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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 鰺ヶ沢町   Tags: つがるみち  

中村町熊野宮ーつがるみち310


かかしの里①
  
かかしの里②


 岩木山から鯵ヶ沢へと続く県道3号線(鯵ヶ沢線)沿いに位置する中村町は「かかしの里」と呼ばれています。

【中村地区では、毎年、地域の特色を生かした田舎風景の残るほのぼのとしたのどかさを、景観的・文化的にアピールし、地域の風物詩とするため「かかしの里づくり」を実施しています。
 中村バイパスを進むと「巨大かかし」が出迎え、大小様々な「オリジナルかかし」が一列に並び、車から降りて見学したくなります。「オリジナルかかし」は、今話題の人や、人気のキャラクターなどを、「せせらぎ中村委員会」の人達が楽しみながら作ったかかしです。展示期間中、毎週日曜日には、地元の新鮮採れたて野菜や山菜などを低価格で販売する「かかし茶屋」が開店します。また、展示最終日の夕方には、「かかし供養祭」も開催します。※HP「青森県観光アプティネット」より

 かかしは、本来、米をはじめとする農作物を鳥獣から守る役目ですが、最近では安全運転の啓発や地域の話題づくりなどにも活用されることも多く、各地の道路沿いに立っている姿を見かけます。
 ここ中村町もそのひとつですが、私も車を降りて「手作りかかし」を見て回りました。保育園児や地元の婦人会の方々の力作が岩木山を背に、競うように並んで立っていました。

◇中村地区のかかし

  
かかし①
かかし②
かかし③
かかし④



熊野宮参道


 中村地区へは今年の春にも訪れて、久須志神社などを見て回りましたが、今回は下清水崎という集落に鎮座する熊野宮を訪ねました。
 鯵ヶ沢を流れる中村川は、岩木山麓に源を発する二級河川ですが、河口付近に「中村川ふれあい公園」があります。ここは「川岸の散策を楽しめる市民公園」「鮭と顔を合わせる水辺の学習空間」として整備された所で、流れる川をガラス越しに見られる水中鑑賞室もあるとのことです。
 中村町清水崎はこの中村川をさかのぼった所の広い地区で、「上清水」「中清水」「下清水」に分かれていますが、熊野宮は下流沿いの下清水地区にありました。
 - なかなか探せなくて、ふれあい公園の辺りをうろうろしたのですが。。

 熊野宮の由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命   天正十三年中月日不詳、 明治六年四月十日村社列格、 昭和十六年三月三十一日、 供進社指定、 昭和二五年六月二十一日、 国有境内地無償譲与許可なり。 当時、 氏子数五十世帯、 崇敬者数一八五人住んでいた。
 天正十三年、 津軽為信公下渡の際、 津軽旧藩、 斉藤掃部之助は、 中村字下清水崎、 田中慶次郎なるものに開墾を命じ、 同慶次郎開拓に専心従事され、 熊野宮を建立、 勧請し、 武運長久、 五穀豊穣祈願し、 万治三年 (一六五八) 田中治平、 嘉永六年 (一八四五) 氏子村中にて再建したものである。 ※青森県神社庁HPより】とあります。

 天正13年(1585)頃に建立された神社のようですが、この頃は、油川城や田舎館城を攻略するなど、為信が津軽統一を精力的に推し進めていた時期です。同年には、天下人・豊臣秀吉に対する工作のために自ら上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆しています。もっともこの時は、暴風に巻き込まれ、松前沖まで流されてしまったといわれていますが。。 ⇒ 浪切り不動の話

 由緒に出てくる斉藤掃部之助については、久須志神社の縁起にも「天正十三年 (一五八五) に津軽為信公下渡の際、 斉藤掃部之助を中村に遣わされ・・・」とあり、この地域の開拓責任者だったようです。それにしても、「合戦、中央への根回し、領地の開拓」と、為信が着々と勢力を拡げていく様子がよく分かります。

◇熊野宮

 
一の鳥居
龍神宮?
境内
拝殿
庚申塔


 神社は、集落のはずれのこんもりとした森の中にありました。一の鳥居のそばには2つの神池があり、龍神様?の祠が立っています。祠のそばに柄杓が立てかけられていました。「清めの水」といったところでしょうか。
 鳥居からは参道の石段が真っすぐに続いており、途中には末社もありました。

 丘の上の拝殿のとなりには、「庚申」「猿田彦」「幸神」と刻まれた庚申塔が立っています。拝殿の扉が開いていたので、その中を拝むことができました。中には御神像や獅子頭の面などが置かれています。きれいに清められた拝殿は、地域の信仰の厚さを感じさせます。

◇末社、本殿など

   
末社①
末社②
獅子頭
本殿


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 十和田市   Tags: みちのくあれこれ  

仙ノ沢新羅神社ーみちのくあれこれ5


新羅神社一の鳥居


 青森県内に鎮座する「新羅(しんら)神社」は、八戸市、三戸郡南部町、そして十和田市の三社(※合祀を除いて)であるとされています。
 いずれも県内地方、旧南部藩の領地にあたる分けですが、これは、南部氏の家祖とされる南部光行が新羅三郎義光(源義光)の子孫であることから、以後、この地の支配者となった南部氏が新羅三郎義光を御祭神とする社を建立したことに起因しています。

 八戸市の長者山新羅神社
長者山新羅神社
は、「源義経の命を受けた家来の板橋長治が、平泉からこの地に先行し、芝や樹木を植え、主従の隠れ家を準備して、居を構え、長治山と称された(※長治山が長者山に)」という義経北行伝説が残る所ですが、
【延宝6年(1678)に八戸藩2代藩主の南部直政が、藩主の守護、領内の五穀豊穣・万民安穏・無病息災の祈願所として社を建て、三社堂又は虚空蔵堂と称されたのが新羅神社のはじまり ※八戸市HPより】とされています。
 この長者山新羅神社よりも、さらに古い由緒をもつとされる社が、十和田市奥瀬(旧十和田湖町)に鎮座する新羅神社です。


参道


 その由緒については、
【御祭神:新羅三郎義光   慶長年間後陽成天皇治世十二年 (一六〇七) 甲斐の国より小宮山内善故有りて、 此地に趨向小祠を草創神霊を奉祀せるに起因する。
 延宝十辛酉年府君奥瀬治大夫善定再興。 明和八年奥瀬定職公の命を拝し遷座導師現大僧都尚純稲荷大明神を合祀。文化五戊辰年奥瀬内藏崇儀公武運長久諸願成就の為本社及御内社を建立、 毎歳五石を賜る。
 嘉永年中山火に遇し災焼。 嘉永六癸丑年再築成る。 昭和二十五年三月三十一日国有境内地の譲与許可される。 ※青森県神社庁HP】とありますが、由緒の中に何度か「奥瀬氏」の名前が出てきます。

