
弘前市の革秀寺は、「岩木山の見える場所に埋葬せよ。」という津軽為信の遺言に基づいて建立された寺院ですが、確かに辺りからは、秀麗な津軽富士を望むことができます。
革秀寺の近くには二つの稲荷神社が鎮座しています。ひとつは隣接している革彦稲荷神社で、もうひとつの社は、お寺から、1Kmほど離れた所に鎮座する稲荷神社です。

一帯の住所は藤代(ふじしろ)になっていますが、かつてこの地には「藤代館」という城が築かれていました。
藤代館は、主郭である北郭の他に、南郭と東郭を持つ三郭で構成されていたといわれていますが、その詳細については、遺構が残っていないため、よく分かっていないようです。
築城主や築城年代も不明なのですが、一説には、革彦播磨の居館であったとされており、稲荷神社の境内付近が、その中心だったようです。
神社の社号標は道路沿いに立っていますが、そこからは、住宅地の中を細い道が通っており、家並に囲まれた所に境内がありました。
鳥居をくぐって参道を進んで行くと、まもなく石段があり、林を背にして拝殿が立っていました。後ろ側には赤い玉垣に囲まれた本殿があります。背後には水田が広がり、岩木山が見えます。
拝殿の隣に、鳥居をともなった末社が立っていますが、扁額には「稲荷神社・八幡神社」と書かれていました。
稲荷神社らしく、拝殿の前には一対のきつね像が置かれています。境内には、庚申塔や猿田彦大神、月夜見大神の碑も立てられていました。





その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 創建年代明らかでない。 明治六年四月、 村社に列せられる。 明治三十九年四月、 神饌幣帛料供進指定される。 ・・・境内末社として諏訪神社がある。※青森県神社庁HP】とあります。
その詳細についてはよく分からないのですが、寛文10年(1670)に、津軽藩4代藩主・信政が建立し、津軽氏の祈願所として崇敬されたといわれています。
以後、同村の諏訪神や革彦稲荷神が遷座したり、隣村の加茂神、羽黒神、八幡神を合祀したりと、地域の産土社として信仰を集め、現在に至っているようです。




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☆つがるみち☆



平川市小杉は、戦国時代に「樋川館(ひかわだて)」という城が築かれていた所です。
樋川館は、前回お伝えした館田館とともに、南部方の滝本重行が築いた砦であり、天正3年(1575)、津軽為信が大光寺城を攻めた際に、まず、ここの砦を攻め落とし、軍を進めて行ったとされています。
館田館と同様、現在はその遺構は残ってはいませんが、この地に鎮座している月読神社一帯が、城跡だったと思われます。

道路沿いに「月讀神社」と書かれた大きな社号標と、真っ赤な一の鳥居が立っていますが、鳥居をくぐった右側には、聖観世音菩薩碑、二十三夜塚、庚申塔が並んで立っています。
説明板があり、聖観世音菩薩については、
「衆生の諸難を祓い、願いをかなえ、教化救済をする菩薩」と書かれていました。
説明板に書かれているように、この神社は、昔から聖観世音菩薩を祀ってきたようで、その由緒については、
【御祭神:月読命 当社には昔から正観音をお祀りしている。 この正観音の由来について、 自ら勧請した旧黒石藩の従臣寺田四郎左エ門盛民の残した次の記録がある。 『当月山宮の社堂は天正年中 (一五七三~一五九二)当所の給主相馬良盛が拓り開くところのいわゆる父喜多左エ門良貞は当国の内の黒石領中野不動館の上田城に居住し嫡子良盛は当所の野原地知行二百石の所領を扶持即ち開拓し、村の鎮守宮として月山宮をここに移し奉ったと雖も、良貞七代の後孫寺田庄藤原氏四郎左エ門盛民が奉持し来たりし誠に奇瑞なる正観音を恩義のため当社に勧請奉るもの也』
これに依れば、 二代相馬良盛がこの地を開拓し、 村の鎮守として月山宮を創立、 その後、 七代目の孫寺田盛民が正観音を併せ祀ったものと思われる。 ※青森県神社庁HP】とあります。難解ですが、主神の月読命とともに、聖観音が祀られるに至った様子が、何となく分かります。





