
鯵ヶ沢町建石町は弘前市と境を接する地区です。県道31号線を弘前から鯵ヶ沢へ行く途中にある町ですが、ここが鯵ヶ沢への入口になります。
その建石町に石神神社が鎮座していますが、鎮座地の住所も「石神」。古くから集落の産土社であったことを思わせます。
県道沿いに「石神神社」と書かれた大きな碑(社号標)が立っていますが、そこから曲がって、山手の方へ細い道をたどって行くと神社が見えてきます。周りをりんご畑に囲まれた社です。
この神社の由緒については、
【御祭神:上筒男命 中筒男命 底筒男命 勧請年月不詳であるが、 安永、 文化、 安政年間に再興及び再建との事あり。 明治六年村社に列格。 ※青森県神社庁HP】とありますが、詳細については不明です。
御祭神の上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)は、いわゆる「住吉三神」と呼ばれる水神ですが、海の神、航海の神、また和歌の神とされています。ここ建石町は、海岸までは少し距離があるのですが、こうして三柱を祭っているあたりは、いかにも海の町・鯵ヶ沢らしいといえます。
白い鳥居をくぐって行くと境内へと出ますが、社殿の前には狛犬と石灯籠があり、建物の左右には、庚申塔や猿田彦碑、月読命碑などが数多く並んでいました。朱色が鮮やかな本殿も印象的です。
◇石神神社






「石神」という神社名が示すように、この神社の御神体は「大石」です。鯵ヶ沢町のHPでは、
【石神神社は、集落より約1.5kmほど離れた場所にあり、奥殿には大きな自然石が御神体として祀られている。
昔、集落の近くに神社を建立しようと石の周りの土を掘りあげたが、次の日には土が元に戻っている。同じようなことが何度も続くので、この石はこの場所から動きたくないのだということになり、現在の場所になったという言い伝えがある神社である。】と紹介しています。
- 伝説の大石を見たかったのですが、残念ながら本殿の中を拝むことはできませんでした。
境内には鯵ヶ沢町の文化財にもなっている名木が3本佇立しています。クロマツが1本、センの木(ハリギリ)が2本ありますが、いずれも樹齢が300年以上と推定されていて、神社創建の頃に植えられたと考えられています。
クロマツは拝殿の前の道路際に、センの木2本は、拝殿と本殿を守るように左右にそびえていました。クロマツは可憐な感じ、センの木は2本とも堂々たる大木です。
◇クロマツとセンの木





ところでこの石神神社一帯は、「三内丸山遺跡に匹敵するぐらいの遺物が出土した」とされている「餅ノ沢遺跡」という縄文遺跡です。
神社のすぐ近くに発掘された石棺墓を見学できる施設が造られていますが、そこに立っている説明板には、
【餅ノ沢遺跡は、縄文時代前期後半から後期前半(約5,500年~3,500年前)にかけての時期を主体とした遺跡です。1997年から1998年にかけて実施された発掘調査では、竪穴住居跡、石囲炉、配石遺構、石棺墓、埋設土器、土坑などの遺構と、ダンボール1,000箱もの遺物が出土しました。特に注目されるのは石棺墓、大型住居などの特殊な遺構や、赤色顔料入り土器、土偶などの祭祀的性格の濃い遺物です。餅ノ沢遺跡は縄文人の生死に対する考え方や、祭祀のあり方を考える上で非常に重要な遺跡と言えそうです。】と記されていました。
県道31号線沿いには、大森勝山遺跡や十腰内遺跡、そして旧森田村の石神遺跡など縄文時代の貴重な遺跡が点在していますが、この餅ノ沢遺跡もそのひとつです。
⇒以前の記事へ
◇餅ノ沢遺跡





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☆つがるみち☆



天神様のお使いといえば「牛」ですが、その由来については、
【菅原道真公は丑の年にご生誕になり、丑の日に薨ぜられた】【菅公は「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」と遺言した。遺言に従い、喪の車を引き出したが、途中で牛車が動かなくなったので、その場所に埋葬した】など、諸説あります。
ともあれ、菅原道真と牛との関りはとても深く、道真を御祭神とする各地の天満宮には、お使いの「臥牛(座った牛)」の像が置かれている分けですが、今回訪ねたつがる市木造吹原の天満宮にも大きな牛の像がありました。
拝殿の中にこの神社の由緒書きがありますが、それには、
【祭神:菅原道真命 吹原村旧高野本帳によれば、貞享元年四月すでに産土神社として崇敬してきたという。最初は現地を隔ること山中に六七町であった為、雪中参拝者困難により、明治十年、現地に移転した。明治六年村社に列せられ、 大正八年二月神饌幣帛料供進に指定された。※由緒書きより】と書かれていました。
境内は集落を見下ろす小高い丘の上にあり、下には田んぼが広がっています。拝殿の隣には末社や庚申塔などが立っていました。扉が開いていたので拝殿の中を拝みましたが、ガラス越しに鮮やかな朱色の本殿が見えました。
私は、この神社にも水神・水虎様が祀られているということでやって来たのですが、境内の祠の中を覗いても見つからず、あきらめて参道の石段を下りました。上るときは気がつかなかったのですが、上り口に小さな祠があったので、中を見てみるとそれが水虎様でした。
この水虎様、両手を合わせた女神の姿をしていますが、その表情は今まで見た水虎様と少し違います。大きな目と厚い唇・・それは何となく縄文土偶(遮光器土偶)に似ています。「縄文の里・木造」が、そう思わせるのでしょうか。。
◇吹原天満宮