 奥瀬氏は、南部光行に従い、建久二年甲斐より糠部(ぬかのぶ:現在の青森県東部と岩手県北部)に移住してきた小笠原安芸の後裔で、奥瀬村に居住したことから、「奥瀬」を称したといわれる豪族です。

 十和田市から十和田湖にかけて、奥入瀬川沿いにはかつて「沢田館」「芦名沢館」など、南部氏家臣の館が築かれていましたが、奥瀬氏が居城とした「奥瀬館」もそのひとつで、その規模は「東西50m、南北100m、標高80m」であったとされています。現在は、郭跡・井戸跡・馬場跡が残されているとのことです。

 この新羅神社は、その奥瀬館の「館神」として建立されたとも伝えられていますが、新羅三郎義光と深い関りを持つ三井寺のHPには、次のような記事が載っています。

○「御祭神は新羅三郎義光、建久二年(1191)の創建と伝えられる。古くはもっと山の上に鎮座していた。一帯には寺もあり、神仏混淆の聖地であったといわれている。」
○「神殿には新羅三郎義光が剣を持って町を見下ろしている絵があったが、火災により史料が焼失してしまった。」
○「青森県にある新羅神社は、ここ十和田湖町の神社が最も古く、 八戸市や南部町の神社は当地のものを勧請したものであるとされている。」
○「当神社の麓より五百メートル位の場所に十和田神社が祭られている。 十和田湖畔に祭られている十和田神社は、この神社を勧請したそうである。」
 
 - 火災で社歴等が失われているため、確かなことは分からないにしても、深い歴史を感じさせる神社です。
※○「」は、三井寺HP 『新羅神社考~青森県の新羅神社』からの抜粋・要約です。

◇新羅神社

 
二の鳥居
境内
社殿
拝殿正面
木鼻の龍



五湾馬頭神から


 初めて訪れる土地だったので、けっこう迷いました。住所をたよりに探していたところ、小高い山の上に赤い鳥居らしきものが見えたので近づいて見ると、新羅神社の一の鳥居でした。道路沿いの標識には「仙ノ沢」とあります。集落名なのでしょうか。
 一の鳥居からは、杉の大木に挟まれて細い参道が続いています。鬱蒼とした暗い道を進んで行くと、登りの石段があり、その上に境内がありました。
 狛犬などはおらず、石灯籠と拝殿、本殿が立ち並ぶ広い境内です。暗い杉林をぬけた後なので、社殿の赤い屋根が輝いて見えました。
 この参道とは別に、もうひとつの「近道」があり、そこには「五湾馬頭神社」の鳥居と祠が建っていました。

 古い由緒を感じさせる拝殿で、鳳凰や木鼻の龍、脇障子のなどの精巧な彫り物は素晴らしい造りです。私は地元が津軽なので、県南地方の神社を訪ねる機会は少ないのですが、機会をみて、このような印象に残る神社を訪ねてみたいものです。

◇脇障子、本殿

  
脇障子①
脇障子②
本殿
本殿の木鼻


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

五代稲荷神社ーつがるみち309


五代稲荷神社一の鳥居


 弘前市に五代という地区があります。ここは旧岩木町なのですが、「五代」という名前は「古最勝院の五代(大)尊を安置していた」ことに因んで名づけられたといわれています。
 五大尊とは「五大明王」のことで、
【不動明王を中心とした降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の総称である。仏教における信仰対象であり、密教特有の尊格である明王のうち、中心的役割を担う五名の明王を組み合わせたものである。日本では、密教が平安時代前期に隆盛したことから、五壇法の本尊として五大明王が祀られた。※wikipedia他より】とあります。正直、私にはよく分かりませんが、かつてここの集落に明王を祀る堂宇などがあったのでしょう。

参道


 そんな五代の村の中心に鎮座し、人々の崇敬を集めてきた社が稲荷神社です。
 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  天保二年、大導寺次郎市様御再建。 慶長十八年、加藤清正家臣肥後国住人の進藤新左衛門の子、一寸八分金作り御神体を勧請 (現在残っていない) 。
 文化二年、弘前市本町宮崎源兵衛再建 (安政二乙未神社微細由緒上帳より)。 ※青森県神社庁HP】とあり、境内に建てられている御事歴碑には、【村社稲荷神社ノ御祭神は倉稲魂命ニシテ、太閤秀吉公日夕御守神トシ、加藤清正公家臣進藤新左衛門亦霊験無雙ナルモノトシテ信心深く之ヲ体セルモノニシテ築館村今ノ五代山本に鎮座・・・】と書かれています。
 また、神社前の由緒書きには、「当神社の御神体は、当初、豊臣秀吉が常に懐中に入れて御守神としてきたものである。以来、津軽家家中より厚く信心され、(社が)現在地に勧請された。その後、故あってこの御神体は大道寺家(※津軽藩家老)に引き移ったが、その後、氏子により高さ1mあまりの木造の御神体が奉納され、現在に至っている。」といった意味のことが記されていたようです。現在は、この由緒書きがなくなったようなので、定かではないのですが。。
 豊臣秀吉は、津軽為信の本領安堵を認めた津軽氏にとっては大恩人。その木像は徳川氏の時代になっても弘前城の「館神」として祀られてきた分けですが、ここ五代地区のとなりには、為信の津軽統一の本拠地であった大浦城跡があります。そういった意味でも、この神社の由緒は興味深いものがあります。

◇五代稲荷神社

 
境内へ
拝殿
本殿
御事歴碑
境内裏のりんご畑


 一の鳥居からは、小川の流れに沿って参道が続いていました。大きな杉の切り株が何本も残されているところをみると、かつては、もっと大木が茂る場所だったのでしょう。いくつか鳥居をくぐりぬけると境内へと出ました。

「稲荷様」らしく、ここではきつねが狛犬の替わりです。拝殿の前に一対、そして、本殿の前にも小さなきつねが一対置かれていました。
 境内のとなりと裏手はりんご畑です。岩木山を背景に、赤く色づきはじめたりんごが実っていました。

