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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

ぶらぶらと2-つがるみち373




 三月弥生も終わりです。
 今月に入ってからは、雪解けも大幅に進み、春らしい陽気が続いていましたが、先日は寒気団がやってきて、一時的に辺りは冬景色に逆戻りしました。本格的な春の訪れは、もう少し先のようです。
 この時期の神社の様子は、境内にふきのとうが顔を出していたり、草の緑色が少し濃くなっていたりしますが、一方では、日陰に残雪があったりと様々です。
 以下は、そんな三月に訪れた神社の風景のスナップですが、上から、平川市猿賀神社、弘前市岩木山神社、黒石市中野神社、青森市高屋敷神明宮です。



◇猿賀神社

  


◇岩木山神社

  


◇中野神社

  


◇高屋敷神明宮境内から

  


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: つがるみち  

高屋敷神明宮ーつがるみち372


高屋敷神明宮


 青森市浪岡高屋敷(たかやしき)は、大釈迦に向かう途中にある集落です。
 国道7号線沿いに広がっている村ですが、その付近にはため池が数多くあります。
 その名前も「宇之助ため池」とか「惣エ門ため池」とか、土地の開発の歴史を感じさせるものですが、ため池から延びた用水路もたくさんあり、辺りの土地を潤しています。


一の鳥居


 そんな高屋敷の集落に神明宮が鎮座しています。
 道路のすぐそばを堰(用水路)が流れていて、近くには小さな水門があり、そのそばに赤い鳥居があります。「神明宮」と彫られた扁額の下には、津軽特有の幾何学模様のジャンバラ型注連縄が下がっていました。
 鳥居の後ろを堰が流れていて、その傍らには小さな末社と庚申塔が立っています。神橋があり、そこを渡ったところが境内になります。
 社殿は南向きに立っていますが、その前には狛犬が一対。拝殿の扉が開いていたので、中を拝みましたが、その壁にはたくさんの絵馬が奉納されていました。
 境内の東側には雪解け姿の田んぼが広がっていましたが、ここからは、真っ白な雪をかぶった北八甲田と南八甲田の山々が見えました。

 この神明宮の由緒については、
【御祭神:天大日霊命  草創不詳というも、 宝永三年四月十二日預主工藤権七及び村中にて建立した。 御棟札二体あり
寛政四壬子年四月 天保七丙申年四月  ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇高屋敷神明宮

  


  



八甲田山


 高屋敷は古代(平安時代後期)の大規模な集落があった所で、高屋敷館遺跡
高屋敷館遺跡想像図 ※青森県HPより
として、国の指定を受けています。

◇高屋敷館遺跡
【平安時代後期の集落跡。濠と土塁をめぐらして外部からの攻撃を防御する、いわゆる環濠集落としてとくに規模が大きい。以前は中世の城館跡と見られていたが、国道バイパス建設にともなう発掘調査によって古代のものとわかり、バイパスが路線を変更することで遺跡全体が保存され、2001年(平成13)、国指定史跡となった。南北約100m、東西約80mに広がり、西側には、幅約6m、深さ約3mの濠がめぐらされ、外側に幅約2m、現状の高さ約1mの土塁が築かれて集落を外部から遮断する形になっている。濠の西側に土塁の切れ目があり、南西部にも木の橋が架けられて、出入り口が設けられていたと見られる。濠の内部は大小の竪穴(たてあな)住居が重なって密集し、現在86棟が確認されている。ほかにも多数の住居跡が存在し、多くの人々が長期にわたって生活したことがしのばれる。鉄滓が出土した住居もあり、鍛冶工房だったと考えられる。土器のほか、鉄製品、木製品が豊富に出土している。遺跡北側にはこの遺跡に先行する時期の円形周溝遺構などがあり、高屋敷館遺跡成立以前の状況も具体的に推定されている。東北地方の北部以北の地域は律令国家の直接的な支配が及ばない地域であり、11世紀後半には前九年・後三年の役など東北地方の戦乱もあり、それ以前から、蝦夷(えみし)の集団相互の抗争もあったと想像されている。 ※コトバンクより

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  

境森神明宮ーつがるみち371


境森神明宮


 田舎館村の神社めぐりが続きますが、今回は境森の集落に鎮座している神明宮です。
 先回、前田屋敷神明宮の記事でも少しふれましたが、境森(さかいもり)は、南北朝期に南朝方に属した前田氏が居館を構え、治めていた所です。
 すぐ隣の村は「和泉」といいますが、時代は不明ですが、ここには津嶋和泉という武将の「和泉館」という城(館)があったとされていたり、同じく隣には砦を思わせる「土矢倉」という名前の集落があったりと、一帯は、何かしら中世の歴史を感じさせる所です。

