
青森市HP「なみおか 今 昔」には、【・・・浪岡から五本松、王余魚沢を通り青森の堤橋に出る道は、古くから「大豆坂(まめさか)街道」と呼ばれ、大釈迦峠-鶴ヶ坂の道筋とともに重視されてきました。】と書かれています。
文中に出てくる王余魚沢(かれいざわ)は、浪岡町内から青森空港へと至る途中にある集落です。

ここには、かつて、「王余魚沢館」という城(館)が築かれていましたが、浪岡北畠氏の家臣であった軽井源左衛門尉という武将が築城主といわれています。現在は遺構もなく、詳細は分かりませんが、稲荷神社の境内が、その居館の跡とされています。
前述のように、王余魚沢一帯は、青森へと至る要路でした。津軽藩は、夏の強い日差しをやわらげ、冬の風雪を防ぎ、往来を楽にするため、松を植えるなど、街道整備に努めましたが、享和元年(1801)頃には、ここ稲荷神社の辺りにも並木松が植えられたとのことです。
現在は、その並木松はほとんど残ってはいませんが、一の鳥居から続く参道の両脇には、背の高い杉木立が林立しており、かつての街道の様子を偲ぶことができます。
◇稲荷神社参道と境内





この神社の由緒についてはよく分かりません。神社名からして御祭神は倉稲魂命だと思われますが、かつては武将の館跡だったことから考えると、戦いの神・荼枳尼天が祀られていたのかも知れません。
細い参道を歩いて行くと、広い境内へと出ます。御神燈や狛犬、鳥居を伴った末社などが並んで立っていました。
境内には、大石が何個か置かれています。舟のような形のものやお椀型のもの、石碑のようなもの、石塀に囲まれて置かれているものなど、様々ですが、いずれも真ん中がくりぬかれていました。これらは、近くの山などから集められ、ここに置かれたようですが、何か、信仰上の理由があったのでしょうか。不思議です。
◇境内の大石と本殿




ところで、「王余魚沢(かれいざわ)」という、とても珍しい地名ですが、その由来については、はっきりとしたことは分かっていません。
ひとつには、大豆坂街道を旅する人達が「餉(かれいい:携帯する食糧)」をとる場所、または、馬や荷物を下ろす場所(かるいざわ)から転化したものだという説があります。
また、「王余魚」という魚の名前は、「昔、中国の王が魚を半分食べたところを水に放すと泳ぎだした」という故事から名づけられたとされていますが、それに倣ったものだという説もあります。即ち、この説は、中世浪岡の支配者であった北畠氏を中国の王になぞらえている分けです。
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猿賀神社の蓮の花が咲き始めたので行ってみました。
境内の鏡ヶ池に群生している蓮は「和蓮」という種類で、自生しているものとしては、日本の北限のものといわれていますが、池にびっしり群がる葉っぱに交じって、淡いピンクの花が顔をのぞかせています。
この蓮の花は、例年、7月中旬ごろから咲き始め、7月下旬から8月下旬が見ごろとされていますが、期間中は、『北限に観る蓮の花まつり』が開催され、多くの家族連れやカメラマンなどで賑わいます。






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平川市の松館・館山地区は、弘前市と隣接しており、バイパス沿いにはたくさんの住宅が並び立ち、ベッドタウンを形成しています。
また、立地環境と交通アクセスにも恵まれているため、各社の工場などが建てられ、一帯は「松崎工業団地」と呼ばれています。
しかしながら、バイパスから少し離れた所は水田やリンゴ畑が広がるのどかな景色で、その中に神明宮が鎮座しています。

