のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 大鰐町   Tags: つがるみち  

「未」から「申」へーつがるみち342


大円寺


 師走に入ってから、それなりの冷え込みはあったものの、雪のないクリスマスでした。
 このままの天気が続けばいいなと思っていましたが、やっぱり冬は冬。暮れも押し迫ったここにきて、ようやくまとまった雪が積もりました。
 それぞれの町や村の神社やお寺も「お清め」が終わり、「新年を待つばかり」といった感じですが、津軽には「一代様」という風習があります。

平川市神宮寺の大日如来


◇津軽一代様
【一代様とは、藩政時代から続いている自分の生まれた年の干支を守り神とする信仰のことです。現在も津軽では、子供が生まれた時の初宮参り、受験、就職等の人生の節目、初詣や厄年の参拝など、それぞれの一代様へお参りしたり、干支の絵馬を奉納したりするという風習が定着しています。※弘前タクシーHP他より
 自分の生まれた年の干支にしたがって、例えば「午年生まれの守り本尊は勢至菩薩で、一代様は黒石の袋観音堂(白山姫神社)」という風に決まっているのも大きな特徴です。
 今年の干支は「未」でしたが、来年は「申」です。「未・申」の守り本尊は大日如来で、一代様(参拝の寺社)は大鰐町の大円寺になります。






◇大円寺
【大円寺(大鰐町蔵館、高野山真言宗大圓寺)は、津軽では「大鰐の大日様」として篤い信仰を集める名所です。
 大円寺の起源は、奈良時代、聖武天皇の国分寺建立に際し、本尊大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置したことに始まります。後に大安国寺は荒廃し、鎌倉時代建久2年(1191)、阿闍羅山千坊(せんぼう)と称された「高伯寺」(円智上人建立)に移奉されました。
 慶安3年(1650)、津軽三代藩主・信義が鷹の病気平癒を祈願したところ、病は治り、これを喜んだ信義は、本尊を京都で補修させ、同年に御堂を現在の場所(大円寺のある場所)に建立、「神岡山(じんごうざん)高伯寺」と号し、高伯寺と本尊を移安。以来、津軽家代々の崇敬を受け、江戸時代末期まで「大日様」として信仰を集めてきました。
 明治4年(1871)、神仏分離の際、弘前市から大円寺が移り、「高伯寺」から「大円寺」となりました。本尊の大日如来座像(本来は阿弥陀如来像ですが何故か古くから大日如来と呼ばれている)は国指定重要文化財となっています。※大鰐町HPより

 名刹だけに訪れる人も多く、特にお正月は初詣の人々で大変賑わいます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

水木在家大山祇神社ーつがるみち341


庚申塔


 9月の終わり頃、弘前市相馬(旧相馬村)の「水木在家」という所に鎮座する大山祇神社 を訪ねました。
 神社へ向かう途中に、庚申塔と二十三夜塔がいくつか並んで立っている場所があります。
 道路の端に、大小合わせて七、八基ほどの塔がありましたが、そばに立てられている説明板によると、「相馬村には、ここにあるような庚申塔が十五ヶ所に二十五基ある」と書かれていました。旧村内の中でも、ここは数多く塔が立っている場所のようです。


大山祇神社


 大山祇神社は、その庚申塔のある場所からさらに山手へ進んだ所にありますが、坂道を登って行くと、右側に細い下り坂があり、そのそばに大きな鳥居が立っているのが見えます。
 白い一の鳥居と二の鳥居をくぐると赤い三の鳥居があります。そこから参道が続いていて、境内へと出ますが、広い境内の一番奥に拝殿と本殿がありました。

「森の中」といった感じの境内には、大きな狛犬が一対と二十三夜塔などが立っています。「御遷座記念」と彫られた石碑のとなりには、鮮やかな朱色の祠がありましたが、その中には龍に乗った神様が一体祀られていました。後ろ側に池らしきものがあったので、この祠は龍神宮のようです。

 この神社の由緒については、
【御祭神:大山祇神   当社は現鎮座地附近一帯に築城せし桜井玄藩の舘神として創立せられ、 廃城後も附近住民の氏神として尊崇を受け、 明治十二年六月村社に列格する。 昭和二十年十二月、 神道指令により内務省の管轄下を離れ、 昭和二十一年二月神社本庁に所属。 昭和二十二年四月五日、 宗教法人令に基き宗教法人として新発足し・・(以下略)※青森県神社庁HP】とあります。

 一帯の住所は「水木在家桜井」ですが、由緒に「桜井玄藩の舘神として・・」とあるところをみると、「桜井」という地名は、この桜井氏に因むもののようです。
 境内の由緒碑には、「伝ふるに文治三年(一一八七)桜井玄藩館を新築せんとせす時、一夜夢に白雲東方よりたなびく中に甲胴を著けたる霊神十二顯出せり。仍て社殿造立せしと云ふ。その後慶長三年(一五九八)六月十二日当村氏神に崇敬す」と書かれていました。

◇大山祇神社
 
  
参道
境内
末社
拝殿


  
二十三夜塔
狛犬
龍神
本殿





「水木在家(みずきざいけ)」という、一風変わった地名の由来ですが、文字通り、かつてこの地に「水木氏の家(相馬水木館)が在った」ことに因んだものとされています。
 水木氏は浪岡北畠氏の類族であるとされています。
 即ち、北畠顕信(きたばたけあきのぶ:北畠顕家の弟)の子孫は浪岡に入部し、居館を構え、「川原御所」と呼ばれましたが、水木氏の祖は、これにつながるものといわれている分けです。
 戦国時代には、水木氏は北畠氏の重臣として水木館を築くなど、大きな勢力を持っていたようですが、ここ相馬の地も、そのひとつだったのでしょうか。

 また、旧相馬村には長慶天皇御陵墓参考地があり、長慶天皇に関する伝説が残っていますが、「14世紀半ば、長慶天皇とともに武将・水木監正の一族が津軽へ落ち延びてきた」という話も伝えられています。
 水木氏は長慶天皇崩御の後、現在の大鰐町付近に移り住んだとされていますが、ここで語られている水木氏と「水木在家」の主であった水木氏・・同じ苗字とはおもしろいですね。

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武甕槌神社ほかーつがるみち340


大黒天


 道路沿いに赤い鳥居を伴った祠、地蔵堂、注連縄が張られた庚申塔や二十三夜塔、百万遍塚など・・津軽ではよく見かける光景です。
 つがる市木造(旧木造町)は、そんな場所が特に多いところで、道端にたくさんの碑や祠が立っています。9月に千代田という集落沿いを走っていた時に、たくさんの石碑が立っている場所をみつけました。
 道路沿いに、赤い鳥居と二本の松の木があって、その奥に小さな祠や庚申塔、石仏が彫られた碑、大黒様の像などがあります。
 後ろには広々とした田んぼ。私が立ち寄ったときは既に刈入れも終わった後でしたが、これらの碑や石仏は「豊作祈願」のためにここに置かれたものなのでしょう。向かい側には、八幡宮が鎮座していました。

