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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
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車力町大山祇神社ーつがるみち385




 前回お伝えした牛潟八幡宮を過ぎ、さらに北上すると袴形池(はかまがたいけ)という大きな池が見えてきます。
 その形が袴に似ていることから「袴形池」と呼ばれるようになったということですが、牛潟池と同様、水深が3mほどで、冬場はワカサギ釣り客で賑わう農業用溜池です。
 牛潟池と袴形池に挟まれた地域が旧車力村の中心です。現在は車力町となり、つがる市役所の支所が置かれていますが、ここに大山祇神社が鎮座しています。

 その由緒については、
【御祭神:大山祇尊  初開享保六年 (一七二一) 氏子中より建立とあり、 七里長浜の砂岩木山の嵐を防ぐ屏風山の植林を鎮護する目的で建立したと伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、この神社もまた、木造筒木坂の山神社同様、屏風山の守り神として大山祇神を祀る社のようです。

◇大山祇神社
 





 この神社は高台にありますが、道路沿いの一の鳥居をくぐり、石段を上ると視界が開け、まるでグラウンドのような広い境内があります。
 参道には、三対、合わせて六体の狛犬がありますが、置かれている間隔が広く、一の狛犬、二の狛犬、三の狛犬といった感じです。私が訪ねたときには、境内で工事が行われていましたが、年々、境内全体が拡張されているような気がしました。

 社殿の後方は一段高い丘になっていますが、その下に末社が立っています。中を覗いて見ると、そこには馬頭観音が祀られていました。この祠の前には神馬像があります。

 拝殿の左側には、庚申塔が立っていましたが、そのとなりに石室があり、小さな祠がひとつと、両手を合わせた女神姿の水虎様が五体祀られていました。

◇狛犬、庚申塔、馬頭観音






 さて、袴形池ですが、牛潟池と同じく、この池にも平将門の伝説があります。
【袴形の池というのがあり、池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた。側仕えをしていた都から来た女が、この池で自分の袴を洗おうとした。ところが、どうしたことか袴は向こう岸に流れ、それを取ろうとした女も池に落ちて死んでしまった。そこで「袴潟」といい、また、池の形が袴に似ているので、「袴形」ともいう。※『青森の伝説』より

「池の側に城跡がある。昔、正子どの(平将門)という人がその城に住んでいた」とありますが、大山祇神社の近くには、かつて「柾子館(まさこだて)」という城(館)が築かれていました。
 この城は、弘元二年(1332)頃、鎌倉幕府の武将である柾子弾正という人物が、京からこの地に入部して居館とした城だといわれています。「正子どの」というのはこの柾子弾正のことなのかも知れませんが、それが平将門に置きかわっているようです(もちろん、伝説ですが)。
 余談ですが、「車力(しゃりき)」という地名の由来は、「砂力(サリキ)」からきたという説や、アイヌ語の「サルキ(草原の湿地帯)」を語源とするという説がありますが、その他に、前述の柾子弾正が「京都から牛車に乗って来た」ことに因むという話も残されているようです。

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牛潟八幡宮ーつがるみち384




 県道12号線を十三湖方面に進んで行くと、つがる市牛潟町(旧車力村)になりますが、ここに「牛潟大留池」という広大な池があります。
 水深は約3.5m、農業用の溜池として大きな役割を果たしているこの池は、冬場はワカサギ釣りでにぎわう所です。
 この牛潟池には、平将門に関する伝説が伝えられています。

【・・・牛潟という大きな池がある。承平の昔(九三一年ごろ)平将門がこのあたりの館に住んでいた。ある日、愛用の牛が突然ものに恐れて、この池に飛び込んで死んだ。それから牛潟とよぶようになった。※『青森の伝説』より

 津軽には源義経をはじめ、中央から逃れてきた人物の伝説がいくつかありますが、平将門もその一人です。青森市の入内観音堂には、将門の子孫がこの地に住み着いたとする伝承があったり、また、蓬田村の蓬田城には、文明年間に将門の8代後の子孫が城主となったという話も残されています。




 その牛潟池の岸辺に鎮座している社が牛潟八幡宮です。
 この神社の由緒については、
【御祭神:譽田別尊  慶長十七年村中にて建立、 明治六年四月に筒木坂山神社へ合祭。 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せられる。 昭和三年十一月四日神饌幣帛料供進神社に指定される。 昭和二十七年四月四日国有境内地譲与許可される。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 牛潟町は2013年に生誕400年を迎えましたが、それを記念してこの八幡宮で神事が執り行われました。
【慶長17年(1612)、赤石沢種里から来た石舘与助という人が、牛潟村に近野沢溜池と潟溜池を築き、山田川まで排水路を工事して、田畑15ヘクタールを開発したことを現在の牛潟町の始まりとし、牛潟八幡宮で400年記念の神事が行われました。※『広報つがる』より
 ー 由緒の詳細については分かりませんが、大切な神事が執り行われるこの神社は、集落の中心となっている社のようです。

