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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 中泊町   Tags: つがるみち  

豊岡加茂神社 - つがるみち430




 旧中里町の豊岡村は、明暦年間に開村されたと伝えられていますが、その後、津軽藩の新田開発にともなって拓けていった所です。
 4代藩主・津軽信政はこの地の新田開発にあたって、元禄元年、村内南端に神明宮を建立して、安全鎮護を祈願したとされていますが、その後、元禄13年(1700)に現在の地に遷座されました。
 



 神明宮と同じ敷地に鎮座している加茂神社については、
【御祭神:別雷命 倉稲魂命   創立年月日 不詳 元禄二年の創建と伝えられるけれども不詳である。 元禄十三年再建した。 (安政年中の神社微細調書に依る)  御棟札 寛政三年四月 文政二年八月  明治以前は神明宮の相殿として同境内に建立されてあったけれども、 明治六年分離し、 賀茂神社として村社に列格、 今日に至る。 昭和二十四年九月三十日、 無償譲与された。 神明宮境内地の地域内に建立してある。 ※青森県神社庁HP】とありますが、神明宮の相殿として創建され、同様の歴史を積み重ねてきた神社のようです。

 この神社の境内は、付近を流れる川にそって広がっていますが、川のそばの小道の木の根元には、百万遍の塚が立てられていました。

 米俵が乗っかった鳥居をくぐると参道が続きますが、途中には社号標や御神燈、狛犬などが置かれています。参道の左側に白木の鳥居があって、その奥には庚申塔や二十三夜塔が草木に隠れるように立っていました。
 庚申塔の横には赤い祠がひとつ。実は、この加茂神社には津軽の水神・水虎様が祀られているということで訪ねたのですが、どうやらこの祠がそれのようです。扉を開け、中を覗いてみたら、黒塗りの木箱がありました。この中に水虎様が納められているようですが、大切に祀られているようなので、箱を開けてみるのは遠慮しました。

 拝殿の祭壇の上には、前述と同様の由緒書きが掲げられていましたが、この神社には7代藩主・津軽信寧が奉納した「御供鳴弦御守二通」があるとのことです。
「鳴弦(めいげん)」とは、
【弓に矢をつがえずに、弓弦(ゆづる)だけを引いて放し、ビュンと鳴らすことによって、妖魔(ようま)を驚かせ退散させる呪法。※コトバンクより】のことですが、この地で、五穀成就の鳴弦行事が行われていたことが分かります。

◇豊岡加茂神社







◇稲荷社と天満宮

    

 社殿の左右には、建物(堂宇)があります。左側の大きな祠は稲荷社です。神明宮の由緒に「明治六年以前は相殿として加茂宮、 稲荷宮の二社、 同境内に建立してあった」と書かれていますが、この祠を指しているのでしょうか。
 一方、右側は天満宮でした。大きな由緒板がありましたが、文字がかすれて読めませんでした。社殿の中には、
【御祭神:菅原道真公  文化三年(一八○六年)、神明宮境内社として創建。地域文化発展の守護神として崇敬され、今日に至る。】と書かれた由緒書きがありました。

 前回紹介した神明宮と猿賀神社、そして加茂神社、稲荷社、天満宮と、同一の境内に様々な神様が祀られているこの場所は、村の人々の信仰の拠り所だったのでしょう。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 中泊町   Tags: つがるみち  

豊岡神明宮 - つがるみち429




 中泊町豊岡(旧中里町)の緑川という集落に赤い神橋が架かっている場所があります。
「御詣橋(おまいりばし)」と名づけられたこの橋の対岸に、森に囲まれた広い境内があって、左右にそれぞれ鳥居が立っているのが見えます。
 左側が加茂神社で、右側の社は神明宮。境内の敷地はいっしょで、行き来できますが、参道はそれぞれ別々です。




 先ずは、右側の神明宮の方へ。古びた石造りの一の鳥居をくぐると、社号標があり、鳥居は、二の鳥居、三の鳥居と続いていますが、社殿の前の木造の鳥居には、大きな文字で「五穀豊穣」と記されています。
 この鳥居の奥に社殿がありますが、その前の木々に隠れるように、神馬とほっかむりをした狛犬が一対置かれていました。