◇石碑群と千代田八幡宮

  
庚申塔など
庚申塔など
千代田八幡宮
山の神



武甕槌神社


 そんな木造町の越水神山という地区に武甕槌神社があります。同じ越水地区ということもあって、先回取上げた高倉神社の後に寄ってみました。
 木造町は日本海に近いこともあって、湿地帯が多く、十三湖方面に向かう一帯には大小の沼が数多く点在しています。
 この神社の近くにも大きな沼(名前は不明)がありました。農業用の溜池としても活用されているのでしょう。

 集落の中心部に鎮座しているこの神社の由緒については、
【御祭神:武甕槌神 経津主神 大己貴命 少彦名命   検地水帳によると延宝四年社殿建立とあり、 元文時代には観音堂、 毘沙門堂が 「宮建有之工藤備後抱」 とあることから両堂も工藤備後が祭司していたことがうかがわれる。 明治六年吹原村社天満宮に合祭、 同七年復社、 同八年村社に列せられる。 明治四二年二月神饌幣帛料供進に指定される。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「元文時代、工藤備後が祭司・・」という文言は、近くの高倉神社や吹原天満宮の由緒にも出てきます。工藤氏については不明ですが、藩命を受けて、この地域の祭祀を司っていたのでしょうか。

 入口には月夜見大神と猿田彦碑などが立っていて、その奥に社殿があります。
 由緒に「元文時代には観音堂、 毘沙門堂が・・」とありますが、拝殿は瓦屋根を思わせる造りで、境内の末社には石仏などが納められている他、小さな五重塔などもあり、どことなく神仏混合の名残を感じさせる社です。

◇武甕槌神社

  
境内
月夜見大神ほか
末社
拝殿


  
狛犬
石仏
五重塔
本殿



拝殿


 御祭神の武甕槌神(タケミカヅチ)は、「刀剣の神、弓術の神、武神、軍神」で「相撲の神」としても信仰されていますが、「建御雷神」や「建雷命」とも書かれるように「雷神」でもあります。
「雷」は雨を呼ぶことから、民間信仰では、武甕槌神は稲作に欠かせない水をもたらす神、雨乞いの神、水神として祀られてきました。この神社においても、武甕槌神を祀ることによって五穀豊穣を願ったのだと思います。
 
 この神社には武甕槌神と大己貴命(大国主神)が共に御祭神として祀られていますが、この二柱の組み合わせは少し面白いというか興味深い感じがします。

 どちらも五穀豊穣をもたらす神様ではありますが、『国譲り神話』では、武甕槌神は、アマテラスの命により出雲の伊耶佐小浜に降り立ち、「十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、その切っ先の上に胡坐をかいて、大国主に対して国譲りの談判をおこなった」ことになっています。
 その結果、大国主は国を譲って隠れる分けですが、この神話が意味するところは「国譲り」ではなくて「侵略・征服」であったと考えられています。

 そういう意味からすると、武甕槌神と大国主の関係は「征服した側とされた側」、いわば「勝者と敗者」になる分けです。ですから、二神を共に祀っているのは少し奇異な感じがしますが、これもまた、村の繁栄を願う村人の「知恵」といったところでしょうか。即ち、
「どちらも大切にお祀りいたします。ですから、いきさつ(国をめぐる争い)は忘れて、仲良く、この村をお守りください」みたいな。。

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会津武家屋敷にてーみちのくあれこれ8


会津武家屋敷


 夏に会津若松市を訪ねたときに、会津武家屋敷に行ってみました。十数年ぶりです。
 有名な観光スポットなので今さら何ですが、この武家屋敷は会津藩家老・西郷頼母邸を復元したものです。西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務め、1700石取りの家柄でした。
 復元された邸宅は、敷地が約400坪、部屋数38、表門、表玄関、御成りの間、茶室、槍の間、客待の間などが再現され、当時の武家の生活の様子を伺うことができます。

 戊辰戦争の悲劇を今に伝える会津にあって、ここの武家屋敷は飯盛山などのように、その悲劇を直接伝えている建物ではありません。ただ、復元された「西郷一族自刃の間」などを見ると、人形だと分かっていても、やはり胸がしめつけられます。

◇会津武家屋敷

  


  



西郷頼母


 西郷頼母近悳(ちかのり)は、会津藩家老であったにもかかわらず、その事績や人となりについて、あまり多く語られる人物ではありませんでした。
 私たちには「滅びの美」みたいなものに惹かれるところがあって、「敗者」に対して同情的な面があります。殊に、敗戦を覚悟しながらも果敢に戦い、散った人物・・・例えば、湊川の楠正成や大阪の陣の真田幸村、函館戦争の土方歳三などの姿に一種の「潔さ」を感じ、共感を覚えたりします。
 会津戦争でいえば、白虎隊の少年たちや中野竹子と娘子隊、斎藤一と新選組、あるいは山本八重や佐川官兵衛などに比べて、西軍に対して「恭順」を説く頼母の姿はいかにも「弱腰」に映ります。さらには、妻・千重子をはじめ、一族全員が落城を前にして壮絶な自刃を遂げたということもあり、頼母は、「よくもおめおめと・・卑怯者」と蔑まれたこともあったようです。

 ですが、近頃、会津戦争を題材にしたTVドラマが放映されたり、関連した書籍が数多く出版されたりしたこともあってか、西郷頼母に関しても、その人物像が見直されてきたようです。

 頼母と会津戦争との関りを簡単に整理してみると、
○文久2年(1862)、藩主・松平容保の京都守護職就任に対して、混乱した世の中の流れや財政等藩の現状を理由に強硬に反対・諌止する。結果、容保に拒絶され、家老職を免ぜられ、藩政から外される。以後5年間、若松郊外に蟄居。
○慶応4年(1868)、鳥羽伏見での敗戦を受け、戦場が会津に移ったときに再び家老職に復帰。「白河口の戦い」に総督として派遣されるが敗退。情勢を冷静に分析し、ここでも和議恭順を主張するが、藩論が徹底抗戦で固まっている中、頼母は異端者扱いされ、西軍の領内突入がまじかに迫った緊急時にも関わらず、再び、免職・閉門となる。
○鶴ヶ城籠城戦が始まると再度復帰し、戦いに参加。この頃になると、容保をはじめ重臣たちは和議恭順を考えていたが、それを聞いた頼母は激昂したといわれる。
【既にして同僚中、或いは和を唱ふる者あり。頼母之に謂って曰く、「卿等前に余が和議を排しながら、今日に至って和を説くとは何ぞや。部門の恥辱は城下の盟より大なるはなし。※『会津戊辰戦史』より
 - 今までさんざん自分の意見を却下しておきながら、この期に及んで和議を図るなどもってのほか、武門の恥である。こうなったら徹底抗戦し、一同切腹、藩をあげて玉砕だ - 頼母の積年の鬱憤が爆発した分けです。
 この頼母の叫びは他の家老の讒訴を招き、結局、頼母は鶴ヶ城を追放されますが、一説には頼母の身を案じた容保の配慮によって脱出したともいわれています。