◇牛潟八幡宮






 前には道路、後方には牛潟池が社殿のすぐそばまで迫っているという、比較的狭い境内ですが、敷地には鳥居をはじめ、御神燈、狛犬、神馬、庚申塔などが所狭しと並んでいます。
 草鞋を足に巻いた神馬の後ろ側に大きなケヤキの木がありますが、そのとなりに石造りの祠が立っています。その中にはお遍路姿のお坊さんを思わせる像が一体祀られていましたが、これは弘法大師の姿を表しているのでしょうか。
 末社は本殿のとなりと神馬のとなりに立っていますが、その中には石仏が安置されていました。
 拝殿の軒下に、「八幡宮」と刻まれた何やら異様な塊が掲げられていましたが、よく見るとそれは大きな亀甲でした。そのそばに説明書きがありますが、それによると「西海岸で死去していた大亀を拾い、牛潟温古萢羽黒神社前の水溜りにて解剖処理の上、甲を大事に乾かし、昭和3年に奉納した」ということです。
 ー 拝殿に大草鞋や鉄の草鞋、鬼の面などが掲げられている神社はよく見かけますが、亀甲は初めてです。

◇神馬、末社、本殿



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筒木坂 山神社ーつがるみち383




 津軽地方では、例年、田植えが終わった時期に「虫送り」という行事が行われます。「虫送り」は、稲に被害を与える害虫を追い出し、五穀豊穣と無病息災を願う農村の伝統行事です。
 その一連の流れは、「稲わらで虫(龍)の人形を作り、集落内を練り歩き、村の境に安置し、災いが村に入らないことを願う」というものですが、各地区ごとに個性的な「虫」が作られるなど、集落独特の取り組みも行われています。
 ⇒つがる市の虫送り
つがる市の虫送り ※つがる市HPより


 つがる市の筒木坂(どうぎざか)の集落でも、毎年、「虫送り」が盛大に催されます。柳の枝を腰に結び付けた若者が「荒馬」となり、行列の先頭に立って走りながら一軒一軒を回って歩き、それぞれの家が、行列の人をねぎらうために用意した笹餅や酒の肴を振るまうというお祭りが続けられています。




 筒木坂は、戸数はおよそ150、旧木造町の丘陵地帯に位置し、屏風山の林に守られるように、水田が広がっている集落です。
 この集落の産土社として崇められてきた社が山神社です。
 実際に訪れてみたのですが、一の鳥居のそばに立っている社号標には「大山祇神社」と刻まれていました。大山祇神社は、しばしば「山祇神社」や「山神社」となっていたりしますが、この社もそのひとつのようです。

 その由緒については、
【御祭神:大山祇神  創立年月日不詳。 明治六年旧社格を村社に列格。 明治四十二年神饌幣帛料供進指定。 ※青森県神社庁HP】とあるのみで、詳細は不明ですが、屏風山造林に際し、山林守護のため鎮祭が執り行われたという記録もあり、村の稲作の生命線である屏風山の林の守り神として崇められていたようです。

 私が訪ねた時には、ちょうど氏子の方々の総会が行われていたようです。拝殿の中には神主さんをはじめ、地域の方がたくさん集まっていて、にぎやかな会話がはずんでいました。今年の「例祭」や「虫送り」についての話し合いだったのでしょうか。

◇山神社境内






 道路沿いの石段を上ると、拝殿までの参道には鳥居が三つ。境内には、御神燈や狛犬、足に草鞋が巻かれた神馬などが置かれています。
 ひときわ目をひくのが、拝殿の横にそびえているクロマツの大樹です。一の鳥居のそばに「クロマツ」と書かれた標柱が立っていましたが、文字がかすれていたために、その高さや幹周り、樹齢などについては分かりませんが、この神社の御神木なのだと思います。
 少し大げさですが、クロマツの根元は、まるで巨人の足を思わせる形をしており、足の指でがっちりと地面をつかんでいるように見えました。
 そのクロマツのとなりに赤い屋根をした石づくりの祠があったので、氏子の方に聞いてみたら「水虎様だ。」と教えてくれました。

 扉を開けて中を拝んで見ると、真ん中に大小2体の水虎様が祀られていました。河童の姿をした木彫りの素朴な感じのする水虎様です。

◇水虎様ほか



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菰槌鹿嶋神社ーつがるみち382




 前回ご紹介した丸山八幡宮を過ぎ、県道12号線を進むと、亀ヶ岡遺跡へと至りますが、途中に菰槌(こもつち)という集落があります。
 集落の中に鹿嶋神社が鎮座していますが、その由緒などについては、
【御祭神:武甕槌神  創立年月日不詳。 明治六年旧社格を村社に列格。※青森県神社庁HP】と書かれているだけで、その詳細については分かりません。