「松館」「館山」という地名からも分かるように、かつてこの地には城(館)が築かれていたようです。
築城年代や築城主など、その詳細については定かではありません。この神明宮一帯がその中心であったようですが、現在は、その遺構などは残っていません。
神社の由緒については、
【御祭神:天照皇大神 古来観音堂として四民深く信仰し、 元禄三年 (一六九〇) 建立、 当村の産土神として崇敬された。 天文年中 (一五三二~一五五五) は、 守山神明宮として勧請され、 爾来館山、 松崎、 松館右三ケ村の産土神として重く奉齋され、 明治初年御一新に付き、 明治三年の神仏混淆仕分けの際、 社号を神明宮と改め、 明治四年三月十七日、 神明宮の社号を受け、 明治八年五月五日、 陸奥国第二大区八小区館山の神社として、 天照皇大神を奉齋し、 村社に列せられる。 館山、 松崎、 松館三ケ村の産土神として崇敬され、 大正年間に松館村が氏子区域を離れ、 館山、 松崎二ケ村の氏神として今日に至る。※青森県神社庁HP】と記されています。
酒樽を掲げ、豪華な注連縄が張られている一の鳥居、二の鳥居と参道を進んで行くと、一段高い場所に石段が設けられ、昇り龍と降り龍が彫られた門柱がありますが、その奥に三の鳥居があります。
社殿は、そこから真っすぐではなく、右側に回り込んだ所に立っていますが、これは方角を考えて、「東向き」に建てたものだと思われます。
境内には、御神燈や狛犬、改築記念碑、末社などが並んで立っていますが、拝殿の壁面には、十二支を描いた奉納絵馬が掲げられていて、地域の産土社として崇敬されている様子が分かります。
◇館山神明宮









境内は、中世の城跡だったようですが、一の鳥居の横に立っている由緒書きには、「松舘址」として、次のように紹介されています。
【御由緒略記 舘山神明宮所在地を守山と明記してあり、大浦為信の旗揚げ当時には既に守山神明宮を本陣として、天正三年大浦勢正月元日第二次大光寺城を攻め、落城の際に大浦為信が本陣を構えて指揮したという史実から推して見ても古社であり、舘山松舘松崎三村の御産土神様として崇敬されています。松舘址 ※由緒書きより】
これらを見ると、古来、観音堂として信仰を集めていた社は、戦国時代には「守山神明宮」と呼ばれ、大浦為信の津軽統一の戦いの際は、その拠点のひとつになっていたことが分かります。
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恒例の田舎館村田んぼアートが今年も開催されていて、見ごろを迎えたということで行ってみました。近くに住んでいながら、なかなか行けず、ここへ来るのは三年ぶりです。
主会場(第1会場)である田舎館村役場に行き、さっそく展望デッキへ。今年のテーマはNHK大河ドラマ「真田丸より 石田三成と真田昌幸」です。
デッキから見下ろすと、道路を挟んで右側に真田昌幸(役:草刈正雄さん)。背後には大阪城と真田の旗印「六文銭」が描かれています。
一方、左側には石田三成(役:山本耕史さん)が、「真田丸」の題字と「大一大万大吉」の旗印とともに描かれていました。
石田三成の子孫は津軽家との関わりが深く、弘前市の宗徳寺や板柳町の深味八幡宮などに、その足跡が残されています。
緑や赤、紫など7色12種の稲穂で描かれた「真田丸」は迫力満点ですが、7月17日には、三成役の俳優・山本耕史さんを招いてテープカットを行い、「見ごろ宣言」をしたとのことです。

一方、こちらは第2会場。道の駅「弥生の里」がその会場となりますが、ここには遊園地などもあり、家族連れで賑わう所です。
そのせいか、こちらのテーマは例年、「サザエさん」や「スター・ウォーズ」など、どちらかというとファミリー向けの作品が多いようです。

今年の絵柄は話題の映画「シン・ゴジラ」。封切りよりも早く田舎館の田んぼに出現したという分けです。
こちらも「真田丸」に負けず劣らず、なかなかの迫力ですが、田舎館村のHPによると、「ゴジラの赤黒い皮膚を稲できれいに表現するために工夫を重ねた」ようです。
余談ですが、これまでのゴジラ映画の中で、青森県にゴジラが「上陸」したことはありませんが、第20作の『ゴジラvsメカゴジラ』で、都心へと向かう怪鳥・ラドンが青森駅や観光物産館の上空を飛来したシーンが記憶に残ります。
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「○○館」とかいう地名は県内にも数多くありますが、その多くは昔、その地に城郭(館、砦)が築かれていたことに因むといわれています。
平川市にも、かつては「館田館」や「松館」、「小和森館」、「猿賀館」などの館があり、それが現在は地名として残っている分けですが、「杉館」もそのひとつです。

