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のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 蓬田村   Tags: つがるみち  

瀬辺地天満宮ーつがるみち396




 蓬田村役場がある阿弥陀川を過ぎ、外ヶ浜町方面へ進んで行くと瀬辺地(せへじ)という集落に出ます。
 右手に海を見ながら走って行くと、左側に小高い丘が見えてきますが、ここに天満宮が鎮座しています。
 同じ敷地内に観音堂も立っていますが、一の鳥居から続く参道をまっすぐ進んで行くと天満宮の社殿があり、鳥居をくぐり、左側の坂道を上った所が観音堂です。

 天満宮の参道の両側は背の高い杉並木が続いていますが、所々にベンチなどもあり、一帯は地区の農村公園にもなっているようです。
 ゆったりとした上り坂が続きますが、丘の頂上の一段と高い場所まで石段が延びていて、両脇に狛犬が置かれ、そこに拝殿と本殿がありました。拝殿には「ここは海抜25m」という案内札が下げられています。
 境内からは海岸沿いを走る松前街道や瀬辺地の漁港なども望むことができ、なかなかよい眺めでした。

◇天満宮






 一方の観音堂の方は、天満宮の参道の左側の丘にあるのですが、こちら側には海辺の丘らしく松の大木が何本か生えています。
 社の石段の前に小さな赤い鳥居が立っており、その境内には記念碑や庚申塔が立っていました。
 本尊は馬頭観音ですが、地域の厚い信仰を集めているようで、祭壇の前にはたくさんの供物が捧げられているほか、豪華な舟絵馬も掲げられていました。こちらの境内からは、津軽半島の背骨である中山山脈を望むことができます。
 
 天満宮と観音堂の由緒については、
【御祭神:菅原道真  瀬辺地村の天満宮の勧請年月は不詳である。明治初期の社寺明細帳によると、当村の産神で菅浦倶衛が兼務していた。本殿は三尺四面の板葺、拝殿は二間半に四間の萱葺、社地は五間四方で県庁まで十五里十五丁と書かれている。同境内地に部落から一キロ離れた田地の中にあった馬頭観音堂を参詣に不便であるという理由で天満宮境内に移した。】とあります。

 さらに、観音堂については、
【本村には木造の観音菩薩像が安置されて、その背に金属製の観音像を負わせて祀り、氏神として崇拝して来たが、元禄年間に盗難に遭い行方不明となり、現在下北郡に移祀されているという。その後、宝永二年八月、石造の馬頭観音像を祀り、部落の平和と国家の安泰を祈り氏神として永い間部落民が崇拝し参詣して来たが、明治六年神仏合祀が許されず、この地に天満宮を建立するに至り本尊像もまた移転の声が高まり・・・。】と書かれていますが、本尊の観音様が現在地に奉遷されるまでは紆余曲折があったようです。
 ※【】は、蓬田村HP「村のあらまし」からの抜粋・要約です。

◇観音堂






 ところで、瀬辺地は、蓬田村の中で最も早くから開けた集落であるといわれています・
 天満宮の境内を含む舌状台地は、通称「ナガレ」と呼ばれており、一帯からは、縄文時代の早期から中期の石器や土器などが多数見つかっていて「瀬辺地遺跡」となっています。
 また、集落からは「チャシ(※主に近世にアイヌが築造した高い場所に築かれ、壕や崖などで周囲と切り離された施設)」と呼ばれる住居址なども見つかっているようです。

「瀬辺地(せへじ)」という少し珍しい地名については、アイヌ語の「セベチ(広い川の意)」からきたとされていますが、集落を流れる瀬辺地川は、昔は、かなり広い川だったのでしょう。
 また、【体力の逞しい「セヘ」と呼ばれた人が首長としてこの地を統帥し、農業もこの頃から始められたという。延暦二十年(一千六百年)位前、坂上田村麿が蝦夷征伐の際「セヘ」は滅びたが、この時から「セヘ」の住む地として瀬辺地と名づけられたという。※観音堂奉遷記念碑碑文より】という所伝も残っています。

 いずれにしても、太古の昔から集落が形成され、人々は海を越え、下北半島や北海道へ渡り、交流・交易などを行っていたのでしょう。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

大和沢稲荷神社ーつがるみち395




 アップルロードを旧相馬村に向かう途中、いくつかの集落を通ります。
 小栗山神社を過ぎ、アップダウンの坂道を走り抜けたところに大狼神社があり、家並が見えてきますが、ここが大和沢(おおわさわ)の集落です。
 大和沢には、かつて「大和沢館」と呼ばれる堀をともなった中世の平城があったとされていますが、その築城時期や館主などは不明で、館跡は現在、畑地になっているようです。