木造町はとても神社の多い所ですが、道路沿いに小さな祠があったり、百万遍の碑があったり、鳥居をともなった庚申塔や二十三夜塔、猿田彦碑なども数多くある町です。
また、水虎様発祥の地ということもあって、水虎様を祀る神社やお堂もたくさんありますが、菊川という集落に鎮座する稲荷神社もそのひとつです。
この神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 猿田彦大神 大宮姫命 創立年月日、 宝永二年 (一七〇五)。 明治九年 (一八七六) に村社に列格される。※青森県神社庁HP】とありますが、詳細は分かりません。
境内には稲荷様の神使であるきつねが一対。社殿を挟んで両側には赤い鳥居が立っています。そのひとつの鳥居の奥がお堂になっていましたが、そこは馬頭観音堂でした。石碑と大きな馬の像に挟まれて、小さな可愛い神馬が祀られていました。
社殿の周りにはいくつかの祠が立っています。そのうちのひとつが水虎様の祠でした。ここの水虎様は白地にピンク色の模様が入った鮮やかな衣装を着ています。体と頭は衣で覆われているので、その姿形はよく分かりませんでしたが、どうやら河童型の水虎様のようでした。
◇菊川稲荷神社








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☆つがるみち☆ ☆水虎様



各地の「広峯神社(廣峯、広峰)」の御祭神は素戔嗚尊ですが、明治の神仏分離以前は牛頭天王を祭る社でした。
牛頭天皇は祇園精舎の守護神とされ、その信仰がいわゆる「祇園信仰」へとつながっていく分けですが、そこのあたりについては、
【祇園信仰:牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする。牛頭天皇は神道の神であるスサノオと習合した。これは牛頭天王もスサノオも行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は薬師如来とされた。行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形である。※wikipediaより抜粋】と説明されています。
青森県にも「広峯」あるいは「八坂」と名のつく神社は数多くあります。いずれも神仏分離にともない、「祇園社」「牛頭天王社」などの社名を改称した社なのですが、五所川原市高野に鎮座する廣峯神社もそのひとつです。

神社の入口の一の鳥居の隣には大きな二十三夜塔と庚申塔が立っており、さらにそのそばには一対の神馬をともなった馬頭観音社がありました。参道を進むと二の鳥居があり、その奥に社殿が立っています。
境内の下には田んぼが広がっていますが、田んぼ側から見ると、ここは小高い丘になっているようです。
赤い水門も見えますが、地図によれば、付近には農業用のため池があるようです。この社は、ため池を活用した農業開発の守り神としても信仰されてきたのでしょう。
この神社の由緒については、
【御祭神:素盞鳴尊 一樹の根に長さ一尺の異石あり。寛永十七年一宇を修造し牛頭天皇堂と唱え、氏神として崇敬せり。後数十年間持子澤村毘沙門宮と合社の處、天保十三年村中にて現社地に再建。明治六年四月、廣峯神社と改め村社に列せられ、明治四十二年八月神饌幣帛料供進指定神社に列格せらる。※北津軽郡神社誌より】とあります。
「一樹の根に長さ一尺の異石あり」と書かれていて、御神体として崇められていたようですが、拝殿横に立っている祠の中を覗いて見ると、それを思わせるような石 が大切に祀られていました。
◇廣峯神社