 社殿は、素朴な藁葺き屋根で、どこか懐かしさを感じさせる建物です。中には、「天の岩戸」を描いた絵馬や、新年を祝って奉納された干支の絵馬が、たくさん掲げられていました。

 この豊岡神明宮の由緒については、
【御祭神:天照皇大神  創立年月日 不詳 旧社格 村社 明治六年四月 列格 創立年月日不詳であるが、 元禄十三年九月再建される。 (安政年中取調帳に依る)  御棟札 寛政三年四月  文化二年八月 文政二年八月  弘化三年八月 明治六年以前は相殿として加茂宮、 稲荷宮の二社、 同境内に建立してあったが明治六年分離し加茂宮は加茂神社として四月村社に列格し今日に至る。※青森県神社庁HP 】とあります。

 また、境内の由緒書きには、
【神明宮が此の地に創建された歴史は古く元禄三年今より三百有余年前、我々の先祖が御産土神として崇拝し今尚変る事なく氏子並びに地域住民によって崇拝されているところであります。今、この神社境内にひば材の大鳥居を建立せんと氏子を中心に広く浄財の寄進を募りしところ崇敬者の深い御理解と御協力により併せて大鈴一吊、大幟一対に大締縄を添えて奉納し、今後は更に地域住民の幸せを祈願し末永く崇拝するものであります。※由緒(浄財寄進者御芳名)より】と書かれていました。

◇豊岡神明宮







◇豊岡猿賀神社

  

 
 神明宮の右隣に、もうひとつ鳥居が立っていて、その奥に社殿があります。扁額には「猿賀神社」とありました。平川市の猿賀神社の分霊社のようです。

 社殿に掲げられている由緒板には、御祭神は上毛君田道命で、田道命や坂上田村麻呂に関する伝説、いわゆる本家の猿賀神社の縁起について書かれていますが、最後に、
【豊岡猿賀神社は、豊岡神明宮神祇官職和田豊前守が、尾上町(※現平川市)の猿賀神社の御神霊を厚く信仰し、文化四年(一八○七年)御分霊を奉じて、ご社殿を創建し・・・。】と、この社の由緒についてふれています。

 猿賀神社の分霊社は、県内にもいくつかありますが、ここもそのひとつのようです。同じ中泊町には、たくさんの奉納された船絵馬で知られる富野猿賀神社もあります。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市   Tags: つがるみち  巨石と神石  

貝倉神社 - つがるみち428




 青森市奥内に「貝倉神社」という、少し変わった名前の神社があるということで訪ねてみることにしました。
 ネットで地図を見て探しながら行きましたが、国道280号線の旧道沿い、奥内郵便局の近くに貝倉神社という標識が立っていたので止まってみましたが、民家のような建物があるだけでした。どうやらここは社務所のようです。
 



 社殿は山の中にあるということなので、バイパスの方へ進み、奥内川の橋を渡って左折し、山側へと向かいます。そこから新幹線の高架橋を越えると、あとはじゃり道。ひたすら進んで行くと「奥内豊源井堰竣工記念碑」という石碑がある所へと出ます。そこを過ぎると「貝倉神社→」という小さな案内板が立っていますが、そこから林の中へ。辺りは奥内国有林になっていて、先が分からず不安でしたが、やがて小さな川のそばに赤い鳥居と社号標が立っているのが見えたのでひと安心。ほんとに「山の中」に鎮座している社です。
 こんな山中なのに「貝」という海(水)を連想させる神社名というのも不思議ですが、参道の途中には、小舟が置かれていたりします。太古の時代には、海岸線が、この近くまで迫っていたのでしょうか。大きな湖沼があった所なのかも知れません。




