました。ここにも小さなジャンバラ型の注連縄がありましたが、どうやらここは山ノ神のお堂のようです。中を覗いて見ると、中央に山神様が祀られていました。

◇拝殿、本殿、山神堂
 
 
拝殿①
拝殿②
本殿
山神堂
山ノ神


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  

嘉暦の板碑「大袋稲荷神社」ーつがるみち255


平川と岩木山


「平川市」という名称の由来ともなっている平川は、平川市の坂梨峠西麓に源を発する延長約40kmの一級河川です。
 藤崎町の辺りで浅瀬石川と合流し、岩木川となるわけですが、その流域の市町村には、平川市、大鰐町、弘前市、田舎館村、藤崎町 などがあります。
 田舎館村を流れる平川の周辺に「大袋(おおふくろ)」という集落がありますが、ここの川沿いに稲荷神社が鎮座しています。

 一帯は、田舎館村と弘前市との境目にあたり、神社の後ろの土手の対岸には、以前に訪れた富岳神社の森が見えます。また、今の時期は夏場と違い、木々の葉なども茂っておらず、稲荷神社の境内の様子もはっきりと見ることができました。

 社号標は集落の道路沿いに立っていて、そこから民家の中を歩いて行くと一の鳥居があります。そこから、二、三、四と鳥居をくぐるわけですが、二の鳥居には米俵を載せた大きな注連縄が張られていました。社殿は参道を右側に折れた所に建っています。

◇稲荷神社参道
 
 
平川
稲荷神社
一の鳥居
二の鳥居
四の鳥居


 大きな石燈籠がありますが、狛犬などもなく、わりとあっさりとした境内です。拝殿・本殿ともに新しく改修されたものらしく、きれいで、色がとても鮮やかでした。

 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神  当社創建の年月日は不詳なるも、 古来稲荷宮と称えられ、 元和四年 (一六一八)、 当村南方の川辺に新たに社殿を建立し、 当村葛西又右衛門を始め村民一同深く信仰し産土神と崇め祀った。 慶安元年 (一六四八)、 平川洪水にて宮地残らず川へ落ち、 又右衛門屋敷の内へ遷し祀った。 これに依り、 貞享年間の御調べの時には、 社地川へ落ちたる為に御調べに記載されなかった。 その後、 延宝九年 (一六八一)、 又右衛門が社地の復興を計り、 御神慮を安じ奉らんと、 年々重く奉賽し、 ついに平川洪水より九十八年目の延享三年 (一七四六) 六月、 現地へ再建された。 以来、 社地の整備等に村民一同協力し、 弘化二年 (一八四五) 五月、 当村葛西勘十郎より祠堂田地一反歩の寄進あり。 明治六年五月十日、 村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とあります。
 ー 古くから村の産土社であったようですが、「平川洪水により・・・」とあるように、地域は何度も平川の氾濫に悩まされてきたのでしょう。

◇稲荷神社境内

 
境内
五の鳥居
拝殿
本殿
忠魂碑と板碑



嘉暦の板碑


 境内に大きな忠魂碑がありますが、その手前にひとつの石碑が立てられています。
「石碑」と書きましたが、実はこれは台座の上に据えられた板碑で、刻まれている年号から「嘉暦(かりゃく)の板碑」
「嘉暦(かりゃく)の板碑」
と呼ばれています。そばにある説明板には、次のように書かれていました。

【嘉暦(かりゃく 1326~29)は鎌倉末期、後醍醐天皇朝の年号。 その頃津軽の豪族安東氏は内紛を起こして戦乱状態にあった。 その原因の一つは、十三湊の本家季長(すえなが)と、藤崎の分家季久の争いに対する鎌倉幕府の裁きの不手際からで、板碑はこの戦いの死者への供養碑といわれる。 近年、この乱の背景に元寇以来、民族意識に目覚めた北方蝦夷の問題を取り上げる研究者も多い。 なお、この板碑を人の見ていないときに撫でると、オコリ(熱病の一種)が治ると言われた。