 この神明宮は、集落の端っこの方に鎮座していますが、その入口には門柱があり、「弘化三年」と刻まれた大きな庚申塔がありました。門をくぐり、鳥居をくぐると広い境内へと出ます。

◇神明宮境内

  





 境内には御神燈のほか、神馬と狛犬がそれぞれ一対ずつ。社殿の隣には忠魂碑や従軍記念碑などが立っていました。
 この神社の由緒については、
【御祭神:大日め尊  創立は延暦十二年 (七九三) 六月、 坂上田村麻呂が蝦夷退治の祈願の為、 大日女尊を祀り大日堂を建立す。
 天正六年 (一五七八)、 津軽藩祖為信公が浪岡城を攻撃せんとして、 軍兵を率いて当社の森地にて休憩した時、 為信公すこぶる睡眠を催し、 夢に天照皇大神の教えを受け、 進撃の功を奏すと伝えられる。 明治三年仏号を廃止し、 神明宮と改め、 明治六年村社に列せられる。 昭和二十三年四月二十四日、 国有財産の譲与の許可を受ける。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇本殿、狛犬など

  





 由緒にあるように、この神社には坂上田村麻呂の話が残っている分けですが、「田村麻呂が戦勝祈願のため○○を祀り・・」とか「窮地に陥ったとき、○○神が現れて田村麻呂軍を勝利に導いた」などの話は、多くの津軽の神社縁起で語られていることです。
 もちろん、田村麻呂東征の話は伝説に過ぎないのですが、要するに【神仏の加護を受けた、いわば「正」の東征軍が、まつろわぬ「邪」の蝦夷軍を打ち滅ぼす】というもので、そこには征服に対する一種の「正当性」みたいなものが述べられている分けです。
 津軽には、このような往古の田村麻呂の話と同様の話が、戦国時代の大浦為信による津軽統一の話として伝わっています。

◇曼字(卍)と錫杖の話
【岩木山に住み着く鬼(蝦夷)を征討するためにやってきた坂上田村麻呂は、兵たちに曼字の旗と錫杖印の戟をそれぞれ十二ずつ持たせて戦わせた。ある時、兵の飲み水が足りなくなり、窮地に陥ったのをみた田村麻呂は、錫杖戟を以て岩を穿った。すると、水が滾々と湧き出してきて、難局を乗り切る事ができ、戦いに勝利することができた。】

【ある夜、為信の夢枕に、異様な姿をした二人の童子があらわれた。そして、「われらは、昔からこの岩木山に住み、勧善懲悪を宗として、民を教戒することを心としてきた。公(為信)よ、今こそ、この津軽の国を治める時である。急ぎ実行せよ、われらが加護致す。」と告げた。為信がその名を問うと、二人は「卍」「錫杖」と答えて消え去り、同時に夢もさめた。そこで為信は、これぞまさに岩木山権現の霊験と喜び、旗印に卍、馬印に錫杖を用い、さらに兜の前立にも錫杖をつけたのであった。】

 南部氏の支配下から独立し、津軽統一を成し遂げた津軽氏にとっては、往古の田村麻呂と同様に、自分たちもまた神仏の加護に守られた氏族であることを流布する必要があったのでしょう。ここ境森神明宮の由緒は、そのことを端的に物語っているように思います。

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枝川稲荷神社ーつがるみち370


本殿のきつね


 田舎館村の村民憲章には、「秀峰岩木のみねを仰ぎ、浅瀬石川の清流にうるおされている土地に住む幸せを感じ・・」と書かれています。
 豊かな水と肥沃な土壌に恵まれた村は、「北方稲作文化発祥の地」としても知られていますが、田舎館駅の前には「田舎館米発祥の地」と書かれた標柱が立っています。




 枝川は、田舎館駅から少し離れた所に広がる集落ですが、ここに稲荷神社が鎮座しています。
 集落の中心部を道路が通っていますが、その道路沿いにこの神社は立っています。
 一の鳥居に架かっている注連縄は、大変立派な物で、金色に光っていました。そこから道路にそって、二、三、四と鳥居があり、細い参道が続いていますが、鳥居と御神燈の朱色がとても鮮やかです。
 細長い境内には、敷石記念の碑や御神燈、手水舎などがあります。拝殿は割と小ぶりな造りで、その後ろに、赤い玉垣に囲まれた本殿がありました。
 稲荷神のお使いであるきつねは、本殿の中に一対、向かい合って座っています。