 その大和沢の沢田という所に稲荷神社があります。
 道路沿いに社号標が立っていますが、そこから坂道を少し進んだ所に一の鳥居があります。鳥居は二の鳥居、三の鳥居と続きますが、社殿は三の鳥居を右側に折れた所に立っています。
 境内は、わりとガランとした感じですが、後方には、岩木山を望む広大な景色が広がっていました。
 木々が少ないこともあり、拝殿横のイチョウの木がとても印象的です。注連縄は張られていませんでしたが、この神社の御神木といってもいいでしょう。その枝と葉っぱが、まるで傘のように拝殿に覆いかぶさっています。根元には、社の由緒書き板がありました。

 稲荷神社ということで、ここでは狛犬ではなく、稲荷神のお使いの狛狐。合わせて四体置かれていました。

◇御神木、きつね像



 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  創立年月日不詳。 明治六年四月中津軽郡小栗山村旧郷社小栗山神社に合祭されるが明治八年二月復社して、 更に同郡一野渡村八幡宮へ合祭する。 然るに、 明治十年六月再び現地に復社、 同十二年六月村社に列せられる。 昭和二十二年宗教法人令に基き宗教法人となる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

◇稲荷神社境内






 大和沢稲荷神社と大狼神社はすぐ近くなのですが、以前の記事でも取り上げましたが、大狼神社の裏山には、陸羯南の詩碑が立っています。

 名山出名士(名山名士を出す) 
 此語久相伝(この語久しく相伝う) 
 試問巖城下(試みに問う巖城の下) 
 誰人天下賢(誰人か天下の賢)  
~ 名山の見える土地はすばらしい士を出すという。この言葉が世におこなわれて久しいが、しかし試みに問うに岩木山の秀峰を見るこの弘前城下から一体どんな天下の賢が出ただろう。 ~

 若者の士気を鼓舞するような五言絶句ですが、大和沢の小学校の子どもたちは、この詩碑のある高台から「岩木山に向かって、大声で自分たちの将来の夢を叫ぶ」という活動を行っているようです。夢が叶うといいですね。
 ⇒ 地元紙記事
『Web 東奥』記事より 


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 蓬田村   Tags: つがるみち  

蓬田八幡宮ーつがるみち394




 国道280号線バイパス沿いに蓬田村の道の駅がありますが、そこから外ヶ浜町方面へ少し走って行くと、左手にこんもりとした広い森が見えます。
 道路沿いに、「史跡 蓬田城址」と書かれた木柱(標識)が立っていますが、蓬田城は、嘉禎4年(1238)頃に築城され、その後、城主の交代などもありましたが、天正13年(1585)に、津軽為信によって攻め滅ぼされ、廃城となるまで、この地にあった平城です。




 現在、この城跡は、蓬田八幡宮の境内になっています。その入口に城の略図(案内板)が立っていますが、広大な敷地に、土塁の跡や鐘楼堂跡、弁天堂跡などが描かれています。
 城郭は「小館」と「大館」とに分けられ、初め小館が築かれましたが、南北朝時代から室町時代にかけて、大館が築城されたことにより、中心がそちらに移ったとされています。
 - 【大館は、蓬田川の北、10万㎡の広大な面積を有している。東西600m南北300m。水田に囲まれ、周囲より一段高い、杉木立に覆われた場所である。八幡宮・弁天堂が残っている。北と南東に堀が残り、北側の堀は長さ約300m・幅15~20m・深さ3m、南東側の堀は長さ50m・幅2m・深さ50cmほどである。※wikipediaより】 -
 また、辺り一帯は縄文時代からの遺跡にもなっており、擦文土器、縄文土器、土師器、陶磁器が発見されるなど、太古から文化が開けていた所としても知られています。

 八幡宮の由緒については、
【御祭神:誉田別命  蓬田村八幡宮の創立は不詳。当大館城の館神に祭られたともいわれているが判然としない。その後、元文七年に脇宮太夫が再建してからは蓬田村の氏神として祭られていた。
 同神社の末社に弁天宮と稲荷宮があった。(弁天宮は)相馬小次郎弟平次郎が、祖先が九州にいたとき、崇敬した氏神・宗像大明神を祭った社で、この地へ下っても尚信仰を続けていたものである。宗像神社の祭神である厳杵嶋姫命を弁財天といっているので、相馬平次郎のいう宗像大明神は弁天社のことであろう。相馬氏が蓬田に居城したのは文明年間といわれているので八幡宮より弁天社の方が古いのである。※蓬田村HP「村のあらまし」より抜粋・要約】とあります。