「その頃津軽の豪族安東氏は内紛を起こして戦乱状態にあった。 」とありますが、この戦乱は「安東(藤)氏の乱」とも、津軽一円を巻き込んだことから「津軽大乱」とも呼ばれています。
【発端は、1268年(文永5年)に津軽でエゾの蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件である。更に1318年(文保2年)以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤又太郎と従兄弟の安藤五郎三郎との間の内紛に、1320年(元応2年)エゾの再蜂起が加わった。得宗家では、1325年(正中2年)に蝦夷代官職季長から季久に替えたが戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。その後も季長は得宗家の裁定に服さず戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤祐貞が追討に派遣された。※wikipediaより抜粋
 この大乱の泥沼化は、鎌倉幕府に騒乱を平定する力がないことを内外に示し、その威信を低下させることに繋がったともいわれています。

 なお、安東季長の城館は、深浦町関にあったといわれており、この地にある関の古碑群は、この大乱のときの供養碑であるとされていますが、ここ稲荷神社の板碑もまた戦乱で命を落とした者への供養碑だったのでしょう。

 説明板の終わりに、「この板碑を人の見ていないときに撫でると、オコリが治ると言われた」とありますが、オコリ(瘧)とは、「隔日また周期的に起こる」という意味で、「悪感や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。えやみ。わらわやみ。瘧(ぎゃく)。」で、日本の古文献にもしばしば登場する疫病です。主に、低湿地帯において流行したとされていますが、ここ田舎館の地でも、平川の氾濫や打ち続く戦乱によって、自然環境が悪化し、疫病が蔓延したのでしょうか。

「人の見ていないときに撫でると」・・・人が大勢いるときには御利益が薄まるということでしょうか。あるいは、オコリに罹った者は、その伝染が恐れられたために、人々の前に出るのが憚られたということなのでしょうか。
 それにしても、○○様やお地蔵様を撫でると病気平癒の御利益があるという話はよくありますが、「板碑」は初めてです。それだけ、地域の人々に大切にされてきた板碑だったのでしょう。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  

田舎館村の神明宮ーつがるみち254


田舎館駅


 田舎館駅は、黒石市と弘前市を結ぶ弘南鉄道弘南線の駅のひとつです。小さな駅ですが、朝夕の通勤通学の時間帯には賑わいをみせます。
 現在は無人駅ですが、かつては、ちょっとした軽食喫茶や売店などもありました。
 そんな田舎館駅の近くに鎮座している2つの神明宮を訪ねてみました。


高樋神明宮


 一帯の住所は高樋(たかひ)。この田舎館駅のすぐそばが神明宮(高樋神明宮)です。線路越しにその境内を見渡すことができます。
 踏切を渡ると、道路沿いに大きな鳥居が立っていますが、二の鳥居、境内へと道が続いています。境内には八幡宮もあり、八幡様も合祀されているようです。

 社殿を取り囲むように大木が何本かあるのですが、駅をはじめ、辺りの民家や道路などがよく見えます。何となくがらーんとした印象の社ですが、実は、かつては「鬱蒼とした森」だったらしく、由緒には次のように書かれています。
【御祭神:天照皇大神 譽田別尊   創立年月不詳と云えども当社神職系図 (安政二年八月書上表控) から見て、 天正以前である事は明らかである。 古くは深山大権現と称し、 又、 境内に巨木茂り、 更に藤の古木が連なり、 通称藤林と云われて、 それにまつわる種々の伝説が残っている。
  古くより神威の聞こえ高く、 往時、 津軽藩主何程の事やあると、 社前を騎馬にて乗り過ぎた時、 馬が木の根につまづいて落馬した。 人々は神威を恐れたが、 藩主は大いに怒り、 以後藩庁へは祭神名を変えた届けを出して明治に至る。 明治六年四月高樋、 十二川原両村の産土神として村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP

「境内に巨木茂り、 更に藤の古木が連なり、 通称藤林・・」とありますが、こんな伝説があります。
【境内に繁茂した老木に藤つるがたくさんまとわりついて、昔は藤の森であった。この藤のつるは、境内の森の主、大蜘蛛の巣が変化した蜘蛛の藤であったと伝える。妖怪の蜘蛛を退治してから、藤は自然と少なくなってしまった。※『青森の伝説』角川書店
 ー 大蜘蛛がいなくなったからでしょうか、今は往時の面影はありません。

