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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 板柳町   Tags: つがるみち  名木めぐり  

ケヤキとイチョウが寄り添って「小幡八幡宮」ーつがるみち291


一の鳥居


 前回お伝えした菖蒲川神明宮から藤崎方面へ向かって少し進んだところに板柳町小幡の集落があります。
 小幡は鶴田町と境をなす村ですが、【寛文(1661-1673 年)以降に拓かれた村と考えられる。天和年間(1681-1683 年)には新屋村といわれ、掛落林村の枝村だった。貞享4年(1687 年)検地の際、「小幡」と改め、享保11年(1726 年)に独立村となった。※『広報いたやなぎ』より】という経緯をもっています。
 そんな小幡の集落に八幡宮が鎮座しています。


参道


 神社の近くには、旧満州国の皇帝溥儀の侍衛長を務めた工藤忠の生家がありますが、「皇帝の森」と呼ばれているとのことです。この人物については、
【工藤忠(1882-1965)。初名は工藤鉄三郎(くどう てつさぶろう)。明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。※wikipediaより】とありますが、「忠」という名前はラストエンペラー溥儀が、その忠義を愛でて授けたものといわれています。

 この八幡宮の由緒については詳しくは分かりませんが、天和元年(1681)頃の勧請といわれていて、次のような話が残されています。
【昔、この境内の南東に大きな沼がありました。その沼から光る物が毎晩のように出るようになったので、村人に噂が広がりました。「おれが沼にもぐって、その正体を見届けてやろう」と庄屋に申し出た青年があり、庄屋は青年の熱心さに心が動かされ、それを許しました。
 翌朝、青年はふんどしに鎌を差して沼に飛び込みました。しばらくして、青年は両手に真っ黒な物を抱いて出てきました。よく見ると神々しい石像でした。「神様だ。」「神様がこの世に出たくて毎晩光を発し、村人たちに呼びかけたのだろう」と、その石像を祭ったのが、八幡宮のご神体であると伝えられています。※『広報いたやなぎ』

 今は、その伝説の沼はありません。境内には、神馬や狛犬をはじめ、嘉永7年(1854)、元治2年(1865)の庚申塔や、馬頭観音を祀る祠が置かれています。

◇小幡八幡宮

 
庚申塔
馬頭観音
境内①
境内②
拝殿



ケヤキとイチョウ①


 一の鳥居をくぐった参道の入口にひとつの木柱が立っていて、前述の小幡村の歴史などが書かれていますが、この木柱の表題は「イチョウ」。 ー 境内には、板柳町の天然記念物に指定されているイチョウの巨木がそびえています。
 この大イチョウは樹高が約36.0m、幹周りが5.15m、雌木で、秋にはたくさんの実を結実させるとのことですが、隣にもう一本の巨木・ケヤキがそびえています。
 二本の大木の姿は、「競うようでもあり、寄り添うようでもあり・・」といった感じですが、共に樹齢が約350~450年とされていて、その雄姿は道路からもよく見えます。二本の巨木は、この神社のシンボルであり、注連縄こそ張られてはいないものの「御神木」といえそうです。 ー それにしても、仲良く並び立っている同種の樹木は夫婦杉
大鰐居土熊野宮の夫婦杉
などと名づけられ、よく見かけますが、こうしたケヤキとイチョウという異種の樹木が寄り添って伸びている姿は珍しいものです。

 板柳町は、岩木川沿いの河港として開けた所ですが、弘前・藤崎から十三湊へと至る街道の要所でもありました。この八幡宮のイチョウは、街道筋の道標として植栽したのではないかと考えられているようです。

