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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

葛原春日神社ーつがるみち361


春日神社


 弘前市の葛原(旧岩木町)は、岩木山の麓に広がるりんご畑に囲まれた集落です。
「葛原(くずはら)」という地名の由来については、
【地名は平氏の祖、葛原親王(桓武天皇の皇子)からという伝承があり、当地の対馬氏は平氏の流れを汲み、もと対馬の国に住んでいたが、弘安四年(1282年)蒙古襲来時、日本海を経て当地に遁れ住んだものと言われているように、この地に集落が形成されたのは相当古い時代に遡る。後長根川に沿った地からは唐銭が出土。また、同地や山麓からは、縄文後期晩期の遺物が出土し、春日神社付近からは土師器が出土している。
 また、当地には誰の居館かはっきりしないが、館跡が認められている。現在、宮地研修館の地は葛原祐清の居館であったことから、葛原の地は豪族が居った広大な地であったことがうかがわれる。※町内由緒書き】と伝えられています。

 葛原親王(かつらばらしんのう)は、
【桓武天皇の第3皇子(※第5皇子ともいわれる)。名は「かずらはら」とも。桓武平氏の祖。大蔵卿・式部卿などを経て大宰帥(だざいのそち)。天長2年(825)、平(たいら)の姓を賜り臣籍に下った。※デジタル大辞泉より】とされる人物ですが、「幼いころから聡明で知られ、大陸の書物を歴覧して生活を律し、奢るところがなく人々から畏敬されていたという。式部卿に永く任じられていて、旧典に深く通じ、その知識は大変重んじられていた。輦車に乗って内裏に入ることを勅許されており、他の皇族たちとは一線を画していた親王であった。」と伝えられています。
 また、かつてここ葛原には「葛原館」という城(館)がありましたが、戦国末期には津軽為信の臣下であった葛原佑清の居館であったようです。




 そんな葛原の集落に春日神社があります。
 その由緒については、
【御祭神:天児屋根命 武甕槌命 伊波比主命 比売大神   初発建立年月不詳なれども葛原部落発生の歴史の古さからみて藤原氏の落人の創建になるものと思考せられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細については分かりません。
「藤原氏の落人の創建」とあるのは、前述の葛原親王が、当時権勢を誇っていた藤原氏と深いつながりがあった(兄弟の親王の母は藤原氏)ことや、平氏の祖とされることから、いわゆる「平家の落人伝説」と関連しているのでしょうか。
 バス停の近くに一の鳥居があり、境内には春日神社らしく「狛鹿」が一対置かれています。
 拝殿には「成就願心」と書かれた札が掲げられており、地域の信仰の厚さがうかがわれます。

◇春日神社

  





 旧岩木町の神社の入口には、御祭神やその縁起を記した説明板が立っているのですが、ここにもありました。文字がかすれているので正確ではありませんが、
【当社の社名は、貞享4年(1687)検地水帳に見て、祭神は武甕槌命、斎主神、天児屋根命、比売大神の四神である。安政2年(1855)神社微細帳に、「右は草創建立の年月日相分り申さず候へ共、村中安全の為に建立仕り候、尤も貞享の御調表には神明社地と御座候へ共元来は、春日宮に御座候」とある。
 奈良市の春日神社は戦後春日大社となったが、古来藤原氏の祖、中臣氏の氏神として藤原氏はもとより、朝廷からも永く尊崇されているが、当地葛原との関わりは歴史的に詳らかでない】と書かれていました。

 葛原は、葛原親王や落人に関わる伝説が残る山里ですが、加えて、津軽氏は「藤原姓」を名乗っていたために、「春日四神」を祀っていたという経緯があります。この神社もそんな社のひとつではないでしょうか。


  