 一の鳥居から、二の鳥居、三の鳥居と参道が続いていますが、途中には、蓬田城の沿革を記した記念碑などが立っています。狛犬は、大小あわせて四体置かれていますが、なかなか個性的な顔立ちをしています。私が訪れたときは、とても天気が良く、境内の緑と朱色の社殿がとても鮮やかに見えました。

 拝殿の横には、庚申塔と二十三夜塔、そして猿田彦の碑が立っていましたが、その後方の道路沿いに小さな赤い鳥居が見えます。
 この鳥居は由緒にも書かれている弁天堂(宮)のもので、ここから参道が続いています。深い森の中を数分歩いて行くと、森の中に弁天宮の赤いお堂が見えました。

◇八幡宮境内、弁天宮ほか









 冒頭でもふれましたが、蓬田城は、嘉禎4年(暦仁元年)に安東盛季の弟・潮潟四郎通貞が築城したと伝えられています。
 その後、南部氏が台頭し、安東氏はこの地から駆逐され、南部氏の所領となってからは、奥瀬健助が居城し、奥瀬氏は数代に渡って一帯を治めていました。
 しかしながら、文明年間(1469~1487)になると、奥瀬氏は退去し、代わって相馬則政が入城し、「蓬田越前」と名乗り、この地を支配するようになります。城址入口の説明板には、「(相馬氏は)凡そ百有余年、外ヶ浜一帯を支配し、十三湊を良港に日本海貿易をはじめ、朝鮮・中国と国交し、文化と産業経済繁栄の礎を築いた」と書かれていました。
 城内に弁天宮を勧請したこの相馬氏は、平家が屋島の戦いで敗れた後、九州から逃れ、安東氏の配下となった氏族とされていますが、相馬則政は平将門より八代目の子孫といわれています。

 やがて、戦国時代になり、為信軍の攻撃を受け、相馬氏は南部へと逃れ、蓬田城は廃城となった分けですが、こうしてみると、この八幡宮一帯は、安東氏、南部氏、津軽氏による絶え間ない抗争の地であったようです。

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阿弥陀川稲荷神社-つがるみち393




 海岸沿いに国道280号線(松前街道)を走って、蓬田村役場へ行く途中に「阿弥陀川」という小さな川があります。
 その昔、浄土宗の開祖・法然上人の高弟であった金光上人が、この川の中から一体の阿弥陀像を拾い上げたことから、川の名前が阿弥陀川となり、さらには、阿弥陀川村という集落名にもなったとされています。




 河口付近に小さな橋が架かっていますが、橋を渡り切った所が蓬田村の役場で、川の流れを挟んだ対岸には、稲荷神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:宇迦廼御魂命 猿田彦命 大宮能女命   社殿ハ阿弥陀川ノ北端ニアリ創立年月日詳ナラス 撰前川北側ヲ流レ境内老松林立森厳自ラ神威ヲ仰カシム 明治六年後潟村後潟神社ニ合祀 同八年二月復社 同九年十二月村社ニ列セラレ 同二十三年八月社殿腐朽ニ及ビタルヲ以改築セリ 明治四十二年八月二十七日神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社ニ指定セラル※蓬田村HP「村のあらまし」より】とあります。
 詳しいいことは分かりませんが、いわゆる「稲荷大神三座」を祭る古くからの社のようです。

◇阿弥陀川稲荷神社境内



 由緒にも「境内老松林立森厳自ラ神威ヲ仰カシム」とあるように、境内には、何本かの老松が生えています。辺りは宅地化されていますが、かつては無数の松の木が林立する「森」だったのでしょう。

 一の鳥居は阿弥陀川の河口、海の方を向いて立っています。
 鳥居をくぐって参道を歩いて行くと、その途中には、御神燈や記念碑、猿田彦大神の碑などが並んで立っています。
 狛犬は二の鳥居の両脇に一対、拝殿の前にも一対置かれていました。