 その後、西郷頼母は函館戦争に参加し、降伏後に幽閉生活を送った後、神職として日光東照宮などに奉職します。後半生は塾長として子弟教育に携わったりするなど数奇な人生を送った分けですが、終焉の地はやはり妻・千重子など一族が眠る会津でした。

 主君に対しても物おじせず、歯に衣をきせない物言いをする頼母の態度は、他からは「傲岸無礼」と映ったようですが、頼母にしてみれば「もともと西郷家は藩祖・保科氏の一族であった」という自負心があったのでしょう。

 いずれにせよ、頼母の度々の諫言は、今からみると、時の流れを冷静に分析し、大局的な立場から、真に藩の行く末を憂いたものであったといえそうです。また、城を去る前の激昂ぶりからは、軟弱どころか気骨ある会津武士でもあった様子が伺われます。
 総じて、西郷頼母は、己の信ずる忠義を貫きながらも、時代に受け入れられなかった悲運の宰相であったといえるでしょうか。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  

越水高倉神社ーつがるみち339


湯舟高倉神社
 
北浮田高倉神社
 
日照田高倉神社




 上の写真は鯵ヶ沢町にある津軽三十三観音霊場で、左から、
◇湯舟観音堂 (6番札所)
◇北浮田弘誓閣(7番札所)
◇日照田観音堂(8番札所)      です。

 実はこれらの観音堂、三つともに神社名は「高倉神社」となっていて、訪ねたときは少しびっくりしたものでした。
 鯵ヶ沢町は「高倉」と名のつく神社がとても多い所で、青森県神社庁HPには鯵ヶ沢町の「高倉神社」が7社紹介されています。特定の地域に、これだけ同名の神社が存在するということはとても不思議です。


越水高倉神社


 9月の上旬に、五所川原から鯵ヶ沢方面へ向かって、国道101号線を走っていたとき、道路沿いにひとつの神社を見つけたので立ち寄ってみました。
 後で地図を見て確かめたところ、ここはつがる市の「越水」という地区であることが分かりました。
 越水は鯵ヶ沢町と境を接する集落で、すぐ隣の鯵ヶ沢の北浮田町とつながっています。

 神社の入口の社号標には村社 高倉神社とあります。住所は「つがる市木造」なのですが、地理的にみて、周辺に点在する「高倉神社」のひとつと考えてもよさそうです。

 一の鳥居のそばに、文字のかすれた木柱があって「○○杉」と書かれていました。かつては名物の大杉があったのかも知れません。境内は、大木こそないものの無数の杉の木が生い茂っており、神社全体をすっぽりと包んでいるような感じです。私が訪ねたときは雨上がりだったので、その緑がとても鮮やかでした。
 一の鳥居、二の鳥居と進んで行き、右側に折れた所に社殿が立っています。社殿のそばには、稲荷様などの小さな祠が並んでいました。

 境内の一角に、庚申塔や二十三夜塔が並んで置かれていますが、二十三夜塔には女神を思わせる像が刻まれていました。
 私は、二十三夜塔については分かったようでよく分からなかったので、あらためて調べてみると、
【月待塔(つきまちとう)は、日本の民間信仰。特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中で、供養の記念として造立した塔である。月待信仰塔ともいう。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられる。※wikipediaより】とありました。
 月待信仰の崇拝の対象は、「十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、そして二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀った」とされていますが、ここに描かれた「女神像」も勢至菩薩なのでしょう。

◇越水高倉神社
 
  
境内
末社
末社と本殿
庚申塔ほか



  
狛犬
石灯籠
本殿
二十三夜塔



柴田高皇産霊神社


 この高倉神社の由緒については、
【御祭神:高皇産霊命  検地水帳によれば元文以前に鎮祭ありと記され、 「堂建有之工藤備後」 とあることにより、 お宮が建てられ工藤備後が祭司していたことがうかがわれる。 明治六年森田村床舞村社八幡宮へ合祭 同七年復社、 同八年村社に列せられ、 同二年二月神饌幣帛料供進に指定される。※青森県神社庁舎HP 】とあり、その詳細は分かりませんが、元文の頃(1736ー1740)には既に村の信仰を集めていた社のようです。

 御祭神の高皇産霊尊(タカミムスビ)は、神話では天之御中主神、神産巣日神ととも高天原の「造化三神」のうちの一神であり、別名「高木神」とも呼ばれます。
 津軽にも高皇産霊尊を祀る神社(※写真はつがる市柴田の高皇産霊神社)がありますが、興味深いことに、ここ越水の高倉神社をはじめ、前述した鯵ヶ沢の高倉神社の主祭神は、全て高皇産霊尊です。

 出雲国譲りや天孫降臨の物語などでは、高木神はアマテラスとともに最高神・司令神として描かれます。そのことから、「邪馬台国=高天原だとすると、卑弥呼=天照大神で、魏志倭人伝に出てくる”男弟”は即ち高木神のことである」とする説もよく知られていますが、「高木神」という名称は元々は文字通り「高い木」が神格化されたものだとされているようです。

「高木」は神霊が依り憑く「依り代」で、津軽には祖霊の住む山・岩木山から降臨する神々を崇める神社が多くありますが、鯵ヶ沢付近に点在する高倉神社もまた、そのような社だと思われます。

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黒石神明宮ーつがるみち338


黒石陣屋絵図


 黒石の御幸公園内に幕末の頃の黒石陣屋周辺を描いた絵図があります。
 絵図には陣屋を真ん中にして、浅瀬石川から現在の市内に向けて「上ノ坂」と「下ノ坂」という二本の坂道が続いている様子が描かれています。
 今は、「上の坂」と並行する形でもう一本の坂道「新坂」が通っており、「新坂」は三本の坂道の中では最も交通量の多い道路になっています。
「新坂」と比べると、静かな佇まいをみせる「上ノ坂」と「下ノ坂」は、昔ながらの情緒を残す坂道だといえるでしょうか。


黒石神明宮


 この三本の坂道の上りの終点付近、市内へ入る手前にはいずれも神社が置かれています。
 ⇒三つの神社
稲荷神社・黒石神社・神明宮

 即ち、「下ノ坂」には先回お伝えした「黒石稲荷神社」があり、「新坂」には黒石藩の藩祖・津軽信英を祀る「黒石神社」、そして、「上ノ坂」側には「黒石神明宮」が鎮座している分けです。