前述の由緒には続きがあり、「附記」として次のような面白いことが書かれています。
- 【本村は古来の習慣として一切胡瓜を作らず(その代り眞瓜を作る)氏子亦之を口にせず。例祭には態々他村より胡瓜を買ふて神饌に供するを例とせり】ー
地方に住んでいるためか、ここに書かれてあることは私にはよく分かりませんでしたが、これは、
「祇園信仰において、スサノオ(牛頭天王)を祭神とする八坂神社の神紋が木瓜であり、胡瓜(キュウリ)の切り口と似ていることから、祭礼の期間はキュウリを食べない」という風習と関係があるようです。
また、宮城県亘理町には、
【昔、この里に、戦いに敗北した牛頭天王 が逃げてきたことがあった。そのとき、牛頭天王は、この里の胡瓜畑に隠れたため、間一髪のところで命が助かった。そのため、牛頭天王は里人たちに、 「この里の胡瓜は、私の命を救った。今後、胡瓜を作ることも食べることも禁止する 」 と命じたので、その後、里人たちは、胡瓜を作ることも食べることもしなくなった。】という伝承があるとのことです。
ここ五所川原市高野に伝わる話も、この亘理町の伝承に類似しているものと思われますが、それにしても、限られたひとつの村落にこんな風習が残っていることは、とても興味深いものがあります。
◇末社、本殿など





本殿の後ろ側には広い田んぼが広がっていますが、その向こう側に森が見えます。
実はこの森は香取神社で、住所は持子沢(もっこざわ)になっていますが、この廣峯神社のすぐ近くです。
廣峯神社の由緒に書かれている「持子澤村毘沙門宮」とは、この香取神社のことですが、ついでに立ち寄って、名木・大ケヤキを眺めてから帰りました。
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☆つがるみち☆



「神日本磐余彦尊((かむやまといわれひこのみこと)」とは神武天皇のことですが、五所川原市羽野木沢に神日本磐余彦尊を御祭神とする磐余神社が鎮座しています。
「磐余」は「いわれ」で、磐余彦からきている分けですが、その由緒については、
【御祭神:神日本磐余彦尊 大同年中の草創と伝えられる。弘化三年八月、阿部三左エ門寄進の現社地へ移転。その以前は村の西方の小林へ建設せる社であった。 明治六年四月村社。 大正二年神饌幣帛料供進指定神社。 因みに改名前は、宝量宮と唱えしが、貞享の頃、原子城址にありし観音堂を遷したものと伝えられる。※北津軽郡神社誌より】とありますが、創立年月はよく分かっていないようです。
色鮮やかな赤い鳥居をくぐると二の鳥居と参道が続きますが、途中から左に曲がった所に三の鳥居があり、社殿が見えてきます。境内には、黄色と紫の衣をまとった神馬と狛犬がそれぞれ一対。社殿の左側の小道を進んだ所には注連縄が張られた二十三夜塔と庚申塔がありました。拝殿の中には、馬頭観音を描いたと思われる奉納絵馬などが掲げられていました。
三の鳥居のそばに、鳥居をともなった小さな祠が立っています。中を覗いて見ると、そこには亀に乗った女神様。水神・水虎様です。
◇磐余神社









この磐余神社に一時期合祭されていた社が俵元の集落に鎮座する天満宮です。
由緒については、
【御祭神:菅原道眞公 (当地は)宝永元年、俵元以北の荒地を開墾せる新開地、所謂俵元新田八ケ村の親村で、原子の枝村であった。(当神社は)勧請年月不詳であるが、貞享年中、原子村より移転せしものと伝えられる。明治六年四月磐余神社に合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社。 ※北津軽郡神社誌より】とありますが、磐余神社と同様、近村の原子村と深い関りを持つ社のようです。
境内には、社殿のとなりに赤銅色の神馬をともなった末社(馬頭観音か)がありますが、ひとつの祠の中を覗いて見ると、そこには水波能売命(罔象女神:みつはのめのかみ)が祀られていました。
ですが、奥の扉から少しだけ姿が見える神様がもう一体。資料では、この天満宮もまた水虎様を祀っている社だということなので、この神様が水虎様なのかも知れません。
◇天満宮




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つがる市森田町(旧森田村)の上相野という地区に尊殿堂という社があります。
このお堂には、樹齢が400年、根元の回りが2mを越える藤の古木があり、毎年、開花の時期になると紫色の見事な花を一面に咲かせ、訪れる人の目を楽しませています。
今は季節外れなので、その花が咲いている様子を見ることはできませんが、由緒ある藤の木を見ようと思い出かけました。
道路に沿って10数m以上の藤棚が長く延びた所があり、その中に赤い祠や鳥居などが見えます。藤の枝が縦横にのびて、お堂を覆っている様は、緑の天幕を思わせます。
参道の入口にひとつの祠がありますが、中を覗いて見ると、そこには水神・水虎様が二体。水虎様には、河童型のものと女神型のものがありますが、ここの水虎様は、何となく両方を合わせたような姿形をしていました。
この祠から、「天幕」の下を参道が続いています。鳥居をくぐり、歩いて行くと社殿がありました。まるで緑のトンネルの中を歩いているような感じです。
この藤の古木は「尊殿堂三本藤(そんでんどうさんぼんふじ)」と呼ばれていますが、説明板には次のように記されていました。
【尊殿堂三本藤の由来:天正のはじめの頃、津軽藩祖為信公が新田開発の志をいただき、御巡視のため現在の妙堂崎から卯の方一面に広がる芦原の中にひときわ高き大木の根元より一筋の煙の立ちのぼるを眺望し、そこ広須村に至らんと御乗馬のたずなを牽かせ、此処まで参られた時、お召馬が疲れはて倒れたのを公いたくあわれみ、ながく新田開発の神と祭らんと背負いたる弓矢を取り、馬頭観音と書いた塔を建て、持ちたる藤のむちを植えられ、あつくこれを葬られたという。これが尊殿堂三本藤の由来で、以来、当地方開発の神ならびに神木として尊崇されてきたものである。】
この津軽為信の地方巡視の話は柏正八幡宮の縁起でも語られていますが、旧森田村、木造町、柏村の辺りは新田開発が盛んに行われた地域で、農民たちの苦労の様子は民謡の弥三郎節でも謡われています。
◇尊殿堂三本藤