 道路沿いに位置するこの神社は、境内の左右には民家、後ろ側は田んぼになっていて、明るく開けた感じのする社です。
 参道には神馬が一体と、御神燈と狛犬が一対ずつ。拝殿の横には庚申塔や二十三夜搭、猿田彦碑などが並んで立っていました。
 季節がら、境内の木々はまだ葉っぱがついていませんでしたが、社殿を囲むように背の高い木々が何本かそびえています。
 中でも、最も年輪を経ていると思われるものがオオバボダイジュの木で、手前に標柱が立っているところをみると、この神社のご神木なのでしょう。後ろから見ると、空洞化が進んでおり、いかにも「老木・古木」という感じです。

 拝殿の左側の木の根元に石造りの祠がありましたが、ここには馬頭観音が祀られています。末社の祠は境内の右側の奥に2つ立っています。小さな方の祠の中に祀られていたのは水虎様でした。

◇鹿島神社境内









 実はこの神社の境内には、かつて、多くの松の木があったそうですが、「強い風雪に耐えるだけの力が残っていないため」に、昭和52年、多くの村民が見守る中、すべて切り倒されたとのことです。
 その中の一本は、高さが約25m、幹周りが約4m、樹齢はおよそ230年のご神木でしたが、その切り株が拝殿の祭壇の横に置かれています。
 壁に、ご神木だったこの松の木に関する説明が記された額が掲げられています。

◇鹿嶋神社のご神木
「天和2年(1682)、舘岡村の野呂理左衛門が砂丘地に松の木の植林に成功し、寛延年間(1748-1751)には植林総数862,200本を数え、「緑の屏風山」と呼ばれ、美田4,000町歩、木造新田66ヶ村を形成するに至った。この頃には菰槌村の人々の生活も安定してきた。そこで村人は境内に松の木を植えて、この繁栄が長く続き、村に災いがないように神様に願った。
 しかし、津軽の村々の生活はきびしい自然とのつらく長い闘いの連続であった。天明年間の長雨、大風、冷害、霜害や、天保年間の天候不順、冷害などのため、境内の松の木の成長も十分ではなかった。切り株の年輪の間が、ものすごく狭い時期が何か所か見られるのはそのためである(※栄養もなく日も当たらず厳しい環境で育った木は成長も遅く目が混んでいる)。
 もちろん、米はほとんどとれず、人々は飢えに苦しみ、多くの人が死んだりした。飢饉のため、屏風山の松の木は切られて根は食料になり、木は米代になったりして、一時は30,000本にまで減ってしまった。けれども、この神社にあった松の木は切り倒されることはなかった。※説明書きを要約・抜粋。原文のままではありません。

 江戸時代の悲惨な農民たちの暮らしが伝わってくる記述です。そんな困窮した状況にも関わらず、境内の松の木を切り倒さなかったということは、この神社は村人が深く崇敬する産土社であったことを示しているように思います。

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丸山八幡宮ほかーつがるみち381




 つがる市木造(旧木造町)は、ため池の数がとても多い所で、十三湖に至る道路沿いには多くの池や沼が点在しています。
 有名な亀ヶ岡遺跡がある辺りには「大溜池」と呼ばれる大きな池がありますが、このため池は、2代藩主・津軽信枚がこの地に「亀ヶ岡城」を築こうとした際に、城の堀にするために造ったものといわれています。結局、築城の途中、幕府から「一国一城令」が発せられたため、「亀ヶ岡城」は幻となりましたが、その後、「大溜池」は農業用貯水池として活用されることになりました。
 4代藩主・津軽信政の時代になると、新田の開発が進み、ため池の整備や拡張が行われましたが、丸山地区にある「丸山ため池」もそのひとつです。
 



 県道12号線沿いに広がる丸山ため池ですが、住所は丸山竹鼻で、一帯からは縄文時代の石器などが発見されています。大きなため池の向かい側は小高い丘になっていますが、そこに八幡宮がありました。
 その由緒については、
【御祭神:誉田別尊  検地水帳によれば元文時代八幡社の一か所あり。 「宮建有之工藤河内抱」 と記され、 工藤河内が祭司していたことがうかがわれる。 明治六年四月越水村吹原天満宮へ合祭。 同七年復社、 同八年村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とありますが、詳細については分かりません。

 石段を上って、石造りの鳥居をくぐると、右手に赤い鳥居が続いており、その奥に社殿が立っていました。丘の上の境内からはため池や田んぼなどが見渡せます。
 境内には、御神燈と神馬が一体、狛犬が一対置かれていましたが、本殿の後ろ側には「大国主命」「岩木山神社」「猿田彦大神」と書かれた碑が並んで立っていました。