 もちろん伝説でしょうが、「神威を恐れず、境内に馬で乗り入れ落馬した津軽藩主」とは、いったい誰なのでしょうか。一本気で負けず嫌いな「じょっぱりな殿様」。。
 ー 歴代の津軽藩主の中で、そんな逸話を残すにふさわしいのは、やはり3代藩主・津軽信義だと思うのですが。。

◇高樋神明宮

 
一の鳥居
境内
八幡宮
狛犬
本殿



垂柳神明宮


 こちらは垂柳に鎮座する神明宮(垂柳神明宮)
 最北の弥生田とされる垂柳遺跡がある集落内に鎮座する社ですが、やはり田舎館駅から近い所です。
 一の鳥居に張られた注連縄は金属製の物ですが、一風変わった形をしています。藁に包んだ握り飯のようにも、大きなサングラスのようにも。。

 小さな境内ですが、この神社は、
【御祭神:天照皇大神  古来より日月堂と称し、 垂柳と枝川両村の氏神として崇敬された神体仏号の神社である。 明治四年神仏分離の時、 神明宮と称した。 大同二年 (八〇七) 征夷大将軍坂上田村麿が蝦夷征伐に来た時、 神仏の加護を受けんとして百余りの神社を建立して祈願、 日月の絵を書いた軍旗に改め、 見事蝦夷を討ち平らげることができたと云う。 その時、 清浄の地を選んで軍旗を置いたのが垂柳と伝えられている。 村民は、 その旗が風雨に曝さらされるのを恐れ日月堂を建立して納め崇敬した。
 それから四百年後の天正年中 (一五七三~一五九一) 火災にあったが、 その後、 田舎舘城主・千徳掃部政武の家来福士市左右衛門が再建し産土神として崇敬した。 日月の像を鋳造、 金属を溶かして作り、 それを御神体として神殿を造営したと伝えられている。 ※青森県神社庁HP】と紹介されているように、平安時代からの古い由緒を伝える「産土社」であったようです。

◇垂柳神明宮

 
注連縄
境内
拝殿
狛犬
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  水虎様  

地名の由来「元町八幡宮」ーつがるみち253


一の鳥居


 五所川原市周辺の地域は、昔から岩木川の氾濫もあり、大部分は荒地であったといわれていますが、江戸時代になると津軽藩による新田開発が積極的に行われるようになりました。
 開発に伴い、岩木川の改修工事も進んだわけですが、当時は岩木川の屈曲のために「五ヶ所に川原があった」といわれています。
 
 ー この「五ヶ所の川原」が即ち「五所川原」という地名の由来であるという説があります。今回は、そんな五所川原市元町に鎮座する八幡宮を訪ねてみました。


常夜燈


 私が車を駐めたところは、どうやら裏口のようでしたが、その入口には馬繋石
馬繋石
がありました。昔はここで馬を降りて神社に詣でたものでしょうか。
 入口の右側に、ひとつの常夜燈が立っています。近づいて見ると、「牧水 山蘭 常夜燈」と書かれていました。「牧水」はあの若山牧水で、「山蘭」とは、五所川原市出身の歌人・和田山蘭のことです。

 若山牧水は、和田山蘭や同じく五所川原出身の加藤東籬と親しく交わり、大正5年3月と大正15年11月には、この町を訪れているとのことです。
 常夜燈の後方に石段があり、小高い丘の上には小さな東屋が設けられていますが、そのそばに牧水の歌碑が建立されています。
 ー 『橇の鈴戸の面に聞こゆ旅なれやつがるのくにの春のあけぼの』 ー
 ー 『ひっそりと馬乗り入るる津軽野の五所川原町は雪小止みせり』 ー
 二首ともに、冬の五所川原の情景が浮かんでくるような歌です。この歌に因んだものでしょうか、東屋には「橇の鈴」という額が掲げられていました。 