杉館の城については、その詳細は分かりませんが、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、この地を所領していた工藤氏の居館であったといわれています。
工藤氏は、鎌倉北条氏の御内人であった工藤貞行(くどうさだあき)が、当時の田舎郡の地頭代として入部し、勢力を広げていった分けですが、その後は南部氏の配下になり、現在の黒石市を中心にして一帯を治めていた氏族です。
現在は、杉館の遺構は残っていませんが、集落の中心に鎮座する八幡宮付近が、その館跡だとされています。
一の鳥居と社号標は別の場所に立っているようですが、私は二の鳥居の方から訪ねました。地域の集会所の隣に神社が立っていましたが、かつては、一帯が境内であったように思われます。
境内には、御神燈をはじめ、狛犬が二対、大小の神馬などが並んで立っています。拝殿の前には、末社が二つほど立っていましたが、注連縄が張られていたり、奉納された草鞋が架けられていて、地域の信仰を集めている社だということを感じさせます。
◇杉館八幡宮境内





この社の由緒については、
【御祭神:譽田別尊 当社の創立年月日は不詳なるも、 伝説に依れば、 延暦年間 (七八二~八〇六)、 坂上田村麿の建立と云う。 上代より庶民の信仰特に厚く、 当村字滝本の地に久しく祀られていたが、 正徳三年 (一七一三)、 現地へ社殿を造営奉遷す。 天明年間 (一七八一~一七八九)、 以前より廃社になっていた八幡宮を合祀し、 弘化四年 (一八四七) 四月、 社殿を再建し、 村中にて産土神として深く崇敬するに至る。 明治六年九月八日、 村社に列せられ、 明治四十四年四月、 神饌幣帛料供進神社の指定を受ける。 終戦後、 神社制度の根本的改革により、 昭和二十二年四月一日宗教法人令による宗教法人八幡宮となり、 昭和二十六年二月六日、 国有境内地九六・六坪譲与され今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
津軽には、「坂上田村麻呂建立」という伝承を持つ神社が多いのですが、ここもそのひとつのようです。
◇狛犬、木鼻など




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津軽の霊峰・岩木山は、各地域によってその姿形は少し違って見えますが、弘前側から見える姿は、中央の岩木山、左右の鳥海山と巌鬼山という三つの峰がちょうど漢字の「山」のように見え、「お山」と呼ぶにふさわしい感じがします。
「祖霊の住む山」として古くから崇められてきた岩木山ですが、現在のように登山ルートも整備されていなかった時代の参拝は大変難儀でした。また、かつては「女人禁制の山」だったということもあり、人々は地域の小高い山を遥拝所に見立てて「模擬岩木山」として崇めたり、神社の境内に大石を置いて 信仰の場を造ったりしてきました。

郷土史家の小館衷三さんは、こうした「模擬岩木山」に関する信仰についても言及されていますが、その著書の中に、次のような記述があります。
【相馬村紙漉沢の奥にある大石明神もピラミッド型ー岩木山型の高さ三メートル近い大石で、その場所は岩木山の眺めもよく、昔は神楽なども行われた信仰の場であったという。※小館衷三『岩木山信仰史』より】
弘前市の紙漉沢(かみすきさわ ※旧相馬村)には、長慶天皇の御陵墓参考地があり、古くから天皇に関する様々な潜幸伝説が残っている所ですが、「紙漉沢」という地名も、天皇の潜幸の際に、紙漉きの技術が持ち込まれたことに因んで名づけられたといわれています。
この大石明神、現在の住所は弘前市高野山越となっていて分かりにくかったのですが、紙漉沢周辺の山道を行ったりきたりしながら、やっとたどり着きました。
四方をりんご畑に囲まれた小高い山の上に神社はあります。背後には頭に雲をかぶった岩木山が見えました。今は林の陰に隠れて少ししか見えませんが、かつては山全体がくっきり見えたのだと思います。小館衷三さんの文章に書かれているように、昔は村人の祈りの場として神聖視されていたのでしょう。
赤い鳥居には「大石明神」と書かれた扁額が掲げられており、その奥に小さな祠がありますが、その後ろが御神体の大石です。その姿形は「正に岩木山」で、三つの峰をそのまま縮小したような感じがします。
青森市入内の石神様には 、「石を破壊しようと石工が派遣されたが、石工が石に触れると手がしびれ、氷雨が降るという奇異な現象が起きた。これに驚いた石工は怖くなって逃げ出し、ついに石神様を壊すことができなかった。」という話が伝えられているように、こうした巨石には神霊が宿るとされ、破壊しようとすると災いが起こるという伝承があります。
ここの大石明神にも同様の話が残されており、「石工が大石を砕こうとして大けがをし、神威を恐れて祠を建立した。」といわれています。確かに、石の表面にはいくつかの楔の跡が残っていました。
◇大石明神





