

前回の記事から少し間が空いてしまいました。今回もまた、青森市浪岡(旧浪岡町)に鎮座している二つの八幡宮です。

浪岡と黒石市は隣接しているわけですが、本郷地区もそのひとつです。その本郷の集落に八幡宮があります。
この八幡宮の周辺からは、縄文時代の土器や土偶をはじめ、平安時代の土師器や須恵器なども発掘されており、縄文から平安までを包含する遺跡となっていて、地名と社名から「本郷八幡宮遺跡」と呼ばれています。
この八幡宮については、
【御祭神:譽田別命 草創不詳なるも、 元禄十一年 (一六九八)、 本郷村中にて、 再建する。※青森県神社庁HPより】と書かれてありますが、その詳細は分かりません。
道路沿いに「御大典紀念」の碑と「八幡神社」と刻まれた社号標に挟まれて、金属製の注連縄が張られた一の鳥居が立っています。そこから参道が延びていますが、途中で右側に折れ曲がり、その先に社殿が見えます。
拝殿までの参道の両側には、灯篭をはじめ、神馬が二対、狛犬も二対、そして八幡様のお使いの鳩などがズラーッと並んでいます。参道の右側は森、左側は道路になっており、明るい感じのする境内です。
拝殿の塗りは鮮やかな朱色で、真ん中に置かれた鶴の像がとてもひきたって見えました。軒下には奉納された草鞋 も掲げられていました。
拝殿の右側(向かって)は、杉木立が茂る森になっていて、そこには庚申塔や二十三夜塔、末社などが建っていますが、そのそばに、忠魂碑と並んで、ひときわ大きな石碑があります。 ー 「浪の音健蔵之碑」 ー 郷土出身の力士の顕彰碑のようです。
浪岡町出身の力士といえば、「おしん・家康・隆の里」といわれた第59代横綱・隆の里が有名ですが、この「浪の音」は、明治から大正にかけて活躍した力士だったようです。最高位は関脇。身長166cm、 体重79kg・・・かなり小さな力士だったようですが、そんな小兵が大きな力士をさばく姿に村は熱狂し、全力で応援したのでしょう。
◇本郷八幡宮






本郷の八幡宮からさらに山奥へ数km。「相沢」という集落へ向かいました。さすがにもう道路には雪はありませんが、道の両側の日陰や木々の下などには、まだ残雪があります。
相沢は、八甲田山系の山々の麓にぽつんと佇んでいるような、ひっそりとした山里ですが、この集落の道路沿いに八幡宮が鎮座しています。
相沢八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊 建立年月日は不詳ではあるが、 安政年間 (一八五四~一八六〇) の神社微細調書上帳に依れば、 当時は宝龍宮と称していた。 相当以前より当部落に建立されたように見受けられる。 明治四年四月の諸神社明細併せ由緒書上帳を見ても、 宝龍宮を八幡宮に改めたのは事実である。 本殿には古い棟札が一枚あるが、 その年代は不明である。※青森県神社庁HPより】と記されていますが、昔、この地を開拓した村人の産土社だったのでしょう。拝殿の前に新堂落慶の碑 が建てられていましたが、そこには「神を敬い 祖を尊び 民は和す」と刻まれていました。この社に対する崇敬の厚さが分かるようです。
二の鳥居から登りの参道が続いていて、大きな二本の杉の木 に挟まれた形で石段が延びています。途中に赤い鳥居と祠がありましたが、ここは馬頭観音堂でした。
そこからさらに右に上ったところに社殿があります。小高い丘の上に築かれた境内には、神馬や狛犬が並んでいます。拝殿に下げられた多くの鈴がとても印象的な社です。
◇相沢八幡宮





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☆つがるみち☆




一の鳥居は道路沿いにあるものの、そこから参道が長く延び、境内が奥まったところに位置する神社はしばしば見かけます。
以前に訪れた五所川原市の原子八幡宮は国道101号線が入口でしたが、今回は青森市浪岡(旧浪岡町)の国道7号線沿いに鎮座する二つの八幡宮を訪ねました。