参道


 黒石神明宮の入口、一の鳥居のそばに由緒書きが立っていますが、それには、
【起源不明なるも文禄年間 (一五九二~一五九五)、 第百七代後陽成天皇時代現地にすでに小祠があったと伝えられているが、 それは或いは正保年間 (一六四四~一六五一)、 津軽三十三観音の二十六番目の札所となった黒石観音堂ではなかったかと思われる。 寛延四年 (一七五一)、 「津軽三十三所順礼」 によれば二十六番黒石とある。】と記されています。
 津軽三十三観音霊場の26番札所は、現在はこの神社の近くの法眼寺になっていますが、法眼寺の縁起の中にも「明治2年の大火により、(神明宮にあった)観音堂が消失したため、札所は自然消滅したが、その後、霊場巡り復活に伴い、26番札所となる」とあり、ここが元々の観音堂であったことが分かります。

 また、黒森山浄仙寺は、是空という修行者が黒森山を霊地と定め、寺を建立した分けですが、
「その当時は、みだりに寺を創建することは許されなかったが、黒石藩側の特別なはからいにより、黒石の上ノ坂(現在の神明宮付近)の廃庵状態にあった、浄仙庵の“再興”という名目で、黒森山への開山が許された。※黒石市HPより」と伝えられており、黒石の名刹のルーツもここにあったことが分かります。

◇黒石神明宮

  
境内
拝殿
拝殿内
児童公園から


 御祭神は主祭神が「天照大御神」で、相殿神が「松尾大神」「住吉大神」「牛頭天皇」「天神」となっていますが、由緒にも、
【堂一間四面西むき、 前に一間に二間の拝殿あり、 住吉大明神の堂あり、 牛頭天王の堂あり、 二間に三間の神楽殿あり、 神明宮あり、 天神の堂あり、 松尾大明神の堂あり、 この所を上の坂という。
 天和二年 (一六八二) 九月十六日、 黒石藩主津軽信秀公願主となり武運長久子孫繁栄領内安穏の為、 家老発田茂太夫城代澤井直右衛門を遣はし奉行、 町年寄、 棟梁等を督励して本殿、 神楽殿を建設し藩主の御祈願所とし永代御神楽を勤めさせた。 明治二年五月十四日黒石町大火により焼失。 同十二年新築す。 】と書かれていて、多くのお堂が立ち並んでいた往時の様子が偲ばれます。

「上ノ坂」は、碇ヶ関、大鰐、平賀(平川市)など浅瀬石川南部から青森方面へと向かう往還路で、藩政時代には黒石の繁華街に通じる坂道でもありました。神明宮付近には、前述の多くの堂宇をはじめ、寺子屋などもあったとされており、当時の宗教・文化の中心地であったようです。

  
獅子頭
狛犬
祈願札
冬囲い


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 秋田県   Tags: みちのくあれこれ  

本宮神社ーみちのくあれこれ7


黒又山


 10月の初め頃に、秋田県鹿角市大湯の「大湯環状列石(ストーンサークル)」に行ってきましたが、そのときに近くの黒又山(くろまたやま)に登ってみました。
 黒又山は標高が約280mと、さして高い山ではないのですが、きれいな三角錐の形をしており、道路からもすぐにそれと分かる特徴のある山です。
 その姿形から青森県五所川原市の靄山などとともに、「日本のピラミッド」ともいわれ、超古代史へのロマンをかきたてている山でもあります。

 登山道の入口にある説明板(※私は見つけられませんでしたが・・)には、
【この山は、ピラミッド説が強く神秘につつまれた山です。人工的に積み上げた山ではないが、人の手で削り取り形を整えて、山霊を仰ぎ多くの人々の信仰を深め、祭儀を行なった山とされています。 地元の人々は昔から、この山を、クロマンタ山、又はクルマンタ山と読んでいます。大昔から、この地方は蝦夷地であったのでクルマンタ山も蝦夷語で解説すると次のようになります。
「クル」とは神、又は普通でない人間の事。
「マクタ」とは野の事(マンタはマクタの転訛と思われる)。
「キシタ」とは山の事。
「クルマクタキシタ」すなわち神野山となり、これがクロマンタと呼ばれるようになったと思われます。
 黒又山の名は後で付けられたものですが、ともかく古代の遺跡ストーンサークルをはじめとして、多くの神仏が祀られている野原に立つ山、そして深い神秘の中に多くの信仰を集めた山で、ピラミッドと言っても不思議ではありません。今もなお、信仰深い山「神野山」であり、すなわち現在の黒又山なのです。】とあります。

 ネットなどで「黒又山」で検索すると、「ピラミッド」だとか「レイライン」、はたまた「UFO」などという言葉がたくさん出てくる山ですが、以前には学術調査が行われ、山頂で縄文後期から続縄文期に渡る祭祀用土器が多数発見されたり、地中に人工構造物がある可能性が指摘されたりしています。
 ピラミッド云々はともかく、この山は、近くのストーンサークルとともに、古代人にとって、聖なる祭祀の場であったように思えます。


本宮神社


 この黒又山の山頂に本宮神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:大己貴命 誉田別命 火武主比命 保食神  創立年代不詳。 社伝によれば、万治己亥2年に中通四ヶ村一同にて、大己貴命を祭神とする神社を建立したとされる。別伝によれば、阿倍貞任の一門の本宮徳次郎が、薬師堂を建立したのが、創祀といわれる。本宮神社の社名は、明治以降のものである。※秋田県神社庁HP】と書かれています。

「別伝によれば・・・」とありますが、由来を記した説明板には、
【十世紀末頃、俘囚の長として成長した豪族安倍貞任は、この地に及ぶ程の強力な支配勢力をもっていたと言われる。安倍一門の中に本宮徳次郎という医者がいた。本宮は、安倍の従者として蝦夷地に移ってきたのであるが、草深い鹿角に来て薬草の生い繁るこの地に安住の場所を求めたのである。 その時、安倍の守り神である清水観音、八幡大菩薩、帝釈天を背負ってきたとされる。 安倍の守り本尊である帝釈天を庚神として現在地にまつり、これより巽の方角(草木八幡堂)に八幡大菩薩を、丑寅の方角(大円寺境内)に清水観音をまつったのである。 更に自ら庚神を守りながら、医者の守り神である薬師如来を一心に信仰し、四方はるか遠くからでもお参りできるよう、この黒又山頂に薬師堂を建立した。】とあります。 - 「本宮」という神社名は、この本宮徳次郎に因んだものなのでしょう。