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革彦稲荷神社ーつがるみち360


革秀寺山門

津軽為信霊屋


 弘前市の革秀寺(かくしゅうじ)は山号を「津軽山」、釈迦牟尼仏を本尊とする曹洞宗のお寺です。
 その由緒については、
【津軽山革秀寺の創建は慶長3年(1598)、長勝寺(津軽家の菩提寺)の格翁和尚の隠居寺として開かれたのが始まりと伝えられています。当初、藤崎村にありましたが弘前藩初代藩主津軽為信が慶長12年(1607)に京都で死去すると、「岩木山が良く見える場所に埋葬せよ」との遺言に従い2代藩主津軽信牧が現在地に境内を移し菩提を弔う為に伽藍の整備を行いました。革秀寺の周囲には池や2重の土塁が築かれ家臣でも出入には制限が設けられるなど聖地化し、藩祖為信を神格化させると同時に弘前城は四神相応の思想に基づいて計画されている事から革秀寺の東側の蓮池は西方浄土に見立てられたとも考えられます。※HP「青森 歴史・観光・見所」より】とあります。
 このお寺には、関が原の戦いの後、津軽に逃れてきた石田三成の二男・重成が持参してきた豊臣秀吉の木像(座像)が安置されています。秀吉像は、「秘仏」扱いされ、弘前城の館神として祀られていたのですが、明治になって、このお寺に移されたといわれています。
 ⇒ 以前の記事へ


革彦稲荷神社


 その革秀寺のとなりにひとつの神社があります。名前は革彦稲荷(かくひこいなり)神社。蓮池の端っこの方に鎮座している社です。
 一帯の町名は「藤代」ですが、かつてここには「藤代館」という城(館)が築かれていたといわれています。
 この館の詳細については不明ですが、城主は革彦播磨という人物だったとされており、「革彦」という地名(?)は古くからあったようです。




 この神社についてもその詳細は分からないのですが、革秀寺のHPには、
【当山鎮守・革彦稲荷。革秀寺と同じ歴史を持つ神社。革彦稲荷講では奇数月に例祭を行い、革秀寺の行事の運営、等々を行っています。】とあります。いわゆるお寺のお抱えの神社です。
 片方は蓮池、反対側は住宅に挟まれたところに境内はありますが、金属製の注連縄が張られた鳥居をくぐると、狛狐が二体置かれていました。
 その奥に社殿がぽつんと立っています。中には入れませんでしたが、穴から覗きこむと祭壇に白狐が祀られているのが見えました。
 御祭神は倉稲魂神と思われますが、社殿の扁額には「荼祗尼尊天」と書かれています。境内には同じく荼祗尼尊天と刻まれた碑も立っていました。明治の神仏分離以前は、荼枳尼天(だきにてん)を祀るお堂だったようですが、社殿に仏具の一種である鰐口が下げられているのは、その名残りでしょうか。

 荼枳尼天は、仏教の神で、ヒンドゥー教のヤクシニー(半女神)に由来するといわれていますが、日本では稲荷神と習合し、白狐に乗る天女の姿で表されることが多いようです。
 戦国時代には、戦いの神様として多くの城内に祀られたりもしましたが、一方では「憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神」として信仰されるなど、多彩な顔を持つ神様です。
 神仏分離以来、荼枳尼天を祀っていた稲荷社の多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となりましたが、今日でも寺院の鎮守稲荷の多くは荼枳尼天を御神体とするところも多いといわれています。この革彦稲荷神社もそのひとつなのでしょう。


  



  


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動いた天守ーつがるみち359


弘前城石垣


 弘前城石垣修理事業に伴い、高さ14.4メートル、総重量約400トンの3層からなる弘前城(天守)を移動する「曳屋工事」は、昨年の10月末に終わり、現在は本丸跡近くに天守閣が立っています。
 約70メートル離れた仮設の天守台への引っ越し作業は、連日、新聞やTVのニュースなどで取り上げられていました。




 桜祭りのときには、天守のそばの堀を歩いて石垣を眺めることができました。
「曳屋」が始まってからも、ニュースを見るたびに「いつか出かけてみよう」と思っていましたが、ずるずると時期を逃し、冬になってしまいました。
 先日、朝からとても良い天気で、岩木山もくっきりと見えたので、思い立って弘前公園に出かけました。

 ですが、公園に着いたときには何とくもり空。冬の天気はほんとに気まぐれです。「天気にぐだめでも(ぶつぶつ文句を言っても)仕方がない」と思い直し、久しぶりに公園内を歩いてみました。