国道7号線は旧羽州街道にあたるわけですが、江戸時代末期に書かれた『津軽道中譚』には、浪岡について「4つの道が集まる追分の大駅で、往来は格別に賑やかだ。泊まり客で旅籠は繁盛している。」と書かれているとのことです。そんな浪岡町の入口にあたるのが増館地区で、ここに八幡宮が鎮座しています。
明治になって市制・町村制が公布され、浪岡は周辺の村々が合併し、「女鹿沢」「浪岡」「五郷」「大杉」「野沢」の五か村となりましたが、増館は女鹿沢村に位置づけられていました。
羽州街道沿いということもあり、かつては菅江真澄をはじめ、数多くの文人や旅人が往来した所ですが、天明8年(1788)に幕府の巡見使に随行して、東北・北海道を旅した古川古松軒(ふるかわこしょうけん)は『東遊雑記』の中で、増館について、
「増館付近の村一帯は広々として、西に岩木山を見、南東の間に南部の山々が見える。地方も上方の風土に見えながら百姓のてい悪しく、家ごと女馬を3疋5疋も飼っている。うまやというのは掘立柱をたて、垣を結い廻している。」と述べていますが、当時の集落の様子が何となく想像できます。
この増館八幡宮については、
【御祭神:譽田別命 創立年月日は詳らかではないが、 往古の伝えに依れば、 正しく北畠氏の建立にして天正年間 (一五七三~一五九二)、 北畠大納言落城に際し、 その後、 増舘に於いて信仰するもの也。 ※青森県神庁HPより 】とあるところをみると、浪岡北畠氏の時代から崇敬を集めてきた社のようです。
道路際に赤い一の鳥居が立っていますが、そこからは神社の境内が遠望できます。昔からここに鳥居があったのかどうかはわかりませんが、昔、旅人達もこの鳥居をくぐって神社までの道を歩いたのでしょうか。境内の緑に混じってピンク色の桜の花がとてもきれいでした。
◇増館八幡宮






享和2年(1802)、日本地図作成のため、津軽半島へ向かっていた伊野忠敬は、弘前から青森へと向かう途中、女鹿沢村で休憩したとされていますが、その折り、この村が、「次の浪岡村と月の半分ずつ、公用物品の継ぎ送りを分担していた」ことを記しています。これは「宿次(しゅくつぎ)」といわれ、沿道の村々に課せられた負担で、女鹿沢村は、藤崎の宿駅から運ばれたものを、積替えて新城の駅場に送る役目を負っていたようです。往時の賑わいが目に見えるようです。
かつての女鹿沢村は、「増館」「下十川」「女鹿沢」の集落から成り立っていましたが、下十川は村の役場があった所です。その下十川にも八幡宮があります。
この八幡宮は、
【御祭神:譽田別尊 延宝三年 (一六七五)、 下十川村中にて勧請す。 明治六年四月、 村社に列せられる。 ー以下略ー ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細はわかりませんでした。
7号線を浪岡方面へ走って行くと、左手の田んぼの中に白い鳥居と「村社八幡宮」と記された大きな社号標が見えますが、ここが入口になります。遠くに神社の森が見えますが、参道はかなりの長さです。
一の鳥居を過ぎたあたりに小さな赤い鳥居があり、そこには後生車と百万遍塚や庚申塔などが並んで立っていました。のどかな風景を見ながらしばらく歩くと、やがて二の鳥居が立つ境内へとたどり着きます。入口には二十三夜塔も立っていました。
田んぼに囲まれた小さな社ですが、何となく落ち着けます。社殿の両隣にはお堂がありましたが、中を覗いて見ると、そこには神馬が祀られていました。
◇下十川八幡宮





※記事は青森市HP「なみおか今・昔」を参考にしました。
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☆つがるみち☆


