
弘前から鯵ヶ沢へと至る県道31号線沿いに建石町がありますが、途中に赤い鳥居が立っているのが見えます。
近くに「鬼神神社前」と書かれたバス停があったので、車を停めて立ち寄ってみました。
鬼神神社は、つい見過ごしてしまうくらいの小さな社です。
境内の裏側には民家が迫っていて、そばには田んぼが広がっています。
境内には白い社殿がひとつだけ立っていて、御神燈や狛犬などはありません。それでも、境内全体を木々が覆っており、神社らしい雰囲気を醸し出しています。
御祭神とか、その由緒については全く分かりませんが、社殿の中はきれいに清められており、地域の方々の信仰を集めている様子が伺われます。
社殿の中には、奉納された絵馬や草鞋などが掲げられていますが、壁に特徴のある一本の松を描いた絵がありました。絵の最後には、「天明の大飢饉をはじめとする食糧難の時代を見続けてきた一本松である」といった意味の文が書かれていました。
◇鬼神神社





描かれている一本松はクロマツで、この神社の御神木であり、鰺ヶ沢町の文化財にも指定されているものです。
この老松については、
【鬼神神社のクロマツは、樹齢400年以上と推定され、神社建立を記念して植えられたと伝えられている。言い伝えによると、この鬼神神社には、戦でもぎ取られた左腕を、右手に持った槍に刺し、仁王の相で立っている唐金(青銅)の御神体を祭っていたといわれる。※鰺ヶ沢町HPより】と紹介されています。
見る場所によって、さまざまな表情を見せる貫禄のあるクロマツです。
◇鬼神神社のクロマツ





県道31号線沿いには、多くの縄文遺跡や古代の遺跡が点在していますが、いわゆる「岩木山の鬼」に関する伝承が残っている地域でもあります。
鬼神社のある弘前市の鬼沢地区には、農業の繁栄をもたらした鬼の神通力を崇める風習がありますし、同じく弘前市の十腰内や鯵ヶ沢の湯舟には、岩木山麓に住み着く鬼を退治するために、刀を打ち上げた鍛冶の伝説も残っています。
これらの鬼は、赤倉沢(厳鬼山)に住んでいた「赤倉の大兄」と呼ばれ、様々な話を残しています。
【昔々、赤倉に大人が住んでいるという噂があった。あるとき、村の鍛冶屋が、長さ一間、重さ60貫という、とんでもない大きな鉄の棒の注文を受けることになった。鍛冶屋は、弟子と7日もかかり、大きな鉄の棒を鍛えた。そして約束の8日目の朝早く、赤倉沢のお堂まで3人の弟子達に持っていかせた。日暮れになると、背がおそろしく高く、顔にもすねにも、毛がバラバラと生えているような男が出てきて、「お前だぢ、よぐ届げでくれだ。重くてあたべ。今、美味いものかへら」と、串にさした魚を焼いて食べさせ、もてなした。弟子はよい気分になってそのまま眠ってしまった。朝になって気がつくと、鉄の棒がなくなっており、たくさんのお金が落ちていた。お堂の方を見ると、山の茂みが踏みつけられており、二尺もある大わらじがぶらんと下がっていた。村人は、赤倉の巨人(おおひと)が注文した鉄の棒だという噂をした。※青森県音楽保存資料協会より】
「鬼に金棒」といわれるように、日本各地の鬼伝説は、製鉄技術の発展とともに語られることが多いようですが、岩木山麓は、かつて日本有数の製鉄コンビナートがあった所でした。鯵ヶ沢町の杢沢遺跡 などからは、平安時代のタタラの跡が大量に発見されています。
岩木山麓に住んでいた古代の人々は、鉄を自由に扱い、農具や武器などを作り上げる製鉄集団を「鬼」として畏怖し、畏敬の念を持ったと思われます。弘前から鯵ヶ沢へと続く鬼伝説の存在は、そのことの証だといえるかも知れません。
ここ建石町の鬼神神社にも、そのような「鬼の伝承」があるのでしょうか。御神木のクロマツの根元には、「鬼神」と彫られた石碑が一基置かれていました。
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☆つがるみち☆



青森寺(せいしんじ)は、青森市栄町の堤川の河口に位置しており、「イルカ伝説」で有名な諏訪神社と境内が隣り合わせになっている寺院です。
東北三十六不動尊霊場、津軽弘法大師霊場にもなっていて、多くの信者をもつお寺ですが、二月の節分会と七月の灯篭流しの行事には多くの人々が訪れ、「節分の豆撒きには、厄除祈願の善男善女が多数参集し、その規模は県下一である。又夏の灯篭流しは、川面を幻想的な光で彩り、誠に叙情的で短い青森の夏には欠かせぬ風物詩となっている。」と紹介されています。