説明板には二十三夜塚(塔)について、「陰暦二十三日の夜、この夜月待をすれば願い事がかなったと云う信仰があった」と書かれていますが、拝殿の前にも「二十三夜」の説明板があり、それには、「二十三夜様は、庚申様の弟でありという。勢至菩薩をあて、月夜見命をあてている。人々は、豊作を祈願した。」とありました。
月待信仰は、
【十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事。※wikipediaより】ですが、例えば、十五夜の場合は「阿弥陀如来・大日如来・聖観音」というように、月齢によって祈願する主尊が割り当てられており、二十三夜の場合は「勢至菩薩」と「月夜見命」になっています。
月読命を御祭神とするこの神社の氏子の人々にとって、二十三夜講は、かけがえのない大切な行事だったのでしょう。
境内には、月の使者であり、月読命の神使でもある「兎」の像が、参道に一対、そして本殿にも一対置かれていました。




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☆つがるみち☆



平川市の館田(たちた)には、戦国時代に「館田館」という城が築かれていたとされています。
築城時期は天正2年(1574)頃といわれており、築城主は大光寺城主・滝本重行で、家臣の千葉与四郎という武将が守将として配置されていました。
当時は、津軽統一を目指す大浦(津軽)為信と南部氏との間で熾烈な戦いが繰り広げられていましたが、南部方の滝本重行は、一帯に、松館・館山館・樋川館などの防御砦を築いたとされており、館田館もそのひとつでした。
大光寺城は、天正3年(1575)に為信軍の奇襲を受けて落城しますが、このとき、館田館も打ち破られ、軍勢は館田村になだれ込んだとされています。
館跡は、現在では宅地化され、その遺構などは残っていませんが、ここに八幡宮(館田前田八幡宮)が鎮座しています。

神社の入口付近に地蔵堂が立っていますが、何人かの御婦人方が忙しそうに働いていました。どうやらお地蔵さまの「お清め」をしているようです。
八幡宮の境内をぐるっとひと巡りして、地蔵堂の方へ向かいましたが、御婦人方はお堂の前で、休憩していました。
尋ねると、「今日はお地蔵さまの宵宮で、お堂をお清めして、地蔵様の衣替えをしている。」とのこと。
私:「八幡様の宵宮なのですか。」
御婦人方:「いいやちがう。地蔵様の宵宮だ。毎年、正月と宵宮には、地蔵様に新しい晴着を着てもらうんだ。」
私:「地蔵様の写真を撮ってもいいですか。」
御婦人方:「どうぞ。新しい着物を着たお地蔵さまも喜ぶでしょう。」
- 実際は津軽弁での会話だったのですが、心温まるやりとりでした。挨拶をして帰るときには、赤飯のおにぎりをいただきました。
八幡宮の境内は広く、様々な記念碑や手水舎、末社などが立っており、狛犬は拝殿前に一対置かれています。
その詳しい由緒などについては不明ですが、やはり、館田館の「館神」として建立され、地域の崇敬を集めてきた社だと思われます。





八幡宮から少し行った所に、私鉄の館田駅がありますが、踏切を渡ると苗生松の集落に出ます。
「苗生松」と書いて「なんばいまつ」と読みますが、地元の方ならともかく、一発で読める人はあまりいないでしょう。
この変わった地名の由来についてはよく分かりませんが、ここに神明宮があります。社号標は「天照皇大神宮」となっていて、住宅に挟まれた道路沿いに立っている社です。
鳥居をくぐって、境内の中に入ると、御神燈や手水岩、鳥居の新築記念碑などが、びっしり立ち並んでいるのが見えます。小さなブランコなどもあり、子どもたちの遊び場にもなっているのでしょう。社殿の隣には、庚申塔が三基立っていました。
赤い社殿の前には、今にも飛びかかってきそうな狛犬が一対と、昇り龍と降り龍の石像が置かれています。小さな神社ですが、印象に残る社です。