鰺ヶ沢中村町の深山神社を過ぎて、岩木山へと至る道中には、二十三夜塔や庚申塔などの石碑群があります。
途中に白い鳥居が立っていて、そこから石段が延びていたので上ってみたところ、そこには二十三夜塔と庚申塔、青面金剛像の石碑などがありました。
庚申の「申」は「猿」に通じるところから猿田彦と同一視され、信仰されているわけですが、猿田彦神は道祖神であり、「道案内の神様」「旅の安全の神様」として、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祀られることも多いようです。こうして、道端に祀られているのも、そんな信仰の表れなのでしょう。なお、「庚申」を「幸神」と刻んだりしている碑もしばしば見うけられますが、これも村人の安住と幸福を願うところからきているのでしょう。ここの石碑にも「幸神」とありました。
私は、中村町の産土社である久須志神社へと向かったのですが、川沿いにも赤い鳥居が立っており、そこにもいくつかの石碑が立っていました。
◇中村町の石碑群






久須志神社は、中村町の中心部に鎮座していますが、その御祭神は、「大己貴神」「少彦名神」「金山比古神」「金山姫神」「大国主神」の五柱です。
多くの久須志神社がそうであるように、「国造りの神」「農業の神」「医療の神」として、大己貴神や少彦名神が祭られているわけですが、前回お伝えした深山神社と同様、「金属の神」である金山比古神と金山姫神も祭られていることは、この地域の特徴といえます。
その由緒については、
【應永年中 (一四二五) 初代宮司・工藤神宮太夫は、 岩代 (現在の福島県) から鯵ケ沢の中村に来たる。 神宮太夫は、 神主として薬師堂を勧請奉仕應永三十二年に没、 二代目工藤祐太夫となる。後大国主神を合祀、 久須志宮と改めた。 その後十一代、 伊豫正之は和楽・舞にすぐれ、 津軽地方の神主の師範で門人十数人に及び、 境内地には頌徳碑が建立されてある。 天正十三年 (一五八五) に津軽為信公下渡の際、 斉藤掃部之助を中村に遣わされ、 武運長久、 一門安全祈願せられ規模大きく建立させる。 更に、 万治三年 (一六六〇) 村中で再建・明治六年四月村社となった。 初代宮司、 工藤神宮太夫が来た時から植えられている、 樹齢六百五拾年と推定される杉二本あり、 昭和二十三年、 町指定文化財となっている。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
古くからの由緒ある神社であるらしく、一の鳥居にはジャンバラ型の注連縄が張られており、拝殿の彫り物や木鼻なども精巧なものでした。本殿には、なかなか味のある小さな狛犬が睨みをきかしていました。
◇久須志神社拝殿ほか






境内には末社や祠がいくつか建っていますが、主に、入口と本殿の回りにまとめられていて、その中には稲荷様や神馬などが祀られていました。
由緒にあるように(※上部下線)、初代の宮司の方が福島県からやってきて勧請したとされる社で、その後、代々の子孫は、地域のために尽くし、神主の師範まで務めたとありますが、その遺徳を讃えた頌徳碑は、社殿の隣に木々に囲まれ、ひっそりと建っていました。
この神社の御神木 は鰺ヶ沢町の文化財にも指定されている二本の大杉ですが、社が建立された頃には既にここに生えていたとされ、樹齢650年ともいわれています。
一本は一の鳥居のすぐ隣にそびえていましたが、もう一本は本殿の脇にありました。その大きさなどは分かりませんが、この神社の歴史を見つめてきた大木です。
◇末社と御神木





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☆つがるみち☆
途中に白い鳥居が立っていて、そこから石段が延びていたので上ってみたところ、そこには二十三夜塔と庚申塔、青面金剛像の石碑などがありました。
庚申の「申」は「猿」に通じるところから猿田彦と同一視され、信仰されているわけですが、猿田彦神は道祖神であり、「道案内の神様」「旅の安全の神様」として、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祀られることも多いようです。こうして、道端に祀られているのも、そんな信仰の表れなのでしょう。なお、「庚申」を「幸神」と刻んだりしている碑もしばしば見うけられますが、これも村人の安住と幸福を願うところからきているのでしょう。ここの石碑にも「幸神」とありました。
私は、中村町の産土社である久須志神社へと向かったのですが、川沿いにも赤い鳥居が立っており、そこにもいくつかの石碑が立っていました。
◇中村町の石碑群






