

弘前市の革秀寺(かくしゅうじ)は山号を「津軽山」、釈迦牟尼仏を本尊とする曹洞宗のお寺です。
その由緒については、
【津軽山革秀寺の創建は慶長3年(1598)、長勝寺(津軽家の菩提寺)の格翁和尚の隠居寺として開かれたのが始まりと伝えられています。当初、藤崎村にありましたが弘前藩初代藩主津軽為信が慶長12年(1607)に京都で死去すると、「岩木山が良く見える場所に埋葬せよ」との遺言に従い2代藩主津軽信牧が現在地に境内を移し菩提を弔う為に伽藍の整備を行いました。革秀寺の周囲には池や2重の土塁が築かれ家臣でも出入には制限が設けられるなど聖地化し、藩祖為信を神格化させると同時に弘前城は四神相応の思想に基づいて計画されている事から革秀寺の東側の蓮池は西方浄土に見立てられたとも考えられます。※HP「青森 歴史・観光・見所」より】とあります。
このお寺には、関が原の戦いの後、津軽に逃れてきた石田三成の二男・重成が持参してきた豊臣秀吉の木像(座像)が安置されています。秀吉像は、「秘仏」扱いされ、弘前城の館神として祀られていたのですが、明治になって、このお寺に移されたといわれています。
⇒ 以前の記事へ

その革秀寺のとなりにひとつの神社があります。名前は革彦稲荷(かくひこいなり)神社。蓮池の端っこの方に鎮座している社です。
一帯の町名は「藤代」ですが、かつてここには「藤代館」という城(館)が築かれていたといわれています。
この館の詳細については不明ですが、城主は革彦播磨という人物だったとされており、「革彦」という地名(?)は古くからあったようです。

この神社についてもその詳細は分からないのですが、革秀寺のHPには、
【当山鎮守・革彦稲荷。革秀寺と同じ歴史を持つ神社。革彦稲荷講では奇数月に例祭を行い、革秀寺の行事の運営、等々を行っています。】とあります。いわゆるお寺のお抱えの神社です。
片方は蓮池、反対側は住宅に挟まれたところに境内はありますが、金属製の注連縄が張られた鳥居をくぐると、狛狐が二体置かれていました。
その奥に社殿がぽつんと立っています。中には入れませんでしたが、穴から覗きこむと祭壇に白狐が祀られているのが見えました。
御祭神は倉稲魂神と思われますが、社殿の扁額には「荼祗尼尊天」と書かれています。境内には同じく荼祗尼尊天と刻まれた碑も立っていました。明治の神仏分離以前は、荼枳尼天(だきにてん)を祀るお堂だったようですが、社殿に仏具の一種である鰐口が下げられているのは、その名残りでしょうか。
荼枳尼天は、仏教の神で、ヒンドゥー教のヤクシニー(半女神)に由来するといわれていますが、日本では稲荷神と習合し、白狐に乗る天女の姿で表されることが多いようです。
戦国時代には、戦いの神様として多くの城内に祀られたりもしましたが、一方では「憑き物落としや病気平癒、開運出世の福徳神」として信仰されるなど、多彩な顔を持つ神様です。
神仏分離以来、荼枳尼天を祀っていた稲荷社の多くは宇迦之御魂神などを祭神とする稲荷神社となりましたが、今日でも寺院の鎮守稲荷の多くは荼枳尼天を御神体とするところも多いといわれています。この革彦稲荷神社もそのひとつなのでしょう。








ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆つがるみち☆