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☆つがるみち☆


自宅から近いということもあり、黒森山浄仙寺と中野神社にはよく出かけます。先日も、ちょいと散歩してきました。
◇黒森山浄仙寺


◇中野神社


中野神社といえば、秋の紅葉が有名ですが、寛政10年(1798)にここを訪れた菅江真澄は、次のように記しています。
【・・中野村に入ると、荒川(中野川)に土橋をかけ渡していた。川岸が高く、向こうには野原・切り立った崖・岩の峯がそびえ立つ頂上・小さな坂などの木々、高いのも低いのもすべて紅葉し、落ちる水が岩を飲み込んで激しく流れる風情、はらはらと散る紅葉に夕日が映る。群れ立つ杉の下枝などに這いかかった蔦や散りかかった木の葉、これも紅葉したかと驚くばかり。「名高い立田川の紅葉さえも及ばないであろう」と独り言を言いながら橋を渡った。※『わたしたちの黒石』より】
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☆つがるみち☆
◇黒森山浄仙寺




◇中野神社




中野神社といえば、秋の紅葉が有名ですが、寛政10年(1798)にここを訪れた菅江真澄は、次のように記しています。
【・・中野村に入ると、荒川(中野川)に土橋をかけ渡していた。川岸が高く、向こうには野原・切り立った崖・岩の峯がそびえ立つ頂上・小さな坂などの木々、高いのも低いのもすべて紅葉し、落ちる水が岩を飲み込んで激しく流れる風情、はらはらと散る紅葉に夕日が映る。群れ立つ杉の下枝などに這いかかった蔦や散りかかった木の葉、これも紅葉したかと驚くばかり。「名高い立田川の紅葉さえも及ばないであろう」と独り言を言いながら橋を渡った。※『わたしたちの黒石』より】
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☆つがるみち☆



義経寺の境内は、左右に折れ曲がる石段の参道を登り詰めた高台にありますが、山門をくぐって、左の方に進み、さらに石段を上がった所が本堂です。
北前船の寄港地、松前との渡航口として賑わった三厩に立つ寺院として、多くの海運業者や漁業関係者から篤く信仰された分けですが、本堂の下には金毘羅大神、海側の鐘楼のとなりには弁天堂など、水神を祀る堂宇も立てられています。

大きな仁王像が立つ山門をくぐると、その正面に観音堂があります。
御堂の前には一対の狛犬が置かれていて、堂宇の後ろ側には、本殿が立っているなど、神社の社殿を思わせる造りで、神仏混合の名残を感じさせます。
また、観音堂を取り囲むように、三十三の観音像が立っていますが、この石の観音様は、西国からやってくる北前船が、お守りや重石としていたものとされています。
観音堂の入口には、鰐口が下がり、「聖観音」と書かれた扁額が架けられていますが、その壁には源氏の家紋である「笹竜胆」が彫られており、いかにも義経伝説を伝えるお堂という感じです。
中には、義経の物語に関する多くの絵馬や船絵馬が奉納されています。祭壇の中央には、金色に輝く聖観音菩薩が安置されていました。
◇義経寺観音堂ほか









さて、前回お伝えしたように、義経寺は、蝦夷地渡海を目指して、平泉から三厩へと逃避行を続けてきた義経が、大嵐を静めるために、厩石に自分の守り本尊である観音像を安置し、祈ったという伝承に由来するお寺ですが、後に、この「義経風祈りの観音様」を発見したのは、円空和尚であったと伝えられています。
【寛文7年(1667)、この地を訪れた円空和尚が厩岩で神々しい光を放つ観音像を見つけると、その晩、円空の霊夢に観音像の化身が立ち、上記の由来を切々と語った事から、この観音像こそが義経の守り本尊と悟り、自らも観音像を彫り込み、胎内に義経の守り本尊を納め、草庵を結んだ。】
また、別説では、
【本尊の観音像は義経の兜の前立てに納めた持仏で、江戸時代初期には越前足立(現在の福井県福井市)住民の甚兵衛が所有していたが、甚兵衛の霊夢に観音像の化身が立ち、「津軽三厩に我を納めよ」との御告げがあった事から、船頭である久末に頼み、三厩の船問屋伊藤家に納め、その後、円空に渡った。】とされています。
現在、円空作と伝わる木彫観世音菩薩像(像高52cm、一木造り、寛文7年の銘)は「秘仏」として、観音堂に安置されていて、青森県重宝に指定されています。
義経北行伝説は、ここ三厩の義経寺から津軽海峡を越え、北海道へと続いています。
※【】は、HP「青森 歴史・観光・見所」からの抜粋です。
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☆津軽三十三寺社巡り☆