久須志神社は、中村町の中心部に鎮座していますが、その御祭神は、「大己貴神」「少彦名神」「金山比古神」「金山姫神」「大国主神」の五柱です。
多くの久須志神社がそうであるように、「国造りの神」「農業の神」「医療の神」として、大己貴神や少彦名神が祭られているわけですが、前回お伝えした深山神社と同様、「金属の神」である金山比古神と金山姫神も祭られていることは、この地域の特徴といえます。
その由緒については、
【應永年中 (一四二五) 初代宮司・工藤神宮太夫は、 岩代 (現在の福島県) から鯵ケ沢の中村に来たる。 神宮太夫は、 神主として薬師堂を勧請奉仕應永三十二年に没、 二代目工藤祐太夫となる。後大国主神を合祀、 久須志宮と改めた。 その後十一代、 伊豫正之は和楽・舞にすぐれ、 津軽地方の神主の師範で門人十数人に及び、 境内地には頌徳碑が建立されてある。 天正十三年 (一五八五) に津軽為信公下渡の際、 斉藤掃部之助を中村に遣わされ、 武運長久、 一門安全祈願せられ規模大きく建立させる。 更に、 万治三年 (一六六〇) 村中で再建・明治六年四月村社となった。 初代宮司、 工藤神宮太夫が来た時から植えられている、 樹齢六百五拾年と推定される杉二本あり、 昭和二十三年、 町指定文化財となっている。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
古くからの由緒ある神社であるらしく、一の鳥居にはジャンバラ型の注連縄が張られており、拝殿の彫り物や木鼻なども精巧なものでした。本殿には、なかなか味のある小さな狛犬が睨みをきかしていました。
◇久須志神社拝殿ほか






境内には末社や祠がいくつか建っていますが、主に、入口と本殿の回りにまとめられていて、その中には稲荷様や神馬などが祀られていました。
由緒にあるように(※上部下線)、初代の宮司の方が福島県からやってきて勧請したとされる社で、その後、代々の子孫は、地域のために尽くし、神主の師範まで務めたとありますが、その遺徳を讃えた頌徳碑は、社殿の隣に木々に囲まれ、ひっそりと建っていました。
この神社の御神木 は鰺ヶ沢町の文化財にも指定されている二本の大杉ですが、社が建立された頃には既にここに生えていたとされ、樹齢650年ともいわれています。
一本は一の鳥居のすぐ隣にそびえていましたが、もう一本は本殿の脇にありました。その大きさなどは分かりませんが、この神社の歴史を見つめてきた大木です。
◇末社と御神木





