
弘前市取上(とりあげ)は、昔は「取挙」とも書かれ、戦国時代から見られる地名ですが、江戸時代には、弘前城下から秋田領へ抜ける羽州街道沿いを中心に集落が形成された所です。
ここには、かつて津軽藩の刑場が設置されていましたが、『国日記(※弘前藩庁日記:津軽藩の藩政記録で、江戸で書かれた「江戸日記」に対して、弘前で書かれたものをいう)』には、「寛文4年(1664)に火罪による刑が取上にて執行された」とあります。
「取上」という名前は、「首を取り上げる」という、この刑場跡に因んだものという話もありますが、一方では、産婆さんが「子どもを取り上げる」ということから来たともいわれています。「先ず地名ありき」で、いずれも「取上」という名前からの連想のようです。

そんな取上の集落に貴船神社が鎮座しています。
その由緒については、
【御祭神:闇おかみ神 当神社は 寛文四年勧請、 同村地内三嶽十八番地に鎮座奉斎し、 産神守護神として、 深く敬仰し来るにある処、 参拝の便利の爲に明治十三年同所より同村地内豊田一二六番地へ社地引換の儀出願のところ同年四月十四日許可となり、 明治十四年六月二十六日遷座せるものなり、 自来、 村民篤く之を崇敬し現代に至る。※青森県神社庁HP】とあります。
重複しますが、一の鳥居のそばに立っている由緒書きには、
【取上町内の産土(ウブスナ)の大神(地域お守り下さっている神ということ)貴船神社は寛文4年(1664年)319年前勧請せられ三嶽18番地に鎮座されたもので守護神として深く敬仰されておりましたところ参拝者の便宜を与えるため明治13年豊田126番地へ社地引換えの儀出願のところ明治13年6月26日御遷座をおこなって以来地域内の篤い崇敬を受け今日にいたっております。御祭神は闇おかみ神(クラオカミノカミ)通称龍神様であります。農業をはじめ業務繁栄家内安全開運厄除諸難退散の御神徳のある神社であります。御本社は京都市左京区鞍馬貴船町貴船神社旧官幣中社であります。】と書かれていました。
龍神様を祀っている社らしく、拝殿内に掲げられている奉納絵馬には、龍を描いたものもありました。
◇拝殿ほか





境内には稲荷神社があり、赤と白の頬かむり姿の子ぎつねがいました。
となりが馬頭観音の祠で、石碑を囲んでいるお堂の壁には、馬のわら人形などが納められています。横には、青い前掛けをした石仏が何体か並んで立っていました。
ところで、「取上村には、かつて座王堂地と稲荷社地があった」とされていますが、この「座王堂」が現在の貴船神社の前身のようです。
座王堂(蔵王堂)は蔵王権現をまつる仏堂のことですが、
【蔵王権現は、日本独自の混淆宗教である修験道の本尊である。正式名称は金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)。インドに起源を持たない日本独自の仏で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。※wikipediaより】とあります。
菅江真澄は、「陸奥のならわしとして、どこの浦、どこの山里でも、熊野の神様をまつる行事のはじめに、獅子頭を持って踊るということがある。そして、その獅子頭をひたすら権現様と言っている。」と津軽を訪ねた際の紀行文に書いていますが、ここ取上もまた、昔は修験道が盛んな土地だったように思われます。そのことを示すように、祭壇には権現様(獅子頭)が祀られていました。




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板柳町太田は、町の中心部へ向かう県道276号線沿いにある集落ですが、ここに月讀神社が鎮座しています。
神社の境内に「月読命」と書かれた石碑が立っているのはよく見かけますが、同名の神社は、津軽には多くある分けではありません。
この神社は、その中のひとつなのですが、一の鳥居の扁額には「月讀神社」、社号標には「月夜見神社」とありました。
境内は道路沿いにあり、周りを住宅に囲まれていますが、一の鳥居のそばには、赤い鳥居が二つ並んで立っています。それぞれの鳥居の奥には馬頭観音と庚申塔、猿田彦の碑がありました。
境内には、御神燈と狛犬、神馬がそれぞれ一対ずつ置かれています。ちょっと奥目の狛犬と眠そうな目をした小太りの神馬ですが、拝殿の木鼻とともに、とても表情が優しくユーモラスです。
その由緒については、
【御祭神:月讀命 草創不詳。 明治六年深味八幡宮に合祭したが、 その後分離し復社した。 月読神社または月夜見神社とも書き、 北向きの社である。
御神体は仏像 (牛頭天王) と神像 (素戔嗚尊) の二体で、 神仏混淆時代のものと、 神仏仕分け (明治四年) 以後のものと二体になっている。 この地方では、 子の年生まれの守神として信仰されている。 ※青森県神社庁HP】とあります。詳細は不明ですが、由緒にあるように、かつては牛頭天王を祀る社だったようです。
◇月讀神社









御祭神の月読命(ツクヨミ、ツキヨミ)については諸説ありますが、
【『古事記』ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。※wikipediaより】とされ、一般的には太陽を象徴する天照大神と対になって、「月の神」「夜を統べる神」と考えられています。
ですが、姉のアマテラスや弟のスサノオのように、神話にはあまり登場せず、どちらかといえば影の薄い神で、ツクヨミを祀っている神社は、アマテラスやスサノオに比べて、はるかに少ないといわれています。
『日本書紀』には、【天照大神から保食神と対面するよう命令を受けたツクヨミは保食神のもとに赴く。そこで保食神は饗応として口から飯を出したので、ツクヨミは「けがらわしい」と怒り、保食神を剣で刺し殺してしまう。保食神の死体からは牛馬や蚕、稲などが生れ、これが穀物の起源となった。天照大神はツクヨミの凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになった】とあります。
いわゆる「食物の起源」を物語る神話ですが、『古事記』では、同様の話が、ツクヨミがスサノオに、保食神が大気津比売神(オオゲツヒメ)として語られているところから、ツクヨミとスサノオを同一視する説もあるようです。
ここ月讀神社の由緒に「御神体は仏像 (牛頭天王) と神像 (素戔嗚尊) の二体」と書かれているように、牛頭天皇は素戔嗚尊と習合していたため、その社は、神仏分離の際に素戔嗚尊を祀るようになりました。その多くは「八坂」や「廣峯」という神社名になったのですが、ここが「月讀神社」となったのはツクヨミ=スサノオという認識があったからなのかも知れません。