◇狛犬、境内の松、本殿
 





 さて、金光上人が布教のために津軽の地を訪れたのは承元四年(1210)頃とされていますが、阿弥陀川で阿弥陀像を拾いあげたいきさつについては、次のように語られています。
【金光上人は霊無のお告げにより「阿弥陀如来が汝津軽の外ヶ浜に至れば必ず逢わん」と三日、三晩続けて同様の夢を見たので上人が遠く尋ね来り、遂に承元四年津軽外ヶ浜蓬田村にたどりつき、一介の漁夫に問うて曰く、この辺で何か変ったことがないかと尋ねたるに漁夫曰く、この村の端れの川に夜になると毎晩川の中から光りを発すると云う。村人はこれを怖れ怪んで誰一人其所を通る人もないと云う。
 この話を聞くや上人はこれこそ夢のお告げの阿弥陀如来であろうと、村の人々と力を合せて川を掘り探させたところ、暫にして上人様の手にした鍬に手応えがあった。早速拾いあげてみると一つの立派な筥が現われ、筥を開いてみると阿弥陀如来像であった。※蓬田村HP「村のあらまし」より

 以来、金光上人はこの阿弥陀像を背負われて、津軽における布教の営みを続けたとされていますが、建保五年(1217)、浪岡の地で亡くなります。

 現在、阿弥陀像は青森県文化財に指定され、弘前市の西光寺に安置されています。

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傘松観音堂ーつがるみち392




 青森市の後潟から東津軽郡蓬田村へ。中沢という集落の稲荷神社を訪ねようと思ったのですが、どうしても探せないで、うろうろしていたら傘松観音という案内板が見えたので立ち寄ってみました。
 観音堂の名前は、境内に生えている一本の松の木からきています。蓬田村の指定文化財にもなっているこの松の木は、
【堂前に幹は周囲二・二〇メートル、高さ五・四〇メートル、枝は大地に垂下した数百年を経た老松がある。枝ぶりよく、あたかも傘を拡げたる観があり、村人称して傘松という。】と紹介されています。
 確かに、傘を広げたようなきれいな姿形をした老松です。




 境内のすぐ横をJRが走っており、踏切を渡ると、水子供養観音をはじめ、数多くの観音様やお地蔵さまが立っているのが見えます。
 また、「水蓮の池」と呼ばれている池もあり、そのそばには弁才天などの石仏が祀られていました。
 地域の人々により、年々、境内の整備が進んでいるようですが、その様子については、
【境内に三十三番観音巡拝道路を設け、庚申塚、恩師の碑、友愛の碑等が配置され、境内は一段と整備され、傘松仏苑と称せられるるに至った。今や傘松仏苑は児童遊園地としてまた村民の信仰の場として活用されている。】と紹介されています。

◇観音像ほか



 その由緒については、
【本尊は聖観音で嘉永二年中沢村有志が発起人となり、無病息災、部落民安泰を祈願し建立、安置したものである。
 初め聖観音堂は部落北端字界、旧中沢尋常高等小学校敷地付近にあった。明治四十三年御神託により現在地に移転した。古老の話によると、昔から善男善女が毎年旧正元日、十六日、二月一日には未明から参詣するを例としているという。
 昭和十一年、本堂の新築にあたり俗称馬捨場にあった馬頭観音堂を移築、同時に相染神(蒼前)の石碑(文政九年建立)も移転した。】とあります。
 由緒にも記されている馬頭観音堂は、本堂の右横に立っていました。

◇傘松観音堂と馬頭観音堂






 本尊の聖観音は、「信仰者は神霊により、長寿を全うし、しかも立派な大往生を遂げる」という霊験あらたかな観音様として信仰されていますが、本堂に掲げられている「傘松観音和讃」には、「奇蹟といわん観世音 滴り落ちる慈悲の露・・」という一節が書かれています。
 実は、ここの観音様は平川市碇ヶ関国上寺の不動尊と同様に、「変事を予知し、汗をかく観音様」として知られています。
 ー 【特に変事に際しては御神体はみるみるうちに黒色に変じ、ついに漆黒となり露をもらすという。今回の大東亜戦争に際しては奇蹟的な事象が多く別名軍護観音と称せられ、出征軍人家族の信仰が厚かった。】 -

※【】は、蓬田村HPを参照しました。

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後潟神社ーつがるみち391




 津軽山地(中山山脈)は、津軽半島の背骨に例えられ、標高500m~700m級の山が連なる山脈です。
 そのヒバ林は、木曽のヒノキ林、秋田のスギ林と並んで日本三大美林のひとつに数えられています。
 袴腰岳(627m)や赤倉岳(563m)などの山々がそびえていますが、中でも大倉岳(677m)はその中心的存在で、登山ルートも整備され、その頂上からは、津軽海峡・下北半島・陸奥湾・八甲田・日本海などのすばらしい眺望が楽しめるとあって、多くの登山客が訪れます。