◇若山牧水歌碑、本殿、拝殿

 
橇の鈴
若山牧水歌碑
本殿
拝殿
拝殿から



境内


 拝殿や本殿を見た私は、あらためて表口の方に回ってみました。一の鳥居から続く参道はけっこう長く、桜の木が何本もありました。
 手水舎の後ろに3つの祠が建っていましたが、そのうちのひとつは、「亀に乗り、両手を合わせた女神」=水虎様でした。祠のすぐ後ろは川の土手。かつてはその氾濫に苦しめられ、水神・水虎様が祀られたのでしょう。

 拝殿の隣に、旧社殿と思われる建物があります。その前に小さな狛犬がありますが、風化が進み、もう少しで原型が分からなくなるような姿です。

◇水虎様ほか

 
末社
水虎様
旧社殿?
狛犬
拝殿



八幡宮由来


 さて、この元町八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  寛文元年 (一六六一) 勧請。 往古 (明暦か万治の頃との説あり)、 春の大水のとき、 五所川原村の崎に現在の中津軽郡相馬村五所鎮座五所神社の御霊代を奉安した御厨子納の祠が流れつき、 新宮の住人が拾い上げて私宅に奉齋した。 このときは五所から訪れた使者に返納するが、 その年の秋、 次の春と同じように流れつくこと三度。 これ神慮として五所の人々も納得し、 新宮の地に祀ることとなった。 新宮の地名もこのことに由来する。 その後、 実際に漂着した処こそ鎮座地に相応しいと改めて五所川原村に鎮祭されることとなった。※青森県神社庁HP 】とあります。

 上記下線に「相馬村から祠が流れつき」とありますが、流れてきたこの祠は長慶天皇を祀る「御所権現社」であったとされています。これについて、ここ八幡宮にある由緒書きには、
【ここの御神体はその昔中津軽郡五所の長慶天皇が崩御大葬されたという場所に祠られてあったが洪水にあい、ここ元町の岩木川原に流れ着いたものである。柳の大木にひっかかっているのを発見した新宮の人が拾いあげ宅地内に祠ったが、やがて五所村の人達が探しあててもらいうけて行った。ところが再三流れては不思議に同じ場所に着いたので、これは神様の思召しによるものだと五所村の人達も認め以来この地に祠ることにしたと伝えられている。その年代は明らかではないが、万治三年(1660年)の頃と考えられている。なお、五所川原の地名の由来はこのことによるとの一説がある。 】と書かれています。

 長慶天皇(1368~1383年)は、南北朝時代の第98代(南朝第3代)天皇ですが、青森県内に潜幸してきたという伝説が残されており、私も以前に青森市浪岡(旧浪岡町)や、その御陵墓参考地がある弘前市相馬(旧相馬村)を訪ねたことがあります。
 
 伝説では、崩御の地・相馬から三度に渡って祠が同じ場所に流されてきたとありますが、「五カ所の川原があった」とされるこの辺り一帯には、かつて、岩木川の氾濫に伴い、上流から様々な物が流され、岸にたどり着いたこともあったのでしょう。その中には、祠とか御神体とかもあったのかも知れません。
 そして、由緒書きに「五所川原の地名の由来はこのことによる」とあるように、長慶天皇の「御所が流れ着いた川原」であることから「御所河原」と呼ばれ、「五所川原」という地名になったという説も唱えられているわけです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

石名坂館「稲荷神社」ーつがるみち252


狛犬


 黒石市浅瀬石の近くに石名坂(いしなざか)という集落がありますが、ここには、かつて「石名坂館」という城がありました。城主(館主)は石名坂氏で、館の築城年代は詳しくはわかりませんが、南北朝期から戦国期にかけて浅瀬石・千徳氏の支配下に入っていたようです。
 天正13年(1585)、南部氏が浅瀬石城を攻撃した戦い(宇杭野合戦)において、当時の館主であった石名坂近江守正長は討ち死にし、その後廃城となったといわれています。


石名坂館跡


 石名坂館は、付近を流れる浅瀬石川を天然の堀として、主郭と外郭で構成されていたといわれていますが、現在は、その主郭跡に稲荷神社が鎮座しています。
 すぐそばを東北自動車道が走る坂道を歩いて行くと、傍らに墓地が見えてきますが、その上が小高い丘になっていて、稲荷神社の社殿が建っています。