 下乗橋から臨む天守は、弘前公園第一の撮影スポットだったのですが、今はそこに天守の姿はなく、少し離れた位置に見えています。

 見慣れた光景と違っていたので、少し違和感がありましたが、本丸付近に移動した天守は、これはこれで、なかなかいいのではないかと思います。平成33年度には、元の位置に戻るということです。やはり、大事業なのですね。

  
 
 
 





 築城当時、弘前城(当時は高岡城)の天守は五層六階のものでしたが、寛永四年(1627)、落雷のため、本丸御殿とともに焼失しています。
 このときのことについて、平川市の国上寺に次のような話が伝わっています。
【国上寺の本尊である不動明王は、世の中に不吉なことが起こる際には、汗をかく(湿ってくる)という言い伝えがあり、「汗かき不動様」と呼ばれていた。二代藩主・信枚は、当時、頻繁に続いていた地震や災害に心を痛めていたが、そんな折も折、国上寺の「汗かき不動様」が、びっしょりと汗をかいたという話を伝え聞き、急いでお参りにやってきた。弘前城に雷が落ち、天守閣に吊されていた鐘が熱で真っ赤に燃え、地下の火薬庫に落ち、火薬に引火し、大爆発を起こしたのは、その直後のことだった。】

 以来、約200年間は天守のない時代が続きましたが、幕府の許可を得て、三層櫓(天守)が新築されたのは文化七年(1810)のことでした。

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鶴ヶ城稲荷神社ーみちのくあれこれ11


鶴ヶ城


 昨年の夏の小旅行で訪れた会津若松市。飯盛山や会津武家屋敷に立ち寄った後に鶴ヶ城を見に行きました。いうまでもなく、会津若松市のシンボルであり、市民の心のよりどころでもある名城です。
 戊辰戦争の象徴として語られることも多いこの城にはたくさんの観光客が訪れますが、私が訪れたときも何組かの団体さんがいました。
 昭和40年に再建されたという現在の城は、白壁の美しい堂々たる風格をもった城ですが、多くの人々は、本などに掲載されている「砲弾の跡が痛々しい姿」を思い浮かべるのではないでしょうか。
 団体さんを案内しているボランティアの方が、
「♪はるこうろうのはなのえん・・♪」と歌っていました。どうやら、この鶴ヶ城は名曲『荒城の月』のモデルだったことを説明しているようです。

『荒城の月』のモデルについては、作曲者の滝蓮太郎と作詞者の土井晩翠に因んだ城がいくつか挙げられていますが、昭和21年に会津若松市で講演した土井晩翠は、「鶴ヶ城が『荒城の月』のモデルである」と語ったということです。

◇鶴ヶ城
【至徳元(1384)年、葦名直盛公が東黒川館を築いたのが始まりと言われており、その後、蒲生氏郷公により、七層の天守(諸説あり)が竣工され「鶴ヶ城」と改名。慶長16(1611)年の会津地震で倒壊するも、加藤氏の時代に、現在見られるような五層の天守閣となった。保科正之公が入封してから明治維新までは会津松平氏の居城としてこの地に立ち、戊辰戦争では1ヶ月にも及ぶ籠城戦にも耐えきった。まさに“難攻不落の名城”。現在の天守閣は、明治政府に取り壊されて後、昭和40(1965)年に再建されたもの。平成23(2011)年には、幕末の頃の赤瓦に屋根が葺き替えられている。】


  



鶴ヶ城稲荷神社


 一帯は天守閣を中心にして「城址公園」となっていますが、その一角に稲荷神社が鎮座しています。
「鶴ヶ城稲荷神社」と呼ばれるこの神社は、学業成就、商売繁盛、家内安全や交通安全祈願など、広く人々の信仰を集めている社で、「優美な鶴ヶ城を思わせる、会津葵の御紋が記された上品な筆遣いの御朱印」をいただくことができるようです。




 この神社の由緒等については、
【鶴ヶ城内にある『鶴ヶ城稲荷神社』は、約600年前に城がつくられた頃から、守護神として祀られていたと伝えられており、御祭神は宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)。食物神・農業神・殖産興業神・商業神・屋敷神であり、日本で最も親しまれている神様の1つ「稲荷大神」を祀っている神社として有名。伝説によると、築城の縄張りに苦心した芦名直盛が勧請先の田中稲荷神社に祈願したところ、霊夢を見て目覚めてみると降り積もった雪の中に狐の足跡があったことから、それをしるべとして築城の縄張りを決め、今現在名城と評価の高い城を築くことができたと伝えられている。】と紹介されています。