◇境内のケヤキとイチョウ

  
ケヤキとイチョウ②
ケヤキとイチョウ③
ケヤキとイチョウ④
ケヤキとイチョウ⑤


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 鶴田町   Tags: つがるみち  

廻堰八幡宮と菖蒲川神明宮ーつがるみち290


一の鳥居から


 鶴田町の観光名所である津軽富士見湖(廻堰大溜池)の周辺には、熊野宮、神明神社、稲荷神社、八幡宮など数多くの神社が点在しています。
 廻堰大溜池は万治3年(1660)、津軽藩4代藩主・津軽信政の時代に西津軽の新田開墾の灌漑用水源として築造されたものですが、周辺の神社もまた、その時期に五穀豊穣を願って建立されたものと思われます。廻堰集落に鎮座する八幡宮もそのひとつです。

参道


 私が訪ねたときは日差しがとても強く、鳥居の朱色や境内の緑が鮮やかでした。
 瓦屋根を思わせる拝殿の造りは何となくお寺のような感じです。境内には神馬像や角が生えた狛犬
角が生えた狛犬
などが置かれています。拝殿の扉が開いていたので、その中を拝むことができました。大きな燭台と天井からつるされた御神燈が印象的です。

 拝殿の隣には、昭和初期のものと思われる二十三夜塔が5基ほど並んで立っていますが、そのそばには、大きな末社が3つありました。
 中でも一番大きなものは鳥居をともなった中央の祠で、その中には、淡嶋大神をはじめ、牛頭天皇
牛頭天皇碑
の石碑などが祀られています。

 この廻堰八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  延宝四年三月に勧請、 貞享二年に村中で再建した。 当時の記録によれば境内には田畑がない。 明治六年四月村社、 同四十年四月二十九日に神饌幣帛料供進神社指定。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 勧請・再建がそれぞれ、1676年と1685年とあるところをみると、やはり、廻堰大溜池の築造に伴い、開墾の守り神として建立されたものと思われますが、「当時の記録によれば境内には田畑がない」という文言からもそれは伺えます。

◇廻堰八幡宮

 
境内
二十三夜塔
末社
牛頭天皇碑など
拝殿



一の鳥居から


 藤崎町から板柳町、そして鶴田町へと流れる岩木川。その岩木川の流れと並行する形で国道339号線が走っていますが、廻堰から板柳町へ行く途中に菖蒲川(しょうぶかわ)という集落があります。
「菖蒲」という名前の通り、その地名は「かつてこの地は、菖蒲の繁茂する川原であったことに由来する」といわれていますが、ここに神明宮(神明神社)が鎮座しています。

二十三夜塔ほか


 この神社の縁起などについては詳しく分かりませんが、『北津軽郡神社誌』には、
【御祭神:天照皇太神  勧請年月不詳。昭和三年再建。嘉永二年、村民・工藤久左エ門の願表に依り、伊勢神田扇一對奉納せらる。明治六年四月村社に列せられる。】と記されています。

 神社の住所は鶴田町菖蒲川川辺。文字通り、岩木川の「川辺」にある神社で、川岸には長い土手が築かれており、道路との境になっています。土手の上から下に向かって石段が延びており、神社の境内へはそれを下って進みます。

 きれいに掃き清められた気持ちのよい境内で、拝殿の前には注連縄が張られた狛犬
狛犬
などもあり、地域の方々の崇敬の厚さが窺われます。
 木の陰に隠れるように小さな祠がいくつか立っていますが、二十三夜塔や庚申塔に挟まれた少し大きなお堂には石仏なども祀られていました。

 社の周りは「河川敷」といった感じで、ほとんどが畑地ですが、この神社の境内だけがこんもりとした森のように見えます。
 実際、一の鳥居をくぐると社殿までの参道
社殿までの参道
の両脇には、大きな木が何本も並び立っています。それらの樹木は巨木というほどではありませんが、相応の高さをもち、イチョウやケヤキなど、なかなか趣のある姿形をしていました。こうした樹木に囲まれているせいでしょうか、車の往来が激しい道路沿いの神社といった感じではなく、静かで落ち着いた境内でした。