 登山道の入口に「本宮神社」という扁額が掲げられた鳥居が立っていて、そのそばには大きな猿田彦碑(庚申塔)がありました。碑の前には三猿(みざる、きかざる、いわざる)が刻まれた石も置かれています。
 登山道が即ち参道という分けで、山頂まで至るには、杉木立に囲まれた細道が延々と続きます。時間にすればそれほどでもないのでしょうが、先の見えない曲がった道はけっこう疲れました。

 山頂には、お堂がぽつんと建っていて、その前に祠がふたつ。この社の前身は「薬師堂」と由緒にありますが、社殿には確かに「薬師神社」と書かれていました。社殿の中は古寺を思わせる雰囲気です。
 この神社、明治になって本宮神社と改称されましたが、昔も今も「お薬師さん」として親しまれ、厚く崇敬されているとのことです。

◇本宮神社

  
社殿
末社
社殿
祭壇



  
猿田彦碑
参道
石仏
社殿内


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

黒石稲荷ーつがるみち337


久須志大神


 黒石陣屋跡(黒石城址)は現在は「御幸公園」という公園になっていますが、その下を一本の用水堰が流れています。
 浅瀬石川から水を引いたこの堰は「宇和堰(うわぜき)」と呼ばれ、領内の水田開発の基となっていましたが、一方では、もうひとつの堰である「小阿弥堰」とともに、陣屋を防御する「堀」の役目も負っていたとされています。

 この宇和堰のそばに、赤い鳥居をともなった小さな社・久須志神社(久須志大神)があります。詳細は分かりませんが、御祭神は少彦名神と思われます。小さなお堂と神馬、そして地蔵堂がある可愛らしい社です。

 ここには「御穀水」と書かれた石碑が立っていて、その井戸が現在も残っていますが、石碑の脇の方に「花山院忠長」の名前が見えます。
 黒石は花山院忠長にまつわる伝承が数多く残る町ですが、かつて、忠長もこの社を詣で、通りを歩いたということなのでしょうか。

 久須志大神からは坂道が上の方に延びていて、市内(大工町)へと続いていますが、この坂は「下ノ坂」といって、藩政時代には両脇に武家屋敷などがあった所です。

◇久須志大神

  
下ノ坂古図
地蔵堂
御穀水碑
花山院忠長




公園側の鳥居


 久須志大神の向かい側には石段があり、稲荷神社の境内へと続きます。裏側(公園側)にも鳥居があり、扁額には「稲荷神社 八幡宮」と書かれていますが、そこのあたりの由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  (配祀)譽田別尊   草創年月は不詳だが、 当初黒石村支配の内に黒石稲荷と称えて三尺四方の小堂があった。 黒石村中にて産土神として崇敬し、 文安三年 (一四四六) 九月十日、 秋覚と申す者を別当にして初めて勧請す。
  慶安四年 (一六五一) 五月、 黒石村などで拝殿、 鳥居を新規に増築す。 元禄四年 (一六九一)、 寂照院境内三十間四方の内に社殿を建立、 現今の社地へ遷座し、 爾来、 御家門繁栄の祈願所として黒石藩の藩費を以て維持、 社殿の改修造営がなされた。 以後、 境内に八幡宮社堂をも建立、 両社の祭事を年々執行したが、 明治初年に八幡宮御祭神を稲荷神社に合祀した。 明治六年四月、 社格郷社に列せられる。※青森県神社庁HP 】とあります。

「下ノ坂」の方には石造りの立派な鳥居があり、社号標の傍らには庚申塚が置かれていました。石灯籠の手前には御神木の大イチョウの木がありますが、なかなかの大きさです。広い境内には神馬やきつね像などがありました。高台にある境内からは、浅瀬石川や岩木山を望むことができます。

◇稲荷神社

 
稲荷神社
庚申塚
境内から
御神木
境内



 由緒にも書かれているように、古くから「黒石稲荷さま」として崇められてきた社ですが、やはりここにも花山院忠長卿が深く関わっており、江戸時代初期に忠長が黒石に配流になった際に「稲荷宮」として、この地に遷座したと伝えられています。
 忠長がその罪(後陽成天皇の女官と密通した罪)を許されて黒石の地を去った後、明暦2年(1656)に津軽信英に黒石領5千石が与えられ、黒石陣屋が築かれる分けですが、その後、この稲荷宮は黒石津軽家の祈願所となりました。「弘前藩領と黒石領との境界を決める際、稲荷神が関わった」という話も残されているように、この社は黒石陣屋の「館神」として崇敬を集めていたようです。


 
拝殿と八幡宮
拝殿
拝殿
木鼻
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

蒔苗稲荷神社ーつがるみち336


稲荷神社一の鳥居


 弘前市の蒔苗(まかなえ)は、後長根川に沿って開けた集落で、その中央部を県道41号線が走っています。
 ここにはかつて「蒔苗館」という平城が築かれていたとされていますが、その概要は、
【規模は東西80m×南北120mほどで、周囲を堀で囲んだ典型的な在地勢力の方形居館と推測されます。築城時期・築城主体ともに不明。通説では文明年間(1469-86年)、南部氏が津軽支配のため鼻和郡に配した十二館城衆のひとり蒔苗新兵衛の居館とされています。※HP「陸奥の城」より】とあります。
 地名の「蒔苗」はこの蒔苗氏に因んだものと思われますが、ここに稲荷神社が鎮座しています。


狛犬


 その由緒については、
【御祭神:宇迦之御魂命  当社の創立詳かならざれども、 蒔苗を拓きたりと言伝えられる蒔苗八右衛門 (約七百年前頃) の御祈祷所の宮とある記録 (安政二年神社微細社司由緒調書上帳) より見れば、 其の頃の草創と見ゆ。
 当地方に於ける社堂縁記社堂書上帳 (元禄十五年、 宝永元年、 宝暦九年、 安政二年等) に当社の名称の記載あるが故に其の存続を見る。 当神社に保存さる御棟札によりて、 時に依る補修造営等ありて、 祭祀の絶えざりしを恩はしむ。 ※青森県神社庁舎HP】と説明されています。
 なかなか格調高い由緒書きですが、ここにも蒔苗氏の名前が出てくるところをみると、「蒔苗館」の館神として勧請された社であるといえそうです。

 この神社は道路沿いに鎮座している分けですが、境内から田んぼが見渡せる小高い丘の上にあります。石段を登って境内へ入ると、広い敷地に拝殿や本殿をはじめ、多くの石碑や末社などが並んでいるのが見えます。
 本殿の隣には八幡宮、さらにその隣には白山神社。様々な時代に、いろいろな人々が信仰する神様を祀ったのでしょう。それは八幡様であったり、白山信仰の菊理媛神だったりした分けですが、総じて村の産土社として崇敬を集めてきた神社と思われます。