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鰺ヶ沢町というと「海」のイメージが強いのですが、町は、南部の白神山地や岩木山麓から日本海に向けて広がっている形をしています。
港町らしく、中心街のある海辺には白八幡宮をはじめ、海上安全を司る神社が多いのですが、一方、岩木山の麓にあたる山手の方には、海辺の神社とはまた違う御祭神を祀る社があります。今回は、そんな山手側にある中村町に鎮座している深山神社を訪ねました。
中村町は、海辺から岩木山に向かって走る道路沿いに開けた集落ですが、辺りは広い田園地帯になっています。そんな田んぼの真ん中に、こんもりした森が見えますが、そこが深山神社です。
この神社については、
【草創年月日不詳であるが、 村民、 新田地開懇と共に延宝五年 (一六七七) 本殿改築し、 五穀豊穣、 家内安全を祈願、 工藤清太夫が勧請し、 以来、 氏子で、 拝殿を改築した神社である。※青森県神社庁HP】とあるだけで、詳しい縁起などは分かりませんが、村人によって、大切に守られてきた社だったようです。
その御祭神は、金山彦神(カナヤマヒコノカミ)と金山姫神(カナヤマヒメノカミ)、そして植山比売命 (ハニヤマヒメノミコト)の三柱ですが、いずれも、私には馴染みがうすく、よく分かりませんでした。
神話によると、金山彦神と金山姫神の二柱は、イザナミが火の神・カグツチを産んで火傷をし、病み苦しんでいるときに、その嘔吐物から生まれた神であるとされ、嘔吐物がどろどろに溶けた鉱石を連想させることから、「鉱山の神」「製鉄の神」として信仰されてきた神様といわれています。
岩木山麓は、かつては大規模な製鉄事業が行われていた場所で、鰺ヶ沢からは古代の製鉄に関する遺跡が発見されていたり、湯舟観音堂などに伝わる「鉄と鬼の伝説」も残っているわけですが、こうした製鉄技術は、山陰・北陸地方から日本海航路を通じてもたらされたものとされています。
鰺ヶ沢は、古代から、そんな技術の伝来の窓口とした栄えた湊だったことを考えると、この神社に「金属の神」が祀られていることもうなずけます。
また、埴山姫命は金山彦命と金山姫命とともに、イザナミが産み落とした一柱で、「土の神」として、農業や土木業、造園業、陶磁器製造業を営む人々に広く信仰されている神様ですが、水の神である水波能売命と同時に生まれたとされることから、「田畑の神」として祀られているようです。
今でこそ一帯は豊かな水田地帯になっていますが、昔は潮風が吹きつける荒れ地だったわけで、土地の開墾や土壌の改良は大変な苦労を伴ったと思われます。由緒に「村民、 新田地開懇と共に」とあるように、この三神を祀ったのは、五穀豊穣を願う村人の思いの表れだったのでしょう。
◇深山神社







杉の木で覆われた境内には、狛犬と社殿のみ。入口付近には馬頭観音碑と猿田彦碑(庚申塔)、二十三夜塔が立っていました。
数多い杉の木の中に、特徴のある大木がありました。その大きさ、太さは他の木とは別格で、ひと目でそれと分かります。樹齢は最も古く、根元にはぽっかりと穴が開いていました。まるで小洞窟のようです。
幹は途中から90度に曲がっていたので、最初は折れて倒れているのかと思いましたが、そうではなく、しっかりと枝をつけていました。その姿形は、まるで大地にしっかりと足をおろし、踏ん張っている「首長竜」のように見えました。その年輪を感じさせる色やシワは、とても貫禄があり、「枯れた老木」という感じです。
「枯れる」という言葉は、本来の意味の他に、「練れて、深みが増す。円熟して、落ち着いた深い味わいが出てくる。」という意味にも用いられます。私も、寺社巡りを通して、そのような重厚で存在感のある老木をいくつか見てきました。この深山神社の老木もその中のひとつになりました。
◇老木たち





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藤崎町鹿島神社の縁起には、
【平安時代初め、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、蝦夷の頭領・恵美の高丸の霊を退治した時、田村麻呂の守護神である毘沙門を祀ったのが始まり。
田村麻呂が、勝利に感謝し、毘沙門を祀った時、地面に突き立てた藤の杖に因んで「藤咲村」と呼ぶようになった】と記されています。
同じように、藤崎町に鎮座し、田村麻呂伝説を伝えている神社が矢沢正八幡宮です。
この神社の住所は藤崎町矢沢福富四番囲(ふくとみよばんがこい)。矢沢地区には他にも「福富一番囲」とか、「豊成三番囲」とかいうように、「囲」と名のつく集落がありますが、少し変わったこの地名の由来なども気になるところです。
矢沢正八幡宮については、入口の由緒書きに次のように書かれています。
【御祭神:誉田別命 矢沢の正八幡宮の縁起については、二つの物語が伝えられています。一つは、大同年間(806~810 年)、坂上田村麻呂が蝦夷の頭領・高丸を射殺した際、その矢を修験の僧・明円に与え、正八幡宮を祀って「矢沢山勝軍寺」を建立したという伝説(新撰陸奥国史)、弘藩明治一統誌では、それを延暦3年(784 年)のこととし、沼洲村(藤崎村)の近くの赤沼に高丸の遺骸を埋め、矢は正八幡宮のご神体として崇敬したというもの。
もう一つは、元和元年(1615 年)、弘前の広田三郎左衛門という人が、小畑の三本木から異体の仏像を発見し、それを祀って矢沢村の氏神として崇敬したというものです。※由緒書き及び藤崎町『ふるさとの歴史散歩』より】
下線にあるように、鹿島神社同様、ここでも田村麻呂の蝦夷征伐の伝説が語られています。矢沢の「矢」も田村麻呂が放った矢に因んでつけられたものなのでしょう。
また、「村人が異体の仏像を見つけて祀った」という話は、この社が古くから村の産土社であったことを物語っていると思われます。
八幡様のお使いの鳩や神馬、狛犬などが立ち並ぶその先に拝殿があります。拝殿の両脇にはそれぞれ末社や庚申塔などが立っていますが、向かって右側の祠には稲荷様とオシラサマを思わせる二体の神様、そして神馬が祀られていました。
一方、左側にもお堂がありますが、その屋根から御神木(けやき?)が、ニョキッと突き出ています。まるで、太い煙突のようですが、その中を除いて見ると、根元に祭壇がありました。そして天井から太い幹が飛び出していました。大変珍しいお堂です。何かいわれのある御神木なのでしょうか。
◇矢沢正八幡宮