◇菖蒲川神明宮

  
末社①
末社②
境内の樹木①
境内の樹木②


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

如来瀬神明宮ーつがるみち289


神明宮一の鳥居


 弘前市の如来瀬(にょらいせ:旧岩木町)という集落に神明宮が鎮座しています。
 白い二の鳥居のそばに板碑が立っていて、そばに説明板がありますが、この板碑2基は弘前市有形文化財に指定されているもので、「永和二年の板碑」は高さ93.0cm、幅76.0cm、厚さ15.0cmとされています。説明板には、
【本石碑の紀年銘は永和2年(1376)であるが、足利幕府は3代将軍義満であり、南北朝の争乱も終焉に向う時代である。永和は北朝の年号であり、この地は南朝方の地であるが、そのような例は各地に多い。板碑は鎌倉時代より室町時代にかけて盛んにつくられた死者供養・逆修供養・念仏供養の板石塔婆(石卒塔婆とも言う)であり、本板碑の種子は阿弥陀如来である。石面には阿弥陀如来を中心にして、右に観世音菩薩名、左に大勢至菩薩名となっており、三尊形式をなしている。当集落の古さと共に阿弥陀信仰を物語る貴重なものである。他の一基は種子、紀年銘はないが、貴重な板碑である。※説明板より】 ー 光加減のせいか、碑の文字は私にはよく読めませんでした。

 二の鳥居をくぐると平らな広場に出ますが、そこには青面金剛の碑や「従軍之碑」などが立っていました。広場には三の鳥居があり、そこから社殿へと石段が続きます。

◇神明宮板碑ほか

 
板碑①
板碑②
青面金剛碑ほか
狛犬
三の鳥居



参道


 参道の石段の両脇にはそれぞれ祠がありますが、ひとつは薬師様、もうひとつは中に馬が祀られているところをみると馬頭観音の祠でしょうか。
 赤い屋根と黒塗りの拝殿はとてもシックな感じがします。拝殿の両脇には、なぜかパイプイスが置かれています。「よく来たな」と迎えているようです。運よく鍵が開いていたので、その中を拝むことができました。

 この神明宮については、
【御祭神:天照大神  草創年月不詳なれども相当の古社にして往時は大日堂と称していたが神仏分離以後神明宮と改む。※青森県神社庁HP】と簡潔に紹介されています。
「往時は大日堂(如来堂)と称した」とありますが、この如来堂が地名「如来瀬」の由来になっているようです。

 そこのあたりについては、境内の入口にもう少し詳しい由緒書きがありました。
【如来瀬の地名はこの地に阿弥陀如来を本尊とする如来堂のあったことが起源となっているが、明治初年(1868年)の神仏分離令(神仏判然令とも言う)により同4年分離。社標によれば、旧仏像は三上惣助宅に移され、同氏個人の信仰に委せられたとある。如来堂を、祭神を天照大神とする神明宮とした経過は判然としない。
 社地には、中世に出現した死者供養の板碑があるが、応安7年(1374年)・永和2年(1376年)の板碑は、共に南北朝時代のものであり、この地には、当地には当時より集落があり、阿弥陀如来信仰の入っていたことを物語るものである。また、動乱の世に豪族のいたことを示すもので、他の板碑を含め貴重な資料である。※由緒書きより

 由緒に「相当の古社である」と書かれているように、この神社の前身は、南北朝の頃から阿弥陀如来を本尊とした村の産土神であったようです。

◇参道、拝殿ほか

  
馬頭観音
拝殿①
拝殿から
拝殿②
拝殿③


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

銀杏寺と稲荷神社ーつがるみち288


銀杏寺山門
  
境内


 弘前市小栗山に銀杏寺(ぎんなんじ)というお寺があります。小栗山神社とアップルロードを挟んだ向かい側に位置する曹洞宗の寺院です。

銀杏寺イチョウ①


 山門や本堂と墓所とは通路で仕切られていますが、墓所の前には観音像や地蔵堂が立っています。かわいらしい子犬と子猫が台座に乗った「ペット供養墓」もあったりします。動物供養も行っているのでしょう。
 地蔵堂の前に一本のイチョウの大木が佇立しています。「銀杏寺」という寺名の由来になったと思われるこのイチョウは、樹高が約27m、幹周りが約5.1m、樹齢はおよそ400年といわれている巨木です。
 この大イチョウには、次のような伝説があります。
【銀杏寺由来  当寺の起源甚だ古く、口碑の伝えるところによると、慈覚大師巡錫の砌(みぎり)、この地に至って、一夜光明輝く銀杏(いちょう)の老樹を見て仏法具通の霊地であることを悟り、一宇を建立したとされている。※案内板より】 ー 慈覚大師とイチョウの老木に関する伝承は県内にもいくつか残っていますが、このイチョウもまたそのひとつです。 → 以前の記事へ