◇境内
 
  


 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神 素盞鳴尊  往古、 神八之助の宅神を寛永元年 (一六二四) 枝川三堰の守護神として現在の社地に祠を建立、 灌漑地域の藩代官を始め、 水域農民の崇敬頗る厚く、 年々の祭事には、 多数の人々が参拝し、 供物を献じ、 盛大なる祭事が行なわれたと伝えられる。 明治七年五月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇御神燈、本殿など

  



本殿のきつね


 由緒に「枝川三堰の守護神として」と書かれていますが、「枝川三堰」とは、農業用水路のことで、「枝川堰・諏訪堂堰・大曲堰(※いずれも集落名)」を指しています。その中の大曲堰については、「宝暦年間(1751~1764)に開削されたという言い伝えがある。 堰の延長は11kmで、350haを灌漑している。」とあります。

 浅瀬石川を含む岩木川水系は、夏期の雨量が少ないために、しばしば水不足に陥り、農民たちを苦しめていました。そのため、江戸時代になり、水田開発が本格的に行われるようになると、浅瀬石川からの取入堰
取入堰
が数多く造られました。
 その管理運営については、
【江戸時代の用水管理は、各用水の水下農民が用水組合を作り、その自治によって行う形がとられていました。藩営事業で開削した水路を農民に渡し、受益者負担で管理するシステムは、官民一致の理想を具体的に示したものですが、実際には激しい水論(用水配分の利害損失を巡る争い)を引き起こす最大の原因として、藩政上、常に悩みの種でした。】とあります。
 実際、江戸から昭和初期にかけて、
【灌漑用水の引き入れ時期に旱天が続き、本川の浅瀬石川が渇水となったときは、一滴の水も譲るまいと熾烈な争いが続けられ、関係農民の感情を疎隔させ、ひいては行政にも影響を及ぼすことが多かった。】とされています。

「堰の守り神」として鎮座するこの稲荷神社は、そのような水争いの根絶と村の繁栄を願って建立された社なのでしょう。

※東北農政局PDF「北奥羽調査だより ~浅瀬石川地区の生い立ち~」を参照しました。

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東光寺八幡宮ーつがるみち369


境内から


 田舎館村の東光寺は、旧常盤村と黒石市と境を接する所で、先回取上げた前田屋敷の隣の村にあたります。
 かつてはこの両村に、「東光寺小学校」と「前田屋敷小学校」という小学校がそれぞれありましたが、戦後に統合し、両方の村名から「光」と「田」をとり、「光田寺小学校」と名づけられました。
 現在では、その光田寺小学校も統合され、廃校になっています。




 米どころ・田舎館村らしく、東光寺は辺り一面を田んぼに囲まれた村ですが、その中の高田という集落に八幡宮が鎮座しています。
 道路沿いに鎮座している社ですが、一の鳥居の右横には小さな地蔵堂があり、そのそばには百万遍の塚が立っていました。
 左横には、庚申塔や二十三夜搭が並んで立っています。鳥居の扁額の下には大きく重そうな米俵が乗った注連縄が架かっていました。
 境内には、四対の御神燈と一対の神馬、そして狛犬が参道の両脇にずらっと並んでいました。風化の具合をみて、その都度修築しているようで、中には新しいものもあります。地域の崇敬の表れでしょうか。
 狛犬は本殿にも一対置かれていました。小さいながらもなかなか迫力のある表情をした狛犬です。
 社殿の後ろ側には田んぼが広がっていて、頭に雲をかぶった岩木山が見えました。

◇本殿、末社など

  






 この八幡宮の由緒については、詳しくは分かっていないのですが、
【御祭神:譽田別尊  当社は建立不詳というも、 古くから東光寺村内に常光寺道という小路があり、 その北傍の僅かの場所に祠があった。
 天文十年 (一五四一) 、当村字高田の地の開基で太左衛門という者が移住し、 これを深く崇敬す。 これより年々移住の者増加して、一〇〇年を経て、二十余りの戸数になる。
 天正年間 (一五七三~一五九一) 、村中一同協議の上、 社殿を新築し、 初めて産土神と崇め、崇敬し、 今日に至る。 明治四年神社改正に付き村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 
 集落の成り立ちがよくわかる由緒書きですが、この神社は、そんな村の発展の様子を見つめ続けてきたのでしょう。