◇稲荷神社境内

  
拝殿
本殿ほか
白山神社
末社



 境内には大きな狛犬や稲荷様のお使いのきつねなどの他に、「正一位稲荷宮」と記された石碑や祠などがあります。由緒に「時に依る補修造営等ありて、 祭祀の絶えざりしを恩はしむ」とありますが、これらは修築・造営のときにその都度建てられたものなのでしょうか。
 
 この修築や造営の事業には、大変難儀をしたようで、庚申・二十三夜塚の隣に立っている記念碑の由来には次のように書かれていました。
【古来我村社地は 西北方は平坦なるも東南方は断崖にして 是か修築事業は多年氏子の念願なるも其機を得す 此を遺憾とし單身私財を以て数千円を投し 間地土止工事を施し 社地の風致を改変したるのみならず 神社の壮厳更に一段を加へたり 此の人即ち蒔苗松氏なり 氏は本村に居を有し土木建築の請負を業とし 敬神の思想特に深く常に其鼓吹に努む 氏子の人相図り碑を建て氏の高徳を記し以て永久に傳へんとす】

 由来に出てくる「蒔苗松氏」は、戦国期の蒔苗氏の一族の流れを汲む人物だったのでしょうか。いずれにしても、社の修築及びこの地の開発は難事業であったことを伺わせる記述です。

 
社号標
神馬と力士顕彰碑
きつね
きつね
庚申塚ほか


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  水虎様  

姥萢稲荷神社ーつがるみち335


本殿のきつね


 貞享4年(1687)、津軽藩は行政機構の改革を行い、領内を25に分割した「組」を設置しました。
 五所川原市域は「柏木組」「広田組」「飯詰組」「金木組」「藤代組」に属していましたが、「広田組」には、本村23カ村、枝村5カ村の計28カ村があり、その中に「姥萢村」の名前があります。
 姥萢(うばやち)は、国道101号線と339号線沿いに開けた集落で、五所川原市の繁華街にも近い所にありますが、ここに稲荷神社が鎮座しています。
 一の鳥居を見たとき、少しギョッとしました。本来ならば扁額が掲げられている所に、何やら不思議な固まりがあります。

 何かのお面のようにも、豊作祈願の米俵の跡のようにも見えますが、とても奇妙な形をしていて、しかも朱色で塗られているために、その正体は分かりません。西北津軽地方の神社には、鳥居に「鬼っコ」を掲げている神社も多いのですが、これもまた、かつては「鬼っコ」だったのでしょうか。

 この神社は交差点付近にあり、境内からは五所川原市の市街地を見渡すことができます。一の鳥居のそばにもうひとつ赤い鳥居が立っており、そこには庚申塔や二十三夜塔、百万遍塚などが置かれていました。
 割とこじんまりとした境内ですが、稲荷様のお使いのきつね像や狛犬、忠魂碑などがあります。拝殿の中には入れませんでしたが、窓越しにその中が見えました。

◇稲荷神社

  
一の鳥居
庚申塔ほか
境内
拝殿



本殿のきつね


 この神社の由緒については、
【御祭神:保食神  創建年代不詳。 『安政二年神社微細社司由緒調書上帳』 に 「広田組姥萢村 一、 正一位稲荷宮一宇 右、 草創年月不詳候得ば明暦年中 (一六五五~五八) 村中安全之為建立仕候」 とある。
  明治九年十二月村社に列せられる。 明治四十三年本殿造営。 大正二年指定神社に列格せられる。 昭和二十五年一月国有境内地無償譲与許可。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 また、『北津軽郡神社誌』には、
【勧請年月不詳、安政六年四月、日本稲荷総本宮愛染寺より稲荷社神璽(※しんじ:神社の祭神の御印)頂戴・・・】とありました。愛染寺は、伏見稲荷大社に附属して建てられた仏教寺院(神宮寺)です。
 いずれにせよ、この神社は五穀豊穣と村落繁栄の祈願所として、信仰を集めてきた社のようです。

 稲荷神社らしく、境内には狛犬よりも大きなきつね像がありました。また、本殿を覗いて見ると、そこにも一対のきつねが置かれています。

 境内の中に、石をくりぬいた形の祠がありました。「水神宮」と書かれています。長方形にくりぬかれた穴の中には、一体の神様が祀られています。両手を合わせた女神型の水神・・・どうやらこの神様は水虎様のようです。

◇きつね、本殿、水虎様

  
境内のきつね
本殿
水神宮
水虎様


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

ゆうゆうと「高照神社」-つがるみち334




 岩木山神社へ詣でた帰り道に、ちょくちょく立ち寄るのが高照神社です。弘前方面へ初詣に出かけるときは、たいていこの二つの神社を訪れます。
「津軽藩の名君」として名高い4代藩主・津軽信政公を祀るこの神社は、岩木山神社とともに、最も津軽氏の崇敬が厚かった社でもあります。
 宝物殿には、初代・為信が豊臣秀吉から拝領されたという名刀「友成の太刀」をはじめ、貴重なものが数多く収められていて、「津軽藩300年の歴史」が眠る蔵としても知られています。
 本殿をはじめとする建物の多くは国の重要文化財に指定されていますが、社殿の奥から続いている杉木立を見ながら小道を進むと、信政公の御廟所に至ります。途中には名水「御茶の水」などもあり、なかなか趣のある参道です。




◇高照神社
【高照神社の創建は不詳ですが古くから春日四神(武甕槌命・伊波比主神・天児屋根命・比売神)を祀る小祠があったと伝えられています。
 津軽家は南部家の一族である久慈氏出身とされ、本来は源氏(南部家の祖)の氏神、八幡神を崇敬していましたが、南部家からの独立に際し、自らの祖を藤原氏とした為、藤原氏の氏神、春日神(春日大社の分霊)を祀る必要性があったと思われます。 
 特に弘前藩4代藩主津軽信政は吉川神道の創始者である吉川惟足に師事し、高岡の地に社殿を再建する計画を立てました(高岡の地は弘前城から西方にあたる為、東西軸に社殿を配置すれば弘前城を見下ろせる位置関係となっています)。
 しかし、信政は宝永7年(1710)に計画半ばで弘前城で死去した為、5代藩主信寿が引き継ぐ事になり、信政の遺言に従い神式の霊廟を小祠の背後と定め吉川惟足から授けられた神号「高照霊社」を社号としました(享保15年に高照神社と改称)。
 境内の伽藍配置は吉田神道の教えに基づき東西方向に建物が一直線に並ぶ独特な配置であり、現存社殿としては全国唯一と言われています。
 高照神社には現在でも多くの建物が残されており本殿、西軒廊、中門、東軒廊、拝殿、幣殿、随神門、廟所拝殿、廟所門、津軽信政公墓、太刀(銘友成作・平安末~鎌倉初期)、太刀(銘真守・鎌倉時代)が国指定重要文化財に指定されている他、津軽信政着用具足、高照神社刀剣類(11口)、高照神社奉納額絵馬(54枚)、が青森県重宝に指定され数多くの社宝が弘前市指定文化財となっています。※HP「青森県・歴史・観光・見所」より抜粋