 この伝説の大イチョウは、戦国時代の争乱のために焼かれてしまったとされており、現在のイチョウは、津軽為信が居城であった大浦城から移植したものとのことで、樹齢400年といわれる所以も分かります。
 ともあれ、弘前市の保存樹木にも指定されているこのイチョウは、このお寺のシンボルです。

◇大イチョウ、ペット供養墓、地蔵堂
 
  
銀杏寺イチョウ②
銀杏寺イチョウ③
ペット供養塔
地蔵堂



稲荷神社


 銀杏寺のある小栗山の隣に松木平という集落がありますが、この集落の山手の方に稲荷神社が鎮座しています。
 この神社については、
【御祭神:倉稲魂命  当神社の創立は不詳であるが安永年間旧堀越村内より奉遷現在の地に鎮座、 明治十二年村社に列せられ、 昭和二十一年神道指示に基き廃止せられ、 昭和二十二年宗教法人令に依り宗教法人として登記する。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 周りをりんご畑に囲まれた所にある神社ですが、農道のそばに大きな社号標が立っていました。あいにくというか何というか、私が訪ねた時には、鳥居の修復作業の真っ最中・・・一の鳥居も二の鳥居もその完全な姿を見ることができませんでした。
 入口には庚申塔や馬頭観音碑、そしていくつかの祠が並んでいますが、そこから参道が小高い丘の上に延びています。途中には山神社のお堂がありました。
 坂道を登り切った所に社殿が建っていますが、まだ新しいもののようです。面白かったのは社殿の両脇に置かれた狛犬。全身が真っ黒でユーモラスな姿です。

◇稲荷神社

 
庚申塔ほか
山神社①
山神社②
社殿
黒狛犬



ケヤキ武蔵野一号


 一の鳥居の向かい側に一本の小さなケヤキの木があります。近づいて見ると説明板があり、
【欅(武蔵野一号) 日本で最初に発見された美人型のケヤキです。平成六年春、当地に自生している在来種に接木したものです。皆様と共に武蔵野一号の健やかな生長を願うものである。その他 ヘマラヤスダー ドイツトヘー】と書かれていました。
 正直、あまり意味がよく分からなかった(特に終わりのカタカナの文)のですが、「武蔵野一号」とは、ケヤキの改良品種のひとつで、「枝が横に広がらず、直立して箒(ほうき)のようにほっそりとした樹形に育つ」ことから「ホウキ型改良種ケヤキ」とも呼ばれているようです。その姿形を見て、なるほどと思いました。地域の方々の手で、大切に守られている樹木のようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  

飯詰稲荷神社ーつがるみち287


飯詰城址


 五所川原市の飯詰城址を訪ねるのは久しぶりです。
 → 以前の記事へ
 菅江真澄が「右のかた岨(そば)の中に七面の堂ありと杜(もり)に ほくゑきゃう(法華経)よむ声のこかくれにへたるは庵にや寺にや」と綴った妙龍寺は、この城跡に位置していますが、以前に訪ねたときには、その境内には入ってみなかったので、今回は少し歩いてみました。