先にも書いたように、この大石明神はりんご畑に囲まれた小山の上にある分けですが、小山を下って行くと、小さな池があり、そこに祠が立っていると聞いていたので山を下ってみました。
最近は、あちこちでクマが出現していて、実際、ここへ来る途中の道路にも「熊に注意」という標識もあったので少し怖かったのですが、おそるおそる下りてみました。
降りてみると、そこには小さな農道が通っていて、その傍らに小さな池があり、赤い鳥居が立っています。扁額には「九頭竜大権現」と書かれていました。
鳥居をくぐって小さな神橋を渡った奥に祠があり、その中には御神体の「九頭竜大神」が祀られていました。「九頭竜」という名前のせいか、祠の後ろの大きな倒木が、何となく龍の背中に見えてくるから不思議なものです。
◇九頭竜大権現




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弘前市の新里(にさと)は、平川市と境を接する集落ですが、ここに熊野宮が鎮座しています。
道路沿いに米俵が乗った豪華な注連縄が張られた一の鳥居がありますが、そこから二の鳥居、三の鳥居と続き、拝殿へと至ります。
境内には手水舎のほかに御神燈と狛犬が一対ずつ立っていて、拝殿の隣には、猿田彦碑と庚申塔が置かれています。本殿の後ろからは、弘前市街へと続くバイパスが見えます。
その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 慶長十三年(1608)村人等により産土神として奉戴された。※青森県神社庁HP】とあるだけで、詳細については分かりません。
私が境内をぶらぶらしていると、一台の軽トラックに乗った方がやってきました。この人は氏子の総代さんで、「二の鳥居を、新しく塗りなおしたから。乾いたかどうか見に来た。」とのことでした。総代さんのお話によると、「400年も前から村の神様だった。」とのことです。
◇新里熊野宮









一方こちらは土堂(つちどう)の集落に鎮座している熊野宮です。
石造りのがっしりした鳥居に金属製の注連縄が架かっており、拝殿までの参道にはいくつかの鳥居が並んでいます。
参道の横は広場になっていて、滑り台などもありますが、ここは、「土堂神社前」というバス停にもなっています。
境内には神馬や狛犬などが置かれていますが、拝殿の左側には末社が立っていて、中は見れませんでしたが、ここは馬頭観音堂のようです。その隣には、猿田彦大神の碑が立っていました。
一方、右側には注連縄が張られた大木がありますが、この木は菩提樹で、この神社の御神木になっているようです。
その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 速玉男之神 安政二年の神社微細調、 社司由緒書上帳によれば 「藤代組土堂村、 熊野宮一宇。 右草創建立年月相分不申候」 とある。 明治六年、 神社改革の際、 廃社となり、 藤代稲荷に合祀されたが、 明治八年願済みの上復社、 翌年十二月、 村社に列せられる。 明治四十年四月十九日 神饌幣帛料供進指定。 ※青森県神社庁HP】とあります。
◇土堂熊野宮








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平川市には「森林公園」と名のつく公園が2ヶ所あります。ひとつは、文字通り白い岩が佇立する白岩森林公園で、もうひとつは志賀坊森林公園です。
志賀坊森林公園は、標高350mにある公園で、公園全体にゆるやかな遊歩道が設けられ、季節にはさまざまな山野草が咲き乱れ、のんびりと森林浴を楽しむことができます。また、ここからは、霊峰・岩木山と広大な津軽平野を一望できますが、特に、夕景と夜景が美しいということもあり、人気スポットになっています。

公園からの道は矢捨山方面へと続いていますが、その道の入口に「津軽と南部の要路」と題する案内板が立っています。
【・・・観音様の参拝と南部地方との物流の主要道路であったと思われるこの道。往時、南部遠野の住人が城主の姫と恋仲になり、遠野では結ばれる関係ではないが、二人の燃える恋心はいかんともしがたく「愛の逃避行」を決意する。野を越え山を越え、手に手を取って苦難を乗り越え、志賀坊を経て風光明媚な広船にたどり着き、この地を永住の地と定めた。】
なかなかロマンチックな伝説ですが、今は森林の中に埋もれている道も、かつては、人馬の往来が盛んな道路であったようです。

案内板に書かれている「観音様」とは、津軽三十三霊場28番札所である広船観音堂のことですが、観音堂は広船神社の境内にあります。
観音堂については、以前の記事で紹介したので、少し重複しますが、広船神社は、
【祭神:須佐之男命 創建は大同2年(807)坂上田村麻呂が開いたのが始まりと伝えられ、古くから神仏混合し広船観音堂や弘船寺などと呼ばれていました。一事衰退し荒廃しましたが正長元年(1428)に再興、正長2年(1429)に制作された鰐口や五輪塔が残されています。又、境内は中世の城である広船城に隣接していることから城主との関係が深かったと考えられ、慶長15年(1610)には城主の後裔と思われる別浦太郎左衛門信正が社殿を再建しています。寛延年間(1748~51)には津軽三十三観音霊場二十八番札所に選定されると広く信仰を集めるようになりますが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され本尊の千手観音像は村頭の仏壇に移され社号を広船神社に改称されました。廃仏毀釈の気運が静まると、再び千手観音像は広船神社の本殿に安置され昭和15年(1943)に観音堂を建立すると千手観音像を観音堂に移しています。※青森県 観光・歴史・見所より抜粋】と紹介されています。
広船の村の産土社として信仰を集めてきた神社で、棟札、鰐口、五大力菩薩、薬師如来立像、梵鐘などの社宝は市の文化財に指定されている他、手水舎は「観音清水」と呼ばれる名水にも指定されています。






広い境内には、拝殿や本殿をはじめ、観音堂、稲荷神社、薬師堂、鐘楼などが立っている他、観音像や狛犬、祠などが数多く見られます。
観音堂へ上る石段の手前に、一風変わった表情をした大きな石が置かれています。
一見、おにぎりのような形をしたこの巨石の表面には、まるで人間の「目」を思わせるような横長の穴があいており、でっぱりは鼻のようにも見えます。この「目」は、人の手によって彫られたものではなく、自然にできたものだということですが、見る角度によって、笑っているようにも、泣いているようにも、怒っているようにも見えるため、「人面石」と呼ばれています。
また、境内にはかなりの大きさのイチョウの木がありますが、かつては、もっと大きな巨木がそびえていたようです。
拝殿の前に、その乳根が置かれていて、「広船観音堂 大銀杏の由来」という説明札が下げられています。
【この大銀杏は第二鳥居前方の南側の場所にあった。この木に登り、枝を伝い、地面に降りることなく広船館に行くことが出来たという(古老の話)。この大銀杏の乳枝を煎じて飲めば母乳の出が良くなると信じられ、明治二十一年大火消失前は垂乳根を大銀杏から取り、神社に納めた。お母さんたちは、乳根を鉋削りをして持ち帰った。】
置かれていた大きな乳根の裏側には、確かに削った跡が見られます。
広船館跡は第二鳥居から道路を挟んだ斜め向かいにありますが、けっこうな距離があり、木に登り、そこまで枝伝いに行くことができたとは、かつてのイチョウの木は、かなりの大木だったようです。