山号は「成田山」。本尊に不動明王を祀る真言宗のお寺ですが、成田山という名前からも分かるように、成田山新勝寺の青森分院という位置づけになっています。
その由緒については、
【明治二十一年、中村浄了師が結成した成田山新勝寺に参拝することを目的とした「成田講」の信徒が中心となり、青森市青柳に不動堂を建立したのが当山の始まりです。同二十三年に新勝寺の御分霊を不動堂に奉安し青森成田山と称しました。同四十一年に現在の栄町に本堂を移転し、県内外から広く信仰を集めておりましたが、昭和二十年の空襲により御本尊・本堂等悉く焼失してしまいました。昭和二十七年、中村照純師(中興第一世住職)が中心となり本堂再建を目指し成田山青森寺と寺号を称し奉賛会を設立、同三十二年に本堂再建、同三十五年に御本尊不動明王を奉安し当山の再興が成されました。このとき、当山が本州最北の地にあることから北を守るという願いも込められ、御本尊不動明王を北向きに安置しました。
当山開創以来、信徒各位のさまざまな願いを成就いたすべく、一心に不動明王へご祈願を捧げ続け今日に至ります。※青森寺HPより】とあります。
大きな鰐口が架かっている入口の扉を開けると、正面に祭壇があり、御本尊が祀られていますが、祭壇の両脇に小型ねぶた位の大きさの置物があります。
左側の物は高さ1.66m、幅2,21m、大理石一枚岩に彫られた「九龍献瑞」で、右側は高さ1.72m、幅3mの「屋久杉置物」ですが、両方とも、このお寺の寺宝となっています。
◇青森寺本堂





入口に「阿吽」の仁王像が立っていたり、狛犬があったり、境内の中に赤い鳥居の社があったりと、神仏混合を感じさせるお寺です。
境内の奥に立つ社は稲荷堂(鎮守稲荷堂)で、扁額には「高山稲荷」とありました。その隣が龍神堂(清瀧権現堂)。いずれも、昭和30年代に建立されたもののようです。
弘法大師霊場ということで、「子安大師」などの大師像も何体か見られますが、入口に「曼荼羅堂」という建物があり、その中には、水子地蔵尊や、勢至菩薩、阿弥陀如来、不動明王などの「生れ年一代尊」などが祀られていました。
◇青森寺境内




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☆つがるみち☆



- 前回の記事から少し間が空きました。
平内町夏泊半島の茂浦・浦田を過ぎると、半島の先端である大島 へと至りますが、ここから右回りに下って行くと、椿山方面になります。
今回は、茂浦から大島へと向かう途中にある稲生という集落に鎮座している稲生神社を訪ねました。

「稲生」という地名の読み方は「いなおい」「いなしょう」「いなぶ」など、各地によって様々ですが、ここは「いのう」と読むようです。
稲生は県道9号線沿いに広がっている漁村ですが、走って行くと、道路際の丘に赤い鳥居が見えたので立ち寄ってみました。この社が稲生神社だと分かったのは後のことです。

その由緒については、
【御祭神:須佐男命 この神社は正保三年創立、 造主豊嶋孫次郎外村中、 延享、 天明、 寛政年中再建、 文政六年再建日光院延寿法印 (十世)、 明治四年再建日光院延正法印佐々木和仲 (十二代)、 大正十年修築、 社掌佐々木要 (十三代)、 昭和二十九年四月、 夏泊半島一円に害虫の発生で樹木に大被害あり、 当神社もこれが被害による枯損木 (ナラの大木二十本) を神社本庁の承認を得て伐採処分す。 昭和三十三年四月、 拝殿の新改築実施、 宮司佐々木高精、 大工頭領東田沢の須藤定蔵。 同四十八年九月、 本殿修改築、 拝殿新築、 このとき参道の不便から境内の山上を中腹までブルドーザーで切開き、 一大平地を造成して社殿を建立、 更に表参道の新設と自動車可能の裏参道をも新設して老人の参拝を容易ならしめた。 同二十四日秋祭をかね落成遷座祭を執行。 宮司佐々木高精、 大工頭領茂浦の佐々木茂光。 ※青森県神社庁HP】と書かれています。
道路沿いの一の鳥居からは丘の上に向けて参道の石段が延びており、上りきった左側の方に境内はありました。
背の高い草や木々のために、参道の途中からは見えなかったのですが、由緒に「・・・参道の不便から境内の山上を中腹までブルドーザーで切開き、 一大平地を造成して社殿を建立・・」とあるように、真っ平に整地された広い境内でした。
境内には、御神燈と狛犬が一対ずつ立っていますが、狛犬の台座には貝なども置かれていて、いかにも海辺の神社だという感じがします。
拝殿の後方には、白い末社が2つ並んで立っていますが、どうやら馬頭観音を祀っているようです。末社と末社の間には馬頭観音碑も立っていました。
◇稲生神社