「三本藤」は、津軽為信が愛馬供養のために植えた「藤のむち」が根付いたという伝承がその由来となっていますが、各地の古木には同じような伝承をもつものが数多くあります。
いくつか挙げると、
◇おいらせ町根岸の大イチョウ
昔、慈覚大師が、諸国巡歴の途中この地を訪れ、立てた杖に根が生えて大イチョウになった。
◇五所川原市喜良市の十二本ヤス
昔、弥七郎と呼ばれる若者が、勇を鼓して山の魔物を退治した際に、供養のためにヒバの苗を植えたものが奇怪な大木となった。
◇青森市浪岡羽黒神社の杉
昔、京都からやってきた姫君がこの地の美人川で化粧をしたとき、杉の小枝を折ってお歯黒をつける楊枝として使った。それをお堂の前にさしていったのが大木となった。
◇つがる市稲垣の一本タモ
昔、ある殿様がこの地で道に迷い、杖にしていたタモの枝を地上にさして目じるしにした。それに根がついて生長した。
- なかなか面白い伝承ばかりです。




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五所川原市立図書館『五所川原市の地名』(※PDF版)には、中泉地区について、
【中泉は、正保二年(一六四五)の「津軽郡之絵図」・「郷帳」、慶安年間(一六四八~五一)の「御郡中絵図」に名がみえる古い村です。貞享四年(一六八七)「検地水帳」には瀬良沢村枝村深井の分として、五八町歩余、四二〇石余、屋敷(戸数)一二となっています。
慶安二年(一六四九)、中泉の新田開発に従事した一人に辻村の金四郎(後斎藤姓)がおり、三〇石の知行を与えられています。また小山内孫助は明暦三年(一六五七)中泉に三〇石の知行地が与えられました。これらのことから中泉は下級藩士の小知行によって開発された村といえます。】と書かれています。
小知行(しょうちぎょう、こちぎょう)とは、津軽藩で新田開発に功のあった下級武士を指しますが、これらの人々によって拓かれた農村のようです。集落は十川(※岩木川の支流)沿いに立地しているため、長年にわたり水害に悩まされてきたとされており、開拓には相当難儀をしたと思われます。
- そんな中泉の集落に鎮座しているのが稲荷神社です。
一の鳥居のそばに簡潔な由緒書きがありますが、それによると、
【御祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 稲荷宮一宇 元和二年(一六一六)頃勧請 貞享年中(一六八四~八七)村中にて再建。明治四年四月梅田熊野宮へ合祭の処、明治八年四月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 】とありました。年代からみて、新田開発の成就と五穀豊穣を祈念して建立された社のようです。
拝殿の前には、狛犬と稲荷様の神使のきつねがそれぞれ一対。両者ともにほっかむりをしています。いかにも西津軽の神社という感じです。
豊穣祈願の表れなのでしょうか、拝殿の屋根の下には米俵を思わせる大きな注連縄。いかにも重そうです。
古くから地域の産土社として信仰を集めてきた神社らしく、境内には二十三夜塔や庚申塔、馬頭観音碑などが立っていました。小さな祠があったので中を覗いて見たら、紫の衣をまとった女神型の水虎様がいました。この水神が大切に祀られているのは、やはり、かつて何度も水害に見舞われた地域だったからでしょう。
◇中泉稲荷神社