また、由緒に「北向きの社である」と書かれていますが、神社の社殿の方角は基本的に南向き、次いで東向きが多いとされています。(にわか勉強ですが)これは「天子南面す(天皇は南に面して君臨する)」という思想によるものだそうで、要するに「尊い神様」は北を背にして南向き、または西を背にして東向きに祀るのが正しいとされている分けです。
ですが、ネットなどで調べてみると、各地には「北向きの社」もけっこう存在しています。その中には北向きにする「いわれ」を持つ社もありますが、多くは地理的条件が関係しているようです。それにしても「北向きの社である」ことが強調されているところをみると、この神社の配置は、津軽地方でも珍しいということなのでしょう。
面白いのは、この神社が「子の年生まれの守神として信仰されている」ことです。十二支を使った方位では「子の方角」は「北」。「北向きの社に対する信仰」から「北(子)の方角を尊ぶ風習」が生まれ、「子年の守り神」となっていったのでしょうか。
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津軽地方に「春日」と名のつく神社は、数多くある分けではありません。
青森県神社庁HPには、深浦町北金ケ沢の一社、弘前市葛原(旧岩木町)の一社、そして青森市田茂木野の一社が、御祭神に天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る「春日神社」として紹介されています。実際にはもっとあるのかも知れませんが、巡っていないので。。

つがる市稲垣町(旧稲垣村)の豊川という地区に鎮座する春日神社もそのひとつです。
旧稲垣村は、明治22年(1889年)に千年村、吉出村、沼館村、穂積村など九つの村が合併してできた村ですが、その中に豊川村の名前もあります。
これらの集落は、岩木川沿いに広がる低湿地帯で、かつては再三川の氾濫に悩まされてきた所ですが、稲垣町に点在する2,000体もの化粧地蔵は、水害等で亡くなった幼子の霊を慰めるために置かれたともいわれています。
豊川の集落も、すぐそばまで岩木川が迫っており、現在は長い土手の上を県道43号線が走っています。春日神社は、この道路から急な坂道を少し下った所にあり、その周りは田んぼに囲まれていました。
その由緒については、
【御祭神:天児屋根命 享保三年九月二十七日に産土神として勧請す。 明治六年四月に木造町出野里鎮座の神明宮に合祭される。 明治七年十二月に復社する。 ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細については分かりません。
「春日神社」と書かれた小さな木札(扁額)が架かっている赤い一の鳥居の奥に境内があります。参道には、新旧の御神燈や神馬、狛犬などが並んで立っていました。
訪ねた時期が昨年の12月下旬だったので、境内を覆っている樹木の葉っぱもなく、がらんとした感じでしたが、それだけに、辺りの木に縦横にからみついている藤の蔓の姿が目につきました。特に、社殿の横のものは巨大で、そばの木に巻きついている様子は、まるで「龍」を思わせます。
境内に赤い屋根のお堂がありましたが、その中を覗いて見ると、3体の神仏が大切に祀られていました。
右側(向かって)のものは不動明王だと思われますが、真ん中と左側のものは、両手を合わせた河童姿の水神・水虎様でした。黒、青、緑色に塗られた色鮮やかな姿です。
「岩木川を境にして、その西側の水虎様は主に河童型のものが多い」といわれていますが、確かに、この春日神社は岩木川の西側に鎮座しています。
◇春日神社









さて、御祭神の天児屋根命は、神話では、
【春日権現、春日大明神とも呼ばれる。岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、古事記には中臣連の祖となったとある。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。※wikipediaより抜粋】とされていますが、拝殿の中には、その天岩戸隠れの場面を描いた大きな絵馬が掲げられていました。
天児屋根命は藤原氏(中臣氏)の氏神ですが、津軽藩初代藩主・為信は、豊臣秀吉の時代に、南部氏からの独立を図るために、近衛前久の猶子となり、「藤原姓」を名乗り、本領安堵が認められました。
そういういきさつもあって、津軽家では、春日神(春日大社の分霊)を祀る必要性があった分けですが、弘前市の高照神社には、古くから春日四神(武甕槌命・伊波比主神・天児屋根命・比売神)を祀る小祠があったと伝えられています。また、弘前市には「春日町」という町がありますが、その町名は、かつてその地にあった「春日宮」に因んだものとされています。
ここ豊川の春日神社もその創建については不明ですが、津軽氏の領地であったことから、そういった「春日神」に対する信仰が根づいていた土地でもあったのでしょう。
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神社の境内は鎮魂の場でもあり、日清戦争や日露戦争、大東亜戦争等に出征し、戦死した地元兵士を記念する「忠魂碑」や御霊を祀る「招魂社」、さらには、無事の帰還を感謝する「復員記念碑」などが立てられているのを見かけます。
今回訪ねた五所川原市田川の八幡宮には、一の鳥居のそばに大きな「日露戦役記念碑」が立っていましたが、同様の碑は、先回ご紹介した川山の神明宮や弘前市の日吉神社にもありました。
青森県と日露戦争といえば、開戦前夜に起こった八甲田雪中行軍の事件が有名ですが、いざ戦争が始まると各地で連戦連勝を重ねる日本軍に国民は狂喜し、日本全体が祝賀ムードに包まれます。それは、津軽も同様で、兵隊を出した村は、わが村の勝利のように喜んだといわれています。
ですが、大戦が本格化し、弘前の第八師団が、最前線で戦うようになると、戦争の悲惨さが現実味を帯びてきて、出征兵士を出した村々の家では、我が子や身内の安全を願う思いが強くなっていきました。徴兵を名誉とする風潮の中で、人々がすがったのは、やはり神仏だった分けですが、黒石市の目内澤に残るしばり地蔵の話は、そんな当時の様子を今に伝えています。この田川の村でも、似たようなことがあったのでしょう。
◇戦役記念碑ほか