◇境内

  


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前田屋敷神明宮ーつがるみち368


神明宮


 田舎館村に前田屋敷(まえだやしき)という集落があります。少し珍しい名前なので、以前、知り合いに地名の由来をたずねてみたことがありました。そうしたら、「昔、前田様の屋敷があった所だから」ということでした。
 詳しいことは分かりませんが、南北朝時代には、南朝に組する「前田氏」が、隣村の境森を中心に、領主として辺り一帯を治めていたということです。その前田氏の館跡といわれている所が神明宮です。




 この神明宮の由緒については、次のように紹介されています。
【御祭神:天照皇大神  由緒不明なれど、 往昔より村中の信仰厚く、 明治六年神社改革の節、 神明宮として無格社に列し、 同年隣村境森神明宮の氏子となり、 両神社共崇敬していたが、 遠隔と危路の為、 雪中参拝の困難を感じ、 教部省のお達しに基づき、 明治十六年、 両村協議の上氏子分離し、 大正四年十二月十三日、 村社に列し神饌幣帛料の供進を受ける。 昭和二十年七月一日、 宗教法人令により届け出をす。 ※青森県神社庁HP

「往昔より村中の信仰厚く」とありますが、この社は、かつては「大日堂」と呼ばれ、崇敬されていたようですが、これは、御祭神の天照皇大神が神仏混合では大日如来と同一神とされることからきたものなのでしょう。因みに、前田屋敷の隣は堂野前(どうのまえ)という集落ですが、昔は大日堂の門前町であったようです。
 また、由緒に「境森神明宮の氏子となり」と書かれていますが、この境森(さかいもり)に鎮座する神明宮は、坂上田村麻呂の創建とされ、戦国時代には津軽為信が陣をしいた所だともいわれています。

 前田屋敷の集落を流れる堰に真っ赤な神橋がかけられていて、それを渡ると境内へと出ます。かつての館跡ということですが、社殿の横や裏側には、段差が見られ、わずかにその面影を残しているようです。


  





 広いj境内には、末社や忠魂碑、落成記念碑などが立っていますが、その中に力士の顕彰碑もありました。「東京力士 大関 一ノ矢藤太郎之碑」と刻まれています。 
 田舎館村は第49代横綱・栃ノ海の出身地ですが、この一ノ矢藤太郎は明治時代に活躍した力士で、高砂部屋に所属し、当時は「高砂三羽烏」と謳われた実力者でした。大関にまで上り詰めましたが、引退後は角界に残らず、【地元青森に帰って土地相撲を率いて各地を巡業した。一ノ矢を慕って高砂部屋に入門するものが続出し、一時「津軽部屋」とも呼ばれたほどだったという。そうしたことから、「青森相撲王国中興の祖」と呼ばれている。※wikipedia「青森県出身の大相撲力士」より抜粋】とのことです。
 娯楽の少ない時代、一ノ矢をはじめとする郷土力士の活躍は、村民の誇りだったのでしょう。


 社殿の左側は広い森になっていますが、小さな鳥居の後ろには天保三年建立の庚申塔が立っていました。そのそばに大きなケヤキの木がありますが、なかなか見応えのある大木です。


  


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白山神社と加茂神社ーつがるみち367


白山神社


 青森市浪岡杉沢(旧浪岡町)は、奥羽本線と国道7号線に沿って広がる地区ですが、その上福田という集落に白山神社が鎮座しています。
 一の鳥居は道路沿いに立っていますが、すぐ隣は住宅になっていて、そこから細い参道が続きます。
 道路を挟んで、境内の向かい側は廃校になった小学校の跡地でした。
 その由緒については、
【御祭神:伊弉諾命 伊弉册命   草創不詳というも、 寛保二年 (一七四二)、 上様御安全、 五穀成就、 村中安全の為村中にて再建した。 御供米二斗村中にて年々寄付す。
 御棟札三体あり  宝暦十三癸未年十月吉日   寛政四壬子年四月吉日  天保七丙申年三月吉日 ※青森県神社庁HP】とありました。

◇白山神社

  



  