外ヶ浜町は、蟹田町と平舘村、そして、(今別町をはさんで)三厩村という三つの町村が合併して誕生した町です。
旧三厩村は 津軽半島の最北端に位置している分けですが、「三厩」という村名は「厩石(まやいし)」という大きな岩の名前から名づけられたとされていて、説明板には次のように記されています。
【厩石の由来:文治五年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた! 藤原秀衡の遺言「危機が迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることができない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩、日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい」と云って消えた。翌朝、巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島へ渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩)と呼ぶようになった。】

この厩石のある所は、三厩の漁港のそばなのですが、ここは、松前街道の本州側の終点にあたり、「松前街道終点之碑」が立っています。
また、上記の説明板にも書かれているように、一帯は義経北行伝説の本州最北の地でもある分けですが、厩石のそばには「源義経渡道の地」という木柱が立っており、隣には、「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」が仲良く置かれていました。
厩石の裏側には小高い山があり、その山上に義経寺があります。
義経寺は、「龍馬山」を山号とする浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来ですが、境内の観音堂は津軽三十三霊場の第19番札所として知られており、名前の通り、源義経にまつわる伝説が残るお寺です。
かなり急な石段が続く参道を登ると、やがて山門が見えてきますが、境内からは、津軽海峡を望むことができ、とても美しい眺めです。
その沿革などについては、
【三厩湊が蝦夷地である松前との渡航口で北前舟の寄港地になると、義経が観音像の御加護を受けで蝦夷地に渡った故事(伝承)から、海に関わる海運業者(廻船問屋)や漁業関係者から篤く信仰されるようになります。特に義経寺では航海安全、豊漁祈願が行われ、境内には数多くの船絵馬や大漁旗、舟の重りで使用した石、石鳥居などが奉納され、文政2年(1819)には松前奉行村垣定行が石燈籠を寄進しています。当初の義経寺は厩岩近くに境内を構えていましたが安政2年(1855)に現在地に移り、神仏習合していた為、明治時代初頭に発令された神仏分離令により一時廃寺寸前となりましたが、今別にある本覚寺の末寺となり、現在に至っています。※HP「青森 歴史・観光・見所 」より】と紹介されています。









義経寺は、太宰治の小説『津軽』の舞台にもなっていますが、太宰は、昭和19年5月18日に友達のN君と、このお寺を訪ねた時の話を次のように書いています。以下は、小説からの抜粋です。
【「登つて見ようか。」N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまつた。「うん。」私たちはその石の鳥居をくぐつて、石の段々を登つた。頂上まで、かなりあつた。石段の両側の樹々の梢から雨のしづくが落ちて来る。「これか。」石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、笹竜胆(ささりんだう)の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、 「これか。」と、また言つた。「これだ。」N君は間抜けた声で答へた。
私たちは無言で石段を降りた。「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。】
太宰は、義経伝説に関しては、割と冷ややかにとらえていたようです。
ー 次回へ続きます。
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☆津軽三十三寺社巡り☆



今別町役場の近くの坂道を登って行くと踏切がありますが、踏切を渡り切った所は広場になっていて、ここに高野山観音堂があります。
広場から、さらに上の方に道が続いていて、杉木立の中を登って行くと、開けた場所があります。一帯の50年前の様子について、
【朝から花火が打ち上げられ、町には5月14日から3日間「今別町大観桜会」のポスターがはられ、「大運動会、消防観閲式、婦人会仮装、町内駅伝競走、上磯相撲大会」などと書かれていた。小学校のある丘の上、三十三観音のあるところがその場所だ。山桜、八重桜が十数本、松の木にまじって咲いていた。この丘から三厩湾が見渡され、はるかに北海道の山々も望まれる。津軽の観桜会は弘前、金木、青森、今別という順で、昭和5、6年ころには見世物小屋ができ、行商人も集まったし、青森からはカフェーが出張してきて、大いににぎわったものだと土地の人は自慢していた。※地元紙:陸奥新報HPより】と書かれています。当時の町の賑わいがしのばれる文章です。