  



  


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  巨石と神石  

浅瀬石羽黒神社ーつがるみち333


羽黒神社


 黒石市浅瀬石は、その名の通り浅瀬石川沿いに開けた集落ですが、その中心部に羽黒神社が鎮座しています。
 拝殿の入口に、
ー 「村中のもといの 羽黒様 参る心は 後の世のため」 - 
という手書きの歌が掲げられていましたが、「村のもとい(基)」という言葉が示しているように、この社は古くから村の産土社であり、村民の崇敬を集めてきた神社のようです。

 十和田湖方面へのバイパスができるまでは、この神社のある道路がいわば「表通り」でした。住宅が立ち並ぶ道路沿いに一の鳥居があり、となりは長寿院という浄土宗のお寺になっています。
 鳥居をくぐって中に入ると、境内には猿田彦の碑や神馬、狛犬、社務所、末社などがありますが、拝殿の横には大きな土俵があります。この土俵では「子どもの心身を鍛え、地域・家族のつながりを深め、五穀豊穣を祈念する」ために、例年、子ども会相撲大会などが行われていて、例大祭の奉納行事となっています。
 拝殿の建物や、その内部、本殿などは朱色がとても鮮やかで、美しい神社です。拝殿の中に、顔(頭部)が隠された二体の像が祀られていましたが、どうやらこれはオシラ様のようでした。

 この羽黒神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 誉田別命  延暦十三年(七九四)、 坂上田村麿により勧請され、 寛治 七年(一〇九三)、 八幡太郎源義家が守兵を遣わせ国家安泰、 武運長久を祈ったと伝えられる。
 建長四年(一二五二)、 初代浅石城主千徳行重が再興以来、 千徳家代々厚い信仰を寄せ、 しばしば御社殿を修築し、 田村羽黒宮と尊称し、 領内第一の大社として殷賑を極めた。 しかし、 慶長二年 (一五九七)、 浅石城落城と共に灰塵に帰したが、 同四年、 大浦為信により再建され、 浅瀬石村の氏神と定められた。 当時の鎮座地は、 旧浅石城の寺社屋敷にあり、 村落から離れていた為、 宝永七年(一七一〇)現在地に奉遷された。
 明治三年、 羽黒神社に改称、 高賀野村八幡宮を合祀し、旧浅瀬石村の村社となった。※青森県神社庁HP 】とあります。

◇羽黒神社

  
参道
境内
拝殿
拝殿内



  
一の鳥居
拝殿入口
村中の・・
オシラ様



雄石と雌石


 拝殿の左側(向かって)に大きな木があり、その根元には特徴のある大石が二個。
 この二個の大石の名前は「雄石・雌石」といいますが、そばに立てられている説明板には、
【その昔、浅瀬石城主千徳氏は栄華の限りを尽くし、その繁栄は、この地方の独特の文化と信仰の聖地を形成したといわれております。
 慶長二年、浅瀬石城が戦禍で灰燼にきした時、浅瀬石城本丸の横の中庭に大事に保管され、浅瀬石の産土神として崇め奉られておりました汗石が、ここに安置されている雄石・雌石だといわれております。本来、浅瀬石の呼称は「汗石」だということが「汗石御領内社宮調上書」に記されており、それによりますと、現在の浅瀬石川が汗石川であり、それが室町中期頃、名称が浅瀬石川に変えられたと言い伝えられております。】と書かれていました。

 神社の由緒や、この「雄石・雌石」の説明にも書かれているように、かつての浅瀬石は千徳氏の居城があり、黒石地方の中心地として栄えた所ですが、やがて、津軽統一の波に呑み込まれ、城は落城、千徳氏は滅びました。
 - 「雄石・雌石」は、そんな地方史の証人であり、また、「浅瀬石」という地名の源でもあった分けです。

 この由緒ある大石・・・落城以来、行方不明だったようですが、説明板には続けて、次のように記されていました。
【落城の時、杳としてその行方がわからなかったのが今回(昭和六十二年より)浅瀬石羽黒神社造営工事の際、偶然に楓の根元から発見され、ここに再び世上の注目を浴びることとなりました。古よりの言い伝え通り、形体・風格は昔のままそのとおりといわれております。】

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どっしりと「岩木山神社」-つがるみち332


岩木山神社


 今の季節、津軽の各神社ではやがてやってくる冬将軍に備えて、準備の真っ最中。
 雪に押しつぶされないようにと、鳥居の補修やら拝殿や本殿、樹木などの雪囲いなどが行われています。
 建物や大木の下には「落雪注意」、参道には「歩行注意」などの立て札も立てられ、冬季の参拝者の安全に留意しています。年末・年始を控え、神社も「大いそがし」といったところでしょうか。「津軽の霊地」岩木山神社は、冬支度もあらかた終わり、「どーんとこい」といった感じで、どっしりとしていました。
 



◇岩木山神社
【御祭神:顕国魂神 多都比姫神 宇賀能賣神 大山祇神 坂上刈田麿命   昔から 「お岩木さま」 「お山」 と親しんで呼ばれ、 陸奥津軽の開拓の神、 農海産物の守護神、 また祖霊の座すところとして崇められている。 今から約一二〇〇余年前、 宝亀十一年 (七八〇年) 社殿を岩木山頂に創建したのが当社の起源であり、 延暦十九年 (八〇〇年) 征夷大将軍坂上田村麿これを再建し、 別に山麓十腰内の里に下おり居ゐの宮みやを建立して、 山頂を奥宮と称し、 寛治五年 (一〇九一年) 神宣により下居宮を現在地に奉遷。
 その後、 世々の地頭・領主何れもがよく崇敬の赤誠をつくし、 江戸時代には津軽藩主為信・信牧・信義・信政により大造営が行なわれ、 近代には崇敬者の熱意を集めて、 建造物、 諸施設とも整い、 名実ともにその偉容を誇り、 畏き辺りも日本の北門鎮護の名社として、 農業・漁業・商工業・医薬・交通関係、 とりわけ開運福の神として、 色々の宗派を越え、 深い信仰の源として厚く崇敬されている。 ※青森県神社庁HP


  



  


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少彦名神社ーつがるみち331


少彦名神社


 弘前市を走る県道41号線沿いに船水という地区がありますが、ここに少彦名神社が鎮座しています。
 岩木川に沿った道路を進んで行くと、その鎮守の森が見えるのですが、「見えるけれどもたどり着けず」という感じで何回も付近をうろうろしました。
 やっとたどり着きましたが、社殿のそばには地区の集会所が。。はじめから、この集会所を目指していれば・・・こんなことはしょっちゅうです。