帰り道、赤い鳥居がぽつんと立っている場所が見えたので立ち寄ってみました。
前には黄金色の田んぼ、後ろにはりんご畑、そんな場所こんもりとした森があります。
一、二、三と赤い鳥居が立っていますが、二の鳥居と三の鳥居の間に「平淵大明神」と書かれた白い木柱がありました。森の中はその社のようです。鳥居をくぐって林の中に入って見ると、そこには神池をともなった社殿がありました。
この「平淵大明神(ひらぶちだいみょうじん)」は、「中泉」という村名の由来と関係しているとされる社で、
【平淵大明神:十川の左岸新十川橋の近く、林の中にある清水がわいている泉、シツコがそれです。旧四月二一日に平淵大明神に参詣し、神に祈りを捧げ、「さんご」を打って米の作柄の豊凶や身の上を占います。平淵の水は眼病とか頭やみとかその他種々の病気にも効能があるといわれています。
宝暦五年(一七五五)には参詣者があまりにも多く、村人により賽銭の奪い合いがあったほど祭りが盛んでありました。そのため藩の沙汰に及んだことが「弘前藩庁日記」や『永禄日記』に記録されています。
江戸時代後期、津軽の名跡、旧跡などを記した地誌「津軽地名考」に中泉が取り上げられています。中泉は当時津軽の名所の一つでかなり名が知られていたものと思われます。※五所川原市立図書館『五所川原市の地名】と紹介されています。
- 「中泉」の「泉」はこの明神様に由来している分けです。それにしても、たいそうな賑わいだったようですが、この地域の「十和田様(水神を祀る信仰)」として崇められていたのでしょうか。
今はその季節ではないのか神池(泉)には水はありませんでしたが、社殿の中の祭壇には多くの参拝者の方々の名前がありました。崇敬の厚さは昔から変わっていないようです。
◇平淵大明神




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大鰐町が現在の町名である「おおわに」と文書などに記されるようになったのは、大浦(津軽)為信による津軽統一以後のことだといわれています。
「鰐」は大きな山椒魚のことで、昔、「鰐」が棲んでいたという伝説がその由来とされていますが、町内には「鯖石(さばいし)」や「虹貝(にじかい)」という地名などもあります。鯖も貝も「海(水)」に関した名前で、とても面白いのですが、その虹貝地区に白山神社が鎮座しています。
この神社は、虹貝川が流れる「虹貝新田」という集落にありますが、現在はりっぱな道路が通っているものの、昔は谷川沿いの狭隘な土地だったと思われます。峡谷を「峡(かい)」と読む用法もあるようですが、虹貝の「貝」は「狭」から来ているのかも知れないと思ったりします。

「白山神社」という扁額が掲げられた鳥居の奥へ進むと、いったんそこで行き止まりになります。参道はそこから少し右側にあり、小高い山の上へと続いていますが、境内は見ることができません。
この「行き止まりの場所」に大きな木の切り株がありますが、根元には、ぽっかりと大きな穴が空いており、その前には祭壇がありました。
社殿の中には、この大木の前で行われた神事の写真が飾られていました。かつては何かしらいわれのある御神木だったのでしょうか。いったんここで立ち止まり、拝み、身を清めて参拝せよ・・ということなのだと思います。この神社の「聖なる場所」なのでしょう。
◇参道登り口




距離は短いものの、なかなか手ごわい曲がりくねった登りでした。しばらく歩いて行くと社殿が見えました。
中には参拝者の幟や奉納絵馬や額などが掲げられていますが、相当に古いものもあり、昔からの由緒ある神社だということが分かります。
壁に簡潔な由緒書きが掲げられていましたが、それには、
【御祭神:伊邪奈岐尊 伊邪奈美尊 由緒 虹貝村白山岩屋 同鳥居白木角柱 元和元年在建立】とありました。
「白山」という神社名からして御祭神は白山比咩神(菊理媛命)だと思いますが、伊邪那岐・伊邪那美の二柱の名があるところをみると、合祀その他で、熊野宮とも関連しているのかも知れません。いずれにしても、修験の影響があるのだと思われます。
また、「白山岩屋」とあるように、古くから「白山岩屋堂」と呼ばれ、信仰されてきた社を、元和元年(1615)に村人が再建したもののようです。
◇拝殿、本殿など




「岩屋堂」という名にふさわしく、本殿の後ろには大きな岩が重なり合っていました。それは大きな洞窟のようにも見えます。そして、文字通り、大きな岩が屋根のようになっている穴の中には、小さな祠があり、稲荷様や大黒天、石仏などが納められていました。「岩屋(洞窟など)」は、それ自体、神秘的なのですが、やはりそこは「神仏が宿る場所」として崇められているのでしょう。
◇社殿後ろの岩屋




◇今までに訪れた岩屋




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少し前になりますが、西目屋村方面へ出かけた時に岩屋観音へ立ち寄りました。津軽三十三霊場の2番札所である多賀神社の本尊・千手観音は、もともと、ここに祀られていたわけですが、現在でも参拝する人々は絶えないようです。私が訪れたときも何人かの方がお参りしていました。
岩木川の上流にあたる一帯は「目屋渓谷」と呼ばれ、津軽十景にも選ばれている所ですが、渓流沿いの断崖に据えられた赤い舞台が何とも印象的な観音堂です。