五所川原市の田川は、川山村や新宮村、沖飯詰村などと共に、旧中川村の一部でした。
そばを岩木川が流れる農村地帯ですが、八幡宮は村の外れの方に、田んぼに囲まれて鎮座していて、境内からは国道101号線のバイパスが見えました。
私が訪ねたのは、昨年の12月下旬でしたが、師走にもかかわらず、この時はまだ降雪もなく、とてもよい天気でした。

その由緒については、
【御祭神:誉田別尊 創建は明暦二年。 寛文二年田川、 川元、 赤堀三ケ村にて再建される。 明治六年四月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細は分かりません。
明暦年間(1655-1657)の創建とあるところをみると、津軽藩による新田開発が本格的に行われだした頃からの村の産土社であったと思われます。
社殿に向かって、狛犬や神馬のほかに、八幡様らしくお使いの鳩の像が並んで立っています。狛犬は本殿にも一対置かれていましたが、こちらは、しっぽがピンと跳ね上がった特徴のあるものでした。
拝殿の前に大きな切り株がありましたが、株からは新しい枝が伸びていて、そこに願札がいくつか結びつけられていました。かつての御神木だったのでしょうか。
境内には、百万遍塚や庚申塔のほか、神仏が彫られた石碑などがあります。もうすぐ地面に埋まってしまいそうな小さな碑には、蝶が羽を広げているような姿の神様(仏様)が刻まれていました。
二の鳥居の横に末社が二つ並んで立っていましたが、そのうちのひとつを覗いて見ると、そこには大小二体の水虎様が祀られていました。少し薄くなってはいるものの、色鮮やかな女神型の水虎様です。
◇田川八幡宮








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黒石市に「二双子(にそうし)」という、一風変わった名前の集落があります。
その地名の由来については定かではありませんが、寛政七年(1795)の十一月二日(旧暦)、村の産土祭りの日に、この村に立ち寄った菅江真澄は、
【「昔からこの村に住んでいる人で、月はじめの二日に亡くなることは絶対に無かった。それだから、この日は亡くなった人のために行う精進・物忌みもないので、村中の人がみんな出てきて神様にお神酒を供え、自分たちもこのように酔うのだ。
月の一日の日に、今にも息が絶えようという重い病の人がいて、医者も夜の明ける前には亡くなるだろうと言われても、鶏が『カケロー。』とひと声鳴けば、二日になったので、亡くなることはない、と心が落ち着くのだ。」という。ほかの所には例のない、不思議な習わしである。】という村人の話を記しています。
- 昔から、「二」という数を尊ぶ風習を持った村だったようですが、そんな二双子の村の産土神として崇められている社が伏見神社です。

慶長年間に創建されたといわれていますが、その由緒については詳しくは分かりません。「伏見」という名前からして、伏見稲荷大社と同様に、猿田彦尊(佐田彦大神)、宇賀御魂命、大宮姫命を祀った社だと思われます。
菅江真澄は、
【・・・長い年月のたった木々が生えていて、雪の積もった小高い場所を左の方に見て進んだ。いつの頃のことなのだろうか、伏見の里から飛んできたという権現をこの下に埋めてから「獅子森」という名前で呼ばれていると聞いた。
この森の下道を行き交う人の馬が病気になったり、人も馬から落ちたり、という不思議なことがあったので、よくお祈りし、別なところに「伏見権現」として祭ってあがめたと言われる。その場所に、雪の中にこんもりと茂っている森の高い梢と、半ばほど現れている鳥居が見えた。】と書いています。
この神社の大祭は、毎年五月・八月・十二月の年三回行われますが、その期日はいずれも月初めの二日の日となっていて、ここにも「二」を尊ぶ風習が伺われます。
いかにも重そうな金属製の注連縄が下がった一の鳥居をくぐって、野原の中の道を進むと「伏見橋」という神橋が見えてきます。そのそばには、猿田彦や青面金剛尊の碑が立っていました。
二の鳥居、三の鳥居とくぐって行くと、右側の方に社殿があります。境内には、雪をかぶった狛犬や雪に埋もれた鹿の子の像などがありました。
◇伏見神社