 妙龍寺は山号「高楯山(たかだてざん)」を号する寺院で、その創建は寛文年間(1661~73)といわれています(※飯詰城は高楯城とも呼ばれます)。高楯城主・朝日左衛門尉藤原行安が七面大明神を勧請する鎮守堂を創建したのがはじまりとされ、その後、何回か移転・再建され、現在に至っています。
 寺の由緒にも関わる「七面大明神」は、五所川原市有形文化財に指定されているもので、【 1間の建築型厨子ですが、細部まで行き届いた細工がなされており、貴重な建造物です。桁行が0.705mで梁間が0.632mで、三方に縁が廻っています。入母屋造の妻入で軒唐破風(のきからはふ)が付き、板葺。粽(ちまき)付きの円柱を立て、切目長押(きりめながし)、内法長押(うちのりなげし)、頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)、台輪と組上げて、出三斗(でみつと)と蟇股(かえるまた)とを置いて軒桁を受けています。※五所川原市HP】と紹介されています。
 城跡から鐘楼や七面堂(七面大明神宮殿 )の方へ降りてみましたが、お堂の内部は見ることができませんでした。見学許可が必要なようです。

◇妙龍寺
 
 
菅江真澄碑
妙龍寺山門
本堂
七面大明神宮殿
鐘楼



社号標

参道

本殿


 妙龍寺から少し離れた飯詰狐野の集落に稲荷神社が鎮座しています。この神社では、藤崎町の常盤八幡宮と同じように、例年、勇壮な「裸まいり」が行われています。【約300年の歴史を持つ飯詰地区の伝統行事「飯詰稲荷神社裸まいり」が行われます。大晦日に若者たちがまわし姿で、「サイギ、サイギ」の掛け声とともに、約500mの道のりを練り歩きます。五穀豊穣を祈願し、神社へ供物を奉納します。】とあるように、伝統行事が行われる地域の中心となる神社のようです。

 集落の道路沿いに「稲荷神社」と書かれた石碑(社号標?)が立っていますが、石碑には祭壇が設けられており、線香のにおいがしました。全体に注連縄がまわされた大きな石碑です。

 隣に一の鳥居があり、そこから参道が奥へと続いていますが、二の鳥居までは民家の間に挟まれたような道です。ところが、二の鳥居を過ぎたあたりから景色は一変。参道の両側に大木が並び立ち、深い森の中へ迷い込んだような雰囲気になります。一本一本の木は、その姿形が美しく、見ていてあきることはありませんでした。

 木々を眺めながら参道を歩いて行くと、やがて三の鳥居が見え、境内へと出ました。残念ながら拝殿の中は拝めませんでしたが、稲荷神社らしく、拝殿の前には頬被りをしたきつね像が一対、そして、本殿の中にもきつねが居ました。「森の中」という感じで、とても静かな境内です。

 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 寶暦十二年勧請。 飯積稲荷宮由来によると高楯城南丸の西の方に祀られる正一位稲荷大明神は、 高楯城の城神である。
 古来高楯城の地名は飯塚盛と称し、 また稲城とも称した。 正平六年藤原藤房公が伊勢神宮の外宮豊受大明神宮司藤原総宮大夫山城守より守尊符に持参した御神体である。※青森県神社庁HP 】と紹介されています。

 妙龍寺と同様、飯詰城と深い関わりのある神社で、「城神(館神)」として崇敬されてきた社のようです。先回、弘前市・国吉稲荷神社のところでみたように、戦国時代に各地の武将(ここでは城主・朝日氏)が戦闘の勝利、怨敵退散を願って、稲荷神と習合した荼枳尼天を祀ったことがはじまりと思われます。

◇稲荷神社

 
境内入口
三の鳥居
拝殿
末社
境内


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  

町居熊野宮ーつがるみち286


 
二柱神社
熊野宮
水分神社
両社宮




一の鳥居

末社①


 