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平内町は、養殖ホタテ水揚げ高日本一の生産量を誇っていて、「ホタテ王国」と呼ばれています。
ホタテ養殖が町の基幹産業になったいきさつについては、
【・・・当町浦田の豊島友太郎氏が昭和32年、杉の葉による採苗と中間育成の研究を重ねホタテ養殖を軌道に乗せました。昭和48年には養殖ホタテ全盛期を迎えました。この頃から出稼ぎから解き放たれ、やっと夫婦が一つ屋根の下で住むことが叶いました。私財をなげうって研究に取り組んだ豊島氏の情熱がやっと実を結び、その後「ホタテ御殿」の愛称で呼ばれる新築の家が次々建てられたのもこの頃からです。このホタテ王国実現のカギとなったのが「タマネギ袋」であり、ホタテ養殖とタマネギ袋は切っても切れない関係があります。この育苗生産成功によって、それまでは杉の葉による卵子の付着だけに頼っていたものを、更にタマネギの袋を上からかぶせる事により、杉の葉から落ちる稚貝を高い確立で回収する事に成功しました。※平内町HPより抜粋】と紹介されています。

上記の紹介文に書かれているように、ホタテ養殖が始まったのは浦田の村で、漁港には漁業協同組合がありますが、建物の手前にほたて養殖発祥の地 という記念碑が立てられています。
その組合の建物と道路を挟んだ向かい側に小高い丘がありますが、かつては、この辺りまで海岸線が迫っていたのでしょう。その頂上には稲荷神社が鎮座しています。

その由緒については、
【御祭神:倉稲魂神 この神社は正保元年四月十日創立、 造主総兵衛、 甚九郎、 新助外村中、 その後天明、 寛政年中再建、 文政六年九月十日再建、 日光院十世延寿法印代。 明治二十年九月十日新築、 大正十年十月十日社殿及び鳥居の修改築、 社掌佐々木要 (十三代)。
昭和三十三年二月十二日、 暴風雪のため境内の松の大木七本が倒木、 神社本庁の承認を得て処分す。 同年十月十日社殿の修築及び第一鳥居を新築、 宮司佐々木高精。 同三十五年五月、 拝殿の修改築、 宮司佐々木高精。 平成元年九月三十日浦田稲荷神社並に馬尻観音堂の社殿新築落成奉告祭執行。 宮司佐々木高精、 大工頭領東田沢の笹原敬吾。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
平内町の神社紹介欄には、創建や改築、新築等に関わった人々の足跡がとてもていねいに書かれていますが、この神社も江戸時代の初期から、村人の手によって、大切に守られてきた社のようです。
一の鳥居をくぐると、左側に御神燈と狛犬が一対ずつ置かれており、そこから参道の石段が小山の頂上へと延びています。
二の鳥居からは、さらにその上へと石段が続き、社殿の前にも一対の狛犬。浦田の村を見下ろしていました。
社殿の裏側は、さらに高く細い崖になっていますが、ここからは海岸線がくっきりと見え、なかなかの絶景です。
由緒に「暴風雪のため境内の松の大木七本が倒木・・」とありますが、丘の上には、たくさんの老松が生い茂り、朽ちた切り株などもありました。
長い時間、一段と高い場所から、そのときどきの村の繁栄を見守ってきた神社という感じがします。
◇浦田稲荷神社








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青森市の浅虫温泉を過ぎると平内町に入ります。
国道4号線を進み、町の中心部に入る手前に、夏泊半島へと至る県道9号線が枝分かれしていますが、この道をたどって行くと半島をぐるっと一周することができます。
様々な奇岩が立ち並ぶ風光明媚な海岸線が続きますが、道路沿いの集落にはそれぞれ漁港があり、防波堤のそばにはたくさんの漁船が繋がれています。

茂浦(もうら)も、そんな集落のひとつですが、漁港のそばに塩竈神社が鎮座しています。
その由緒については、
【御祭神:味耜高彦根命 この神社は天正十三年の創立、 建主須藤三九郎、 同十左エ門、 釜師浪岡六兵衛外村中、 一時中絶のところ寛永十一年塩釜の址から銅像の観音 (一尺五寸) 出現、 この旨お上申別堂の造立仰付られ、 現在地に社殿を新築して遷座、 日光院四代山名法印、 造主須藤三郎兵衛外村中、 いつの頃か、 岩木山神社の分霊と伝えられる小像の御神体が同座している。 茂浦島の弁天堂宝暦八年創立、 日光院八世延常法印、 造主須藤権三郎外村中、 この神社は明治初年法令によって廃社となったが、 その後小堂を建立。 終戦後御堂及び鳥居再建、 造主後藤岩五郎。 昭和十年十月十七日、 本殿が拝殿内に併設されていたがこのとき本殿を離して別棟に新築遷座。 ※青森県神社庁HP】とあります。
詳しいことは分かりませんが、戦国時代から江戸期にかけて、地域の有力者等によって建立され、その後、村の産土社として崇敬されてきた社のようです。
◇茂浦塩竈神社




御祭神の味耜高彦根神 (あじすきたかひこねのかみ)については、あまりなじみがなく、私は分かりませんでしたが、
【大国主神(おおくにぬしのかみ)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)の子。天稚彦(あめわかひこ)が死んだとき弔問にいったところ,顔がにているため死者が生きかえったとまちがえられ,おこって刀をぬいて喪屋をきりたおしたとつたえる。岐阜県美濃市の喪山はこの喪屋という。奈良県御所(ごせ)市の高鴨神社の祭神。「古事記」では阿遅志貴(あじしき)高日子根神。 ※コトバンクより】とのことです。
古来より、「航海と安産の守護神」として信仰されてきた神様ですが、漁業の村・茂浦の守り神にふさわしい御祭神です。
参道には、末社がひとつ。境内には御神燈と狛犬が一対ずつと丘の上の社殿のみ。いたってシンプルな造りです。
左右の狛犬のとなりに、それぞれ「人型」を思わせる自然石が置かれています。ちょうど人のひざにあたる場所には御賽銭もありました。「石仏」として崇められているのかも知れません。
◇人型石、狛犬、末社




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黒石市の目内沢にある地蔵堂には、日露戦争当時、「このお地蔵さまにお願いすれば、兵隊にとられない」という信仰が広がったため、警察に縛られて捕らえられたという伝承が伝えられています。
「縛り地蔵」とか「延命地蔵」とか呼ばれているこの地蔵堂のそばには稲荷神社がありますが、目内沢地区は「上」と「下」とに分かれていて、ここは上目内沢の稲荷神社です。
⇒ 以前の記事へ

一方、下目内沢にも稲荷神社が鎮座しています。
上目内沢の稲荷神社から1,2Km離れた集落に位置するこの神社は、周りを田んぼに囲まれた所にあります。
一の鳥居と二の鳥居ともに朱色が鮮やかですが、境内は緑に包まれています。拝殿の隣には、大きなケヤキの木がそびえていますが、注連縄は張られていないものの御神木となっているようです。その根っこは、拝殿に向かってぐいと伸びていました。
境内には御神燈と狛犬が一対ずつ置かれていますが、狛犬は比較的新しく奉納されたもののようです。
何本かの大きな木の根元には自然石が置かれており、そこには御神酒が供えられていました。
◇狛犬ほか





この下目内沢の稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 寛文二年 (一六六二) 十二月九日、 黒石藩の祖先津軽十郎左衛門信英公は、 次男十郎兵衛信純に所領千石を以て分地させ、 下目内沢、 小屋敷、 飛内、 馬場尻四ケ村の領主となる。 その際、 舘神と称して稲荷宮を建立す。 明治四年神社改正に付き、 同六年五月十日中郷村飛内の村社稲荷神社へ合祀し、 その後、 同八年四月復社願いを申請し、 拝殿新築の上、 四月十九日復社し村社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】とあります。
黒石の町は、津軽藩3代藩主・信義の弟で、家康の孫にあたる津軽信英が黒石藩主になって以来、城下町として拓けていった分けですが、この稲荷神社もまた、当時から村の産土社として信仰を集めていたようです。
◇下目内沢稲荷神社