加茂神社


 白山神社からほんの少し歩いたところに、もうひとつ神社がありました。社号標には「加茂神社」とあります。
 この神社の一の鳥居も道路沿いに立っているのですが、参道にはまだ雪があり、ぬかるんでいたので裏手の方から行ってみました。
 川を渡ると境内へと出ますが、なかなか広い境内です。末社と旧社殿、拝殿、本殿などが立っていますが、角を生やしたちょっと寄り目の狛犬がユーモラスです。
 その由緒については、
【御祭神:別雷命  宝永三年 (一七〇六) 四月十二日、 願主工藤権七及び村中にて建立とある。 貞享御調べの時に雷電宮より書上げする由ありと言えども、 元来、 加茂宮にて古来の通り書上げする様申し入れて現在に至る。
御棟札二枚あり  一、 寛政四壬子年四月  一、 天保七丙申年四月 ※青森県神社庁】と説明されています。

◇加茂神社

  



  


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上十川八幡宮ーつがるみち366


上十川八幡宮


 前回取上げた黒石市青山の稲荷神社を過ぎると、上十川の集落になります。
「十川」という岩木川の支流の「上」の方に開けた村であるため、その名がついたと思われますが、近くには十川や下十川(旧浪岡町)という地名もあり、一帯はかつて「十川村」と呼ばれていたようです。
 その上十川の集落に八幡宮が鎮座しています。




 県道146号線の信号を右側に曲がると坂道が続きますが、その坂道の途中にこの神社はあります。
 周りには小学校や児童館などがあります。近くには長谷澤神社の社務所も建っていますが、「昔、上十川八幡宮から長谷沢神社社務所の前辺りはとても急な坂道だった。そのため荷車などで通行する際、坂を登り切れず途中で落ちていくなどの事故が多発し、亡くなる方も多かった。その方々を供養する為に供養塔が建てられた」という話も伝えられています。

 坂道の横から上の方へ石段が延びていて、石造りの大きな鳥居をくぐると境内へ出ます。小高い丘の上からは、集落の家並みやりんご畑などを見渡すことができます。大きなケヤキの木があり、拝殿の前には神馬と狛犬が一対ずつ置かれていました。

 丘の端っこの方に百万遍塚と庚申塔が立っていますが、そのそばには祠が三つ並んで立っていました。真ん中の祠は、身代わり地蔵尊のようで、お地蔵様が二体祀られています。

 この八幡宮の詳細については分かりませんが、次のような話が伝わっています。 
【八幡宮の御本尊は最初、大杉村大字徳妻子村(現青森市浪岡大字徳才子)に所属 していた。その御本尊と境内が失われた後、十川村の岩間彌五兵衛の親に度々枕神が立つことから、天和元年に彌五兵衛が徳妻子に出向き、境内が所在してと思われる場所から石仏一体を発見した。天和元年(1681)に十川村に社壇を建立し、その石仏をお迎えした。
その後、元禄9年(1696)に千葉孫平衛が木造を寄進して石仏と共に安置して以来、地元の住民が上十川八幡宮として祀っている。※上十川地区振興協議会HPより

◇上十川八幡宮

  



  



獅子踊保存会館

長谷澤神社奥の院石段


 神社の入口付近に上十川獅子踊保存会館があり、そばに、その由来を記した説明版が立っていました。
 上十川獅子踊は400年以上も前から地域に継承されている伝統芸能で、青森県の無形民俗文化財にも指定されています。
 この獅子踊が地域に根付くまでには、次のような経緯があったとされています。
【戦国時代、浅瀬石城主・千徳政氏(まさうじ)の時代に、南部から流れてきた六郎右衛門という者が浅瀬石川の川原に住んでいた。六郎右衛門は獅子笛を吹くのが好きで、毎日吹いていたが、それを聞いた愛宕の住職が、中野不動尊に納める獅子を作ってくれるよう、頼んだところ、六郎右衛門は早速、一揃いの獅子を作り、囃子の仕方も教えた。そのことが城主の耳にも伝わり、六郎右衛門は、天正十二年(1584)、獅子を城主に献上し、千徳氏の「お抱え獅子」の舞を完成させた。以来、城下では獅子踊が盛んになったが、慶長二年(1597)、津軽為信の攻撃を受け、浅瀬石城が落城すると、獅子踊も行われなくなり、上十川の村でも、古くなった獅子を獅子森に埋めてしまった。ところが、その十年後、村全体に悪疫が流行し、人々を困らせた。「これはきっと、身に降りかかる災難を救ってくれる獅子を埋めた祟りにちがいない」と考えた村人は、もう一度、太鼓や囃子をつけて獅子踊を行ったところ、悪疫は消えていった。上十川の人々は、その恩に報いるために、長谷澤不動尊(長谷澤神社)の拝殿から奥の院に通じる石段を造って奉納した。※黒石市民財団「わたしたちの黒石」より抜粋・要約