 丘の端っこの方に、石で造られた祠がひとつ立っています。中を覗いて見ると、そこには両手を合わせた水虎様が祀られていました。以前に尊殿堂を訪ねたときに拝んだものと似た感じの神様です。

◇丸山八幡宮









 丸山八幡宮を過ぎて、出来島方面へ車を走らせたのですが、途中に松林があり、道路際に「羽黒神社」と書かれた立て札がありました。
 案内にしたがって、林の中の細い道を進むと赤い鳥居があり、社殿がひとつぽつんと立っています。
 社殿の横は急な崖になっていましたが、下へ続く遊歩道があります。どうやらここは、丸山ため池の岸辺にあたっているようです。
 歩道を降りて、岸辺の方に行ってみましたが、枝にさえぎられて池はよく見えませんでした。道の周りの湿地には、白いミズバショウの花が咲いています。
 鳥居と社殿だけが立っている境内ですが、敷地にはベンチなども置かれており、これからの季節、農家の方々の憩いの場になるのでしょう。

 この羽黒神社の由緒などについては全く分かりませんが、古くから地域の崇敬を集めてきた社のようで、拝殿には「丸山羽黒神社讃歌」と題して、次のような一文が掲げられていました。

「津軽平野と丸山の 里を東に望みたる 屏風の山

 屏風山は津軽藩が今から300年ほど前に造林した「保安林」のことで、日本海からの潮風と飛砂を防ぐために丘陵地帯に植林し、そのさまが「びょうぶ」をめぐらしたようだとして屏風山とよばれている。
また、屏風山地域はスイカの産地としても有名であり、昼夜の寒暖差が大きいため糖度が増し、高い甘み・みずみずしさが特徴。
~青森県観光情報サイトアプティネットより~
の一郭に 老松茂る杜の中 里を加護して幾百年 羽黒の神は有難や」

◇羽黒神社



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強巻稲荷神社ーつがるみち380




 鶴田町は、全国で初めて「朝ごはん条例」を制定した町としても知られています。
 この条例は、町民の平均寿命が全国平均を下回っていること、朝食をとらない子どもが増加していること等の背景を受け、「ごはんを中心とした食生活の改善」とそれを支える体制づくりを目指し、平成16年に制定されました。




 鶴田町の米作りが飛躍的に発展したのは、他の津軽地方と同様に、江戸時代、津軽藩による大規模な新田開発が行われるようになってからのことです。
 この時期には、開発の安全と五穀豊穣を願って各村に多くの神社や祠が建立されましたが、強巻(こわまき)に鎮座する稲荷神社もそのひとつです。

 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  縁起には 「貞享三年津軽藩重役大道寺隼人、 間宮求馬の両士、 新墾巡親の折本村強巻氏神として建立」 また、 津軽郡村誌に 「貞享四丁卯年奥瀬某勧請」 とあるが、 貞享の新検地 (一六八四~六) 当時は無かったのであるから元禄十五年 (一七〇二) の大行院配下宮控帳にある 「元禄三年一戸五衛門草創」 が正しいと考えられる。 なお、 この神社は大行院の配下で見重院ともいって、 修験者 (山伏) の持宮であった。 明治六年大巻村稲荷神社へ合祭、 同八年二月復社、 同九年十二月村社に列せられ、 大正四年七月十二日神饌幣帛料供進指定神社となる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 由緒に出てくる大道寺氏は、代々、津軽藩の要職を務めた家柄ですが、元々は、大道寺直英(なおひで)なる武将が2代藩主・津軽信枚に召し抱えられたのがはじまりで、慶長19年(1614)頃のこととされています。この大道寺直英が「隼人」を名乗ったため、以後、それにならって子孫たちも大道寺隼人と称し、少し紛らわしいことになっています。
 上記の「貞享三年津軽藩重役大道寺隼人」は、年代からいって直英の3代後の大道寺繁清(しげきよ)を指していると思われますが、繁清は4代藩主・津軽信政を補佐した家老として有名な人物です。
 津軽信政(1646ー1710)の時代は、大規模な検地や新田開発が行われ、石高が飛躍的に増加した時代でしたが、大道寺隼人は間宮求馬等とともに、土地の有力者を指揮し、腕を振るっていたということなのでしょう。
 ですが、この検地や開発は、とても苛烈なものだったらしく、農民の側からは「百姓泣かせ」「百姓殺し」とさえいわれていたということです。
 