◇境内のきつね他

  
ナンテン
末社
拝殿前のきつね
本殿のきつね



五代獅子舞


 りんご畑へと抜ける小道の脇に御事歴の碑がありますが、そのそばにもう一基大きな石碑が建てられています。
「魂」の字が見えたので忠魂碑かと思いましたが、そうではなく「獅子魂」
獅子魂
と彫られていました。石碑のとなりには「獅子の里」と書かれた木柱も立っています。この五代地区は、無形民俗文化財に指定されている獅子舞が盛んに行われている所です。その歴史は500年にもなるとされていますが、「五代鹿獅子舞の由来」という巻物が保存会に伝えられているとのことです。

 獅子舞(※地区によっては獅子踊とも)は荘重な熊獅子系と軽妙な鹿獅子系がありますが、五代の獅子舞は鹿獅子です。「参進の舞」、「庭舞」、「橋渡りの舞」、「山掛けの舞」などの曲目がありますが、「山掛けの舞では獅子頭をはずして舞うなど独特の所作が伝わる」とされています。
 ⇒獅子舞(獅子踊)の曲目

 例年、10月10日にここ稲荷神社に奉納されるとのことですが、拝殿の屋根の下には、伝統の獅子舞を描いた絵馬が掲げられていました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 大鰐町   Tags: つがるみち  

大鰐の「貴船神社」ーつがるみち308


戸和田貴船神社


 大鰐町の十和田山(664.1m)の山中に、津軽地方一帯の人々に「水の神・トワダ様」として信仰されてきた戸和田貴船神社の奥宮があります。
 三ツ目内川上流をさかのぼった所に社号標と登り口に鳥居が立っていますが、大鰐町のHPやこの神社を紹介している方々のブログなどを見て、昨年の秋、私もそこまでは行ってみました。ですが、天気が悪かったことと、説明板(案内板)に「徒歩45分。熊に注意」とあったので引き返したのでした。
 あらためて、この戸和田貴船神社の由緒を見ると、
【御祭神 (主神):高おかみ神、闇おかみ  (相殿神):倉稲魂神、宇気保神、素盞鳴尊、久須志神   当神社は文明二年 (一四七〇) 四月十九日三ツ目内山国有林古戸和田山に祀られていたが、 その昔大旱魃が続き、 全農民協議の結果貯水池を急造する必要を認め、 大挙して水源地三ツ目内山奥に来て、 今の古戸和田の大沼を発見、 水量豊かであるのでこれを破りて、 放水の準備に取りかかったところ、 一天にわかにかき曇り大雷雨が起き狂喜して下山せり。これ水神の御加護とこの地水神の鎮座まします処と元和二年(一六一六)六月現在の境内地に社殿造営奉遷せり。
 明治六年五月十五日村社に列られ、 明治四十四年四月一日神饌幣帛料供進神社に指定され、 昭和二十一年六月十九日宗教法人令により貴船神社となり、 昭和二十五年十二月二十二日前記境内地参八弐七坪六四譲与認可せられ今日に至る。又、 三ツ目内地区西の山手に、 元和六年 (一六二〇) 戸和田貴船宮の遙拝所とし貴船神社を居土三ツ目内両村で建立したといわれる。※青森県神社庁HP】とあります。
 説明板
説明板
には、【藩政時代には、干ばつ続きで領民が困ったとき、藩命で幾度か神社奉公が雨乞いをした史実もあるといわれている。神社の由緒書には、草創は室町時代の文明二年(一四七〇年)四月十九日となっている。当時は室町時代の戦乱に明け暮れている世の中であったといわれている。こんな世の中に三ツ目内の山深い地に、どんな人物がわざわざ京都から水の神様を奉還したのかは分かっていないが、なんともいえぬロマンを感じさせる神秘さがある。】と書かれていました。
 

貴船神社本殿


 由緒にもあるように、この戸和田貴船神社の遙拝所として江戸時代に建立された社が三ツ目内集落に鎮座する貴船神社です。
 かつては、この貴船神社や戸和田の奥宮への参詣者で一帯は大変なにぎわいだったといわれています。
○「そば屋の出店が立ち、立ったままそばを食べなければならないほど込み合った。三ツ目内地区にはサーカス小屋も立ったものだ」
○「三ツ目内や高野新田(※戸和田貴船神社の入口にあたる集落)の各戸は、見ず知らずの参詣客も家に招き入れて食事などを振る舞った」
○「高野新田から登山口まで森林軌道を利用して、高齢の参詣客をトロッコに乗せて運んだものだ。登りは手で押し、下りは手動ブレーキ。料金は登りが1人50-60円、下りが30円だった。けっこうなお金になったものだ」 ※○「」は、HP「あおもり110山」より

貴船神社二の鳥居


 往時の賑わいが目に浮かぶようですが、三ツ目内の貴船神社は集落を見下ろす山の上にひっそりと建っています。
 りんご畑の中に立っている一の鳥居を過ぎると、細い参道が境内まで続いていて、やがて二の鳥居が見えてきます。
 鳥居の両脇には石灯籠が一対ありますが、いずれにも龍が巻きついています。いかにも「水の神様を祀っている神社」という感じがします。

 戸和田の奥宮には、「クロサンショウウオが産卵し、その卵の多少と卵塊の位置で稲作の豊凶を占った」とされる伝説の池(沼)
奥宮の神池 ※HP「あおもり110山」より
があり、例大祭の旧4月19日は、卵塊の位置を確かめようという農家でごった返したといわれていますが、ここ貴船神社の境内にも小さな神池が築かれていました。

 戸和田貴船神社からは神代文字である「ホツマ文字」の神印が発見されていますが、このことは、この神社が相当古い歴史を持つ社であることを示しています。
 神代文字とは【漢字伝来以前に古代日本で使用されたとされる日本固有の文字の総称であり、神代(初代神武天皇が即位した紀元前660年より前)に使用されたとされる文字である。※Wikipediaより】ですが、説明板には、
【 一、 ホツマモジは「土牘秀眞文(ハニフダホツマブミ)」と題し、愛媛県松山市八幡地主の授くる神代之文字とありイヨモジともいう。 
 一、 このホツマモジも、景行天皇朝(皇紀七三一~七九〇)前期には、なお使用され、いきていたことを推察しうるのである。】と書かれていました。