さて、菅江真澄の紀行文に「月初めの二日に、二双子村では『産土祭り』が昔から行われていた。」とありますが、「産土祭り」とは文字通り、「生まれた土地の守り神を祀る」ことです。
例年、8月2日の伏見神社大祭の日には祭りが盛大に催され、「だげぐら」という行事が行われています。
「だげぐら」とは、
【太夫の先導で、「獅子」が太鼓の囃子で二双子の全家庭を廻り、「家の中の神棚や台所をお祓いする。家人に病があればその痛むところを獅子に噛んでもらう。」など、獅子頭の動きによって、その家の「災いを祓い、豊作や健康安全を祈願する行事】です。神社総代の方の家に大切に保管されている獅子頭を神社に運び入れ、神前にて祝詞が奉じられた後に、村内を巡り歩きます。
菅江真澄は、こうした風習について、
【陸奥(みちのく)のならわしとして、どこの浦、どこの山里でも、熊野の神様をまつる行事のはじめに、獅子頭を持って踊るということがある。そして、その獅子頭をひたすら権現様と言っている。】と書いていますが、ここ二双子も、そんな風習を今に伝えている集落です。
※黒石市民財団「わたしたちの黒石」を参照しました。
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北海道を巡った後、下北半島に立ち寄って二年余りを過ごした菅江真澄は、寛政七年(1795)の三月に津軽領に入りました。
これは、三回目の津軽訪問になりますが、津軽の地を巡った真澄は、その年の十一月五日(旧暦)には現在の黒石市にやってきて、その様子を紀行文に描いています。
【・・・田中村の方に出ると、遠く広い雪の上に人も馬も絶えず行き交う一筋の道があったので、迷う心配もなく歩いていった。夕飯を炊いているらしい煙が立ち上るのを見て進んで行くと、やがて野際という村についた。
道を少しばかり進むと株梗木という村の家並みの軒が続いて、黒石の里についた。昔見ていなかったところを、このような雪の中で見るのも良いことであろう、と独り言を言いながら高田恵民という医者の家を訪ねた。】
昔の黒石の村々の雪景色が浮かんでくるような文章ですが、ここには田中・野際・株梗木といった集落の名前も記されています。
紀行文に出てくる「野際(のぎわ)」は、市の中心から少し離れた所にある集落ですが、ここに稲荷神社が鎮座しています。
その由緒については、
ー 御祭神:倉稲魂神 高おかみ神 創立は正徳年間だが月日は不詳。 正徳年間、 工藤一族の祖工藤荘司という者が堂祠を建立し深く崇敬したと伝えられる。 宝暦十年 (一七六〇) 四月十六日、 小野河遠江守祠官の時、 村中にて社殿を改築、 文化二年 (一八〇五) 三月十五日、 小野河靭負(ゆげい)が社殿を新築御神楽を奉納した。 天保十五年 (一八四四) 五月二十一日、 新たに稲荷大明神の 御神像を勧請し尊崇した。 嘉永元年 (一八四八) 十月十日、 社殿を修復し同三年五月八日、 祠官小野河遠江守行京の時、 正一位稲荷大明神の御神号を受け益々御神威を高め民衆の尊崇を集めた。 明治四十二年十一月十八日、 許可を得て中郷村北田中鎮座村社高おかみ神社を合祀す。 ※青森県神社庁HP - とあります。
野際の集落の道路沿いにあり、朱色の鳥居が鮮やかな神社です。
◇野際稲荷神社










「道を少しばかり進むと株梗木という村の・・」と真澄が書いているように、「株梗木(ぐみのき)」は野際の隣村です。ここには、次のような面白い昔話が伝えられています。
◇嫁をもらったお地蔵様
【株梗木のお地蔵様は、株梗木に来てから長い年月を重ねていましたが、いまだ独身でした。村のためにがんばっても、村のはずれの祠の中に、ぽつんとひとりぼっちでいました。「火鉢もないし、火箸一本もない、味気ない世の中だ」と嘆いていたお地蔵様は、ある日、とてもよい案を思いつきました。それは、「寝ている信者の夢の中に現れて気持ちを伝えれば、イダコ(亡くなった人の言葉を伝える人)の語りを聞く集まりにでも、みんなに話が伝わるだろう」というものでした。そして、ある夜、佐左衛門という信者の夢の中に現れ、その思いを伝えました。イダコの集まりで佐左衛門の話を聞いた信者たちは、「そりゃあ、地蔵様もさびしいべ」と同情し、「嫁っこの地蔵様を一体つくってそばに置ぐべ」ということになりました。そこで村中の女性の人たちがお金を出し合って、町の石屋に嫁地蔵の制作をお願いしました。嫁地蔵が出来上がった日には、村の手車を引き出し、白木綿の引き綱を結わえて迎えに行きました。嫁地蔵を乗せた手車の行列が祠に着くと、開眼供養とともに、盛大な結婚式があげられました。ひとりぼっちだったお地蔵様の喜びようは言うまでもありません。株梗木のお地蔵様が結婚してからというものは、四方の村々や町々へも流行し、ほかのお地蔵様もまねるようになりました。】
- アニメ『日本昔話』に出てくるようなお話ですね。
※記事の中の【】は、黒石市民財団『わたしたちの黒石』からの引用です。
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五所川原市の川山地区は、明治の頃は、近郷の北津軽郡川山村、新宮村、長橋村、田川村、種井村、沖飯詰村、桜田村が合併した「中川村」に含まれていました。
昭和29年(1954)の市制施行により、五所川原町、栄村、三好村、飯詰村などと合併し、五所川原市の一部となった分けですが、ここに神明宮が鎮座しています。