弘前市と西目屋村が境を接する辺りに多賀神社がありますが、神社を過ぎて家並みが途切れた所に赤い鳥居がぽつんと立っているのが見えます。車をとめて農道を少し歩いて行くと、ススキの穂に埋もれるような感じで鳥居がありました。
境内はこの鳥居をくぐって、参道を上ったところにありますが、神社の裏側には農道が通っており、その上にはりんご畑が続いています。作業をする農家の方の声が聞こえました。
拝殿の前には「八幡宮」と書かれた大きな碑と神馬が一体。そばには薬師様を祀る祠もあります。以前は狛犬もあったようですが、現在は風化のため、姿形が分からなくなっていました。
この八幡宮の由緒については分かりません。この辺り一帯は、かつて津軽家の家臣であった桜庭氏が所領していた地域で、陽光院という寺院があった所です。陽光院はその後、弘前市の禅林街に移されましたが(桜庭山陽光院)、この八幡宮の創建もまた、桜庭氏と深く関わっているのかも知れません。
◇桜庭八幡宮





八幡宮からの帰り道、高野山元という所に鎮座する好見神社に寄りました。
地図などで以前から目にしていた神社ですが、その由緒については調べても分かりませんでした。
この神社は地図の上では「好見神社」とありますが、拝殿の中の額には「明見神社」と書かれています。
「明見」は即ち「妙見」のことだと思いますが、北斗七星を象徴とした天空の中心をつかさどる「妙見大菩薩」は、「妙見さん」として古くから信仰されてきた仏です。
県内では、青森市の大星神社が、坂上田村麻呂が再建した妙見宮であったとされ、昔から崇敬を集めてきた分けですが、ここ高野山元の集落一帯も妙見信仰が盛んであったということでしょうか。御祭神は、多くの妙見神社と同様「天之御中主神」だと思われます。
境内は長い石段を登り切った所にありました。扉が開いていたので拝殿の中を拝むことができました。きれいに清められた拝殿は、集落の人々によって大切に守られてきた神社であることを伺わせます。境内には、草むらに隠れた庚申塔と二十三夜搭、馬頭観音の祠などもありました。石段の両脇に立つ狛犬の表情もなかなか個性的です。
◇好見神社








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☆つがるみち☆



「三本木原」とは、現在の十和田市を中心とする洪積台地を指しますが、一帯はかつて八甲田火山群の噴火による火山灰におおわれた荒れ地で、「木なんか三本と育たね」とされたことから、そう呼ばれました。
この不毛の地の開拓を志し、水源となる人工河川の開削を中心となって進めたのは新渡戸傳 (にとべつとう ※新渡戸稲造の祖父)という人物で、安政2年(1855)に工事着手し、難工事の末に完成させた水路が現在の稲生川の基となりました。
「実り豊かになるように」と願いをこめて命名された稲生川は、旧十和田湖町から太平洋岸まで続く人口河川ですが、この水路の完成により、荒涼とした台地は広大な水田地帯へと変貌した分けです。
十和田市の奥入瀬川沿いに位置する法量地区は、この稲生川の取水口がある町です。周辺からは縄文時代の土器などが発見されており、昔から大きな集落があったとされている所ですが、ここに法量神社が鎮座しています。
その由緒については、
【御祭神:高おかみ神 宝永五年 (一七〇八) 六月創立。 明治六年奥瀬村新羅神社に合祀されるが、 明治八年二月復社した。 明治九年十二月六日無格社に列せられる。 昭和十一年九月十日村社に昇格。 昭和二十四年十一月三十日国有境内地の譲与許可を受ける。 ※青森県神社庁HP】とあります。
「高おかみ神」は日本の代表的な水神ですが、県南地方でこの水神を祀る代表的な神社は八戸市の「おがみ神社」です。この神社は義経北行伝説も残る八戸市内で最古と言われる神社ですが、集落の農業用水などを賄っていた「柏崎堤」の守護神として創建されたといわれています。
この「おがみ神社」は正式には「法霊山おがみ神社」といい、「法霊神社」という通称で呼ばれています。その由来については、
【鎌倉時代に「法霊(ほうりょう)」という修験者が、熊野や京都の聖護院などで修行の後、東北地方から青森県内の様々な地域を説いてまわりながら八戸に戻った。・・・法霊が戻った時、八戸では日照り続きで作物の栽培に深刻な影響が出ていたため、農民たちは雨乞い祈祷に優れた法霊に依頼し恵みの雨を願ったが、寝食を忘れた命がけの祈祷の甲斐むなしく雨を降らせることができなかったという。それに心を痛めた法霊は池に自らの身を投げ、自身の命と引き換えに雨を降らせてほしいと願ったところ、とたんに法霊の御霊が龍に化身し天に登り、にわかに空に暗雲が立ち込めて恵の雨を降らせたと言い伝えられている。この御神徳に心から感謝した人々は御霊を法霊明神と崇め、法霊社という神社として祀った。】とされています。
- この八戸市の「おがみ神社(法霊神社)」と、ここ十和田市の法量神社との詳しいつながりについては分かりませんが、【青森県内ならびに東北地方に点在する法霊(法領、法量など様々な表記がある)という地名は、八戸に至るまでの間に修験者の法霊が説いてまわった地域で、密接な関係がある。】といわれているようです。
※【】はwikipediaからの引用です。
法量神社は、町を一望できる高台の上にあります。御祭神の「高おかみ神」は、稲生川開削の拠点となったこの地にふさわしい祭神といえるでしょうか。境内のそばには水力発電所もありました。地域の守り神として崇められてきたこの社の境内には、住吉大神の祠や二十三夜塔、八幡大神などの碑も立っていました。
◇法量神社