 国道280号線沿いに位置する青森市の後潟地区は、大倉岳と深い関わりをもつ集落で、その産土社が後潟神社です。
 後潟は蓬田村と境を接する集落ですが、神社はバイパスから見えるところに立っています。社号標は集落の通りにあるようですが、私は一の鳥居がある道から入りました。
 敷地には鉄棒やブランコなどもあり、子どもたちの遊び場にもなっているようです。

 境内には猿田彦碑のほか、自然石の庚申塔などが立っています。狛犬は参道に大小二対置かれていましたが、大きい方は、何となくスフィンクスを思わせる姿形でした。拝殿のとなりには、小さな祠があり、その横には鳥居を伴った境内社があります。

 その由緒については詳しく分かりませんが、御祭神は伊弉那岐命と伊弉那美命で、一説には正安二年(1300)建立と伝えられており、熊野権現と称していましたが、明治期に現在の後潟神社となったということです。

◇後潟神社









 前述した大倉岳の山頂には鳥居と小さな祠が立っており、「大倉岳神社」と呼ばれています。
 実は、この山頂の神社は後潟の人々が、昭和五年(1930)に建立したものですが、そのいきさつについては、
【(1)後潟営林署担当区主事が夢で「われは大倉岳山頂の神・木花開耶姫である」とお告げを受け、これを聞いた後潟の人たちが奉納した。 (2)世界大恐慌を受けた経済の浮揚と人心の不安一掃のために奉納した。※HP「あおもり110山」より】という二つの説が語られています。

 いずれにしても、山頂の祠を大切に守り、後潟神社の境内には、その里宮を建立するなど、大倉岳神社は後潟の人々の厚い信仰を集めている「山の神様」ですが、大倉岳への登拝は、同地区の大事な伝統行事として受け継がれているとのことです。

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清水天満宮ーつがるみち390




 国道280号線は、海上区間(津軽海峡)をはさんで函館へと至る道路ですが、藩政時代に北海道の松前藩主が参勤交代で通ったことから通称「松前街道」と呼ばれています。
 青森県側の松前街道は、青森市から龍飛崎に至る約120kmのルートです。街道沿いには歴史資源や伝統芸能が今も随所に残されていますが、多くの神社も点在しています。現在は、バイパスも開通していますが、青森市から蓬田村に向かって走ってみました。




 蓬田村へ向かう途中に「内真部(うちまんぺ)」という集落があります。
 周辺には平安時代後期の遺跡や「内真部館」という山城の跡がありますが、青森県HP「あおもりの今・昔」には、次のように記されています。
【・・内真部川が山中に入る北側の山麓に、館と山城の遺跡がある。実は、この地こそ鎌倉時代末期の文保二年(1318年)ころに始まった有名な津軽大乱(安藤氏の乱)の中心舞台となった土地であった。
 乱の顛末を記した「諏訪大明神絵詞」には以下のような記述がある。
「その蝦夷管領・安藤太の子孫に五郎三郎季久、又、太郎季長というは従父兄弟なり。(中略)彼らが留守の士卒、数千の夷賊を催し集め、外浜内末部、西浜折曽関(現在の深浦町)の城郭を構えて相争う。二つの城険阻によりて、洪河(現在の岩木川か?)を隔て、雌雄互いに決しがたし。」・・この「外浜内末部の城郭」が内真部の館・山城の遺跡にあたるらしい。】
 中世の激しい戦いが行われた内真部は、外ヶ浜地域の一大中心地であったようです。

 内真部を少し過ぎたあたりに、こんもりとした森が見えたので立ち寄ってみたら、そこは神社でした。後で確かめたのですが、この神社は清水天満宮です。




 この神社の由緒については、詳しくは分かりませんが、御祭神は菅原道真で、
「草創建立年代は不詳。安政二年(1855)の『神社微細社司由緒調書上帳』には、寛文十三年(1673)村中で再建したと書かれている。その後、明治六年三月に神社法改正により一時、後潟神社に合祭されたが、同八年に復社。」ということのようです。
 あまり広くない境内ですが、鳥居をくぐると、参道には手水舎や御神燈、狛犬などが置かれていました。
 かつてこの神社には、「春日宮」と「祇園宮」、そして「惣染堂」という三つの末社があったとされていますが、文政年間~安政年間にかけて廃社になったとのことです。