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松倉観音堂(松倉神社)へと至る巡礼ルートはいくつかありますが、体力に自信がある健脚の方は、大釈迦から梵珠山へと登り、尾根道を下って観音堂へと向かう道を進みます。
もうひとつは、前回取り上げた遥拝所のある前田野目の集落から、直接、観音堂のある松倉山を目指すルートですが、私は、この道をたどりました。
ですが、この他にも道はあるようで、詳しくは分かりませんが、五所川原の長橋地区からも巡礼の道があるようです。
県道36号線を金木町方面に走って行くと、途中に「長橋ため池」という大きな農業用ため池がありますが、その手前に「松倉神社」という社号標が立っています。ここから続く道は「野里」という集落を通り、松倉山まで続いているようです。その途中には名水「恵の泉」があることで知られる中山大権現があり、私も訪ねたことがありますが、そこから先へは行ったことがありません。
この社号標の向かい側の道を進むと「松倉山神社」という社がありますが、この神社は、かつて、松倉神社の遥拝所(里宮)だったとされています。
⇒ 松倉山神社・中山大権現・松倉神社
集落の道路沿いに一の鳥居が立っていますが、扁額は「松倉神社」、社号標は「松倉山神社」になっていました。
鳥居をくぐると、りんご畑が広がっており、赤い二の鳥居が見えます。境内の入口には地蔵堂があり、大きなお地蔵さまが祀られていました。




社殿へと続く参道の両側には三十三観音像が立っていましたが、よく見ると観音様は、境内をぐるっと取り囲むように置かれていました。中には、白いほっかむりをしたものもあります。境内には、観音像のほかに神馬や狛犬などもありましたが、いずれもほっかむり。
境内の端っこの方に、赤い小さな祠が2つ並んで立っていましたが、そのうちのひとつには水神・水虎様が祀られていました。
この神社の由緒等についてはよく分かりませんが、かつては「野里遥拝所」と呼ばれていたようで、文政年間(1818~1835)に建立されたといわれています。
一帯は、正保年間(1645~1648)に築造された「長橋ため池」とともに開けていった村ですが、治水の安全と五穀豊穣を願って、この神社にも水虎様を祀ったものなのでしょうか。








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☆つがるみち☆ ☆水虎様☆



松倉観音堂は津軽三十三霊場の25番札所ですが、梵珠山の峰の松倉山にあるため、三十三霊場の中でも一番の「難所」として知られています。
観音堂までの道のりが厳しく、巡礼に行きたくても行けない人々のために、現在は、浪岡にある元光寺が納経所になっていますが、境内には、本尊の十一面観世音菩薩が安置されていて、「うつし御本尊」と呼ばれています。

こうした村里から遠く離れた社には、遥拝所としての役割を負った「里宮」が設けられていたりします。
松倉観音堂(松倉神社)にも、そのような遥拝所にあたる神社が二つほどありますが、そのうちのひとつが前田野目(まえだのめ)という集落に鎮座する松倉神社で、「前田野目遥拝所」とも呼ばれています。
前田野目は、大釈迦から五所川原へと向かう国道101号線沿いに開けている集落で、観音堂への登り口にあたり、二十五番札所の道案内板が立っていますが、遥拝所の松倉神社は、そこから反対方向へ少し進んだ所にありました。
農道沿いに赤い鳥居が立っており、一の鳥居、二の鳥居と参道が続きます。境内の入口に末社がひとつ立っていましたが、ここには水神様が祀られていました。
こんもりとした森に囲まれた境内で、その中には、手水舎や御神燈、狛犬が置かれています。神馬は、黄、赤、青の鮮やかな衣装をまとっています。





この里宮の由緒等については、詳しく分かりませんが、本宮の松倉神社は、大同二年(807)に坂上田村麻呂が創建したとされています。
その御祭神は、大山祇神・大名持神・少名彦神となっていますが、遥拝所である、ここ前田野目松倉神社も三神を祀っていると思われます。
松倉観音堂の遥拝所として、また、地域の守り神として、人々の崇敬を集めてきた社ですが、ここでは、正月に勇壮な裸参り が行われます。
- 【 前田野目地区の裸参りは、新年の行事として古くから当地域に受け継がれてきたもので、大晦日の夜より「お籠り」をして、元日の早朝に「若水」を浴びて邪気を払うとともに、種々の「お供物」と共に松倉神社前田野目遥拝所へ参拝します。 ※青森県観光情報サイトアプティネットより】




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☆つがるみち☆