その由緒については、
【御祭神:天照皇大神 創建年号は不詳である。 元禄二年村中にて再建。 明治六年四月沖飯詰八幡宮へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
詳細は分かりませんが、元禄期の新田開発とともに、再建され、村の産土社として崇められてきた神社と思われます。
境内のすぐ横を旧十川とその支流が流れていて、川べりに立っている社ですが、一の鳥居が立っている入口は反対側にあります。二の鳥居、三の鳥居とくぐり抜けると右側に社殿が見えました。
社殿の前に「神明宮」と書かれた大きな社号標がありますが、どうやらこれはネオン型のもののようです。どんな色に光るのでしょうか。
拝殿の扉が開いていたので中を覗いたら真っ赤でした。両窓に張りめぐらされた紅白幕に光があたって、とても幻想的な雰囲気です。
拝殿のとなりに末社の祠が2つ。そのうちのひとつには、水虎様と水神様が祀られていました。すぐそばを流れている旧十川は、何度も氾濫し、村人を苦しめたといわれていますが、水の神を祀ることによって、村の安全を願ったのでしょう。
境内には、狛犬をはじめ、神馬やうさぎ像などが立っています。津軽では、弘前市の天満宮が卯年生まれの一代様(守り神)として、境内にうさぎ像が置かれていますが、ここの神明宮も地域の一代様として信仰されているのでしょうか。
◇神明宮









さて、祠に祀られている水虎様は、
【実際に起こった水の事故をきっかけに、水難よけを祈願するために広まったもの。水の事故は河童のせいで、それを鎮めるために神様としてまつった。】という津軽の水神信仰です。
ですが、
【水虎様は、すべて河童の形をしているわけではありません。岩木川を境にして西側には河童の形をしたもの、東側には、カメに乗った女神様の形をしたものが多いのです。河童の形をした神様も不思議ですが、岩木川を境にして形が違うのも不思議です。】とされています。 ※【】は、HPまるごと青森「津軽不思議発見!水虎様」より
- 「女神型」の水虎様が誕生したいきさつについては分かりませんが、あるいはそこに日本の代表的な水神である「弁才天」や「市寸島比売命」の影響があるのかも知れません。
ここ神明宮の水虎様は、黒光りする「河童型」の神様でした。
水虎様を祀っている寺社等は、西北津軽地方を中心に、およそ80か所あるといわれています。私も神社めぐりを通して、水虎様を拝んできましたが、そのほとんどは「女神型」のもので、「河童型」を見たのは久しぶりです。
◇河童型の水虎様




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平川市猿賀神社の境内地はおよそ15,000坪とされていますが、広大な境内には「見晴ヶ池」と「鏡ヶ池」という二つの大池があります。
「見晴ヶ池」は行楽向けの池で、夏場は連日ボート遊びで賑わう池ですが、冬場の今は鴨たちの憩いの場です。
一方の「鏡ヶ池」は、
【鏡ヶ池は猿賀神社信仰の中心となっている神池で中島周辺は散供(さんご)占いの霊場である。また、北限の蓮の花の群生地として広く知られ、夏には池全域に花が咲き競う。伝説によると津軽二代藩主信牧公が霊夢によって作ったと云われている。※猿賀神社HPより】と紹介されています。
胸肩神社は、この鏡ヶ池内の中島に鎮座する境内社で、市杵島姫命を祀る社です。薄氷が張った池の上に新雪が積もり、朱色の社殿がとても鮮やかです。






◇猿賀の池と片目の魚
【境内の大池に片目の魚がすむといわれる。昔、猿賀の神様は、トコロのつるに足をひかれて倒れ、そのはずみにウドのからで目をついたために片目になってしまった。それから池の魚も片目になったという。
津軽の古い盆歌にも「おらも見だ見だ猿賀の池よ、猿賀池の雑魚(じゃっこ)アみな盲(めつこ)だ」と歌われている。
眼病で猿賀様に願をかける人は、神様が嫌うウドとトコロを食べない。
境内に薬師の清水という湧き水があり、目の悪い人はこの清水で目を洗うとよいとされている。そこで人間の目の病が池の魚にうつって、魚が片目になるのだという。※『青森の伝説』より】
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弘前市の清野袋(せいのふくろ)は、岩木川沿いの東側に開けた地域で、現在は弘前市周辺にある工業団地のひとつになっている所です。
「○○袋」という地名は、「川と川の間に挟まれた所」「川が蛇行して袋状になっている所」につけられることが多いとされます。清野袋も、そんな地域のひとつと思われますが、近くには「向外瀬」とか「船水」とか、「水」に関係する地名もみられます。
明治24年(1891)当時の記録によれば、「人口584、戸数89、厩22、学校1、船2」とあり、岩木川の水運の発達によって開けた集落といえそうです。
そんな清野袋の集落に八幡宮が鎮座しています。
神社の手前に清野袋の町民会館がありますが、そこから道路がY字状に枝分かれしていて、2本の道路の間に挟まれたところが境内になっています。
一の鳥居には、奉納された草鞋が左右に掲げられており、小さな二の鳥居、三の鳥居が続いています。境内の脇の方には庚申塔が立っていました。御神燈、神馬、狛犬と続き、奥の方に赤い屋根の社殿があります。
本殿のとなりには末社がひとつ。中には一体の神様と何体かの石仏、奉納者の願文などが納められていました。
この八幡宮の由緒については、
【御祭神:誉田別尊 当社創建年月不詳なりといえども、 往時より当部落産土神として、 深く崇敬せられ、 年々の祭事絶たず、 安政二年弘前最勝院より、 吉田表に上進したる、 神社由緒書調書に記載され今日に至る。 ※青森県神社庁HP】とあります。
境内には、御祭神の誉田別尊について記された大きな碑が立っています。原文は漢字とカナ文字ですが、
【当社御祭神は誉田別尊と曰す即ち人皇第十五代應神天皇の御名なり天皇夙に内政を整へ且又盛に大陸文化を輸入せらし我が国に文字の傅来せるも實に此の御宇なり第四十七代元明天皇始めて天皇の御神霊を豊前国宇佐に祀り八幡大神宮と称し次きて第五十六代清和天皇山城国男山に勧進して石清水八幡宮と稱し歴朝崇敬して今日に至れり余等大神の氏子に生を享ヶ幸にして初老を迎ふるを得たり乃ち茲に御祭神の御略歴を石に勒して以て神恩の一端に對へ奉る 昭和十六年六月十五日 高山松堂敬書】とありました。
格調の高い文章ですが、作者の高山松堂(1869~1959)は弘前市出身の書家です。隷書の大家といわれ、津軽地方の社寺号や石碑などを数多く手がけとされる人物です。
◇清野袋八幡宮