 参道の石段の両脇には狛犬ならぬ「狛狐」が置かれています。
【重厚な石造りの明神鳥居をくぐると、編み笠とほっかむりをした姿が特徴的な『狛狐』が、参道の階段の両脇に3対、合計6体が訪れた人をお出迎え。狐の足元には、宝珠に巻物、米俵、稲、鍵など特徴的。また小さい子狐もちゃんとほっかむりをしており、可愛い姿を見ることができます。】

 ほっかむりをした狛犬や狛狐は、津軽の神社にも多く見られますが、「編み笠姿」の狐は、いかにも「城下町会津」といったところでしょうか。

※【】は、HP「會津物語」等を参照しました。

  



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上杉神社ーみちのくあれこれ10


上杉神社


 昨年の夏に、福島県や山形県の方に小旅行に出かけたのですが、その時に米沢市の上杉神社へ行ってみました。
「上杉神社は今でも米沢市民の心の支えとなっていて、初詣やお宮参り、結婚式や安全祈願など、四季を問わず多くの市民が訪れています。※米沢市HP」とあるように、市の中心部に鎮座する社です。
 
 初めて訪れたのはもう20年以上も前になるでしょうか、それ以来です。




◇上杉神社
【上杉神社は、山形県米沢市にある神社。松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつである。
 上杉謙信が天正6年(1578年)、越後春日山城で急死した際、遺骸は城内の不識庵に仏式にて祭られたが、次代の上杉景勝が会津を経て慶長6年(1601年)に米沢へ移封された際に、謙信の祠堂も米沢に遷された。
 以後、米沢城二の丸の法音寺を主席とする十一ヶ寺が交代で祭祀を執り行ってきたが、明治に入ると神仏分離令、廃城令などにより、謙信の遺骸が城内から上杉家廟所に移され、その守護のために法音寺も廟所前に移転した。更に、城内に留まっている謙信の霊魂を神式で祀るため、十一ヶ寺次席の大乗寺の僧侶が還俗して神官となった。この時、姓を大乗寺とし、現在も同家で宮司職を務めている。
 併せて米沢藩中興の名君である上杉鷹山を合祀し、山形県社「上杉神社」とした。明治9年(1876年)5月21日、現在の旧米沢城奥御殿跡に社殿が遷座された。明治35年(1902年)4月26日には別格官幣社に列せられる。この時鷹山は新たに設けた摂社「松岬神社」に遷され、上杉神社は再び謙信のみを祀ることとなった。
 大正8年(1919年)の大火で境内は本殿以下全焼したが、米沢出身で、神社建築の第一人者伊東忠太博士の設計により現在に残る社殿が再建された。※wikipedia他より


  



  
毘の軍旗
上杉謙信
上杉景勝と直江兼続
上杉鷹山





 戦国の名将である上杉謙信については、多くの方々がブログなどで取り上げていますが、私も好きな武将の一人です。
 先日、地元の本屋さんへ行ったとき、『戦国の「いい男」「ダメ男」』という面白そうな文庫本があったので手にしました。何人かの戦国武将の事績に対して作者なりのうんちくが語られ、最後に○×をつけるという、肩の凝らない内容でした。
「ダメ男」の烙印を押されたのは、織田信長、豊臣秀吉、朝倉義景、徳川家康など・・・。一方、「いい男」は明智光秀、竹中半兵衛、石田三成などでした。

「いい男」の筆頭は上杉謙信で、「戦国乱世きっての品格」と称賛されています。
【上杉謙信といえば、戦国武将の中で一番品格のある武将だろう。私たちのイメージにある謙信は、「毘」と「龍」の軍旗を翻して、白い馬に跨っていくカリスマ的武将だ。あのような品格とカリスマ性のある美しさはどこからくるのか。戦陣にあっても琵琶を弾じ、詩を吟ずるなどという貴公子は、平安武士の平家にはあったかも知れないが、汗臭い戦国武将には珍しいことだ。能登七尾城攻めの時の「霜ハ軍営ニ満チテ秋気清シ」に始まる七言絶句の漢詩など、溜息が出るほど美しい。 ※中島道子『戦国の「いい男」「ダメ男』より抜粋】 
 - 謙信ファンなら、思わず「うん」とうなずくところです。