法量の町は日本第4位ともいわれる巨大なイチョウがある所としても知られています。
国道102号線沿いの法量の町の入口に説明板が立っていますが、道案内の石碑の図柄はイチョウ、ここの住所は十和田市法量字銀杏木・・・イチョウづくしです。
「法量のイチョウ」は、樹高がおよそ36m、幹回り14m、推定樹齢が1,100年ともいわれる巨木で、1926年(大正15年・昭和元年)には、国指定天然記念物となっています。
説明板などによると、
「平安時代、ここに善正寺という寺が開かれた。イチョウはその建立記念に植えられたとする伝承がある。また、十和田湖の主・八郎太郎と闘って、これを倒した南祖坊が手植えしたする伝承もある。」とのことです。
⇒ 南祖坊の伝説
案内にしたがって坂道を登って行くと、やがて暗い森が見えてきます。ここからは大イチョウは見えません。少し行くと、注連縄が張られた参道? がありました。そばには後生車も立っています。神社の中へ入って行くような感じです。
道の終点にその伝説のイチョウがありました。根元には八大龍王大神 の祠があります。十和田湖で入寂し、龍神となったとされる南祖坊に因んだものなのでしょうか。
大イチョウの木は太い幹から垂れるいくつもの気根の様子から、「乳もらいの木」「子安めのイチョウ」と呼ばれ、信仰を集めてきた分けですが、この法量のイチョウもまた、それにふさわしい大木です。高さ、太さ、枝葉の広がり具合など、神秘的な姿形をした巨木でした。
◇法量のイチョウ




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☆みちのくあれこれ☆



大鰐町から碇ヶ関へと向かう途中の唐牛地区に熊野宮(熊野神社)が鎮座しています。
唐牛には、かつて「唐牛館」という城が築かれていたとのことですが、いつも勉強させてもらっているHP「陸奥の城」には、【築城時期・築城主体とも不明。館主は南北朝期、義良親王を供奉して陸奥に下向した摂津源氏多田貞綱を祖とし、津軽の北条残党を討伐後、この地に土着したと推測される。室町期、多田氏は三戸南部氏の支配下に入ったが、後に大浦為信の津軽統一に与力し、その後、唐牛氏に改称した。】とあります。
津軽地方には「唐牛」という名字が多くみられますが、この多田氏(唐牛氏)の子孫にあたる家柄と思われ、江戸時代は津軽藩士で藩医を務めた家もあったとのことです。

この「唐牛(かろうじ)」という少し珍しい地名は、かつてこの地にあった「伽藍寺」に由来するとされていて、「伽藍寺(がらんじ)」が転化して「唐牛(かろうじ)」となったされています。
大鰐町は津軽地方の中でも仏教の伝来は早かった所で、「大鰐」という町名も「はるか昔、大きな阿弥陀如来像があることから大阿弥陀と呼ばれていた」ことに由来するといわれています。
また、町のシンボルである阿闍羅山は、古代から山岳信仰の対象になっていた山です。中世には、山頂に大日堂、不動堂、観音堂が建てられ、これらを含め「阿闍羅千坊」と称される修験の聖地だったとされていますが、阿闍羅山の麓に位置するこの唐牛地区も、かつては、大きな伽藍が立ち並ぶ所だったのでしょうか。
熊野宮は、そんな唐牛の集落の産土社として信仰を集めてきた神社ですが、その由緒については、
【御祭神:伊弉諾命 伊弉册命 由緒不詳ではあるが、 天正年間 (一五七三~一五九二)、 当社は阿闍羅山に建立されており、 その後当地に奉移された。 寛永十年 (一六三三) 村中にて再建される。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
国道7号線沿いに立ち並んでいる集落から細い坂道を上ると、やがて小高い丘の上に神社があるのが見えます。
一の鳥居をくぐって、石段を上るとその奥に拝殿が見えました。津軽特有のジャンバラ型の注連縄が張られています。拝殿の中には、多くの方々が奉納した供物や絵馬などがありました。地域の崇敬の厚さが分かります。
◇唐牛熊野宮