 小川の橋を渡って鳥居をくぐり、参道を歩いて行くと、左右に建物が見えてきます。右側の大きな建物は「白龍殿」でした。その中に入ると、中央の祭壇には、数多くの神様が祀られています。
 この神社は、その草創については不詳ながらも、御祭神は、七福神・恵比寿神・大黒天神・毘沙門天神・弁財天神・福禄寿神・寿老人神・布袋尊神となっていて、他にもオシラ様や淡島神も祀られているようです。

 白龍殿の中にも「貝倉丸」と書かれた小舟が置かれていたりしますが、同じく貝倉丸と書かれた帆には、大きな龍が描かれていました。龍の絵は、他にも天井や壁に掲げられていたり、境内には龍神を祀った祠などもあり、水神を崇める信仰が伝わってくる社です。
 壁に「貝倉明神と龍」という絵が掲げられていましたが、これはねぶたの絵だということです。絵は、貝倉明神と大きな龍が戦っている姿を描いたものですが、これは(両者の戦いは)、「奥内伝説」として語られているとのことです。どんな話なのでしょうか。十和田湖に伝わる南祖坊と八郎太郎の話と似たようなものなのかも知れません。

 白龍殿の向かい側の少し高い丘の上に本殿があります。小さな狭い社殿ですが、真ん中の祭壇には、貝殻が敷き詰められ、中央には、大きな石が佇立していました。

◇白龍殿、本殿










「大きな石」と書きましたが、実はこれは貝の化石塊で、この神社の御神体になっています。
 この御神体については、
【青森市奥内西方約4キロメートル、奥内川中流域の山中にひっそりとたたずむように貝倉(かいくら)神社がある。この社(やしろ)は、山の斜面に突出している貝の化石が集まってできた幅約1.5メートル、高さ約2.5メートルの大きな団塊の御神体を覆うように形づくられている。その御神体は、大昔に海底の凹部に貝殻が運ばれ堆積し、それが石灰分などで固まり塊状となったものである。
 このような御神体は、全国的に見ても非常に珍しい。含まれている化石はエゾタマキガイが大半であるが、神社脇の地層にはホタテガイ、コシバニシキなどの化石も見られる。神社がある一帯を含めた津軽山地の東麓には、大釈迦層(北方では蟹田層と呼称)と呼ばれている砂岩を主体とした地層が分布している。この地層は、北方は今別町、南方は浪岡町まで連続的に分布しており、貝化石が所々に含まれる。特に、浪岡町との境界大釈迦付近からは、60種の貝化石が産出しており、貝化石を含む地層として、古くから全国的に知られている。貝倉神社のほか、六枚橋川林道、内眞部川(眺望山ビジターセンター付近)、飛鳥沢中流などでも化石を見ることができる。
 産出している化石の種類から当時の環境を推定すると、海棲の貝化石が産することから海底であったことはもちろん、砂地で浅海、さらに暖流の影響がある寒流域であったと思われる。また、新生代第4期更新世(170万年~1万年前)初期の堆積であると考えられている。※HP「あおもり今・昔」より】と紹介されています。

 太古からの時の流れを感じさせる不思議な神社です。

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瀬戸子八幡宮 - つがるみち427




 青森市瀬戸子(せとし)に鎮座する瀬戸子八幡宮は青森市長島・廣田神社の兼務社になっていますが、同神社のHPでは、瀬戸子八幡宮の祈年祭の様子を次のように紹介しています。
【青森市瀬戸子地区に鎮座する瀬戸子八幡宮の祈年祭、春祈祷が執り行われました。もともと、春祈祷は2月~3月に掛けて氏子宅を一軒ずつ回り、ご祈祷を行っていたそうですが、現在は、春の大祭に併せて行われています。先ずは祈年祭の祝詞を奏上して今年一年の五穀豊穣を祈り、続いて春祈祷ということで氏子方それぞれのご祈祷を祈念しました。瀬戸子八幡宮は山に鎮座しているため、春祈祷の時には毎年、雪に覆われており、途中の農道は八甲田山を縮小したような雪の回廊ぐらい積もっています。※廣田神社HPより