 こうして、上十川の獅子踊は「凶事退散の舞」として、地域に受け継がれてきた分けですが、例年、旧暦の八月八日に長谷澤神社で「獅子起こし」が行われ、八月十五日には、ここ八幡宮で「獅子納め」が行われています。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

青山稲荷神社ーつがるみち365


稲荷神社本殿


 黒石市青山は、黒石から旧浪岡町へと続く県道146号線に沿って開けた集落です。
 ここには「稲荷神社」が2つ鎮座していますが、同じ地区の中に同名の神社が存在するのは、少し珍しいといえるかも知れません。
 ひとつ目の稲荷神社は、閑静な住宅地の中に鎮座していますが、その由緒については、
【御祭神:倉稲御魂命  創立は延宝二年 (一六七四)、 東野添村中にて建立す。 その後、 由緒は火災による書類焼失のため不詳ではあるが、 明治五年九月十日村社に列格す。 更に昭和二十一年に至り国有境内地譲与申請のところ、 昭和二十二年法律第五十三号により昭和二十六年八月付を以て無償譲与され今日に至る。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 住宅に囲まれている神社ですが、その境内は広く、社殿の前には横幅の広い顔をもつ個性的な狛犬が居ます。境内には低鉄棒などもありますが、子どもたちの遊び場にもなっているのでしょう。

  



稲荷神社


 青山から少し進むと上十川の集落になりますが、その境目の辺りにもうひとつの稲荷神社があります。
 ひとつ目の稲荷神社から距離的にはさほど離れていないのですが、辺りの様子は全然違っていて、県道から少し離れた広い野原に、ぽつんと立っている神社で、周りはりんご畑になっています。

 御神木にはなっていないようですが、農道の脇に大きなケヤキの木が立っており、その隣に一の鳥居がありました。鳥居に架かる注連縄は金属製で、重量感たっぷりのりっぱなものです。
 御神燈とユーモラスな顔をした狛犬が一対ずつに拝殿と本殿という、いたってシンプルな境内です。本殿の隣には小さな末社が立っていましたが、その背後にはりんご畑が広がっていました。
 入口付近に小さなお堂があったので中を覗いて見ましたが、そこにはお地蔵様が祀られていました。お参りに訪れる人が絶えないようです。

 この神社の由緒については、
【御祭神:倉稲御魂命  宝永八年 (一七一一)、 勧請と棟札にあるが詳細は不明。 昭和二十一年三月二十五日宗教法人令による届け出を行なう。 浅瀬石川ダム建設のため昭和五十四年二月、 現在地に移転す。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。


  


  



虹の湖

沖浦ダム ※HP「ダム便覧保存館」より


 由緒に「浅瀬石川ダム建設のため昭和五十四年二月、 現在地に移転す」とありますが、元々この神社は浅瀬石川ダム近くの大字「沖浦」に鎮座していた社です。
 かつてこの集落には「沖浦ダム」があり、ダム湖は「虹の湖」と呼ばれていましたが、その名前は黒石市出身の詩人秋田雨雀が「ダム湖に大きな虹が架かったのを見て、2つの歌を詠んだ」ことにより命名されたといわれています。現在の浅瀬石川ダム湖の名称「虹の湖」は、それを引き継いだものです。
 浅瀬石川流域は夏期の雨量が少ないため、古くから水不足に悩まされ、水をめぐる争いも絶えなかったといわれています。また、一方では、ひとたび氾濫すると甚大な被害をもたらすことも多かったようです。
 沖浦ダムは、こうした事情を踏まえて、昭和20年に完成した多目的ダムで、「日本で初めて施工が開始された多目的ダム」として知られています。

 現在では、その役割を終え、昭和63年(1988)に完成した浅瀬石川ダムの湖底に沈んでいる分けですが、「水位の低下する7月頃からその姿を見せ、10月に入ると冬の発電に備えた貯水のため水位が上昇し再び水没する」このダムは、現在でも「砂防ダム」として、流域住民の生活に貢献しています。