 強巻稲荷神社は、前回紹介した大巻の隣村にあたる集落に立っている社です。
 参道には、御神燈と狛犬がそれぞれ一対ずつ置かれているだけの、シンプルな境内ですが、社殿の横や後ろ側は広いりんご畑になっていて、後方には岩木山が見えました。
 拝殿の扉が開いていたので中を拝みましたが、ここには、稲荷神社らしく、きつねを描いた絵馬が数多く奉納されていました。そして、きつねの絵馬に交じって、船絵馬が、これまたたくさん掲げられています。「海に縁のない土地なのに」と不思議でしたが、岩木川を利用した水運発達の影響なのかも知れません。

 道路を挟んだ向かい側にも鳥居が立っていて、そこには二十三夜搭と庚申塔があり、祠が2つありました。その祠のひとつを覗いて見ると、その中には、亀に乗った女神型の水虎様が祀られていました。

◇強巻稲荷神社
 






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大巻稲荷神社ーつがるみち379




 鶴田町の大巻(おおまき)に稲荷神社が鎮座しています。
「大巻稲荷神社」と彫られた社号標や一の鳥居は比較的新しいもののようですが、鳥居の脇に立っていた碑文には、「昭和五十八年五月二十六日 日本海中部地震にて石鳥居が崩壊のため ここに木造にて建立する」と書かれていました。社号標の裏側にも同様の記述があります。

 住宅に挟まれた参道を、二の鳥居、三の鳥居とくぐって行くと、大きな石造りの鳥居があり、その奥に社殿が立っています。
 境内には、庚申塔や天照皇大神宮碑などがあり、拝殿の前にきつね像と狛犬がそれぞれ一対ずつ置かれていました。
 拝殿の左側(向かって)に、「熊野宮」と書かれた社号標と鳥居を伴った境内社が立っていましたが、この熊野宮は、後述する由緒とも関係する社のようです。

◇稲荷神社境内

  







 この大巻稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  縁起には 「当社は津軽藩士関甚左エ門なる者、 慶長年間南部家の圧制を避け本村内僻地に潜居、 漸時田圃と開墾し遂に一部落為すに至り、 自家崇敬の熊野宮を以て一時氏神とし奉仕の処、 開拓巧竣り数十戸の部落となりて全村協議を以て更に護穀神として現今の稲荷神社を建立したものなり」 とある。 また安政二年の書上帳には、 「宝暦七年産神に祭る」 とあるが、 この宝暦説は祭神を熊野さまから稲荷さまに更めた年代であり、 地誌草稿にある 「嘉永三年庚戌建」 は、 神社の再建年代と思われる。 安政当時は、 まだ祠時代で、 大部分の神社が三尺四面程度の建物なのに、 当社は約六尺四面、 雨覆は二間に四間という堂々とした社堂であった。 明治六年四月村社に列せられ、 明治四十二年八月二十七日神饌幣帛料供進指定神社となる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

「南部家の圧制を避け・・」はともかく、関甚左エ門という津軽藩士が神社の創建に深く関わったことは事実のようで、『北津軽郡神社誌』にも、
【・・百姓となりて田地を拓き、一部落を成すに至り、熊野権現を産土神とす。同人の墓所は村内に在りて今尚敬意を拂はれつつあり】と書かれています。

 ところで、稲荷神社といえば稲荷神のお使いのきつねです。拝殿前に一対と本殿にも一対、それぞれ向かい合って置かれていましたが、本殿の祠をよく見ると、その木鼻にも小さなきつねが彫られていました。




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水沼保食神社ーつがるみち378


保食神社一の鳥居


 藤崎町の水沼に鎮座している保食神社は、国道339号線から分かれた県道沿いにある社です。
 道路を挟んで、前方には岩木山、境内の後方には田んぼが広がっていますが、その境内の様子については、
【・・・境内には、江戸時代の道路の案内標識とも言うべき「追分石」(藤崎中学校の通りと国道7号旧道の交差点付近にあった)、三面六臂 (顔が三つ、腕が六本の像)の馬頭観音、江戸時代末・天保年間の庚申塔などがあります。※藤崎町『ふるさとの史跡散歩』より】と紹介されています。
 二の鳥居のそばに由緒書きが立っていますが、そのとなりに小さな碑が立っています。これが追分石で、全ての文字は読めなかったのですが、「道」の文字はしっかりと見えました。追分石のそばには天保年間の庚申塔があります。

 馬頭観音像は、追分石や庚申塔と反対側にあるりっぱなお堂の中に祀られていました。社殿の周りには、狛犬と神馬、末社などが立っています。

◇追分石、庚申塔ほか
 
 






 その由緒については、
【御祭神:保食神  草創年月は不詳なるも、 延宝年間 (一六七三~一六八一)、 観音堂を建立し、 初め惣染宮と称え奉り、 水沼村を氏子として堂社建立し崇敬、 信仰も厚く付近部落より参拝者多数ありと伝えられる。
 本殿の棟札には次のように記されている。
 