  ⇒ 戸和田貴船神社のホツマ文字
ホツマ文字 ※説明板より


「ホツマ文字」などの神代文字は、よく伝奇小説などで取り上げられますが、往古から実在したものではなく、後世の捏造であるという見方が定説となっているようです。しかしながら、やはり相当古い時代に作られたものと思われ、それが津軽の地まで、どのように伝わってきたのか。。。
 なお、ここ貴船神社と同様に、青森県において神代文字を御神符に使用しているのは、熊野奥照神社(弘前)唐笠柳八幡宮(五所川原市)だけなのだそうです。

◇三ツ目内貴船神社

 
石灯籠①
石灯籠②
神池
境内
拝殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 十和田市   Tags: みちのくあれこれ  名木めぐり  

深持如来堂ーみちのくあれこれ4


如来堂①
  
如来堂②


 先日、県道40号線沿いに建つ八甲田雪中行軍七勇士の碑を訪ねたときに、増沢方面へ向かってもう少し車を走らせてみましたが、その途中、白い鳥居と赤い鳥居が立っている場所を見つけました。後で地図を見てみたら、一帯は、十和田市深持如来堂という地区であることが分かりました。

如来観音神社・御蒼前神社


「如来堂(にょらいどう)は、釈迦如来や大日如来などの如来を本尊とする仏堂の呼称、及びそこから派生した地名である。※wikipediaより」とありますが、ここもまたそのひとつだと思われます。
 まずは、七勇士の石碑から近い白い鳥居の神社へ行ってみました。道路沿いの森の中にあるため目立たず、ついつい見過ごしてしまいそうな社です。

社殿内


 鳥居の前に立つと、その奥に赤い屋根の建物が立っているのが見えます。道路際の樹木にさえぎられて境内の中は見えないのですが、入ってみるとそこは思った以上に広い場所で、用水路が流れており、その後ろに社殿がポツンと立っていました。社殿の屋根の下には、「如来観音神社」「御蒼前神社」という二つの社号が並んで掲げられています。

 如来観音神社は「如来堂」という地名の由緒となった社だと思いますが、あわせて「蒼前様」を祀っているのは、いかにも蒼前信仰が根強く残っている県南地方らしいところです。社殿の中には、二つの祠が並んで置かれていました。

 境内の周りは細い杉の木立で囲まれていますが、その中に、とりわけ背の高いカツラの木が二本あります。一本は、社殿の真後ろに立っているカツラで、
社殿の真後ろのカツラ
社殿を見守るようにそびえています。もう一本は、用水路の手前に立っていますが、こちらはいかにも古木を思わせる形の良いカツラの木です。

 そして、同じく用水路の手前(向かって左側)には、イチョウの巨木があります。
「深持のイチョウ」として知られているこのイチョウの木は、樹高22m、幹回り8.8m、樹齢がおよそ400年という堂々たる古木で、近づいて見ると、その大きさを実感できます。 - 青森県では特に鯵ヶ沢・深浦地区が、大イチョウをはじめとする巨木の宝庫とされていますが、十和田市も名木・巨木がたくさんある所で、深持のイチョウもそのひとつです。

◇境内のカツラと深持のイチョウ

  
社殿後ろのカツラ
社殿前のカツラ
深持のイチョウ①
深持のイチョウ②



如来様


 如来観音神社を過ぎて、もう少し車を走らせると今度は赤い鳥居が見えてきました。近くのお店で聞いたところ、そこは「如来様(如来堂)だ」ということでした。
 ここもまた、道路沿いに小さな鳥居があるだけで、その奥は見えませんが、橋を渡り、鳥居をくぐると、石段の上に小さな祠がありました。ここに如来観音が祀られているのでしょう。

 道路から見ただけでは想像もつきませんが、そこは、急な崖になっていて、大岩があり、その岩を割るように、大きな木の根が縦横に延びています。そばには小さな滝も流れており、辺りの木の形などを見ると、ちょっとした異界に来たような感じです。道路沿いにこんな神々しい場所が隠れているとはびっくりです。村の人々にとって「神様の宿る場所」として崇められてきたのでしょうか。岩場の真ん中に立つ小さな祠がとても印象的でした。

◇如来様(如来堂)
 
  
祠①
岩場
祠②
小滝



カヤ人形 ※「青森観光アプティネット」より


 この如来堂地区からは少し離れていますが、同じく十和田市深持に「梅」という集落があります。昔、戦いに敗れた落ち武者達が住み着いたという伝説が残る村で、「落人の里」とも呼ばれています。
 八甲田山系の伏流水が湧き出す清水は「カドの水」と呼ばれ、名水のひとつにあげられていますが、集落の入口にカヤで作られた人形が立てられています(実際に行ってみたわけではありませんが)。

【「カヤ人形」は悪魔の部落への進入を防止するため日夜警戒していると伝えられ、また、天明の飢饉のとき集落に妖魔を入れないため、人の代わりに立てたのが始まりとも言われている。村の東口にあるしめ縄は、悪霊などの侵入を防ぐ信仰に培われているそうだ。※HP「あおもり湧水サーベイ」より

 如来堂、そして落人の里など、県道40号線沿いの深持地区は、興味深い歴史と風習が残る地域です。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 大鰐町   Tags: つがるみち  

森山鹿嶋神社ーつがるみち307


森山の板碑


 大鰐町の森山という集落に町指定文化財である板碑が一基残されています。「森山の板碑」と呼ばれるこの板碑は、鎌倉時代にこの地に住んでいた山城ノ国相良郡の正八幡宮の神主・山中伊豆守貞詮の二男・山中之太夫正義の屋敷跡から見つかったもので、延慶2年(1309)の年号を持つものです。
 現在は森山の踏切近くの墓地の一角に保存されていますが、板碑の背後にきれいな三角錐の形をした山が見えます。標高200mあまりの低い山ですが、その姿はあたかも漁具の銛(もり)を思わせる形をしています。この「モリ山」は、古くから地域の聖なる場所として崇められてきたとされ、それが「森山」という地名の起源になったともいわれています。

 東北では独立したコニーデ型の山を「モリ山」とか「モヤ山」と呼びますが、
【この「モリ」ということは、民俗学では「祖霊のこもる神聖な丘」という意味で、部落ごとに近くのきわだった丘に祖霊がおさまっていると信じてきた。※小館衷三『岩木山信仰史』】とされています。
 津軽地方で最大の「モリ山」はもちろん岩木山ですが、平常禁足の山であった岩木山に代わるものとして、各地域のモリ山は、模擬岩木山として信仰を集めたようです。
 特に弘前市百沢(旧岩木町)の守山(森山:403.4m)は、聖なる場所・岩木山に近いこともあり、岩木山に見立てて登られてきた山で、寛治5年(1091)には大山祇大神など三神を祀る守山神社が創建されましたが、現在は岩木山神社に合祀されています。岩木山神社の参道のわきには「守山三柱大神」の碑が建っています。
 ここ大鰐町の森山もまた模擬岩木山としての役目を負っていたのかどうかは分かりません。あるいは、この地方の聖山・阿闍羅山や一大修験場があった堂ケ平山の遥拝所として信仰されてきたのかもしれません。