 一の鳥居から延びている石段を上っていくと、二の鳥居の両脇に岩の上にのっかった姿の狛犬が置かれていました。
 このような姿の狛犬は「獅子山型狛犬」とも呼ばれていて、溶岩や積み上げた岩で獅子山を造り、それを崖と谷に見立てて、「親獅子は千尋の谷へ幼い我が子を突き落とし、そこから這い上がってくる強い子だけを育てる」という、いわゆる「獅子の子落とし」の説話を狛犬で表現しているものとされています。
 津軽地方では、あまり見かけないもので、私も初めてでした。狛犬は、赤い三の鳥居のそばと拝殿の前にもありましたが、こちらは一般的な造りのものです。

 拝殿には、鈴と並んで鰐口が下げられていました。こうした仏具は、神仏混合の名残を感じさせます。

◇稲荷神社境内

 
一の鳥居
二の鳥居
獅子山型狛犬
境内
拝殿



手水岩


 境内には、龍が乗った手水石がありますが、その後方にこの社の由緒を記した石碑
石碑
が立っています。
 それには、【文治五年六月奥州藤原氏滅亡の際、家臣佐藤庄司基治は今の岩手県西磐井郡彌榮村(※現在の一関市弥栄)石名坂より移住して・・・・】と書かれています。また、この稲荷神社の縁起については、
【御祭神:倉稲魂命  文治五年 (一一八九)、 源頼朝が藤原泰衡を滅ぼした際に、 家臣佐藤庄司基治が当地に移住し、 平泉藤原氏全盛時代に平泉七社の内に数えられた稲荷宮と祇園社を館内に勧請し、 創立したのに始まる。
 仁治元年 (一二四〇)、 千徳伊探守行重が浅石城主になると、 佐藤氏はその家臣となり、 神社は領内の名社として領内十九社の内に列した。 慶長二年 (一五九七)、 浅石城落城により廃社となったが、 その後、 佐藤氏が中心となって神社を再興し、 石名坂の産土神として宝永五年 (一七〇八)、 村中にて社殿が造営された。※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 佐藤庄司基治(佐藤基治:さとう もとはる)は、
【奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した武将。源義経の従者佐藤継信・忠信の父。※wikipediaより】で、奥州藤原方の武将として、鎌倉軍と戦った佐藤一族の頭首でした。
 その領地は「石那坂」と呼ばれ、この地での戦い(石那坂合戦)に敗れた基治一族は、やがて「青森県に逃れた。黒石市・石名坂は、佐藤基春のかつての所領・石那坂から名付けられた」という伝承が残っているわけです。

 伝承に従うならば、佐藤基治は福島飯坂から平泉へと逃れ、ここ黒石石名坂に居住し、「平泉七社」を模した稲荷宮を建立したことになります。小規模ながら、この地に、かつての平泉の栄華を再現しようとしたのでしょうか。佐藤一族は、その後、「石名坂氏」を名乗り、戦国時代を迎えるわけです。

 拝殿の後ろの本殿は、すっぽりと覆われ、その中を見ることはできませんでしたが、稲荷様らしく大きな「正一位」の扁額が掲げられていました。
 隙間から覗いて見ると、恵比寿様と大黒様の姿が見えました。豊穣の神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)とともに、五穀豊穣を願って祀られているようです。

◇本殿ほか

 
拝殿から
末社
本殿①
本殿②
恵比寿様と大黒天


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川湊の守り神「胸肩神社」ーつがるみち251


岩木川と岩木山


 ー青森県五所川原市湊千鳥ー 
「湊」「千鳥」という文字から、何となく海辺を連想しますが、ここは岩木川とその支流沿いに開けた町です。 
 辺りは、藩政時代には「広田組(※津軽藩が設置した行政区画のひとつ)湊村」と呼ばれていた地域です。
 藤崎町から板柳町、鶴田町、そして五所川原市と、岩木川中流沿いに開けた集落は舟運が盛んで、多くの川湊が設けられた所でした。「湊千鳥」という地名も、そんなところからきているのでしょう。ここに胸肩神社が鎮座しています。 