一、 明和八年三月
二、 寛政三年六月
三、 天保二年九月
 これに依れば、 氏子戸数少ないため、 五年毎に神事を行なう状況であったようである。 明治三年、 神社令公布に依り、 氏子協議の上、 保食神社と改め、 明治六年村社に列せられる。 大正八年六月、 拝殿内の社殿に祀っていた御神体を新たに造営した御本殿に移し奉り、 現在に至っている。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
 また、明治3年の神仏分離の際に、氏子が相談し、神社の名前を「保食神社」と改めた際に、産業・農業の神様である倉稲魂命(うけのみたまのみこと)と共に、風神様を合祀したと伝えられています。

◇保食神社境内

  


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三内稲荷神社ーつがるみち377


三内稲荷神社


 前回の続きになりますが、寛政年間に青森市三内の桜見物のために、この地を訪れた菅江真澄は、
【このあたりに名だたる三内の桜見てんと、つとめて大浜を出て、川渡り、新田村をへて、三内村に来たり。
 飯形、誉田のおほん神をあはせまつる社あり。※『すみかの山』】と書き残しています。




 文中に「飯形、誉田のおほん神をあはせまつる社あり」とありますが、「誉田のおほん神」とは、前回の八幡宮のことです。
 一方の「飯形」は「飯成」即ち「稲荷」のことと思われ、八幡宮にほど近い場所に鎮座している三内稲荷神社を指していると考えられます。
「村里いったい、すべて紅の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲きわたっている」と真澄が記しているように、一帯は、広く桜の名所として知られていたのでしょう。

 三内稲荷神社は、現在は栄町の諏訪神社の兼務社となっていますが、同神社のHPでは、次のように紹介されています。
【御祭神:稲荷大神  草創年月不詳、 延宝元年 (一六七三) 五穀成就、 村中繁栄の為村中にて再建。 安政二年の書上帖には、 油川組三内村稲荷宮一宇、 板葺屋根の建坪三尺四方の堂社、 萱葺の建坪東西五間南北三間の覆、 東西四十間南北五四間の境内がみえる。
 明治六年三月当本村三内村八幡宮へ合祀、 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せらる。
 三内の丘陸地には、 神社西南約1kmの三内丸山遺跡や三内沢部遺跡をはじめとして、 旧石器時代後期・縄文時代の遺跡や平安後期の住居跡が多数存在する。 また、 早くから土器を出土することが知られ、 菅江眞澄 「すみかの山」 に記事がみられる。 】

 辺りに小学校や中学校、幼稚園などが立ち並ぶ住宅地の中にある神社ですが、集落の中ほど、坂道の途中に境内がありました。一の鳥居の両側に巨木がそびえていて、まるで門のようです。
 両側に住宅が迫っている細長い境内です。狛犬などは置かれておらず、参道の奥に拝殿と本殿があり、その隣には猿田彦大神の碑と末社の祠が立っていました。

◇三内稲荷神社

  





 比較的狭い境内の中には、杉木立に交じって、注連縄が張られたイチョウやクロマツの大木がそびえていたり、大きな切り株などがあちこちに見られますが、この神社の境内は「三内稲荷神社の杜」と呼ばれ、青森市の天然記念物に指定されています。
 神社の入口には、その説明板が立っていますが、青森市HPには、

【天然記念物:三内稲荷神社の杜  黒松4株、銀杏1株、針桐1株  三内稲荷神社の建立年月日は不詳であるが、延宝元年(1673)に五穀豊穣を祈願し、村中で再建したという記録が残っている。
 この神社近くには、かつての豪族の館といわれる「お城ながれ」と呼ばれている地域があることなどから、かなり昔から大規模な集落があったと推察される。
 この神社を取囲む黒松、銀杏、針桐は樹齢200年から400年と推定され、戦火や枯死などによりその風致を失いつつあるものが多い本市の樹木群の中で、大樹としての風格を備えた有数の古木群として貴重である。】と紹介されています。

 戦火や枯死に加えて、宅地化が進み、古木の数なども少なくなっているようですが、境内の老木は、かつての「杜」の面影を今に伝えているようです。

◇三内稲荷神社の杜

  


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三内八幡宮ーつがるみち376


三内八幡宮


 青森市の三内地区は、特別史跡・三内丸山遺跡がある所ですが、ここはまた、古くから桜の名所としても広く知られていました。
 江戸時代の紀行家・菅江真澄は、三内の桜について次のように書いています。
【有名な三内の桜を見ようと宿を出た。遠近のどこの山も、村里いったい、すべて紅の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲きわたっている景色は、たとえようもなく美しい。世間ではすっかり過ぎ去ってしまった春の季節が、ここではいまなおとどまっている心地がして、野山の道もたいそうおもしろく眺めながら、三内村に来た。誉田のおん神をまつる社がある。
 三内の桜の花は、ふつう世間にある桜と似ていない。一本の木に二枝、三枝ささやかに茂って、花に花の寄生があるようで、またとたぐいのないものである。たいそう小さい花がびっしりと生い立って、この小桜にも小枝がまりのようにさし込んでいて、枝ぶりは皆同じであった。村長に尋ねると、「これが名高い三内の千本桜といってまたと他にない桜である。天明三、四年の凶作の前までは、吉野は別として、広い世の中にもこのような見事な桜花のあるところはなかろうと、わが住む郷里ながら花の咲くころは誇りにしていたが、荒廃した世情のために薪に切られてしまい、今は桜の木も残り少なくなってしまった」ということであった。※菅江真澄『すみかの山』 黒田四郎 著『東北見聞録2』より