高野山観音堂は、津軽三十三霊場の20番札所ですが、建物は立派な寺院造りで、その前に案内板が立っています。
【この観音堂の草創は古く天長年中(826年頃)であると言われ、本尊は十一面観音で慈覚大師の作と伝えられている。
寛政5年(1794年)の御堂建立に当たっては西国三十三霊場の土を運ばせ御堂の下に埋めたことからここに参詣すれば西国三十三観音を拝するに等しいとみ言われ津軽霊場三十三観音の二十番掛所として広く知られている。※案内板より】
その入口には鰐口が吊り下げられており、たくさんの巡礼札が貼られていますが、中に入ると、中央に祭壇があり、如来像とともに、本尊の十一面観音が祀られています。
御堂の前の広場の周りには、観音像が置かれていて、ここからは、今別の町と海を望むことができます。昔も今も、ここは「観音の丘」として、町民の信仰を集めているのでしょう。
◇高野山観音堂









現在、観音堂は本覚寺の末寺となっていますが、先の案内板に書かれているように、その草創は本覚寺よりも古く、藩政時代には、津軽三十三霊場のひとつ(20番、あるいは23番)として信仰を集めていました。
しかしながら、その後、観音堂は荒廃したために、寛政3年(1791)に、本覚寺の愍栄上人が本尊の古仏を引き取り、本覚寺客殿裏に安置しました。この時、愍栄上人は、自らが彫り上げた十一面観音像を古仏の体内に納めたといわれています。
その後、寛政5年に「円通庵」が創建され、本尊は再び、ここに遷されることになりましたが、この時、村の者を西国に行かせ、三十三霊場の土を持ち帰らせ、新堂の下に埋めたと伝えられています。
- 御詠歌 : 高野山誓いをここに今別の 石の光りも弥陀の舎利浜 ー
※『津軽三十三霊場』 陸奥新報社 等を参照しました。
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☆津軽三十三寺社巡り☆



今別町については、
【古くから北前船や廻米船の寄港地として発展した町で、江戸時代には松前街道の宿場町となりました。弘前藩では領内の重要視する6つの湊(今別湊、十三湊、蟹田湊、青森湊、深浦湊、鯵ヶ沢湊)と3つ関所(碇ヶ関関所・大間越関所・野内関所)を合わせて津軽九浦として代官所や御仮屋などを設けて重点的に整備し、今別町にも町奉行所や御山奉行所が設置されています。】と紹介されています。
享和2年(1802)には伊能忠敬も測量に訪れたという今別町ですが、町の中心となる社が今別八幡宮です。

その由緒については、
【今別八幡宮の創建は大同2年(807)に勧請されたのが始まりと伝えられています。中世、当地を支配した今別城の城主平氏の娘が浪岡城(青森市浪岡町)の城主北畠具運卿に嫁いだ際、永禄3年(1560)具運卿が改めて石清水八幡宮(京都府八幡市)の分霊を勧請し社殿を再建しました(一説には城主平杢之介の奥方の懇願により社殿が建立されたとも)。今別湊は江戸時代、弘前藩の九浦に指定され重点的に整備された事から活況を呈し、今別八幡宮も海運や漁業、湊に関わる人達から篤く信仰されました。古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治5年(1872)に今別八幡神社に社号を改め昭和43年(1968)に現在の社号である今別八幡宮に改称しています。】とあります。
一の鳥居と二の鳥居をくぐって進むと、途中に橋がありますが、この橋は跨線橋 で、その下を鉄道(津軽線)が通っているという、珍しい参道になっています。
橋を渡った所からは、小高い丘に向かって上り坂の石段が続いています。上り切った所に、御神燈や手水舎があり、社殿は、さらに高い場所に立っていました。




参道と境内は、たくさんの樹木に囲まれたうっそうとした森ですが、主な樹木にはその名前を記した札がかかっています。この神社の森には、ヒラマヤスギ・アカエゾマツ・ブナ・ウダイカンバ・ミズナラ・ホオノキ・サンショウなど、多くの種類の樹木がありますが、昔から「神域」とされていたため、その保存状態がとても良く、「今別八幡宮自然観察教育林」として、教育活動にも貢献しているとのことです。
本殿には、明暦4年(1658)に山岸屋太兵衛、万治2年(1659)には上林武兵衛という、いずれも越前国新保浦出身の人物が奉納した石造狛犬が置かれていて、今別町指定文化財に指定されています。
越前国(福井県)産の石造狛犬は、弘前市の熊野奥照神社や、青森市の小金山神社などでも見ることができますが、江戸期の日本海西回り航路を利用した北前船関係の歴史資料として貴重な物とされています。
※【】は、HP「青森 歴史・観光・見所」を参照しました。