 元々、この沖浦にあった稲荷神社が、どんな理由で、遠く離れたここ青山の地に移ってきたのか、その経緯についても知りたいところです。

※HP「ダム便覧」、建設コンサルタンツ協会誌・日本で最初の多目的ダム「沖浦ダム」 PDF 等を参照しました。

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向外瀬諏訪神社ーつがるみち364


諏訪神社の御神木


 弘前市では、いくつかの条件を満たし、「健全で、かつ、樹容が美観上特に優れていると認められる樹木」を「保存樹木」に指定し、保護しています。
 身代地蔵尊のハリギリ銀杏寺の大イチョウなど、市内の神社やお寺の境内には、指定された樹木が数多く見られ、それぞれ趣のあるものばかりですが、向外瀬に鎮座する諏訪神社の御神木もそのひとつです。

 指定を受けているのは御神木の「フジの木」ですが、説明板には、
【フジは、古来より神聖な樹木とされており、ツル性の植物でも成長が早い。ここのフジは、弘前市内では最大であり、青森県内でも有数の大きさである。樹齢は推定二百五十年。】とありました。

 なかなか見応えのある大フジですが、その枝は、もうひとつの御神木であるイチョウの木と絡み合い、二の鳥居の後ろに大きなアーチをかけていました。


  



諏訪神社


 向外瀬(むかいとのせ)は、弘前公園から少し離れた岩木川沿いに開けた集落ですが、その名前は「岩木川を挟んだ対岸の外瀬(とのせ)の向かいに位置する」ことから名づけられたといわれています。 
 周囲には学校や公共施設をはじめ、住宅が立ち並ぶ閑静な所ですが、諏訪神社は、その中心部に位置しています。

 その由緒については、
【御祭神:建御名方神  本神社は建御名方神を主神として奉斎し、 創立年月日は不評であるが、 元は諏訪宮と称され、 堂社破損等の節あり村中にて再建された。 明治三十四年神饌幣帛料供進の村社に指定。 ※青森県神社庁HP】とありますが、その詳細については分かりません。

 一の鳥居のそばには、庚申塔と二十三夜搭。その後方に末社がひとつ立っています。
 フジとイチョウのアーチをぐぐった境内には、狛犬が二対置かれていました。
 本殿はなかなかりっぱな造りのもので、その扁額には剣が埋め込まれていました。

  



  





 境内に立つ御事歴には、御祭神の建御名方神(タケミナカタ)について書かれています。
【武南方命ハ大國主命ノ御子ニシテ事代主命ノ御弟ナリ天孫降臨ニ先立ッテ健甕槌命経津主命ノニ神出雲ニ降リ大國主命ニ大御神ノ勅命ナリ此ノ國土ヲバ挙ゲテ天孫ニ奉献スベシト傳ヘラル御兄事代主命は直ニ之ヲ諾セラレ武南方命ハ多少異議ヲ唱ヘラレシモ後信濃國諏訪ニ退キテ大御神ノ勅命ニ従フベキコトヲ約セラル夫ヨリ命ハ此地方ノ開拓ニ着手シ草木生茂リ猛獣毒蛇等群棲セルヲ次第ニ伐採シテ民ニ農耕ノ業ヲ教ヘ又養蚕ノ法ヲモ傳ヘラレタレバ後世武南方命ヲ耕作ノ神トシテ五穀豊穣ヲ祈レリ又軍神トシテ崇敬セラル】

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一町田八幡宮ーつがるみち363


一町田八幡宮


 弘前市一町田(旧岩木町)の早稲田の集落に八幡宮が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:誉田別尊  長享二戌申年、 津軽家の祖先種里城主大浦信濃守光信公の創建になりしが其後元和の大凶歳に当り元和二丙辰年に至り在方建立仰付らる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、一の鳥居に立っている説明板には、
【当八幡宮はもと二本木にあったものが、明治初期、兼平天満宮に移り、後、現在地の深山宮境内に移ったものである。二本木には、安東氏にまつわる伝承もあり、その関係をうかがうことができる。】と書かれていました。




 一の鳥居の両脇には説明板が二つ立っています。ひとつは、前述の八幡宮のものですが、もうひとつは「深山宮」の由緒について次のように述べられています。
◇深山宮(一町田)
【深山宮の元来の主神は、速玉男神であり、紀州熊野速玉大社の主神である。
 深山の地名は深山宮に由来し、延宝年間の宮帳によると、永正元年(一五〇四)建立とあるが、中世の津軽の雄であった安東氏が紀州熊野神社に失地回復祈願の記録があり、熊野信仰の古さを物語る。
 当社は明治初年神仏分離により、兼平天満宮に移り、後、二本木の八幡宮と共に現在地に復元、合祀して八幡宮の社号のもとに祀られた。】