 そんな森山の麓に鹿嶋神社が鎮座しています。

◇大鰐町森山、百沢守山、鹿嶋神社入口
 
  
森山
守山※HP「あおもり110山」より
守山三柱大神
鹿嶋神社一の鳥居
正伝寺跡



二の鳥居


 りんご畑の中の農道を歩いて行くと、大きな社号標と一の鳥居が見えます。りんご畑はその先にも続いていますが、二の鳥居の登り口に広場があり、石碑がポツンと立っていました。
【正傳寺跡  現在地(旧地森山村)に薬王院松傳寺を開山されたのは、文禄4年(1595)本寺である耕春院(現在の耕春山・宗徳寺)8代中巌撮堂和尚である。松傳寺が後に薬王山・正傳寺に改称しているが年代は詳らかでない。
 二代藩主津軽信枚は、高岡城(弘前城)防衛の「長勝寺構え」築造のため、各寺に移転を命じたのは慶長十五年といわれているが、移転したのは延宝八年(一六八〇)で、八十六年間この地にあった。※説明板より
 正伝寺は曹洞宗33寺が集まる弘前市・禅林街の一角にある寺院ですが、「幽霊画の掛け軸が動く」という心霊スポットとしても知られています。

 二の鳥居からは登り坂になっていますが、鳥居のそばには馬頭観音が祀られていました。参道というよりも農道といった感じで、上の方にもりんご畑がありました。
 少し登って行くと、やがて社殿が見えてきますが、どちらかというと普通の民家を思わせるような建物でした。
 しかしながらやはりここは境内。草木に隠れた石灯籠や狛犬、末社などが顔を覗かせています。

◇馬頭観音、狛犬など

  
りんご畑
馬頭観音
石灯籠
狛犬


 この神社の由緒については詳しくは分かりませんが、多くの鹿島(鹿嶋)神社と同様に武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とする社だと思われます。

 前述したように、鎌倉時代にここ森山の麓に居住していた山中之太夫 正義は、津軽地方の神主を育成する務めを負っていたとされ、山中家は毘沙門天を信仰し、その毘沙門堂の跡が現在の鹿嶋神社だといわれているようです。

 毘沙門天は、古くから多くの武士や修験者たちから崇められ、祀られてきた分けですが、堂ケ平、阿闍羅山、そして乳井神社へと続く一帯は、広大な修験場跡として知られており、ここ大鰐の森山鹿嶋神社もまた、その一翼を担っていたのかも知れません。

◇鹿嶋神社境内

 
参道
境内
拝殿①
拝殿②
末社


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

高杉加茂神社ーつがるみち306


南貞院
  
加茂神社


 

南貞院の石碑



  紫雲山南貞院(しうんざんなんていいん)は、津軽三十三霊場の4番札所です。以前に訪れたときにはあまり注意して見なかったのですが、観音堂のとなりにひとつの石碑が立っています。説明書きには、
【ここのすぐ近くに八重の森があり、その昔曹洞宗八重山長徳寺があった。その寺は、弘前に城が築かれて間もなく茂森に移されたが古い時代の墓石はそのまま寺院跡に残されたのである。この石碑も、もと八重の森にあったが、いつの頃からか南貞院に移されてまつられてきたものである。碑面には、関東地方の板石塔婆とおなじような形式で刻まれている。南無阿弥陀仏の名号と阿弥陀三尊仏の種子、光明編照・・・・の感無量寿経の掲文などから、浄土宗の信者のお墓であることがわかる。また、正和元年(1312)今から670年前の冬に、高貴な方の女性の三十五日法要に建てられたことがわかる。この石碑は、津軽地方に現存する浄土真宗関係の最も古い年号が刻まれたものとして非常に貴重な資料である。※説明書きより

 南貞院の本尊は聖徳太子作と伝わる聖観世音菩薩ですが、明治の神仏分離以前は隣の加茂神社に安置されていました。御詠歌は「はるばると詣でくる間のわが心名も高杉の森にとどまる」ですが、「高杉の森」とは「高杉の宮」のことで、加茂神社を指しています。かつてこの神社は「高杉観音堂」と呼ばれていました。


参道


 南貞院から少し歩いて行くと神社の境内へと出ますが、境内をぐるっとひと回りすると、数多くの石碑が立っていることに驚かされます。
 大小の「猿田彦大神」をはじめ、昔、観音堂であったことを示す「聖観音」と刻まれたものや、「稲荷宮」「牛頭天皇」「飛竜宮」「天照皇太神」などの碑が、境内を取り囲むように立っていました。
 古くからの産土社であったことを示す石碑たちですが、高杉は鯵ヶ沢と弘前とを結ぶ交通の要所であったため、多くの人々が往来し、住み着き、それぞれの信仰の対象を祀ったものなのかも知れません。

◇境内の石碑

  
聖観音碑
牛頭天皇宮碑
飛龍宮碑
天照皇太神碑


 この神社の由緒については、
【御祭神:別雷神 誉田別神  住昔田村將軍の子花輪丸夷賊退治の爲大同二年當深浦に着船岩木山麓なる長者森と申す處に陣営を据えられ、 長々滞陣の上首尾夷賊を退治し、 それより其の辺を以って花輪郡と名付たり。之に依て花輪の郷民郡中守護の爲め、 加茂神社を当地に建立し花輪丸自ら筆を染めて緑記並額を納めたり。
 其の後、 数百年の久しきに至り緑記並額は伝えずといえども元和年中御堂焼失花輪丸緑記並に額は焼失その事古老の伝へによりて、 今日に存せり。又諏訪八幡宮は住昔天ケ崎と云ふ所に小祠ありて、 其の創立不詳なれども正和年中高杉隆左衛門居城取立の砌由緒之ある旨にて、 諏訪八幡宮と号し城中に遷して之を崇敬せり。其の後高杉木左衛門弘前引越以来村落衰え元禄拾六年当社に合祭せり。昭和二十四年八月三十一日国有境内地無償譲与せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 田村麻呂伝説が残っているところをみると、やはり相当古い由緒をもつ神社であるらしく、近郷の人々の崇敬を集めてきたと思われます。現在に至るまでは、様々な経緯があったみたいですが、観音様と八幡様、稲荷様などが同居する社であったといわれています。
 なお、ここに観音堂を創設したのは田村麻呂の子・花輪丸だと伝えられています。