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三ツ森神社ーつがるみち358


三ツ森神社


 弘前市に「富栄(とみさかえ)」という集落があります。
 明治9年(1876)に、近郷の「鶴田村」「三ッ森村」「四戸野沢村」「小島村」の四村が合併して成立した村ですが、「富栄」という名前は、
「合併した新しい村が、将来、富んで栄えるように」という願いから名づけられたものとされています。
 



 合併した四村の中のひとつである「三ッ森村」は、文字通り、かつて地内に「三つの森」があったので、そう名づけられたといわれていますが、ここに三ツ森神社が鎮座しています。
『県史』などによると、
「万治二年(1659)、長利甚左衛門なる者が、この地域において、多数の墾田を開発した功績により弘前藩へ召し抱えられた」とあり、三ッ森村はその当時から開発が進んでいたと思われます。
 また、「当時、村中抱えの観音堂があった」とされており、この観音堂が現在の三ツ森神社の前身であったようです。




 その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命   県庁備付の県内各神社由緒調によれば 「創立年月日不詳。 明治六年四月、 村社に列せらる」 とある。 元禄の社堂縁記、 及び安政二年の神社微細調等には 「高杉組、 三森村産神之社、 千手観音堂壱宇。」 とあるが、 これは、 元来、 飛龍宮、 又は飛龍権現と称えられてあったのを、 明治三年、 神仏混淆御仕分けの際、 現在の神社名に改められた。※青森県神社庁HP 】とあります。
 御祭神の伊邪那岐命・伊邪那美命や、かつて「飛龍宮」とよばれていたところをみると、熊野修験と深い関わりのある社のようです。
  隣接して独狐(とっこ)という集落がありますが、独狐という地名は、「かつて修験が当地にいて、仏具"独鈷杵"から名づけられたもの」といわれており、一帯は、かつて修験の場であったとされています。

 そのような歴史を示すように、参道の入口には「飛龍宮」の碑が立っています。道の途中には庚申塔や猿田彦の碑がありました。

 境内は無数の杉の木に囲まれており、とても静かでした。大木というほどではないのですが、趣のある杉の木も何本か生えています。
 拝殿の前には、神馬や狛犬が置かれていましたが、ここの狛犬は、その目と口元が白く塗られており、面白いのですが、少しギョッとします。

◇三ツ森神社

  



  


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Category: ふるさと【東北・青森】 > つがる市   Tags: つがるみち  水虎様  

沼崎稲荷神社ーつがるみち357


沼崎稲荷神社


 つがる市稲垣町(旧稲垣村)の沼崎という所に稲荷神社が鎮座しています。
 この神社は、昨年の暮れに同じ稲垣の春日神社を訪ねた帰り道に偶然見つけた神社です。
 岩木川の土手の下に広がる集落の道路を走っているときに、田んぼの中に赤い鳥居が立っているのが見えたので、行ってみると稲荷神社がありました。




 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 猿田彦大神 大宮姫命  貞享元年七月十日に勧請す。 明治六年四月に出野里神明宮に合祭される。 明治七年十二月復社。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 その詳細については分かりませんが、貞享元年(1684)の創建とされているところをみると、やはり、一帯の新田開発とともに生まれた社のようです。

 由緒に「出野里神明宮に合祭される」とありますが、出野里(いでのさと)は、旧木造町の集落です。ここ稲荷神社のある沼崎周辺は、稲垣と木造の境目にあたる所で、出野里神明宮の由緒にも「稲垣村豊川の春日神社及び同村沼崎の稲荷神社の2社を合祭」と記されています。

 稲垣といえば「化粧地蔵」ですが、この神社の入口付近にも地蔵堂があり、中にはおそろいの着物を着たお地蔵様が祀られていました。一の鳥居のとなりに、もうひとつ鳥居があって、その奥には百万遍の塚と庚申塔があります。

 境内には大きな神馬などがありますが、稲荷神のお使いであるきつね像も四体置かれています。いずれも頬かむりしている姿は、いかにも「西津軽」といった感じです。

◇沼崎稲荷神社

  