 現在は、拝殿の横に三つの末社が並んで立っていますが、左は権現社で、真ん中は不明、一番新しい右側の建物は神馬厩舎でした。

◇清水天満宮
 


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市   Tags: つがるみち  

金屋 山神社へーつがるみち389




 桜の季節も終わり、津軽の野山の緑も濃くなってきました。
 天気の良い日には、あてもなくぶらぶらすることも多いのですが、今回は、平川市金屋(旧尾上町)の自然の森と山神社へ行ってみました。
 その斜面がりんご畑になっている金屋山には、キャンプ場として整備された「平川市自然の森」という施設がありますが、その奥が山神社の境内、さらにその後方の権現平は、古代人の祭祀場跡といわれており、伝説の大石「大石さま」があります。一帯は、猿賀神社とのつながりも語られている所ですが、私も以前に一度訪ねたことがあります。
 ⇒以前の記事へ

 駐車場から少し上ると施設の建物があり、「親杉」という大きな杉の木があります。樹齢が約250年以上、高さ28m、幹周り3.5mという巨木ですが、ここからは岩木山と津軽平野を一望することができます。

 遊歩道を歩いて行くと、山神社の境内へと出ます。



◇山神社由緒
【御祭神:大山祇神   草創の年月は不明であるが、 伝聞によると、 慶長十年 (一六〇五)、 津軽左馬守藤原建麿再建と言われている。 明治八年、 本殿が組頭小野長九郎、 百姓総代佐藤喜助らによって再建され、 同年十一月氏子総代等により拝殿が造営された。
 古い伝説によると、 神社後方にある 「大石様」 にその昔、 さるか神霊が秋田県鹿角郡申ケ野から白馬に乗って流れつき、 ここからさるか森 (猿賀神社) に鎮座したと言われている。 御祭神大山祇神は、 山の神様としてばかりではなく、 国土安泰、 家内安全、 開運、 延命、 夫婦和合、 子育て、 厄除けの神様など、 金屋集落の産土神として尊崇されている。※青森県神社庁HP

 由緒にも書かれている「大石さま」は、古代人が刻んだと思われる磨痕や線刻文が記されている大石です。山神社の後ろ側から遊歩道を池に沿って進んだ所に木柱が立っていて、そこから山の上に急な上り坂が続いています。

  


  

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 深浦町   Tags: つがるみち  

北金ケ沢 春日神社ーつがるみち388




 深浦町の北金ヶ沢は、「日本一の大イチョウ」があることで知られています。
 久しぶりに訪ねてみましたが、秋には黄色い葉っぱのトンネルができるイチョウの木も、春の初めということで、まだ葉っぱも茂っていませんでした。それだけに巨大な幹や乳根がはっきり見え、その大きさには圧倒されます。




 この大イチョウのそばをJR五能線が走っていますが、線路に沿って道路が延びており、北金ヶ沢の集落が広がっています。
 道路は弁天崎へと続いている分けですが、その途中に春日神社の社号標が見えたので、立ち寄ってみました。
 社号票から民家に挟まれた路地を進むと、間もなく踏切につきあたりました。踏切の向こう側に一の鳥居があり、そこから小高い丘に向かって石段が延びているのが見えます。

 なかなか急な坂道でしたが、石段を上りつめると社殿が見えました。左側には末社の稲荷神社、右側には大きな御神木がそびえています。
 この大木はケヤキの木ですが、深浦町の有形文化財になっていて、
【直径およそ1.1メートルと、当町屈指の巨木として住民から大切にされています。※深浦町HP】と紹介されていました。もともと山地に自生するケヤキですが、台地や平地では防風林として利用されてきたとのことです。この大木も浜風から神社を守ってきたのでしょうか。
 境内のすぐそばまで山が迫っていて、切り立った崖の下には、赤い屋根の祠がいくつか立っていました。

 この神社の由緒については、
【御祭神:天児屋根命(あめのこやねのみこと)  元禄11年(1698)勧請、明治12年拝殿改造村社に列せられる。北金ヶ沢の産土神として崇敬されている。※深浦町HP】とあります。

 今回は拝殿の中を拝むことはできませんでしたが、拝殿には有形文化財の「鮫漁絵額(カドザメ漁を描いた大型の絵馬)」が奉納されていて、明治時代の漁業を知る貴重な資料となっているとのことです。