この神社の狛犬ですが、とても見ごたえがあります。
二体とも、そんなに大きなものではありませんが、小柄な体に似合わないほど大きな「毬(玉)」を持ち、「子ども」を連れています。特に、子連れの方の「子ども」は、なかなかの大きさです。
(にわか勉強ですが)このような姿形の狛犬は、「玉取り・子取り」と呼ばれているようで、「玉取り」は雄で、「家運隆盛(運が良くまわる)」を、「子取り」は雌で子孫繁栄を表しているとのことです。
どちらが雄とか雌とかは、特に決まってはおらず、地域や作者によって違うようですが、この「玉取り・子取り」の狛犬やきつね像は、津軽の神社でもよく見かけます。ですが、こんなに大きな子どもを抱いた「子取り狛犬」は初めてでした。
◇子取り狛犬





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☆つがるみち☆



旧常盤村(現藤崎町)には、「福舘」や「古舘」など「舘」のつく集落がありますが、それは、かつてこの地方を支配していた安東氏や北畠氏ゆかりの武将の館跡に由来する地名だといわれています。
「久井名舘(ぐいなだて)」もそのひとつなのですが、鎌倉時代、ここの十川と浪岡川の間に囲まれた高台に舘が築かれていたとされています。現在は、その遺構らしきものは見当たりません。
今回は、その久井名舘に鎮座する稲荷神社を訪ねたのですが、道路を挟んだ向かい側に「正法庵」という庵寺がありました。
正法庵については、
【正法庵は、釈迦如来の坐像を祀る庵寺です。正法庵は、開基や開山といった歴史を刻んだ寺院ではなく、由緒 も不明です。元禄時代に庵ができたという説もありますが、定かではありません。昔から村人たちが集まり、極楽浄土を求めて懺悔し説教を受ける、心の寄り所として寄り合った場所、そんな説教道場が正法庵の前身のようです。※藤崎町『ふるさとの史跡散歩』より】と紹介されています。
入口に、猿田彦大神、二十三夜塔、百万遍塔、馬頭観音の碑が立っていて、境内には地蔵堂などがありますが、その中に二体の羅漢象を祀るお堂があります。
この二体の羅漢像は町の文化財に指定されているものですが、説明板には、
【当庵入所の由来等については不明であるが、三百五十六年前の古仏像で、津軽の宗教史上、神仏分離資料として貴重なものである。これは旧岩木三所大権現の山門(現岩木山神社楼門)上に、津軽藩二代藩主信枚によって奉納された五百羅漢像のうちの二体で、明治三年十二月、神仏分離によって散逸したものと推定される。】と書かれていました。
岩木山神社楼門(旧百沢寺山門)の五百羅漢像のうち、百体ほどは弘前市の長勝寺に移されていますが、他のものは概ね不明であるだけに、ここの二体はとても貴重なものとされています。
◇正法庵





稲荷神社は正法庵の向かい側、十川の流れに沿って鎮座しています。
川原の土手からは神社の境内全体を見渡すことができますが、道を少し歩いて行くと、間もなく社号標と赤い一の鳥居が見えてきます。
一の鳥居には重そうな米俵が架けられ、その下には津軽独特のジャンバラ型の注連縄が下がっていました。
境内には、かつての御神木だったと思われる大きな木や、御神燈、狛犬などが並んでいますが、この時期の狛犬は雪をかぶった姿で、とても愛嬌があります。
拝殿のとなりに、ひとつのお堂が立っており、中を覗いて見ると、立派な神馬が二体納められていました。
この神社については、
【久井名舘(ぐいなだて)の稲荷神社には、一般的に稲荷神社に祀られている宇賀魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。神社の由緒などはよく分からないということですが、万治年間 (1658~61年)に、村中の手で再建されたという記録が残っています。また、昭和61年に発行された「常盤村文化財資料Ⅰ神社・仏閣編」には「この稲荷神社の脇の馬が入っているお堂の中に竜神様の木彫2体とその由緒の書付がある」と記されています。※藤崎町『ふるさとの史跡散歩』より】とあります。
神馬堂(厩舎)の中に木彫りの龍神様が祀られているようですが、私はみつけられませんでした。
すぐそばを流れる十川は、改修されるまでは大変な暴れ川で、毎年のように氾濫が続き、地域の人達は大変難儀をしていたということですが、この龍神様は、五穀豊穣と共に、水害から村を守る水神として崇められていたのかも知れません。
◇稲荷神社








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☆つがるみち☆



浅瀬石川と平川が合流する藤崎町は白鳥の飛来地として知られていますが、黒石市を流れる浅瀬石川でも、この時期、多くの白鳥を見ることができます。
黒石市の追子野木と市内を結ぶ千歳橋の下は広い河川敷になっていますが、例年、たくさんの白鳥たちが訪れ、可憐な姿を見せてくれます。もっとも、雪の白さもあって、少し離れたところからはなかなか見つけづらいのですが。。