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神社めぐりをするときは、たいてい、一の鳥居をくぐり、参道を歩き、境内をぶらぶらし、拝殿と本殿へ・・・という順になります。
休み休み下手な写真を撮っていく分けですが、ときどきは、社殿の後ろや横からも撮ったりします。今回は、そんな写真をいくつか集めてみました。
◇牡丹平稲荷神社 ◇海雲堂洞釈迦堂

◇中野神社 ◇中別所雷電宮

◇藤代稲荷神社 ◇瀬辺地天満宮

◇町居熊野宮 ◇宮館稲荷神社

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休み休み下手な写真を撮っていく分けですが、ときどきは、社殿の後ろや横からも撮ったりします。今回は、そんな写真をいくつか集めてみました。
◇牡丹平稲荷神社 ◇海雲堂洞釈迦堂


◇中野神社 ◇中別所雷電宮


◇藤代稲荷神社 ◇瀬辺地天満宮


◇町居熊野宮 ◇宮館稲荷神社


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黒石市北美町の貴船神社は、病院や福祉施設などが立つ住宅街に鎮座している神社です。
赤い鳥居と、特徴のある大きな石の社号標が道路沿いに立っていますが、敷地はさほど広くなく、こじんまりとした感じの境内です。
境内には、御神燈と狛犬が一対ずつと、拝殿と本殿が立っていますが、本殿の横には末社の祠があり、その中には金色に輝く大日如来像と少彦名神の木札などが納められていました。
この神社の由緒については、
【御祭神:闇おかみ神 明和七年 (一七七〇) の伝書に依ると、 『浅瀬石城主瑞夢の御託宣あり、 大同二年深山高羽の獄に鎮座す。 今吾が宮所を建立あらば津軽六郡の内、 主領三郡は汝を領主と使わしむ也。』 天正五年 (一五七七) 正月二日の暁、 告験有るに因りて瑞喜骨髄に徹し四月遡日、 一宇の宮祠を造立す。 其の後、 大浦御所為信公六郡を御掌握に依りて社領十五石の御朱印を賜わる。 其の後、 信政公より御分地有りしより先君十郎左衛門信英公御領地となる。 明和七年 (一七七〇)、 主君の武運長久国家静謐の為、 四季の神事仰せつけ御神楽料として良米三俵、 青銅六拾目永代御寄付有り、 旧黒石藩主の祈願所であった。
浅瀬石川ダム建設のため昭和五十五年四月、 現在地に移転す。 ※青森県神社庁HP】とあります。
◇貴船神社










由緒に「浅瀬石川ダム建設のため昭和五十五年四月、 現在地に移転す」とありますが、同じく黒石青山の稲荷神社同様、この神社もまた、ダム工事のために市内に移築された社のようです。
神社入口の大きな社号標の裏側には「大正十一年旧四月十九日 沖浦村中建立」と書かれていますが、この社は、かつて旧沖浦村に鎮座していました。沖浦の大半は、旧沖浦ダムとともに現在は浅瀬石川ダムの湖底に沈んでいます。
拝殿の扁額には「十湾宮」と書かれています。「十湾」とは「十湾田様」、即ち「十和田様」のことで、水神を祀る社であったようです。
戦国時代、黒石地方一帯を支配していたのは浅瀬石千徳氏でしたが、由緒にも書かれているように、城主・千徳氏が霊夢の中で、「我を祀れば津軽六郡の主となる」という十湾田様のお告げに従って建立したという言い伝えが残っています。
千徳氏の浅石城はその後、津軽為信の攻撃により落城し、千徳氏は滅びる分けですが、その戦いの最中、多くの寺社は荒廃したといわれています。
この貴船神社(十湾宮)もそのひとつでしたが、為信によって再建され、後に黒石藩の祈願所として崇敬されたという分けです。
余談ですが、浅瀬石千徳氏は南部方の武将でしたが、後に為信と共謀して津軽統一を進めていきました。したがって、為信の浅瀬石城急襲は、いわば「裏切り行為」だった分けです。戦国の習いといえばそれまでですが。
そういうこともあってか、津軽氏の記録(伝承)などでは、千徳氏は「驕れる者=邪」として語られることもあります。この貴船神社(十湾宮)にも、「千徳氏は、十湾田様を粗忽な取扱いをしたので、今度は津軽藩祖の為信に意を移し、お告げをして吾を懇切に祀らば津軽の大守となるべしと云った。果たして浅瀬石は為信に滅ぼされ為信は全津軽を取った。」という話も残されているようです。
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