拝殿の後ろへと回ってみるとそこに本殿がありますが、ここにも狛犬がいました。なかなか広い境内で、社殿の回りには、庚申塔や薬師如来の祠などが立っています。
一の鳥居をくぐらず、右側へ進んだ所にも末社がありましたが、そこには馬頭観音が祀られていました。
◇庚申塔、末社など





境内の下に、廃校になった小学校の校舎が見えます。唐牛小学校の跡です。
この小学校は平成9年(1997)に、近くの長峰小学校へ統合されたため閉校となりました(少子化が進み、現在は、その長峰小学校他の小学校も統合されています)。
この熊野宮への参道は、かつて、子どもたちの通学路でもあった分けです。
古びた校舎の建物や草の生えた校庭などの跡地を見ていると、何となく感傷的になります。少し前までは、この校庭で運動会が行われ、子どもたちや地域の人々の歓声が響いていたのでしょう。現在の活用については分かりませんが、かつては夏祭りや秋祭りなども行われたのでしょうか。学校の上に鎮座している熊野宮は、そんな地域の営みを見守り続けてきた社です。
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☆つがるみち☆



【日本の古神道の由来の民間信仰・神道の根底には、あらゆる物に神・精霊や魂などのマナ(外来魂)が宿ると考える自然崇拝があった。マナは太陽、山河、森林、海などから来て物、特に石や木につくとされ、そのような物を祀る磐座(いわくら)信仰や神籬(ひもろぎ)信仰が始まっていった。そのようにして祀られる巨石・岩や高木には、現在も注連縄が飾られる。※wikipediaより】とあるように、巨石は巨木と並んで神々が降り立つ「依り代」の代表的なものです。
津軽の神社の境内にも大石に注連縄が張ってあるのをよく見かけますが、小さな祠の中を覗いて見ると、その中には自然石が御神体として納められていたりします。「石」に対する信仰のあらわれです。
巨石を御神体として祀っている神社としては弘前市の大石神社が知られていますが、境内や山上にある大石の前に祭壇が設けられている所もたくさんあります。石の大きさや形も様々ですが、青森市入内の石神様などの奇怪な姿を見ると、一種の「畏れ」を感じます。
このような巨石・大石が、太古から磐座として崇められてきた様子は、平川市山神社の「大石様」に古代人の線刻文が彫られていることからも分かります。山上の大石のある場所は、重要な祭祀が行われていた所でもあったのでしょう。
◇訪ねた巨石・大石





鯵ヶ沢中村町下清水崎の熊野宮を訪ねた帰り道、上清水崎の集落を通りました。青森県神社庁のHPによると、ここに大石神社が鎮座しているとのことなので、立ち寄ってみることにしました。
だいぶ迷ったのですが、集落の道路から坂道を上って行くと、白木の真新しい鳥居が立っていました。
鳥居からは、石段の参道が山の上へと続いています。林に囲まれた細い道です。登り終えた所に拝殿が立っていました。拝殿と向かい合った所が少し小高くなっており、そこに庚申塔が立てられています。
拝殿の扉が開いていたので、中を拝みました。祭壇があり、いくつかの社額や奉納された絵馬などが掲げられていました。
◇大石神社




「大石神社なのだから、どこかに巨石が祀られているはずだ」と思い、うろうろしながら拝殿の後ろに回ってみたら、そこからさらに小高い丘に向かって登りが続いていました。そして、その上には、赤銅色の狛犬が一対あって、真ん中に祠が建っていました。どうやらここが本殿のようです。
登っているときには気づかなかったのですが、その祠の後ろにひとつの大きな石が立っていました。文字通り、「自然の中に立っている」という感じで、いかにも神々が降り立つ神聖な磐座を思わせます。表面に何やら線のようなものが見えますが、自然にできたもののようです。
ここの大石神社の由緒については、
【御祭神:高皇産霊神 神皇産霊神 享保五年 (一七二〇) 四月講中にて勧請し、 昭和二十二年四月から氏子一同崇敬、 昭和四十五年七月本殿・拝殿建立認可される。※青森県神社庁HP】とあります。
御祭神に造化の神である高皇産霊神と神皇産霊神を祀っているのは、弘前の大石神社と同様です。弘前大石神社の巨石は、神域と現世(人間界)との結界とされていますが、ここの大石も同じなのだと思います。古くから村の人々に崇められてきた大石なのでしょう。
◇本殿と大石




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☆つがるみち☆