この千歳橋の近くに南神社が鎮座しています。
住所は黒石市追子野木(おこのき、おっこのき)になりますが、追子野木という町名は、「昔、集落に岩木山から見えるような大きなオンコノキ(イチイの木)があった」ことに由来するともいわれています。
南神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 伊弉諾命 早玉男神 泉津事解男神 昭和三十七年七月十五日、 生活合理化運動の一つとして稲荷神社 (追子野木字宮崎四七) と熊野宮 (久米字若柳一) を統合。 旧稲荷神社は延徳元年 (一四八九) 六月一日に、 又、 旧熊野宮は天文三年 (一五三四) 二月の勧請と伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
昭和37年に建立された比較的新しい神社です。私は追子野木の住人なのですが、子どもの頃に、一時期、住所が「追子野木」から「南町」に変わったことがありました。「南神社」という名前も、そんな町名変更に基づいたものなのかも知れません。
神社の入口には赤銅色の大きな一の鳥居が立っていますが、その奥の二の鳥居には「南神社」と書かれた扁額が掲げられ、金属製の注連縄が下がっています。両脇には、大きな社号標と「合祀記念」と書かれた碑が立っていました。
三の鳥居には、それをくぐると疫病や罪穢が祓われるといわれる「茅の輪」が下がっていますが、年末年始の参拝で、多くの町民が訪れたことでしょう。
境内にはいくつかの御神燈と二対の狛犬などが置かれていますが、拝殿の隣に馬頭観音の祠が二つ建っています。
どちらも赤い鳥居をともなった立派なもので、町民の信仰を集めている祠ですが、昭和12年に境内の近くの場所に建立され、昭和37年に稲荷神社と熊野宮と共に合祀されたものです。合祀以前は、その前の広場で、馬市や馬力大会が頻繁に行われ、賑わったとされています。
◇南神社









由緒にあるように、この神社は稲荷神社と熊野宮という二つの社を合祀したものです.
前述したように、二の鳥居のそばには「合祀記念碑」が立っていますが、本殿の後ろ側には、「稲荷神社」と「熊野神社」と書かれた二つの大きな社号標が並んで立っています。
それぞれの神社については、
○稲荷神社
【御祭神:倉稲魂命 延徳元年(1489)、浅瀬石城主・千徳政久公が勧請して、代々豊念神として崇め奉った。代々の城主によって庇護され、寄進、再建がなされる。宝暦元年(1751)、追子野木村で造営。以後、大洪水で大破したこともあったが、村中で再建。】
○熊野宮
【御祭神:伊弉諾命 早玉男神 泉津事解男神 天文三年(1534)、相馬才次郎、手塚杢左衛門が、荒無地を開拓して、浅瀬石城主・千徳政胤公より許可を得て熊野大権現を勧請した。天正十三年(1585)、大浦為信の来襲により、堂宇は焼失。慶長元年(1596)、村中で再建。以後、造営等を重ね、明治三年(1870)、熊野宮と改称。】 とあります。
- どちらも、戦国時代に黒石の支配者であった千徳氏の時代に勧請された社だったようです。
昭和37年に両社は統合された分けですが、決定までには様々な紆余曲折があったようです。やはり、両社とも村落の産土社として「心の拠りどころ」であっただけに、場所を替えることに対しては住民の抵抗も大きく、「三年越しの激論が戦わされた」とのことです。
※『黒石史』、『追子野木沿革史』などを参照しました。
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弘前市の小金崎は、国道7号線沿いにある集落です。
辺りを流れる平川に沿って開けた地域で、大鰐町の八幡館、森山、弘前市の石川と境を接していますが、元々は石川村(現弘前市)でした。その後、1957年(昭和32年) に、周辺の村々と共に弘前市の大字になっています。
ですが、1964年(昭和39年)に住民の反対運動が起こり、森山と八幡館の一部などと共に、小金崎の一部も大鰐町に編入されたといういきさつがあります。
私は、大鰐町森山の鹿嶋神社を訪ねたときに、ここを通りかかったのですが、川沿いに小さな神社をみつけたので立ち寄ってみました。社殿の後ろには平川が流れ、境内の前方には田んぼが広がっています。
一の鳥居の扁額には「廣峰神社」とありました。その名前からして、かつては牛頭天皇を祀る社だったようで、神仏分離以後は、素戔男命が御祭神のようです。境内には、大きな庚申塔や馬頭観音の碑が並んで立っていました。
その由緒についてはよく分かりませんが、小さな祠の中を覗いてみると、「鹿嶋大明神」とあり、次のように書かれたものがありました。
【森山鹿嶋神社は当小金崎部落結村以来、両部落にて敬拝して来ましたところなるも、去る40余年前、両部落間に意思疎通の事が出来、当村では森山鹿嶋神社より離脱する事になりましたが、先祖代々より信神祭儀致して来ました。
今これを分離してしまったことは鹿嶋大明神をはじめ、我々の代々の先祖に対しても、誠に申し訳なき事と思い、ここに些なる小社を立て、敬神宗祖の念を表したきものと思い、これを献納致す事にしました。】
- 前述した「村の編入問題(弘前市か大鰐町か)」を受けて、地域の産土神を残そうとする思いから建立された社のようです。
◇廣峰神社









こちらは、同じ弘前市の外瀬(とのせ)という地区にに鎮座している熊野宮です。
その由緒については、
【御祭神:伊弉諾尊 伊弉册尊 当神社は元久二年に創建せられたものと伝えられ、文政二年の神社調上帳によれば、 御棟札宝暦十三年・文政五年・嘉永七年と記録しある故に、 古来、 同村の産土守護神として篤く崇敬せられ、 年々祭事を斎行現代に至る。 明治六年四月神社制度の改正にともない村社に列格せられる。 大正二年八月二十六日幣帛供進の村社指定せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
辺りには学校などの文化施設や工場、大型店舗などが立ち並んでいる所ですが、この神社は、町の中から少し離れた所にあり、とても静かな環境です。境内には特徴のある狛犬や月夜見尊などの碑が並んで立っています。
◇熊野宮