帰り道、保食神社に立ち寄りました。道路沿いにある小さな神社ですが、この社には次のような伝説があります。
【通称下町にある保食神社には農業の神様である保食神(宇賀之魂命)が祀られています。
この神社には、源義経の乗馬がこの地で死んだのを祀ったという伝説(源義経の北行伝説)、唐糸御前を探しに来た北条時頼の家来の馬が倒れた場所だという伝説などが伝えられています。保食神社としてこの地に建てられたのは大正時代のことで、それ以前は、現在地の向かい側の村外れにあり、馬頭観音を祀る土産神として信仰され、「鞍森(くらもり)」と呼ばれていたということです。※藤崎町『ふるさとの歴史散歩』】
藤崎町は唐糸御前の物語のように、北条時頼の回国伝説が残っているところですが、義経の北行伝説もあったとは意外でした。 ー 義経恐るべし。
「義経の馬の話」、「時頼の家来の馬」、「かつては馬頭観音を祀る土産社であったこと」など、古来から「馬」と縁が深い神社だったらしく、菅江真澄も『つがろのおち』の中で、この神社を描いたと思われるうまの神 という絵を残しているようです。
◇保食神社





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☆つがるみち☆



深郷田の中里八幡宮を訪ね、薬師堂の龍神様を拝んだ後、国道339号線に出て、道路沿いの五林神社に行ってみました。
縄文時代から平安時代にかけて整然と区画された大集落があったとされる中里城遺跡 は、旧中里町のシンボルですが、五林神社のある宮川地区は、遺跡の中心部から延びたゆるやかな尾根の先端部にあたります。
かつては、この場所にも「五林館」という館が築かれていたとされています。
この地域にも多くの地蔵堂があるようですが、神社から少し離れたところにもありました。集落の名前から「五林地蔵堂」と呼ばれているようです。その中には、大小のお地蔵様とともに、ひとつの石に何体も刻まれたお地蔵様もありました。
339号線沿いに少し小高い丘があって、そこには鳥居が立っています。車を駐めて丘を上ってみると、そこには庚申塔と二十三夜塔がありました、いずれも塔の前に注連縄が張られたものです。天保3 年(1832)建立の庚申塔と明治18 年(1885)建立の二十三夜塔だということです。
◇五林地蔵堂、庚申塔、二十三夜塔






さて、五林神社については、
【御祭神:大道寺力命、オリ女命 創立年月日不詳。 旧中里村誌によれば、 文治、 建久の頃頼朝公の追討軍に発覚された義経の家臣大導寺力は大導寺沢 (現に山沢名として残れり) に立籠り、 衆寡敵せず、 遂に討死せり、 五林村に住める身籠れる妻のオリ女は 「この地の産神とならん」 と伝い残して、 夫の跡を追いて自刃せりと、 村人はその哀しい運命に遭いる二人の神霊を祀りて五輪塔となすと伝へらる。 当部落は中里町六ケ村の母村と云われ 「五林」 と呼称されている。
藩制時代には 「五林権現堂」 と称されていた。 因に安政二年の棟札に 「奉再興五林権現堂」。 一宇講中守祈攸。 別当金剛山最勝院現住家朝慶敬白。 「社司松橋遠江」 と記されている。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