 胸肩神社は、隣接する菊ヶ丘運動公園の一角にありますが、道路を挟んだ向かい側に、ひとつの堰が流れています。「湊堰」と名づけられたこの堰は、その開削年代は不詳ながらも、古くから辺り一帯の土地を潤してきたようです。
 そして、その後ろには黒塀に囲まれた古い住宅が建っていますが、この建物は「旧平山家住宅」です。

 旧平山家住宅については、
【平山家は古くからこの地に土着した豪農で正保2年(1645)に湊村が開村すると代々肝入役や庄屋など村の上役を歴任し、江戸時代後期には大庄屋となり、代官所の手代や堰奉行などを務め郷士として身分も認められ大きな影響力を持つようになりました。現在の建物は明和6年(1769)に再建されたもので木造平屋建て、寄棟、茅葺、正面左側を前に張り出しその部分の屋根は切妻とし、桁行17間(32.953m)、梁間6間(10.455m)、平面は整形四間取系で向って右端から7間分が土間で7頭分の厩、作業場として利用された「いなべ」、「にら」、「とろじ」が配され、中心部分は家族の一般生活が営まれる「だいどころ」、「じょうい」、「なんど」、「きたのざま」が配され、左側3間分が式台付の玄関や「おもてざしき」、「おくざしき」など身分の高い人物を迎える接客する場所が配されました。当時、農家住宅には表門を設ける事は禁止されていましたが「平山家文書」によると天保元年(1830)に10代弘前藩主津軽信順から藩への貢献が高い事ことで特別に許可を受け建てられ現在も大きな改変が行われていません。表門は寄棟、茅葺、桁行3.818m、梁間1.818mの長屋門形式で小規模ながら番所を備えた格式の高い造りになっています。※『青森県歴史・観光・見所』HP】と紹介されています。
 この住宅は「津軽地方の上層農民が生活した18世紀後半の規模をほぼ原形のまま伝えている」ことなどから、昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されていますが、今はシーズンオフということでしょうか、住宅の中を見ることはできませんでした。

 私は、運動公園の駐車場に車を駐めたのですが、ふと見ると、そこには小高い2つの山。除排雪で積み上げられた小山です。八甲田山のようにも、雪のピラミッドのようにも見えました。この駐車場からは、民俗資料館や胸肩神社の社殿も見えます。

◇湊堰、旧平山家住宅ほか

 
 
湊堰
旧平山家住宅
五所川原市歴史民俗資料館
除雪山
胸肩神社



一の鳥居


 穏やかな天候が続いているため、雪解けもだいぶ進んではいますが、境内にはまだまだ雪がたくさんありました。とちゅうでズボズボぬかりながら拝殿に向かって歩きましたが、靴の中は雪だらけ。。
 拝殿の木鼻や龍の彫り物などは赤銅色に塗られ、きらきらと光っていました。まるで金属のようです。

 さて、この胸肩神社の由緒については、
【御祭神:市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命  創建年代不詳。 『安政二年神社微細社司由緒調書上帳』 に 「広田組湊村 一、 弁天宮一宇 右者、 草創不詳候得共、 港村半田村両村尓而五穀成就村中安全之為建立仕候。 尤貞享年中 (一六八四~八八) 御調ニ水神登御座候えば、 社号ニ而弁天宮ニ御座候。」 とある。
 明治四年の 『藩内神社調』 には現社名胸肩神社の記載あるが改称年月日は不詳。 明治六年四月姥萢稲荷神社へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十一月村社に列せられる。 昭和十一年十一月十川改修の為移転遷座。 平成元年十一月十川改修と道路整備によって現社地に移転遷座。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「胸肩」という神社名の通り、御祭神は宗像三女神なわけですが、由緒にも「水神」とか「弁天宮」とあるように、古くから地域の「水神様」として崇められてきた社のようです。
 また、「十川改修の為の移転遷座」が、昭和と平成になってから行われているように、岩木川の支流である十川の治水工事はたびたび行われていたことがわかります。

◇境内と拝殿

 
参道
境内
狛犬
木鼻
龍の彫り物


 拝殿の脇には白い鳥居が立っており、その奥には庚申塚と2つの祠がありました。
 そのうちのひとつを覗いて見ると、そこには両手を合わせた河童のような姿をした木像。奥津軽の代表的な水神・水虎様です。舟運の安全と五穀豊穣、そして水難防止の願いをこめて祀られているのでしょう。