◇加茂神社

 
境内
拝殿
狛犬
猿田彦大神
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 十和田市   Tags: みちのくあれこれ  

「七勇士」の石碑ーみちのくあれこれ3


七勇士の石碑


 青森県では今、弘前城石垣修理事業に伴う天守閣移動関連の話題でもちきりで、新聞紙上でも大きく取り上げられていますが、7月の末頃、地元紙にこんな記事が載っていました。
 -「七勇士」の石碑倒壊危機
地元紙より

「七勇士」とは、八甲田雪中行軍の際に弘前31連隊の道案内をつとめ、苦難の末、八甲田越えを成し遂げた当時の若者七人のことです。


 映画「八甲田山」が公開されてから、八甲田雪中行軍の出来事は広く知られるようになりましたが、史実はまだまだ闇につつまれた部分も多いようです。
 例えば、青森5連隊が厳冬期の八甲田山を越えるにあたって、なぜ案内人をつけなかったのかということもそのひとつです。小説や映画では、地元民の案内申し出を大隊長が一喝して断る場面がありますが、これについても「軍の威厳を保とうとした」とか「民間人の安全を考え、巻き込みたくなかった」などと解釈が分かれるところです。
 一方、福島大尉(映画では高倉健が演じた徳島大尉)率いる弘前31連隊がその行程で案内人の力をフルに活用したことは事実で、映画などでは、そのことが両者の明暗を分ける一因となったように描かれます。ともあれ、31連隊を先導した案内人達の功績は大きく、「真冬の八甲田越え」という壮挙を陰で支えた功労者といえるでしょう。


雪中行軍案内者顕彰碑

東道旌表碑①

東道旌表碑②


 弘前31連隊が屯営を出発したのは明治35年(1902)1月20日のことで、弘前から小国・切明(平川市)、十和田湖を半周し、戸来(新郷村)を経て三本木(十和田市)へ。そこから増沢、田代、田茂木野、青森へと至るコースで、弘前への帰営を含めた全行程はおよそ224km、11泊12日(予定では10泊)、総272時間という壮絶な行軍でした。
 ⇒弘前31連隊行軍経路
弘前31連隊行軍経路

 七勇士たちが先導に立ったのは、増沢から田代、そして田茂木野へと至るコースで、正に八甲田山のど真ん中を突っ切る行軍中最大の難関でした。

 七人はマタギ経験者を含む旧大深内村の壮健な若者たちでしたが、夏場ならまだしも、厳冬期の八甲田越えは想像を絶する苦難の連続だったようです。
◇増沢から田代
【田代平は、ゆるやかな傾斜の草原である。しかし、冬には一面の雪原と化す。風をさえぎる樹木とてない雪原は吹くにまかせた猛烈な北風が雪面を払い、どこまでが雪面でどこからが空なのか視界を失わせる。・・・磁石も凍りついて役に立たなくなる酷寒の中、しかも目標物のない雪原はそれ自体が白い巨大な眩暈のように人の方向感覚を幻惑する。】
 増沢から山あり谷ありの道を長い時間をかけて歩いてきた一行は、日が暮れたため、ここ田代で雪中露営をよぎなくされました。
◇田代から鳴沢、馬立場、田茂木野
【極限状態にある一隊に吹きつける寒風の強さは、はじめて経験するものだった。風速は25mを超えていた。踏み出そうとする一歩は、上体に吹きつける強風のために押し戻される。呼吸もままならず全員があえぎ続けながら歩いた。眠りながら歩く者も出はじめ、倒れる者も出た。歩けなくなった隊員を両脇から支えて歩く隊員もまたよろめいて歩けなくなるというすさまじさで、総崩れの危機が弘前隊に迫っていた。】
 1月28日の早朝、雪濠を出た一行は七勇士の先導で、青森5連隊を苦しめた鳴沢、馬立場方面へ出発。中の森、賽の河原を経て、29日の午前2時過ぎに田茂木野へたどり着いたのでした。27日午前6時過ぎに増沢を出てから実に44時間、弘前隊は一睡もしないまま強行軍を続けたことになります。「あわや遭難」という危機的状況の連続だったようですが、それを救ったのは福島泰三大尉の的確な判断もさることながら、やはり七勇士たちの働きが大きかったのだと思います。


説明板


 弘前31連隊の雪中行軍の成功は、青森5連隊遭難という大事件の陰に隠れてその偉業について多く語られることはありませんでした。隊を成功に導いた七勇士についても同様です。
 七人のほとんど全員が凍傷をわずらい、歩行困難になった方もいたとのことです。
 もうひとつ、長年にわたって彼らの心を苦しめたのは図らずも5連隊の遭難現場に遭遇してしまったことです。福島大尉の「八甲田で見たことはいっさい他言すべからず」という厳命を他の隊員と同様、この七人もまた守り通した分けです。彼らが「数個の凍死体を目撃し、同情の念を投げつつ下り降りた」と、重い口を開いたのは、遭難から30年後のことだったと伝えられています。

 七勇士の石碑は、十和田市へと向かう国道102号線の途中から分かれる県道40号線沿いにありますが、この道は増沢、田代方面へと続く道です。
 この石碑は、昭和6年に七人の勇気と努力を讃えるために地元・大深内村の人々によって建立されたもので、名付けて「東道旌表碑(とうどうせいひょうひ)」。「東道」は道案内、「旌表」は顕彰という意味です。
 もともとは、村内の別の場所に建てられたものなのだそうですが、雪中行軍百年を機に八甲田を望む現在の場所に移され、「雪中行軍七勇士の歌」という鎮魂歌も作られたそうです。

 実際に行ってみると、新聞記事の通り、石碑の周りは縄が張られ、「立入禁止」の札。なるほど、台座と碑をつないでいる部分などが、かなり風化しています。
 石碑の裏には「七勇士」として、「沢内鉄太郎、福沢留吉、福村勝太郎、小原寅助、沢内吉助、氏家宮蔵、中沢由松(※敬称略)」の七人の方の名前が刻まれていました。
 石碑のそばにある説明板には、雪中行軍の様子と七人の業績について述べられていますが、終わりの方で福島大尉の「(5連隊の遭難を見たことは)口外すべからず」という厳命ついてにふれ、「明治を終わり、大正を過ぎて、昭和五年までだれ一人として語る者がなかったことは、律儀な南部人の鑑であろう。」と書かれていました。