上記の縁起にもあるように、「平泉から逃れてきた源義経の従者であった大導寺力は、津軽三厩にて主人と別れ、中里部落に隠れ住んでいた。大導寺力は、部落の「オリ」という娘を娶っていたが、やがて鎌倉勢に発見され、奮戦の後、討ち死にした。妻のオリは身重であったが、夫の後を追って自刃した。」という伝説が残っています。
「大導寺伝説」と呼ばれるこの伝承は、義経北行伝説のひとつですが、地域には、「大導寺沢」「大導寺屋敷」などの地名も残っており、礎石のような石をはじめ、信楽の小壺などの遺物が発見されているということです。
村人は、大導寺力と薄幸の娘「オリ」に同情し、夫妻を御祭神として五林神社を建立し、五輪塔と宝筐印塔を建てて供養したわけですが、「五林」という地名も「五輪」からつけられたともいわれているようです。
この五輪塔と宝筐印塔は、五林神社の社宝になっているわけですが、境内にその説明板があります。それらによると、
「五輪塔は、高さ120㎝、幅46.5㎝、奥行き45㎝あり、磨滅してはいるが、地・水・火・風・空の各部が残り、梵字が刻まれている。これらの石塔が建てられた年代については、宝筐印塔の方が鎌倉時代から室町時代、五輪塔は室町時代前期までに造立されたとする見方がある。」とされているようです。
なお、菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、「五倫といふやかたあり、そこは寺のあともしられてたが五倫塔ならんありて、むかし栄えたるもの語ありとぞ」と記しているとのことです。
私が訪ねたときには、残念ながら社殿は施錠されており、その中の五輪塔と宝筐印塔を拝むことはできませんでしたが、神社のすぐ近くの中泊町博物館にそのレプリカが展示されているということで、さっそく行ってみました。博物館には、主に縄文時代から昭和までの旧中里町の歴史を物語る資料が数多く展示されていましたが、その中に五輪塔がありました。
◇五林神社、五輪塔、宝筐印塔





旧中里町に残る義経伝説を訪ねてきましたが、中泊町HP『誰も知らない中里』には、次のように記されています。
【鎌倉時代初頭、衣川で敗死したはずの源義経が、実際は津軽地方まで逃げ、さらに北方へ落ちのびたとするいわゆる「義経伝説」は、青森県内各所に存在するが、中里町にもいくつかの伝承が残されている。 ひとつは、五林神社五輪塔にまつわる「大導寺伝説」である。
一方宮野沢地区には、源頼朝を祭神とする白旗神社が存在する。・・・つまり中里においては、旧敵同士を祭る五林神社と白旗神社が、約2キロの距離を隔てて対峙していることになる。】
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☆つがるみち☆



義経伝説が残る宮野沢の白旗神社からの帰り道、「深郷田」という集落を通りました。
旧中里町全体にいえることですが、この地域もまた縄文時代からの文化が花開いたところで、縄文前期の土器(※深郷田式土器と命名されている)から晩期の亀ヶ岡式土器に至るまで多くの遺物が発見されており、長期間に渡って古代集落が形成されていたことが分かっています。なかでも一本松遺跡は「深郷田館」とも呼ばれ、空壕を巡らせた跡も見つかっており、整然と区画された集落が、古代から中世にかけて存在していたとされています。
そんな歴史をもつ深郷田の集落に鎮座しているのが中里八幡宮です。