 紀行文に記されている「誉田のおん神をまつる社」とは、三内沢部の集落に鎮座する現在の八幡宮のことだと思われます。
 社号標のとなりに由緒書きが立っていましたが、それには、
【御祭神:譽田別神  草創年月不詳、 正徳四年 (一七一四) 五穀成就、 村中安全の為再建。 その後村中にて祭祀。 安政二年書上帖には、 油川組三内村八幡宮一宇、 板葺屋根の三尺四面の堂社、 萱葺の東西五間南北三間の雨覆、 東西五十間南北四十間の境内がみえる。 明治六年村社に列せられ、 昭和七年十月神饌幣帛料供進を指定される。
 神社の南南西約1kmに三内丸山遺跡、 川を隔てて三内沢部遺跡等、 旧石器時代後期、 縄文時代及び平安時代後期の遺跡群がある。 このことは古くから知られており、 菅江眞澄 「すみかの山」 に土器や土偶のことが書かれている。 また、 三内は桜の名所として知られ、 天明年間の 「津軽俗説選」 や 「すみかの山」 にもその見事さが記されている。 】とあり、ここにも三内丸山遺跡や菅江真澄について記されています。




 道路沿いに一の鳥居があり、そこから参道が続くのですが、途中には公民館や児童館があり、小道を横切った所が境内で、そこに二の鳥居が立っています。
 境内の左手には、鳥居を伴った庚申塔や厩舎が立っていますが、厩舎の中には幟旗や神馬が納められていました。右側には、馬頭観音堂や龍神堂などが立ち並んでいます。
 拝殿の前に一対の狛犬が置かれていますが、片方は青と白の水玉、もう一方は赤と白の水玉模様のほっかむりをしています。どちらもその表情は犬(獅子)というよりも猫といった感じで、とても愛嬌があります。狛猫。。
 境内には、幹回りは太くはありませんが、背の高い杉の木が無数に生い茂っています。

 本殿の後ろの方は、広い杉林になっていますが、その中に、明らかに他の木とは樹齢が異なるクロマツが一本そびえていました。
「三内八幡宮のクロマツ」と呼ばれているこのマツは、樹高が約28m、幹回りが約4.9mといわれていて、推定樹齢は不明ですが、なかなか貫禄のある老木です。

◇三内八幡宮

  



  


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富柳正八幡宮ーつがるみち375


境内から望む岩木山


 藤崎町の富柳(とみやなぎ)という所に正八幡宮が鎮座しています。
 富柳は、合併以前は旧常磐村に属していた集落ですが、旧浪岡町と境を接しています。
 村の中を浪岡川が流れています。今の時期はまだ水量が少なく、川原には枯れたススキの穂が密集していましたが、ところどころにふきのとうや黄色い花が咲いていて、前方には岩木山がくっきりと見えました。


拝殿


 正八幡宮の境内は、川の土手の下にあるのですが、社号標は村の道路沿いに立っており、そこから少し進むと一の鳥居があります。
 境内には、御神燈が二対と神馬と狛犬がそれぞれ一対ずつ置かれています。神馬は向かい合う形で左右に置かれていましたが、どちらの神馬の後ろにも厩舎があり、ここにはまた別の神馬が納められているようです。狛犬と神馬の首には、いずれも丸い注連縄が架けられていました。
 厩舎のとなりには赤い屋根の末社がひとつ立っていますが、その横の大きな木の根元には石碑が二体置かれていました。少し風化してはいるものの、そのなかのひとつは青面金剛の庚申様のようです。

 この神社の由緒については、
【御祭神:誉田別尊  寛文元年 (一六六一) 八月五日、 弘寛法印が勧請する。 明治六年四月、 福館村稲荷神社と合祀されるが、 同八年二月復社する。 明治四十年四月十九日、 神饌幣帛供進の指定を受ける。 明治四十四年八月三十日、 拝殿、 幣殿を新築する。 昭和十二年八月二十八日、 本殿を新築する。 又、 拝殿、 幣殿を改築する。 昭和二十四年十一月十一日、 国有境内地を無償で譲与される。 ※青森県神社庁HP】とあります。