 社号標には「村社 二柱神社」と刻まれ、一の鳥居には「熊野宮」の扁額が掲げられ、参道の入口には「水分神社」の石碑、そして、拝殿には「両社宮」とありました。平川市町居に鎮座する熊野宮です。
 神社入口のすぐそばを東北自動車道が走り、社の周りはりんご畑。鳥居をくぐり、参道を進むと間もなく、杉の大木に囲まれた境内へと出ます。
 境内には末社がいくつかあります。社殿へ行く道は石段になっていますが、その手前に末社が2つほど。いずれも中を拝むことはできませんでしたが、大きな神池があるところをみると龍神様などの水神なのかも知れません。「水分神社」という社名にふさわしいといえるでしょうか。末社は拝殿の下にひとつ、そして横にもひとつ建っていました。境内全体が鬱そうとした林の中なので、緑がとても濃く見えます。

◇参道と末社

 
参道
末社②
末社③
末社④


 一つ目の石段を上ると、神馬や狛犬、手水舎などがある所へと出ますが、社殿はさらにもうひとつの石段を上ります。お城の石垣を思わせるような構えです。拝殿の横から後ろの方へと回ってみました。そこからは本殿と拝殿を見下ろすことができます。さらに坂道は続いており、小高い山の上にもりんご畑がありました。

◇拝殿と本殿ほか

 
社殿へ
神馬
狛犬
拝殿
裏手から


 さて、この神社は地図などには「二柱神社」として書かれてありますが、青森県神社庁HPには「熊野宮」として紹介されています。その由緒は、
【御祭神:伊邪那岐尊 伊邪那美命 水分之神   草創の年月は不詳なるも、 言い伝えに依れば、 大同二年 (八〇七) 八月、 坂上田村麿呂将軍が猿賀神社再建の折り、 余材を以て当社を造営したと云う。 鎌倉時代、 曽我氏が津軽の地頭代として入部以来、歴代の地頭代の尊崇の念甚だ篤く、 奉謝の誠を尽くした。
 吉野朝時代には、 吉野方の残党が吉野水分神の分神を此の地に奉遷し、 三嵩山蔵王権現として秘かに南方恢復の壮挙を計ったように見受けられる。 天文年中 (一五三二~一五五五)、 津軽の大守となった津軽為信公が父守信を失って一人となってから、 当地の郷主町居飛鳥に養育されて、 約五年在住し、 熊野大神と蔵王権現を信仰し、 早くから津軽統一の誓いを立てていた。 延宝九年 (一六八一) 十月調べの当宮神主山伏行人の覚えには、 古来より熊野宮建立の跡有り、 神主は齋宮太夫と云い、 由緒詳細は不詳とあるが、 いずれにしても、 かなり古い時代から此の地にあり、 町居地区の産土神として尊崇されてきた。 ※青森県神社庁HP】と語られています。

 伊邪那岐尊・伊邪那美命は各地の熊野宮(熊野神社)に祀られる御祭神。水分神(みくまりのかみ)は、日本の代表的な水神で、農業にとって大切な「水を配る神」であり、豊作の神です。 ー 「二柱神社」の「二柱」とは、即ち、伊邪那岐尊・伊邪那美命と水分神のことなのでしょう。
 しかしながら、水分神は主に水源地や水路の分水点に祀られ、田の神、祈雨の神として信仰されているわけですが、この神社に水分神を祀るようになったいきさつは、上記下線に「吉野朝時代には、 吉野方の残党が吉野水分神の分神を此の地に奉遷し・・」とあるように、特別な意味合いがあったようです。「吉野水分神」とは、奈良県吉野郡吉野町の吉野水分神社のことと思われます。

 創建の年代は詳しくは分かりませんが、由緒を見る限り、平安、鎌倉、南北朝、そして戦国時代と続く中世の津軽を見つめ続けてきた社といえそうです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

国吉稲荷神社ーつがるみち285


国吉稲荷神社


 弘前から西目屋村に向かう途中に国吉(くによし)という集落がありますが、ここは昔、「国吉館」という城が築かれていた所です。
 街道を見下ろす20mほどの丘陵上に築かれていたこの館は東西200m、南北100mほどの規模であったといわれています。築城時期などはよく分かっていませんが、通説では、文明年間(1469~)に南部氏が津軽を支配するために設置した「十二人屋形城衆」の中の一人だった関惣右衛門助綱の居城であったとされています。 ー 現在は遺構などは残っていませんが、かつての城跡の一角に鎮座しているのが稲荷神社です。