実は私は、深郷田を「ふこうだ」と読むということは知りませんでした。この中里八幡宮は、以前は集落名から「深郷田八幡宮」と称していたようです。
その縁起については、
【御祭神:譽田別尊 往昔中里村袴腰岳に鎮座ありしを天正二年現社地へ遷せりと伝へらる。 天正七年再建して中里、 深郷田、 宮野沢三ケ村の産土神となる。 社宝の八幡宮と書せし額面は神祗伯資延王の眞筆と伝へらる。 明治六年四月郷社に列格せられ、 同四十年一月十五日神饌幣帛料供進指定神社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】とあります。前回の記事でご紹介したように、昔、袴腰岳の山頂に祀られていた八幡神が、白旗神社を経て、この社に落ち着いたという伝承があり、以来、地域の産土社として人々の崇敬を集めてきた由緒ある神社です。村の一地域の「深郷田八幡宮」から、村全体を示す「中里八幡宮」へと社名が変わったのも、そうしたより広い地域の人々により、信仰されてきたからなのでしょう。
私が訪ねたときは、一組のご夫婦が境内を掃除しているところでした。私が、拝殿の中を覗き込んでいると(鍵がかかっていたので)、ご主人が鍵を開け、拝殿の中を案内してくれました。どうやら、このご夫婦は氏子の代表の方だったらしいです。
ご主人は、拝殿の中を見せながら、前述したこの神社の歴史について、誇らしげに語ってくれました。境内の神馬や狛犬なども、名のある石工の作品なのだそうです。
拝殿の中には、いかにも八幡様らしく、お使いの鳩が描かれた幕が張られています。この神社には、青森県の著名人が数多く参拝に訪れたらしく、長年に渡って青森県知事を務めた竹内俊吉氏の「中里八幡宮を讃えて」と題する歌額 も掲げられていました。
ー 『荒海の北の守りにつかいせし 白鳩さまの御名ぞかぐわし』
◇拝殿、本殿ほか






一の鳥居のそばには地蔵堂があります。中には「奥津軽」を感じさせる十字前掛けをしたお地蔵様が二体。境内は小高い丘の上にありますが、社殿の周りには末社や石碑がいくつかありました。猿田彦碑(庚申塔)は文化5 年(1808)、二十三夜塔は元治2 年(1865)に建立されたもののようです。
二の鳥居の隣にもうひとつ赤い鳥居がありましたが、その奥には聖徳太子碑が立っていました。どうして聖徳太子の碑がここにあるのか不思議です。
参道のと中には「山大神之碑」と刻まれた石碑があり、そこには山ノ神のお堂があります。中に入ってみると、入口付近に御神輿が置かれていました。お祭り用のものなのでしょうか。
◇地蔵堂、石碑、山神堂








山神堂と聖徳太子碑にはさまれた所にも建物がありますが、ここは薬師様を祀っているお堂です。
中に入って拝み、外へ出たとき、掃除をしていたご夫婦の奥様が、「龍神様を見ましたか。今、お出でになってるんですよ。」と、声をかけてくれました。
私は、最初、何のことか分からなかったのですが、奥様の「ろうそく!」という言葉で、「あっ」と気がつき、もう一度お堂の中へ入りました。
「龍神様」というのは、祭壇のろうそくから溶け出したろうが、あたかも龍の姿のように固まる現象なのです。以前、青森市の大星神社を訪ねたとき、その写真を見たことを思い出しました。
⇒大星神社の龍神様
この不思議な「龍神様」は、人々の信心深さを愛でるために現れ、瑞兆のしるしともされています。
薬師堂の中にある燭台のひとつをよく見てみると、確かに、ろうそくの芯から流れ出たろうが、時計回りに半円を描いて、ろうそくの中央に結びついていました。
その少し幅のある螺旋状の形は正に龍。うろこのある体つき、細い首、三角形の頭、上に伸びた角、ヒゲ・・・びっくりさせられます。
このような形は、ろうそくの大きさ・太さ・材質や、芯の長さや傾き具合、炎の強さ、あるいは空気の流れなど、様々な要因によって出来るのでしょうが、やはり、一種の神秘的な現象には違いなく、拝む人にとっては貴重な宗教的体験なのだと思います。
教えてくれた奥様の一言。
ー 「龍神様が来ているので、きっと神様も喜んでると思う。」 ー その通りです。
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☆つがるみち☆