 この石碑のその後ですが、地元民の「柏地区の宝物として守り、語り継いでいきたい」という思いが通じたらしく、補修に向けた動きが始まったようです。
 ー「七勇士」の石碑補修へ
地元紙より


※【】をはじめ、記事については 山下康博 著『指揮官の決断』 中経出版 等を参照しました。


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坂市雷電宮ーつがるみち305


雷電宮一の鳥居


 現在は弘前市になっていますが、旧中津軽郡相馬村に坂市(さかいち)という集落があります。明治の頃には米・大豆・薪・たばこが主な物産であったといわれている村です。
「坂市」という名前の通り、付近を流れる川沿いの道は坂道が多く、集落はその坂の上にあるのですが、一段と高くなっている丘の上に雷電宮が鎮座しています。

 民家が立ち並んでいる小道を小高い丘の方へ向かって歩いて行くと、間もなく赤い鳥居が見えてきます。後方はこんもりした森。一の鳥居のそばには二十三夜塔と庚申塔が立っていました。
 そこからは、赤い手すりがついた参道の石段が上に向かって延びています。けっこう急な登り坂になっていて、少し登ると息が切れます。

 参道の両脇には背の高い杉の木が密集していて、「森の中」といった感じですが、途中には小さな祠なども立っていました。細い竹が何本も生えていて、杉の木の間から顔を出しています。ちょっとした竹林です。

◇参道

  
庚申塔と二十三夜塔
参道
末社①
竹林



境内


 いくつかの鳥居をくぐり抜け、石段を登り切った所が境内ですが、真下に見えるはずの集落は森にさえぎられて見えません。想像よりもかなり高い場所でした。
 社殿が建っている場所は少し土が盛ってあり、石が積まれています。扉の赤い色が何とも鮮やかな拝殿です。その前には石灯籠が一対あるのみで、狛犬などはいませんでした。

 拝殿の隣には、祭壇が設けられた石碑が建てられていましたが、風化のため、何が彫られているのか分かりませんでした。何らかの石仏なのでしょうか。
 その隣の小さな鳥居の奥には一風変わった大石が祀られていました。台形型の自然石で、上の方に穴が開いている姿は火山を思わせます。大切に祀られているところをみると、何かしらいわれのある神様なのでしょう。
 ⇒石仏?と大石
石仏?と大石


 ここの雷電宮の由緒については、
【御祭神 :大雷神  当社創立不詳なるも古来より坂市の 「雷電さま」 と尊称され、 農業関係の風雨順時気温の予知を神占いにより得られたるを以て、 近郷の崇敬をあつめて明治に入るや氏子少き故を以て、 同六年第三大区四小区紙漉沢龍田神社に合祀せられ、 次で明治十三年六月更に藤沢なる野田神社に合祀せられたるも、 氏子民の敬神篤くその希望により昭和二十一年十一月二十七日宗教法人令に依り宗教法人となる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

「雷電さまと尊称され、 農業関係の風雨順時気温の予知を神占いにより・・・」とありますが、祭神 の大雷神(おおいかづち)は、神話では伊邪那美の遺体から生まれた八雷神(やくさのいかづちのかみ)の中の一柱で、「大」は威力が盛大であることを示し、八雷神の筆頭とされています。
 賀茂別雷命と同一神とされ、各地の加茂神社の祭神ともなっていますが、「雷」は降雨をもたらす力を持つことから、雷神は、大切な作物を育てる霊力をもつ神として信仰され、そこから「祈雨・止雨、河川、治水神、さらには農業、産業の守護神」として崇敬を集めるようになったといわれています。 
 - 昔は決して肥沃な土地ではなかったと思われるここ坂市の村人にとって、この社の雷神様は心の拠りどころだったのでしょう。

 なお、由緒に書かれている「紙漉沢龍田神社」とは、「長慶天皇御陵墓参考地」のある上皇宮の旧名です。旧相馬村には、この上皇宮をはじめ、「奇祭ろうそくまつり」が行われる沢田の神明宮など、昔からの地域の歩みを感じさせる神社が多くあります。この雷電宮もそのひとつです。

◇雷電宮境内
 
  
境内入口
末社②
末社③
本殿


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八幡崎八幡宮ーつがるみち304


八幡崎八幡宮


 平川市八幡崎地区に鎮座する八幡宮は縄文時代晩期の遺跡の上に築かれた神社です。
 以前は、神社入口付近に遺跡の説明板もあったようなのですが、八幡崎遺跡については、
【縄文時代晩期の低湿地・泥炭層遺跡。昭和23年(1948)中学校(旧猿賀中学校)建設工事の際に発見され、昭和36年(1961)~同38年(1975)にかけて、旧尾上町教育委員会並びに慶応大学の江坂輝彌等により発掘調査が行われ、約6,700m2が昭和44年県史跡の指定を受けている。縄文時代晩期前半の大洞B式~同C1式土器、石器、石製品、土製品をはじめ、藍胎漆器、木製椀、丹漆塗腕輪・同櫛並びに草本を用いたアンペラ(敷物)などがあり、堅果種子・樹皮・哺乳類骨も発見されている。
 平川市の中心部から延びる低台地西端に位置し、遺跡上には八幡宮が鎮座している。遺跡は上層に奈良時代の集落があり、台地の北側低地に縄文時代晩期の遺物包含層がある。 ※青森県HP「あおもりの文化財」】と紹介されています。
 八幡崎は旧尾上町。近くの猿賀神社をはじめ、尾上町には古代から中世にかけての遺跡や館跡などが多くあるのですが、ここもまた貴重な遺跡のひとつとされています。


末社


 道路沿いに社号標と大きな白い鳥居が立っており、参道へは石段を登って進みます。
 鳥居のそばに木柱があったので近寄って見ると「銀杏盛跡」
「銀杏盛跡」
と書かれていました。
 いろいろと調べてみたのですが、これについては分からずじまい。遺跡の沿革に、「遺跡の上層に奈良時代の集落があり」と書かれているところをみると、古代の集落の跡のことなのかも知れません。