 水虎様は、岩木川流域の神社などに多く見られますが、その地域によって、「亀に乗った女神型」のものと、「河童のような姿」のものがあります。
 ここ胸肩神社の水虎様は、その発祥の地とされるつがる市木造の実相寺と同じように、「河童型」の神様でした。

◇水虎様ほか

 
拝殿
末社①
末社②
水虎様
本殿


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県重宝の本殿「飯詰八幡宮」ーつがるみち250


飯詰八幡宮


 五所川原市飯詰は、戦国時代、津軽為信軍に長年に渡って抵抗した朝日氏(朝日行安)の居城であった飯詰城址(高楯城址)がある所です。
 また、この集落には、かつて十三湖の湖底に沈んだという伝説の梵鐘のある長円寺がありますが、その長円寺の近くに八幡宮(飯詰八幡宮)が鎮座しています。


参道


 集落の中を走る道路沿いに赤い手すりのついた石段があり、その上に一の鳥居が立っています。「郷社 八幡宮」と書かれた社号標の隣には、「県重宝指定八幡宮本殿」の木柱も立っていました。
 参道の雪もだいぶ少なくなっており、八幡様の神使である「狛鳩」も、両側にその姿を見せていました。民家に挟まれた参道を少し進むと、境内へたどり着きます。

 拝殿の向かい側に、もうひとつ白い木造の鳥居が立っており、その下にも参道があります。雪で歩けませんでしたが、こちらも入口になっているようです。
 こちらの鳥居をくぐった右側には、「山神」と書かれた鳥居。どうやらここは大山祇神社のようです。
 施錠されていたために、その拝殿の中へは入れませんでしたが、ガラス越しに見ると、その中には御神体とともに、大きな石が祀られていました。拝殿前の狛犬は、比較的新しいもののようですが、つり上がった目で、均整のとれた姿形をしており、なかなかの迫力でした。

◇境内と大山祇神社

 
狛鳩
三の鳥居?
大山祇神社①
大山祇神社②
大山祇神社狛犬



神馬と末社


 飯詰八幡宮については、
【祭神:譽田別尊、天照皇大神、軻遇突智命  創建は弘治元年(1555)大房村の領主樺澤団右エ門が勧請したのが始まりと伝えられています。樺澤団右エ門が死去すると一時荒廃しましたが承応元年(1652)飯詰本村の鎮守社として再興され、参拝に不便なことから宝永2年(1705)に現在地に遷座し元々あった愛宕宮と合祀し、安永3年(1774)に飯詰組27ケ村の祈願所に指定されています。愛宕宮と合祀してからは上愛宕宮と称していましたが明治4年(1871)に八幡宮と社号を改称し愛宕宮を合祭する形式に変更、明治6年(1875)に石田坂村白山姫神社を遷座し郷社に列しています。明治7年(1876)には神官である松野博が拝殿を利用し寺子屋を開設しています。※HP『青森県:歴史・観光・見所』より】と紹介されています。

 様々な変遷を経てきた神社ですが、「郷社(旧社格制度で府県社の下、村社の上に位置)」として、近郷の崇敬を集めてきた様子は、「神官が寺子屋を開設した」という一文からもうかがえます。

 さて、社号標のそばの木柱に「県重宝指定本殿」とあるように、この社の本殿は、平成6年(1994)に青森県重宝に指定された建造物です。
 その概要については、
【飯詰八幡宮本殿:小規模ではあるが、均整のよく取れた社殿である。承応元年(1652年)に再建され、宝永2年(1705年)に現在地へ移転、さらに宝暦元年(1751年)に再建されている。土台に円柱を立て、腰貫(こしぬき)を通し、2段の切目長押(きりめながし)を廻し、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)と組み、出三斗(でみつと)、蟇股(かえるまた)を置いて軒桁(のきげた)を受けている。軒は二軒繁垂木とし、妻飾は虹梁(こうりょう)に太瓶束(たいへいつか)となっている。浜縁や高欄・正面扉など後世の改造とみられる箇所もあるが、向拝柱(ごはいばしら)に粽(ちまき)が付けられているのも珍しく、素朴な造りながら、虹梁や木鼻の彫刻をはじめ、各所に優れた手法が示されており、貴重な遺構として末長く保存すべきものである。※五所川原市HP他より 】と説明されています。