松前街道沿いに残る義経北行伝説は、ここ今別の町にもあります。
【今別の川岸に義経は柳の鞭を立て、ぶじに蝦夷地に渡ることができるのなら、この鞭に一夜のうちに枝葉を茂らせたまえと八幡宮に祈った。
あくる日に見たら、柳の鞭に枝葉が茂っていたという。※『青森の伝説』より】
義経が祈ったとされる八幡宮は、ここ今別八幡宮だったのでしょうか。
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☆つがるみち☆



鬼泊巌屋観音堂から、今別町の方へ向かって5、6Kmほど進んだ所に袰月(ほろづき)の集落があります。
一帯の海岸線は「袰月海岸」と呼ばれ、津軽国定公園にもなっている景勝地ですが、昔は、松前街道の難所のひとつで、嘉永4年(1851)には吉田松陰もこの道を通ったと伝えられています。
その袰月の集落の入江に海雲洞釈迦堂があります。
鬼泊巌屋観音堂とともに津軽三十三霊場の21番札所になっていて、明治の神仏分離によって巌屋観音堂は廃堂となりましたが、廃仏毀釈運動が薄まった明治20年代に、ここ袰月の村に再建された観音堂です。
前回の記事でもお伝えしましたが、享保年間(1716~1736)の頃には、巌屋観音堂の建物は荒波に晒され、老朽化していたために、本尊の聖観音菩薩は、今別町内の本覚寺五世・貞伝上人の手によって本覚寺に遷されました。
貞伝上人は名僧の誉れ高く、地域の産業振興にも尽くした人物で、
【漁師の生活を安じた貞伝上人が、境内の多門天堂に祈願し、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げいれ昆布を根付けさせたといわれ、当地方では、今別昆布は貞伝上人の賜わり物とされており、また、ただ取るだけでなく育てる漁業の先駆者ともいわれております。※本覚寺案内板より】と紹介されています。
海雲洞釈迦堂は、この貞伝上人の作とも伝わる聖観音菩薩像を譲り受け、建立された分けです。

道路沿いに赤い神橋が架かっており、その奥にもうひとつの赤い橋と鳥居が立っていますが、鳥居くぐると、その先には高さ10mほどの滝があります。細い絹糸のようなこの滝は、観音堂のシンボルとなっています。
堂宇は、一見、集会所を思わせるような造りですが、扉を開けて中に入ると長椅子なども置かれています。地域の人々が集まり、時には句会なども行われているということです。建物の横には、「光明の松」と呼ばれる松の老木と地蔵堂が立っていました。
ここは、釈迦如来を本尊とする本覚寺の末寺でもある分けですが、中央の祭壇の右側(向かって)には、釈迦如来や阿弥陀如来が祀られており、左側に聖観音が祀られていました。
◇袰月海雲洞釈迦堂





裏側に滝があるところからその名がついたのでしょうか、ここの観音様は「滝見観音」と呼ばれています。
地域の厚い信仰を集めているようで、壁には、「滝見観音は、我が国に三体のひとつで、古書には唐土より渡来せしとある。名を呼べば煩悩と災難は消え去り、火の海も水の池に変わるという。」と書かれた額が掲げられていました。
- 御詠歌 : 鷲の山誓いも重き袰月の 影を浮世に残す舎利浜 -