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昨年の9月の末に、深浦町岩坂に鎮座する磐境神社を訪ねました。
岩坂は、五能線の陸奥柳田駅付近から国道101号線と別れ、大童子川(おおどうじがわ)という川をさかのぼる県道191号線沿いにある集落です。
「岩坂」という町名が、この磐境神社に因んだものなのかどうかは分かりませんが、「磐境」については、
【磐座・磐境(いわくら・いわさか) 神社の原始的祭場。自然の岩石またそれに多少の人工を加えたもので,そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津(あまつ)磐境であり,その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。 ※コトバンクより】とあります。
「さか」は神域との境を意味するともいわれていますが、この岩坂の集落は、まさに神域(ここでは岩木山)との境をなす山里といった感じです。
磐境神社の一の鳥居は集落の道路沿いに立っていますが、境内はそこから坂道を登った所にあります。
石段を登り切ったところに、二本の大杉がまるで門のように佇立していますが、深浦町の文化財にもなっているこの杉の木は、神社建立の折りに鳥居替わりとして植えられたものとされています。
その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐神 伊邪那美神 保食神 大山祇神 元和2年(1616)創立の熊野宮、石動)と、享保3年(1713)稲荷神社(大童子)末社、山神の祠を合祀して、明治40年「磐境神社」と改称、旧社格村社岩坂三村の産土神として信仰されている。※深浦町HPより】とあるように、昔から信仰を集めてきた産土社であったようです。
◇磐境神社





磐境神社からさらに山奥の方へ。ますます神域に近づく感じですが、しばらく進むと石動(いするぎ)という集落があります。ここにイチョウの名木があるということなので行ってみました。
村にたどりついたものの、目当ての大イチョウの木が見つかりません。うろうろしていると、ちょうどトラクターが通りかかったので、その場所を聞いてみました。「田んぼにそって走る細道をしばらく行くとイチョウが見える」ということだったので、その通りに進みました。
だいぶ細い道だったので、ゆっくりゆっくり進んで行くと、やがて、道路の両側に大きな木が立っているのが見えました。二本の大木の根元には軽トラックが止まっていましたが、これが大イチョウでした。私が訪ねたときには天気も良く、稲刈りの真っ最中で、農家の方々が忙しそうに働いていました。
この二本の大イチョウは、道路を挟んで仲良く並び立っているため「石動の夫婦イチョウ」と呼ばれています。ですが、実際はどちらも雄株で、一応、川側(田んぼ側)が「夫」で山側が「婦」とされているようです。
推定樹齢は不明ながらも、樹高は「夫」が26m、「婦」が22mで、幹回りは、どちらも11m以上といわれています。
山側に小さな祠あり、隣に説明板が立っていましたが、それには、
【町指定天然記念物 夫婦イチョウ このイチョウは道を挟んで2本並んで立っており、2本とも幹回り11.20mで、10mを越えるイチョウは県内では珍しいものです。
昔、3人の杣人(そまふ)が、マサカリでイチョウに穴を空けハチミツを取ったといわれています。
川側のイチョウの幹にはマサカリで開けたと思われる穴があり、山側のイチョウの幹はカミナリが落ちて燃えたあとが黒く焦げて空洞となっています。
昔から神木として信仰あつい老巨木です。】と書かれていました。
二本のイチョウに近づいて見ると、確かに「夫」には杣人の穴、「婦」には雷の焼け焦げがありました。
深浦町は「イチョウの宝庫」ともいわれるように、イチョウの名木がとても多い町で、この「石動の夫婦イチョウ」もそのひとつなのですが、何しろ、すぐ近くに日本一の北金ヶ沢の大イチョウや折曽のイチョウがあるためか、その知名度は今ひとつのようです。「山里にひっそりと佇む名木」といったところでしょうか。
◇石動の夫婦イチョウ









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☆つがるみち☆


Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市
今年もよろしくお願いします。


あけましておめでとうございます。
例年、初詣は岩木山神社や猿賀神社などに出かけるのですが、今年は巌鬼山神社に行ってみました。
津軽三十三霊場の五番札所であり、また、境内には名物の二本の大杉があることもあって、何回か訪れているのですが、初詣に来たのは初めてです。



◇巌鬼山神社
【御祭神:大山祇神 延暦十五年 (七九六) 岩木山頂の奥宮に対して下居宮として鎮座したのが始まりと言われている。
本尊観世音菩薩は大同二年 (八〇七) 坂上田村麻呂が勧請したとも伝えられている。
当社より山頂に参詣する者怪異の難に合う者が多く、 近江国の花輪其が勅宣を奉じて越前敦賀より来て、 山中に篭居して山神に祈願したところ神託があり、「 百の沢を越えた所に社殿を建立せよ」との事、 そうしたところ災難が無かったと言われている。
寛治五年 (一〇九一) 現在の岩木山神社と言う。 当社は文安五年 (一四四六) 山火事にて焼失、 寛正四年 (一四六三) 長見孫太夫によって再建された。
慶長二年 (一五九七) 津軽為信が巌鬼山観音院を修復したが、 再び元禄元年 (一六八八) 焼失同四年四代藩主信政が建立、 明治以前まで御本尊十一面観音を奉り巌鬼山西方寺観音院十腰内観音堂と言われていた。 ※青森県神社庁HP】
拙い記事ばかりですが、今年もよろしくお願いします。