参道


 この稲荷神社については、
【御祭神:倉稲魂命 大山祇神 保食神   当社は、 往古館神に勧請す (創建年不詳)。 然るところ貞享年中産土神に祀り、 爾来明治維新まで村の守護神として、 倉稲魂命のみ奉祀し、 明治四年他の二神を合祀し、 明治四年村社に列せられ、 同三十九年神饌幣帛料供進の村社に指定される。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 詳しいことは分かりませんが、上記下線に書かれているように、南部氏が支配する「国吉館」の館神として勧請され、津軽氏による統一後も、産土社として崇敬されてきた社のようです。
 また、かつては山伏達が居住していたために、「国吉館」は別名「山伏館」と呼ばれていたという伝承もあるようです。

 道路から石段の参道が続いていて、登り切ったところに一の鳥居がありました。境内には大きな社殿が2つ。狛犬、神馬、そしてきつね像などがありました。拝殿の中に掲げられた大きな「稲荷神社」の額が印象的です。見晴らしのよい高台からは町並みやりんご畑が見渡せます。

◇稲荷神社境内

 
一の鳥居
境内
拝殿
神馬と狛犬
きつね像


 拝殿の隣に並んで建っているのが「荼枳尼天堂」。私は、荼枳尼天(だきにてん)についてはよく知りませんでした。少し調べてみたのですが、
【荼枳尼天は元はヒンドゥー教の神で、人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神であった。仏教に取り入れられてからは、大日如来が化身した大黒天によって調伏され、死者の心臓であれば食べることを許可されたということで、自由自在の神通力を有し、六月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べるといわれている。】
 狐や稲荷との関係については、【狐は、古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている。】とありました。 
 こうして、荼枳尼天は稲荷となり、鬼神というよりも幸福と五穀豊穣をもたらす神として信仰されるようになったということです。
 戦国時代には、【各地の武将が城鎮守稲荷として荼枳尼天を祀るようになる。武将たちの生命のかかった城に祀られる稲荷は、怨敵退散を祈願し闘戦に勝利するため荼枳尼天が大部分だったと考えられている。】とありますが、ここの荼枳尼天堂も、そのひとつだったのでしょうか。お堂の奥には、もうひとつ祠があり、大切に祀られていました。 ※【】はwikipedia他より

 境内には石仏が何体かありましたが、その石仏の奥にもひとつの建物が建っていました。町会のみなさんが建てた「獅子殿」です。
 実はこの国吉地区も獅子踊が盛んな所で、「国吉獅子踊」は弘前市指定無形民俗文化財になっています。その概要は、
【熊獅子の系統に属し、一人立三人舞である。舞は雄獅子、中獅子、雌獅子とオカシコで構成され、笛と太鼓で囃子が構成される。手平鉦はオカシコが持つ。また、太鼓が歌かけをする。獅子おこしは以前は旧暦8月2日だったが、現在は元旦におこす年もある。6月10日と9月10日に稲荷神社に奉納する。前庭の「橋渡り」「雌獅子争い」「和楽の踊り」、後庭の「山入り」「雌獅子争い」「和楽の踊り」に分けられる。庭とは獅子踊の場面をいう。山を使うのは後庭で、雌獅子争いも後庭に躍動感を出す。※弘前市HPより】と紹介されています。

 津軽の獅子踊(獅子舞)は、大きく鹿獅子系と熊獅子系に大別されますが、熊獅子は熊野修験の影響が強いとされ、主に岩木山の山間部を中心に分布するといわれています。ここ稲荷神社に奉納される舞は熊獅子踊。かつての城が「山伏館」といわれていたように、修験の流れがあるのでしょう。獅子殿の中にはたくさんの獅子頭が納められていました。獅子踊保存会の活動の様子を表すものです。

◇荼枳尼天堂と獅子殿

 
荼枳尼天①
荼枳尼天②
石仏
獅子殿①
獅子殿②


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