 保護のためか、現在は本殿ごとすっぽりと覆われており、玉垣の中の建物は外観しか見ることはできず、上記のいろいろな建物の特徴は窺い知ることはできませんでしたが、地域が誇る優れた文化財であることは、何となく実感することができました。

◇拝殿と本殿

 
拝殿①
拝殿②
本殿①
本殿②
本殿③


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

鳥居の注連縄いろいろーつがるみち249

板柳町五林平八幡宮
  
弘前市撫牛子八幡宮
  
弘前市大沢八幡宮


 注連縄については、【神道における神祭具で、糸の字の象形を成す紙垂(しで)をつけた縄をさす。標縄・七五三縄とも表記する。神域と現世を隔てる結界の役割を持つ。神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。※wikipediaより】とありますが、その起源については、神話の「天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのがはじまり」とされる他、稲作信仰や自然崇拝の信仰などとも関係が深いといわれています。
 神社には、鳥居や拝殿をはじめ、御神木、神池、大石などの神体に注連縄が張られていたりしますが、私は、あまり注意深く見たことはありませんでした。ですが、後で撮ってきた鳥居の写真を見ると、様々の大きさや形があることがわかります。 
 ー そんな鳥居の注連縄をいくつか集めて見ました。

〔上の画像〕
 ◇左:板柳五林平八幡宮・・・両柱と貫の間に張られた一般的な注連縄です。
 ◇中:弘前市撫牛子八幡宮・・・貫とほぼ平行に張られた注連縄。
 ◇右:弘前市大沢八幡宮・・・金属製の注連縄。逆三角の珍しい形です。


〔一般によく見られる注連縄〕
 ※左から
 ◇弘前市新岡八幡宮・・・貫と平行に張られた細い注連縄。
 ◇弘前市富岳神社・・・こちらも貫と平行。蛇のように波打っています。
 ◇平川市高畑神明宮・・・縄の編み方がよく分かる注連縄です。
 ◇平川市阿蘇神社・・・鳥居の大きさとのバランスもよく、きれいな注連縄。
 ◇五所川原市相内神明宮・・・素朴で大きな注連縄。地面に届きそう。

 
弘前市新岡八幡宮
弘前市富岳神社
平川市高畑神明宮
平川市阿蘇神社
五所川原市相内神明宮



〔米俵や酒樽が載る注連縄〕
 豊作祈願・感謝 ー 津軽らしい豪華な注連縄です。
 ※左から
 ◇弘前市乳井神社・・・酒樽、米俵、ハート形の結び目。
 ◇黒石市境松保食神社・・・横綱の化粧まわしを思わせる注連縄です。
 ◇つがる市柏正八幡宮・・・奉納絵馬と三つの米俵を載せた注連縄。
 ◇青森市高田熊野宮・・・のれん状の「ジャンバラ」を下げた津軽独特の注連縄。
 ◇つがる市三新田神社・・・地域の人々によって、三十三の米俵が奉納されます。

 
弘前市乳井神社
黒石市境松保食神社
つがる市柏正八幡宮
青森市高田熊野宮
つがる市三新田神社



〔金属製の注連縄〕
 はじめて見たときは驚きましたが、神社を巡っているうちに数多くあることがわかりました。
 ※左から
 ◇弘前市大狼神社・・・赤銅色に輝いているきれいな注連縄です。
 ◇弘前市月夜見神社・・・貫を隠すように張られています。柱の結びも金属。
 ◇田舎館村生魂神社・・・三つの米俵の下に架かる形のよい注連縄です。
 ◇弘前市浜の町熊野神社・・・貫と平行に張られた注連縄。金色が鮮やか。
 ◇黒石市赤坂八幡宮・・・細く、ドリルのような形状をした特徴のある注連縄です。

 
弘前市大狼神社
弘前市月夜見神社
田舎館村生魂神社
弘前市浜の町熊野神社
黒石市赤坂八幡宮


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