◇正八幡宮境内

  



  





 上記の由緒と少し重複しますが、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」では、この神社を次のように紹介しています。
【富柳の正八幡宮には、誉田別命(ほむたわけのみこと)が祀 られています。この神社は、寛文元年(1661年・江戸時代中期の初め頃)に、弘寛法印(こうかんほういん)という人によって勧請されたという伝承があり、また寛文12年(1672年)に御派立頭(おんはだちがしら)の戸田七郎兵衛という人がお堂を建立したのが始まりだとも伝えられています。また「貞享の検地」が進められようとしている天和4年(1684年=貞享元年)の書上帳には「八幡宮あり」と記されています。】

 戦国時代が終わり、武力による領土拡張が出来なくなると、全国の諸藩は新田開発を盛んに行い、年貢増強を図りました。津軽藩はその中でももっとも新田開発が進んだ藩の一つであったとされており、17世紀末には米の収穫量は、幕府から公認された表高4万7千石の5倍以上に達していたといわれています。
 津軽藩の新田開発は、「小知行派立(こちぎょうはだち)」と呼ばれる在地の有力者による小規模な開発から始まりましたが、「派」とは「新田」を示す津軽地方独特の用語だとされています。
 上記の文中に出てくる「御派立頭(おんはだちがしら)」とは、各地の開発の責任者のことであり、戸田七郎兵衛なる人物は、この地方の開発の指揮を任された人物だったのでしょう。

※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」PDF、地元紙・陸奥新報「江戸前期に新田開発」の記事などを参照しました。


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久栗坂川上神社ーつがるみち374


久栗坂漁港付近


 久栗坂(くぐりざか)は、青森市内から浅虫へと至る途中にある集落です。
 国道4号線バイパスから浅虫へ抜ける手前に全長約600mほどの久栗坂トンネルがありますが、新しいものができる以前にあった旧トンネル付近は、いわゆる「心霊スポット」として、まことしやかな話がささやかれていたりします。
 国道4号線と並行するかたちで海辺を県道259号線が走っていますが、この道は旧奥州街道(陸羽街道)で、その道路際に川上神社が鎮座しています。




 この神社は、青森市栄町の諏訪神社の宮司さんが兼務する「兼務社」のひとつなのですが、同神社のHPでは次のように紹介されています。
【御祭神:高おかみ神  慶長元年(1596)、当村開発の折、田地から発見された観世音像を津軽家中野宮一郎兵衛並びに村民が崇敬し、観音堂を建立する。
 明治初年神仏分離の時、高おかみを勧請し川上神社と改称した。
 初め当社は、村の東南、浜田750番地に社殿を建立したが、明治25年9月27日、同浜田669番地共有地へ遷座改築する。貞享4年の検地帳には、根井村(久栗坂村の別名)観音堂地二四間に十二間とあり、安政2年の書上帖には、久栗坂村に観音堂がみえている。明治6年3月村社に列せられ、同42年8月27日神饌幣帛料供進を指定される。 ※諏訪神社HP「兼務社の紹介」より

 御祭神の「高おかみ神」は、罔象女神(みつはのめのかみ)等と並ぶ、日本の代表的な水神で、農村部では祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されていますが、海辺の村・漁業の村であった久栗坂の地に祀られたのは、やはり「海上安全・海難防止」を祈願したからであると思われます。
 また、「高おかみ神」の「高」は、山の上を指す言葉であるとされていますが、この神社の境内は、久栗坂漁港を望む小高い山の上にあり、御祭神の性格をよく表しているように感じます。

◇川上神社境内

  





 由緒に「田地から発見された観世音像を津軽家中野宮一郎兵衛並びに村民が崇敬」とあります。この話とのつながりは分かりませんが、神社のすぐ近くには「矢倉山 観音寺」という浄土宗のお寺があります。
 桜の名所として知られるこのお寺の背後の山の頂上には不動尊が祀られ、参道には三十三観音像が置かれているとのことですが、今回は行ってみませんでした。

 前述のように、川上神社の境内は小高い山の上ですが、一の鳥居から続く石段の参道はかなり急な登りで、少し息が切れました。
 社殿の左側には「川上神社」と刻まれた社号碑と二十三夜搭が並んで立っていましたが、その奥には山神様の小さな碑もありました。
 右側には「山頂薬師堂」の大きな碑と祠がひとつ立っていますが、ここには薬師如来が祀られているようです。

 この神社の狛犬は、そのつくりがとても面白く、体は前を向いているのですが、頭は拝殿の方を向いています。参拝者がきちんとお参りしているかどうかを見張っているような感じです。

◇狛犬、本殿、参道

  


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 六月になりました。辺りの緑が濃くなり、とても鮮やかです。今後も、ぼちぼちと史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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