 この神社は、一の鳥居の前方は広い田んぼになっていますが、私が訪ねたときは9月の半ばだったので、刈り取り前の風景が広がっていました。一方、神社の後ろは住宅地になっています。

 入口付近には、大きな庚申塔や石仏などがまとめて置かれています。一の鳥居に架かる注連縄は金属製のもので銀色に光っていました。二の鳥居の奥の拝殿は横長で、どっしりとした構えの建物です。

 一の鳥居の注連縄の隣には、これまた銀色に光る金属製の草鞋。氏子の方々が奉納したものなのでしょうか。二の鳥居の両脇に一対の神馬像がありますが、二体ともに台座が失われており、少し痛々しい感じがしました。

◇少彦名神社

  
庚申塔ほか
一の鳥居
拝殿
境内




  
奉納草鞋
神馬
神馬
本殿



青森市見道寺の薬師如来


 この神社の由緒については、
【御祭神:少彦名神  当社は、 明治以前に於ては船水村薬師堂と云われていたが、 明治に入ってから少彦名神社と尊称されていた。 明治七年八代村羽黒神社廃社にともない合祀する。 明治三十九年幣帛供進神社に指定される。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 御祭神の少彦名神は謎の多い神様ですが、
【スクナビコナ(スクナヒコナ)は、日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神の子とされる。大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した。 『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。※wikipediaより抜粋】といわれ、一般的には「国造りの協力神」とされています。

 また、「医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神」など、多くの顔を持つ神様とされていますが、津軽にも少名彦命を祀る神社や祠は数多くあります。
 
 私が訪ねた所では、弘前市の熊沢神社と平川市の阿蘇神社は共に坂上田村麻呂伝説が残る(少名彦命が現れ、田村麻呂の眼病を治したなど)神社ですが、御祭神は少彦名神です。また、弘前市相馬の淡嶋神社も、「淡島様は少彦名神と同一神」とされていることもあり、やはり少彦名が御祭神となっています。さらに、黒石市板留の少名彦神社は、花山院忠長が温泉の効能に感謝して建立した神社といわれています。 - いずれも、「医療の神・少彦名」を崇める社です。

 少彦名命は薬師信仰が広まるにつれて、薬師如来と習合されていく分けですが、この船水の少彦名神社の由緒に、かつて「船水村薬師堂と云われていた」とあるように、「薬師」と名のつく堂宇は津軽各地にも建立されたようです。
 前述の熊沢神社の住所は「薬師堂」、阿蘇神社の住所は「薬師沢」、淡島神社は「薬師平」・・・これらの地名は、かつて、その地域に「薬師」と呼ばれるお堂があり、薬師信仰が盛んだったことを思わせます。

◇熊沢神社、阿蘇神社、淡島神社、少彦名神社

  
弘前市熊沢神社
平川市阿蘇神社
弘前市淡嶋神社
黒石市少彦名神社


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ひっそりと「白山姫神社」-つがるみち330




「袋の観音堂」と呼ばれ、津軽三十三霊場の27番札所である黒石市の白山姫神社。
 温湯温泉の近くに鎮座するこの社は「午年生まれの津軽一代様(守り本尊)」ということもあり、多くの人々が参詣に訪れる神社です。
 小高い山の上に社殿があるため、参道の登り口には参拝者用の杖なども置かれています。境内までは、右、左、右、左と曲がりくねった参道が続き、けっこうきつい登りです。私も初めて登ったときは、途中に立っている三十三観音の数を数えながら休み休み登りました。
 今回、久しぶりに訪れてみましたが、名物の大イチョウの葉っぱもすっかりなくなり、冬の装い。参道も境内もひっそりと静まり返っていました。


◇白山姫神社

【御祭神:伊邪那美命 菊理姫命   大同年間 (八〇六~八一〇)、 坂上田村磨将軍が観音様のお姿を袋に入れ、 大木の枝にかけ、 武運長久を祈願した故事にはじまり、 後にお堂を建立し、 観音様を祀り、 国家安泰・万民豊楽を祈ったと伝えられている。
 文明年間 (一四六九~一四八七)、 南部光政が再建し、 延徳元年 (一四八九) には、 浅石領内十七社に加えられ、 元亀二年 (一五七一)、 千徳大和守政氏が社殿を改築し、 領内の大社として殷賑を極めた。
 慶長二年 (一五九七)、 浅石城落城と共に廃社となり、 数年間荒廃していたが、 寛永四年 (一六二七)、 袋村の住民等が産土神として再興し、 袋の観音堂と称せられた。 藩政中期には、 津軽三十三霊場二十七番札所に指定され、 又、 午年生まれ一代様として、 津軽一円に親しまれている。 明治以来、 袋観音堂を白山姫神社と改称し、 今日に至っている。 ※青森県神社庁HP


  



 


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うっすらと「浄仙寺」-つがるみち329




 地元の新聞記事によると、今年は例年よりも里の初雪が遅かったのだとか。。
 先日、朝起きてみたら庭にうっすらと雪が積もっていたので、雪景色を期待して黒森山の浄仙寺へ行ってみました。
 下手な写真をバシャバシャ撮っていると、住職さんらしき方が話しかけてきて、
「昨日はほんとにきれいな雪景色だった。今日は少し(雪が)とけてしまった。」と言っていました。
 それにしても、ついこの間まで、「紅葉真っ盛り」といった感じでしたが、境内はすっかり冬の佇まいです。やがて、辺り一面銀世界になるのでしょう。


◇黒森山浄仙寺


【浄仙寺は、文政7年(1824年)是空行者が開山(黒石来迎寺良諦の弟子)。寺宝、本尊、阿弥陀如来立像(恵心僧都作と伝えられる)。
 是空は中野不動尊境内の洞窟にて断食修行中『これより北の方清泉の湧き出たるところにて修行されよ』との霊告により、黒森山中に至り、清泉(現在本堂脇にある)を見付け、終世陰遁修行の地と定め、後に浄仙庵と号し、明治8年浄仙寺となる。
 二世寂導行者は、文政8年(1825年)13才にして是空の弟子となり、専ら浄教を修し、師を助けて当寺の開拓整備に尽力され又学僧としても誉れ高く、92才にて入滅した。幼少よりよく仏像を彫刻し、一刀彫数千躰に及び、博く信者に施され、遠くは北海道・秋田までも分布されたといわれる。
 四世明空は、明治3年教師補を拝命し、寺小屋「黒森学校」運営に専念し、津軽一円より学を志すもの多数ここに学ぶ。政治、経済、有名人多数を輩出している。
 明治40年明空本堂を新築。昭和19年火災により本堂、庫裡全焼し、昭和41年本堂を再建し現在に至る。※黒石観光協会HPより



  




  


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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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