 この八幡宮の由緒については、
【御祭神:譽田別尊  延暦十四年 (七九五)、 坂上田村麿が建立、 更に大同二年 (八〇七)、 同じく坂上田村麿が再建したと云われている。 其の後、 貞享四年 (一六八七)、 社殿を新築す。 大正二年九月十三日、 村社に列格、 昭和二十一年六月二十六日、 宗教法人令に依る宗教法人八幡宮となり、 昭和二十五年十二月二十二日、 国有境内地二、 一六一坪一合九勺を無償譲与され今日に至っている。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
 猿賀神社の縁起には、田村麻呂がこの地で蝦夷の首魁を退治したという伝説がありますが、平川市のいくつかの神社にも「田村麻呂が創建した」という話が残っています。この八幡宮も、そうした田村麻呂伝説を伝える社です。

 二の鳥居、三の鳥居と順番にくぐって行くと境内へと出ますが、上を見上げると、電球の線が縦横に延び、建物につながれています。さすが地域の中心となる社。宵宮の時などはきっと賑わうことでしょう。

 拝殿の左(向かって)には鳥居をともなった淡島神社(淡島大明神)がありましたが、社殿の中を覗いて見ると、祭壇のまわりには子ども向けの人形がたくさん置かれていました。
 淡島神は、「婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神」とされていますが、そんな信仰の現れなのでしょう。

拝殿の扉も開いていたので、中へ入ってみました。両側の壁には奉納絵馬などの他に、「あまの川」「山びこ」などの習字(条幅)が飾られています。地域の小中学生が書いたものなのでしょうか。

◇八幡崎八幡宮

 
参道
淡島大明神①
淡島大明神②
拝殿
拝殿内


 平川市は獅子踊(獅子舞)の継承活動が盛んな町で、猿賀神社の境内では県下獅子踊り大会なども行われていますが、ここ八幡崎の獅子踊も約400年の歴史を持ち県無形民俗文化財になっています。
【八幡崎の獅子  八幡崎の獅子踊りは踊りと囃子のきめ細かさとリズ ミカルさが特徴。 幕と呼ばれる獅子の衣装にも特徴があり、津軽獅子の幕の紋様は、その大部分が牡丹、唐獅子、波、千鳥 だが、八幡崎のものは白地に藍で鶴と三つどもえを染 めたものである。
八幡崎獅子踊衣装 ※広報「ひらかわ」より
※広報「ひらかわ」他より】 

 津軽の獅子踊は、熊獅子系と鹿獅子系に大別されますが、八幡崎の踊りは熊獅子で、 熊踊りの荘重さと(鹿獅子の)跳躍の軽妙さが加わった特徴のある踊りとされているようです。  ⇒津軽の獅子踊

 この獅子踊は、例年、旧暦8月1日に獅子起しが行われ、ここ八幡宮への奉納されるとのことです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

牡丹平大山祇神社と豊岡稲荷神社ーつがるみち303


本殿

奉納草鞋


 菅江真澄が「・・・牡丹平を大杭(おおぐい)村といい、この花巻を小杭(こぐい)村といった。」と記している黒石市牡丹平地区。温湯方面に向かって長い坂道が続きますが、その上り口に大山祇神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:大山祇神  建立年月日不詳なるも古来より観音堂の祠があり産土神として崇敬してきたが、 天正年間 (一五七三~一五九一)、 当国戦の軍勢により村中並びに堂宇焼失され、 以来一一〇余年間再建ならず、 宝永七年 (一七一〇) 六月十七日、 旧社地に村中にて堂宇再建の上、 観世音菩薩を勧請す。
 正徳元年 (一七一一) 六月、 住吉大明神を村中にて勧請、 明治初年神社改正の際、 観世音の佛体を除き元文三年 (一七三八)、 勧請の大山祇神を出石田の稲荷神社に合祀したが明治七年復社す。 明治九年十二月一日村社に列せられる。 昭和十二年二月二十二日、 山祇神社社名を大山祇神社と改称、 許可され今日に至る。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 黒石市や平川市に鎮座する神社の多くは戦国期の争乱の影響をうけ、堂宇消失→衰退→村民の願いにより再建という経緯をたどるものが多いのですが、ここもまた、そのひとつのようです。やはり、地域の中心となる「産土神」に対する崇敬は根強いものがあるようです。
「山祇神社社名を大山祇神社と改称」とありますが、隣村の花巻の社は「山祇神社」・・大杭村(牡丹平)、小杭村(花巻)という旧名と合わせて、この名前のつけ方もおもしろいですね。

 神社のそばにはバス停があり、そこから長い下り坂が続く分けですが、本殿の後ろ側には地蔵堂があります。そしてその隣には大きな庚申塔が立っています。
 他にも坂道の途中には、庚申塔や甲子塔がありますが、街道沿いの道祖神として祀られてきたもののようです。境内は、道路と並行する形で築かれていました。

◇牡丹平大山祇神社

 
地蔵堂
庚申塔
境内①
狛犬
境内②



一の鳥居


 牡丹平は付近を流れる浅瀬石川の丘陵地帯にあたる分けですが、そこからの坂道は「石名坂」や「長坂」といった集落名にもなっています。
 大山祇神社からの坂道を降りていくと、102号線のバイパスにつきあたり、長坂(豊岡長坂)の集落に出ますが、ここに稲荷神社が鎮座しています。


 102号線から見ると小高い丘があり、こんもりとした森になっていますが、神社の入口は旧道沿いにあり、白い一の鳥居を挟むように庚申塔が立っています。

 鳥居をくぐって参道を進むと、やがて下り坂となりますが、小川の向こうに二の鳥居があり、上の方に石段が続いています。石段を登り切った所に三の鳥居があり、境内へと出ます。

 境内には石灯籠や大きな狛犬、末社などがありますが、そこからの眺望はなかなかのもので、通ってきた坂道や温湯・十和田湖方面へと続く街道、岩木山などを見ることができました。

 この神社については、
【御祭神:倉稲魂命  古来より稲荷宮と称え小堂があった。 天正年中に戦いのため村中並びに堂宇破損し、 果ては焼失した。 その後七十年あまり再建されずにいたが、 ようやく寛文三年 (一六六三) 四月、 村中には稲荷宮を再建し産土神として祀った。 又、
この西に古来より高さ五尺余り、 直径二間余りの石森があり、 この上にも小堂を建立して産土神同様に崇め祀った。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 ここもまた、戦国の争乱を生き延びてきた社のようです。 - 「この西に古来より高さ五尺余り、 直径二間余りの石森があり」と書かれていますが、どんな所なのでしょうか。

◇豊岡稲荷神社

 
参道
三の鳥居
境内
狛犬
本殿


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 あっという間に師走になりました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
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