◇春日神社









 せっかく海辺の町へやってきたので、春日神社から漁港の方へ足を伸ばしてみました。
 ここまで来ると、強い潮の香りがします。港には、大小の漁船がつながれていました。
 少し曇り空でしたが、遠くには岩木山が見えます。弘前の方から見える形とは少し違いますが(三つの峰が逆)、なかなか味わい深い山容です。

 港のすぐそばに胸肩神社がありますが、昔から漁師たちから「弁天様」として崇められてきた社です。御祭神は市杵島姫命でしょうか。
 境内には、庚申塔をはじめ多くの碑や、様々な神仏を祀った祠がたくさん立っていました。

◇胸肩神社
 


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嶽 稲荷神社ーつがるみち387




 岩木山には、「嶽」「百沢」「弥生」「赤倉」「長平」という5つの登山道があり、それぞれ特長のあるコースになっていますが、嶽コースについては、
【300年の歴史を持つ岳温泉からのこの道は、標高から最短の距離であり、急斜面もなく快適なブナ帯を2時間でスカイラインターミナルへ。鳳鳴小屋

昭和39年(1964年)1月、秋田県大館鳳鳴(おおだてほうめい)高校の山岳部員が遭難する事故が起きた。この小屋は、遭難事故の翌年に避難小屋として建てられた。
で百沢道と合流し、山頂へと至る。※岩木山観光協会HPより】と紹介されています。




 嶽温泉は、この登山道の起点にあたる分けですが、道の入口付近に稲荷神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 少彦名神  延宝二年の頃、 岩木村百沢の野呂長五郎という人、 薪材取りに入山の際、 稲荷大神の霊感によりて温泉 (現在の通称嶽温泉なり) を発見し、 その霊験に感謝して倉稲魂神、 少彦名神の二神を奉祀して稲荷神社と奉称したのが当社の起源である。 明治初年神社改正の頃までは村民の尊崇厚く祭祀も行いなりしが、 明治六年に至り氏子数少数にして維持経営等困難のため廃社となり旧県社高照神社に合祀し同社の氏子として尊崇し来れりが、 昭和二十四年十月十日部落民の敬神の念止み難く氏神復活の熱意に燃えて高照神社より分離、 ここに宗教法人令により宗教法人として登記し即日神社本庁に所属の神社として現在に至る。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 倉稲魂命とともに、病気平癒の神である少彦名神を御祭神としているあたりは、いかにも温泉地の神社という感じがします。

 ホテルの駐車場のそばに一の鳥居が立っていますが、両脇には「岩木山嶽登山道入口」と書かれた木柱や「入山心得」が立っています。この神社の参道が即ち、登山道の入口になっている分けです。
 参道を少し歩いて行くと間もなく二の鳥居があり、大きな2本の木の間から赤い社殿が見えてきます。木の根元には庚申塔が一基立っていました。

 二の鳥居をくぐると道は二つに分かれますが、まっすぐの石段を上がると社殿、左の方の道を進むと登山道になります。分かれ道付近には、大きな木が立っており、いくつかの大石が置かれていました。
 社殿の前にも鳥居が立っていて、その後ろには稲荷神のお使いのきつねが二体置かれていました。登山客は、この神社を参拝した後に、頂上を目指します。

◇嶽 稲荷神社
 








 由緒については前述しましたが、一の鳥居の後ろに、この神社の紹介が書かれています。それには、
【寛文年間(一六六一~)の頃、百沢村の野呂長五郎なる人が「シトギ森」(岩木山の紫柄沢の出口)に薪取りに行き伐木中、どこからか一匹の野狐が現れ、長五郎の昼飯を盗み逃げて行くのを、取り返さんと追いかけて行ったところ、狐はその飯を雪穴に落としたまま逃げ去った。長五郎がそこに至ってみるとあつい湯が湧き出て地面の雪が消えている所であり、初めて温泉となっていることを発見した。以上が岳温泉の発見譚であり、当社は発見当時の野狐を祀ったとされている。】とあります。
 また、岩木山の三つの峰は、厳鬼山が観世音菩薩、岩木山が阿弥陀如来、鳥海山が薬師如来として信仰されていますが、
【当社の祭神は倉稲魂命、また病気平癒の神少名彦命であるが、鳥海山が薬師如来とされていることから、明治初年まで薬師如来も相殿とされていた。そのため、「薬師の宮」とも言われていたとある。】とも記されています。