  





 参道の右側にも鳥居があって、小さな祠がひとつ立っています。中を覗いて見ると、緑色の岩に腰をかけ、両手を合わせた女神様が一体祀られていました。どうやらこの女神は水虎様のようです。
 水虎様は元々、
「水害の原因である水中に住む河童の霊を鎮めるために祀られた神様」で、その姿は河童だった分けですが、次第に亀に乗った女神姿のものも多く祀られるようになっていきました。

 ここ稲荷神社の水虎様は、「白い体と亜麻色の長い髪」の神様で、一見女神様のようですが、よく見るとその表情は河童の面影を残しています。
 すべての水虎様を訪ねてみた分けではありませんが、80以上もあるといわれる水虎様の中には、典型的な「河童型」と「女神型」のものの他、こうした「河童のような女神のような」姿形のものもあります。

◇水虎様 - 河童型から女神型へ
 
  


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 秋田県   Tags: みちのくあれこれ  縄文と弥生  

大湯環状列石と浅間神社ーみちのくあれこれ9




 秋田県鹿角市の大湯環状列石は国の特別史跡にも指定されており、青森県の三内丸山遺跡と並んで、東北を代表する縄文遺跡です。
 その特徴は、何といっても整然と配置されている環状列石(ストーンサークル)なのですが、その造られた目的については、「共同墓地」や「司祭場」、「日時計」などの諸説があり、はっきりとは断定していないようです。
 ストーンサークルはそれ自体がミステリアスなのですが、付近には聖なる山・黒又山もあり、両者は密接なつながりをもつものとされ、古代史(超古代史)ファンの関心を惹きつけています。





 発掘調査の結果、大規模な「祭祀施設」であったことが次第に明らかになり、その遺跡の概要は書籍やネットなどで数多く紹介されています。
【秋田県北東部、鹿角市の米代川上流に位置し、その支流である大湯川左岸、標高180m程の台地上に構築された、縄文時代後期前葉から中葉(紀元前2,000年~紀元前1,500年頃)の環状列石を中心とした遺跡です。環状列石の形態は、定住とともに発達した集落形態である環状集落を背景としたものと考えられます。遺跡の中心として万座(まんざ)と野中堂(のなかどう)の二つの環状列石があり、それぞれの環状列石を取り囲むように、掘立柱建物跡、土坑・貯蔵穴、遺物廃棄域が同心円状に配置されています。これらの遺構とともに、日常使用する土器や石器、土偶や土版、鐸形土製品、石棒、石刀等といった土製品や石製品が出土しています。二つの環状列石の各々の中心と日時計状組石は一直線に並び、夏至の日没方向を指しており、四季を区分する「二至二分」や太陽の運行を意識していたことをうかがい知ることができます。構築場所を選定し、天体(太陽の運行)を意識し、豊かな労働力と精神性によって構築された縄文時代の代表的な環状列石であり、当時の精神文化を知る上で重要なものです。※HP「JOMON JAPAN 北海道・北東北の縄文遺跡群」より

  



 


 前述の説明に述べられているように、この遺跡は「万座遺跡」と「野中堂遺跡」という2つの環状列石で構成されています。
 2つは道路で隔てられていますが、どちらも直径40~50mの外帯と10~15mの内帯の二重の組石群からなり、両遺跡とも40組以上の組石があるといわれています。
「万座遺跡」の方には縄文期の掘立柱建物などを復元したものが建っていますが、一方の「野中堂遺跡」は、広い野原に環状列石があるだけで、どちらかというと素朴な感じがします。
 その「野中堂遺跡」のはしっこの方に(遺跡の一部に含まれるのかどうかは分かりませんが)、こんもりとした小さな森があり、そこに神社が立っています。

 実は「野中堂」という地名は、この神社に因んだものとされています。即ち、「野(原)の中にお堂(神社)がある」から「野中堂」という分けです。地名の由来になっているくらいですから、古くからこの地に鎮座していた社なのでしょう。