ところで、袰月は、高野崎と鋳釜崎というふたつの岬に囲まれた湾内にある分けですが、元来は、「両翼突(ほろづき)」と書かれていたとされています。二つの岬を翼に例えたものなのでしょうか。
また、地名はアイヌ語の「ポロトゥキ (大きい坏) 」からきたという説や、地形が「母衣(武士が合戦の時馬に乗る際、飛んでくる矢を防ぐため背に負う、竹等で作った籠に布を被せたもの)」を思わせるところから名づけられたという説もあるようです。
実は、ここにも義経の北行伝説が残っています。
【袰月というのは、源義経がここで鎧につけたホロをぬらしたので、道端のツキの木に掛けて乾かしたところから出た地名だという。海岸に袰の形の「袰岩」がある。また、義経の乗馬が岩になったのだとして、馬の腹の形をした岩や、ひづめの跡のある「馬岩」があった。※『青森の伝説』より】
伝説では、義経は、袰月海岸の変化に富んだ断崖と、そこからの月の眺めが見事であると絶賛したとされています。
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☆津軽三十三寺社巡り☆



松前街道(国道280号線)は、蓬田村から外ヶ浜町、そして今別町へと津軽半島の頭部を反時計回りに進んで行く分けですが、途中に奥平部(おくたいらへ)の集落があります。
辺りは、奇岩が立ち並び、美しい海岸が続く景勝地となっていますが、ここに津軽三十三霊場の21番札所である鬼泊巌屋観音堂があります。
道路際に「岩屋観音」と書かれた標識が立っており、その矢印に従って石段を海辺に向かって降りて行きます。
三つの鳥居をくぐった後に、右側を見ると、海に向かってドーンと突き出した巨岩がありますが、その岩屋の中に赤い小さな観音堂が見えました。
波風をうけて、洞窟の中につつましく納まっているその姿は、津軽三十三霊場の中でも、とりわけ印象深い光景です。参拝に訪れる人々も絶えないようで、祠の前には多くの巡礼札などが架けられていました。
案内板には、
【岩屋観音の草創は定かではないが、貞享3年(1689年)「外ケ浜代官所書上張」によるとこの天然の岩洞に小さな祠が建てられ観世音菩薩が安置されているとある。又、天明6年(1786年)頃の凶作が続いた大飢饉には人々が苦しみ心は荒れはて悪人を鬼と言われた頃、この観音堂は津軽霊場三十三観音の二十一番札所掛所として広く知られていた。】と書かれています。





その縁起については定かではないのですが、伝承によると、天長年間、舎利浜(※辺り一帯の海岸。「舎利石」と呼ばれる白い光沢の石がとれることから名付けられた)から釈迦如来像が出現し、奉祭した事がきっかけとなって創建されたと伝えられています。
その後、「厳屋観音」として広く信仰され、江戸時代には津軽三十三観音霊場第21番札所にも選定されましたが、『寛延巡礼記』という本の中に、「海の中に岩あり。船にて参詣する所なり」と書かれているように、余りにも海に近く、堂宇の傷みが激しかったために、本尊の聖観世音菩薩は、本覚寺(今別町)に遷され、廃堂となりました。
しかし、本尊がなくなっても信仰厚い人々は厳屋観音への巡礼を続けていたといわれています。
本尊は、明治20年代に近くの袰月(ほろづき)に祀られ、観音堂は再興されましたが、「霊地」である鬼泊にもその再建を望む声も多く、昭和30年代に、再び、厳屋観音堂が建立された分けです。ですから、津軽三十三霊場の21番札所は、現在、鬼泊と袰月の二カ所となっています。
ー 御詠歌 : いにしえの鬼の岩屋に神立ちて 悪魔はあらず外ケ浜にも -





案内板に、「飢饉が続いた頃、悪人は鬼と言われた」という記述がありますが、「鬼泊」という地名については、次のような話が伝えられています。
【今別町大泊の海岸には、奇岩怪石におおわれた岩場があり、その中に「鬼の穴」と言われる洞窟もある。その昔、この岩穴に鬼が住みつき、海を通る船や、田畑を荒らしたり、村人たちは困りはてていた。そこへ、兄・頼朝に追われ蝦夷へ向かっていた義経一行が通りかかり、話をきいた義経はその鬼を退治してしまったという。青森には各地に鬼伝説が残っているが、この「大泊」という地名も鬼が住んでいた「おにどまり」からきているといわれている。※今別の伝説「 大泊の鬼 」より】
松前街道は、いくつかの義経北行伝説が残る道でもある分けですが、ここ鬼泊もそのひとつです。
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☆津軽三十三寺社巡り☆