 八幡宮と深山宮という二つの社が、一時期、兼平天満宮に合祭され、その後、現在の場所に移った分けですが、そういういきさつもあって、この神社は「深山八幡宮」とも呼ばれています。
 境内には、八幡宮と刻まれた大きな社号標の他に、頭でっかちの狛犬や神馬、二十三夜搭、庚申塔、青面金剛の碑などがありますが、「深山大神」と書かれた碑も立っていて、この神社の縁起を示しているようです。

  



  





 由緒にも書かれているように、この神社は安東氏と深い関わりを持つ社のようです。
 藤崎城を中心にして津軽地方を支配していた安東氏は、やがて南部氏の攻撃をうけ、次第に衰退していった分けですが、両者の戦いの足跡は旧岩木町にも残されています。
 新法師(しんぼうし)という集落には「安東義季一族の板碑」と伝えられている板碑が残っています。
【伝安東義季一族の板碑  津軽地方土着の豪族である安東(安藤)氏は、福島城に拠って勢威を誇ったが徐々に南部氏に圧倒され、享徳2年(1453年)に狼倉(おいのくら)館に立て籠もった安東(安藤)義季が南部氏の大軍に攻められて自害し、滅亡したと伝えられている。この板碑は安東(安藤)義季一族の墓所から移されたと言われるものである。※弘前市HPより

 また、高館山という山に安東氏一族が立てこもり、南部氏と攻防を繰り広げたといわれていますが、「南部氏に水の手を止められた一族は空堀に米を入れて、水が十分あるように見せかけた」という話(白米城伝説)も残されています。
 ここ一町田も、そんな中世津軽の歴史を伝える地域のようです。

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氷結せずーつがるみち362


乳穂ヶ滝


 寛政8年(1796)の冬、西目屋村の乳穂ヶ滝を訪れた菅江真澄は次のように記しています。
 【道のかたわらの鳥居をくぐると、夜中滝(よのなかたき)といって、その年の作物の豊凶を占う習俗をもつ滝のもとに出た。見れば二十尋ばかり高いところから、村雨のように水がはらはらと落ちかかっている。滝の下方の岩を新穂石(にほいし)といって、稲の新穂(乳穂)を束ねたかたちをしたところに水が凍りついていた。
 この水が日がたつにつれて降り積もる雪とひとつになり、ますます高く積み重なって、まことの新穂を積んだようになる。寒い年にはたいそう高く重くなり、暖かい年は低い。その程度をはかり、一月のころ藩主に申し上げて、来る秋の田の実りの豊凶を占い、予知するというのは、古く宮中で行われた「氷池(ひいけ)のまつり」と同じであろう。※菅江真澄『雪のもろ滝』




 乳穂ヶ滝は、高さ30m以上の崖の上から白糸のような水が流れ落ちている可憐な滝ですが、厳冬期になると滝壺に向かって一本の棒のように氷結することで知られています。
 その結氷の大きさや形状によって、その年の豊凶が占われてきたため、「世の中滝(※世の中とは稲作を指す)」とも呼ばれる滝ですが、現在も2月の末に豊作占いの神事が執り行われます。
 今年も先頃、「乳穂ヶ滝氷祭」が行われましたが、その様子が地元紙
地元紙
に載っていました。 
- 「寒さ緩み、結氷せず。豊作は期待薄」 -
 西目屋村の津軽ダム工事事務所のHPでは、「今日の乳穂ヶ滝」と題して、冬期の滝の様子(画像)を公開していますが、ここ数年の2月の様子を見ると、2012年には完全に結氷し、2013年もほぼ結氷しましたが、それ以降は結氷しておらず、暖冬傾向は否めないようです。
 先日、私も見に行ってきましたが、確かに、凍ってはおらず、雲のような水が下に向かって流れ落ちていました。

 農業と天気のことわざに、「暖かい冬は凶作」「厳冬はコメ豊作」「寒の大雪は豊作」というのがあります。
 冬は冬らしく、まとまった降雪がある年は野山に農業に不可欠な水が豊富に蓄えられ、水不足にならず、結果、豊作となる。
 また、「暖冬の時は病害虫が死なずに越冬してしまい、病害虫の被害が増えて凶作になる。反対に厳冬のときは、寒さで病害虫が死滅してしまうので、夏の被害も少なくなる。」といわれていますが、昔の人たちは、経験で、そんなことを感じ取っていたのでしょう。

  


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