 鳥居の扁額には「浅間神社」とありました。富士山の神霊である「浅間大神」を祀る神社のようです。詳細は分かりませんが、いわゆる「富士信仰」がこの地にも広がっていたということなのでしょう。
 日本の象徴である富士山に対する信仰は全国に及び、地域の富士山の姿に似た山を「○○富士」と呼んで崇めていますが、ここ大湯の聖なる山は、やはり黒又山で、その姿を拝める場所に、この神社が建てられたのでしょうか。

 小さな社殿の前に御神燈がありますが、そのそばに「野中観音堂」の碑が立っていました。
 社殿の真ん中に御神体をが納められた祠がありますが、その前には准胝観音(じゅんていかんのん)と、女神様が一体置かれていました。この女神様は浅間大神とされている「木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)」のようです。

◇浅間神社
 
  


  


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  

下岩崎愛宕神社ほかーつがるみち356


柳久保神社狛犬


 五所川原市方面へ出かけるときは、大釈迦(旧浪岡町)から国道101号線を通ることがよくありますが、その分岐点にあたる所に柳久保神社があります。
 ここには、かつて元光寺というお寺があったのですが、現在は移転し、跡地には地蔵堂などが立っており、そばには柳久保神社の一の鳥居があります。
 神社の境内は、その鳥居をくぐって急な坂道を登った所にあります。
 その由緒については、
【御祭神:大美那能売命(大宮能売命) 草創不詳なるも、 もとは梵珠山の近くにあり、 火災で村内沢田に移り、 明治四十三年、 現在地に移ったという。
 明治初年には相殿に能野宮・春日神社があった。※青森県神社庁HP 】とあります。

 この神社には、青森や五所川原の寺社を訪ねる際に何回か立ち寄りました。
 境内には、神馬が納められたお堂や、とぼけ顔の狛犬などがありますが、小高い山の上からは、国道が五所川原方面へまっすぐに延びているのが見えます。なかなかよい眺めです。

◇柳久保神社

  
参道
境内
末社
境内から



愛宕神社


 国道101号線を通って、五所川原市飯詰地区・下岩崎に鎮座する愛宕神社を訪れたのは昨年の11月でした。
 飯詰の町には飯詰城址や八幡宮を訪ねて何度か足を運んでいます。
 集落の中心部には長円寺をはじめ、いくつかの寺院が並んでいますが、長円寺の釣鐘は、昔、十三湖の底に沈んだという伝承をもつものです。

 下岩崎の集落は、長円寺の辺りから、少し進んだ所にありますが、その道路沿いに愛宕神社がありました。

二の鳥居から


 道路から見えるのは神社の後ろ側で、入口はそこから回り込んだところにありました。大きな社号標が立っており、一の鳥居からは、二、三と鳥居が続いている参道が見えます。
 参道の両脇にはたくさんの松の木が生えていますが、中には道を取り囲んでいるアーチのような面白い形のものもありました。
 境内はとても広く、神馬の像や交通安全の碑、御神燈と狛犬がそれぞれ一対ずつあります。
 私が訪ねたときはとても良い天気だったので、社殿の屋根の赤い色が鮮やかでした。その社殿のとなりに鳥居を伴った小さな祠がありました。
 祠の中を覗いて見ると、壁側には奉納された草鞋、床には馬の姿が描かれた碑が置かれていました。中央には三つの顔を持つ観音様が祀られていましたが、どうやらこれは馬頭観音のようです。

 この神社の由緒については、
【御祭神:軻遇突智命  創立年月日不詳 寛永の頃、 藤右エ門なる者、 金神林に於ける大木の根元にて奇異の三石を発見し、 霊夢に依り三宝荒神と崇め奉る。 明治四年愛宕神社と改める。 明治六年四月毘沙門鹿島神社へ合祭。 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 にわか勉強ですが、三宝荒神(さんぼうこうじん、さんぽうこうじん)については、
【日本特有の仏教における信仰対象の1つ。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する仏神である。三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)である。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがある。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、「かまど神」として祭られることが多い。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものである。※wikipedia他より】とあります。

「かまど神」は、台所などの火を使う場所に祀られる神で、「火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神」とされていますが、社に祀ることにより、家々の安全とともに村全体の繁栄を祈願したものなのでしょう。

◇愛宕神社

  
三の鳥居
境内
拝殿
本殿の木鼻


  
参道
神馬
馬頭観音
本殿


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 あっという間に師走になりました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
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