 文中に「シトギ森(※しとげ森とも)」という森(山)が出てきますが、嶽温泉と道路を挟んだ向かい側に岩木青少年スポーツセンターがあり、その敷地の中に「仕遂森」という山があります。学校の宿泊学習でフィールドワークなどが行われている山です。
 この小山は、由緒に出てくる野呂長五郎が薪取りをしていた山とは違うようですが、「仕遂森」という名前は、「昔、坂上 田村麻呂が、ここで、岩木山麓の鬼(蝦夷)を滅ぼした」ことに由来するとされています。即ち、「鬼征伐を成し遂げた」「鬼を仕留め(げ)た」から「しとげ森」という分けです。

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富萢稲荷神社ーつがるみち386




 旧木造町から旧車力村へと、県道12号線沿いに鎮座している神社をいくつか訪ねてきましたが、つがる市の富萢(とみやち)町にやって来ました。
 この辺りまで来ると、十三湖はすぐ目の前なのですが、富萢町(旧車力村)は、岩木川とともに十三湖へと至る山田川(岩木川水系の一級河川)の河口付近に広がっている集落です。




 この富萢町の藪分という所に稲荷神社が鎮座しています。
 場所が分からず、けっこう迷ったのですが、小高い山と森が見えたので、そっちへ進んでみるとそこが境内でした。
 一の鳥居の前に「富萢開村記念碑」という大きな碑が立っており、そこから参道の石段が上に向かって延びていて、二の鳥居のそばには「富萢農協発祥の地」と書かれた碑もありました。この辺り一帯が、開発の中心地だったのでしょう。

 三の鳥居からは道が分かれていて、右手の方へ少し下ったところに緑色の建物があったので覗いて見ると、中には観音様が祀られていました。左手の方には、さらに石段があり、境内へと続いています。

 丘の上の境内には、いくつかの鳥居と御神燈、庚申塔などが立っていますが、奥津軽の稲荷神社らしく、ほっかむりをしたきつね像も置かれていました。拝殿の中のきつねも、ほっかむり。
 末社は、境内の入口付近と、社殿の後方に立っていましたが、入口付近の祠には、これまた、ほっかむりをした石(石仏)が祀られていました。

◇庚申塔、きつね像ほか



 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神  初開は元文元年 (一七三六) 八月氏子中より建立し、 御棟札は最勝院より納め置き候とある。 享保十一年 (一七二六) 新田開発に専心している農民が十三潟より逆流する潮害の為甚大な被害をうけているので、 神の鎮護を祈って建立したと伝えられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 神社入口の「富萢開村記念碑」には「享保十一年  一七二六年十一月 棟方作左衛門 新田開発の儀仰せつけられ 其の際百姓多く寄り集りて 富萢村と相改め・・」と、村落成立の歴史が書かれていますが、同じ時期に豊作を願ってこの神社は建立されたのでしょう。

◇境内






 由緒に「十三潟より逆流する潮害の為甚大な被害・・」とありますが、元来、この地域は、稲作に適さない湿地帯であったため、開発に携わる農民たちの労苦は大変なものだったようです。
 - 【津軽平野の開田は、津軽藩2代藩主の信枚公時代の新田開発令(1620年)が始まりとされ、江戸時代中期には、米作でかなりの高い生産技術を有し、津軽藩の財政を支える根源であったといわれるまでになりました。 しかし、地域の中心をなす岩木川の改修は遅々として進まず、大正中期までは自然河川に近い状態となっていました。特に、岩木川の最下流部の十三湖は、日本海への水戸口が度々閉塞し逆流氾濫や塩害、更には中小河川の断面極小による溢水等により付近の耕地は多大な被害を受けていました。また、極端な湿田で「腰切田」「乳切田」と称されるように、腰や胸まで浸かりながらの農作業を強いられるなど農業生産環境は劣悪なものでした。 ※農林水産省 北奥羽調査だより「十三湖地区の生い立ち」より抜粋】 -
 江戸時代、このような劣悪な環境の中で、稲作に励む農民たちをさらに苦しめたのは度重なる飢饉と、藩の重い年貢の取り立てでした。

 腰までぬかる「腰切田」の話は、津軽の農業哀史として児童文学にも取り上げられていたり、
鈴木喜代春『十三湖のばば』 
句にも詠まれています。

ー 「腰切田の津軽農史や雪霏々と」  松宮梗子 - 

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 あっという間に師走になりました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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