 国道280号バイパス沿いに木柱の社号標が立っていますが、それにしたがって道なりに進み、新幹線の高架橋を渡るとジャリ道。しばらく行くと、小高い山があり、そこに赤い鳥居が立っているのが見えます。
 鳥居のとなりに由緒板がありました。
【御祭神:素戔嗚尊(天照大神御弟)広峰神社・誉田別命(応神天皇)八幡大神・牛頭天王(御隠居様)天正年代(1573)。御祭祀銀座日:寛文元年代(1660)。由緒:祭神誉田別命は仲哀天皇の第4皇子にあらせられ御諡号を応神天皇と申し奉り即ち第15代の天皇に座します。御母神功皇后三韓征服当時胎中にあらせられ一般の崇敬篤く又韓土の技芸学を盛に輸入して文化に資せられるなど御恩頼頗る高き御神なり。追伸:祭祀当時村民は10数戸なり。子孫の繁栄を祈り祀るなり。※由緒書より

 創建は寛文元年の頃で、御祭神は素戔鳴命、誉田別命、牛頭天王の三柱ですが、由緒に牛頭天皇を「御隠居様」と書いてあるように、古くは牛頭天皇を祀る社であったようで、1687年頃に「八幡社」になったとされています。

◇瀬戸子八幡宮






 一の鳥居から続く参道は急な上り坂になっていて、林の中を進んで行くと、やがて視界が開け、頂上にたどり着きます。
 途中には休憩用のベンチも設けられており、木々の間から黄金色の田んぼが見えました。
 頂上付近には、正面と右側にそれぞれ鳥居があり、右側の道先に、狛犬と神馬、拝殿と本殿がありました。

 境内社には、稲荷大明神、大山祗神、十和田龍神、オシラ様、大白神様などが祀られているとのことですが、頂上の境内社には稲荷大明神と大山祗神、参道上り口付近の社には十和田龍神、オシラ様が祀られているようです。
 参道の途中の林の中には、庚申塔や馬頭観音の祠が立っていました。

◇境内社、馬頭観音など
 





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内真部大山祇神社 - つがるみち426




 遥拝所としての「里宮」と「奥宮」をもつ神社は各地にありますが、青森市内真部(うちまんべ)に鎮座している大山祇神社もそのひとつです。
 この神社は、国道280号線バイパスから旧道へと進み、津軽線の鉄道の踏切を渡った所にありますが、近くには、以前に訪ねた清水天満宮もあります。
 旧道沿いに大きな社号標が立っていて、そこから民家の間を参道が続いていますが、線路を越えると、クロマツの木々が縦横に伸びていて、松林の中に境内がありました。
 これらの松の木は、海風を防ぐ防風林・防砂林として社を守るために植えられたものなのでしょうか。特に、拝殿前の末社の後ろにそびえ立つクロマツは、なかなかの迫力です。




 境内には、狛犬が2体と手水舎、末社などが立ち並んでいますが、本殿の横には、馬頭観音碑や文政5年(1822)の銘をもつ庚申塔などが並んでいて、その後ろには黄色に色づいた田んぼが広がっていました。
 この神社の由緒など、その詳細については分かりませんが、御祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)、その創建は、貞享4年(1687)以前とされており、かつては「不動堂」と呼ばれていた時期もあったようです。

◇大山祇神社(里宮)







 奥宮は、日本三大美林のひとつヒバの学術参考保護林で知られる眺望山(143m)への登山道がある山沿いにあり、五所川原市へと向かう道沿いに鎮座しています。
 道際に「大山祗神社奥宮」と書かれた木柱と由緒碑・由緒板が立っていて、一の鳥居からは、急な石段が上に続いているのが見えます。石段はかなりの傾斜だったので、私は右回りの迂回路を登りました。

 奥宮の由緒については、
【当社は津軽藩政の頃、山守の番所があった所で、山守達がその守護神として当社を建立し、山神を奉祀、信仰したのがその始まりである。この裏方に沢があって番所家戸と称せられているのは、これに因んだものである。廃藩後、明治政府により官、民、有林が設定され当所は内真部部落の見継山として経営されるようになり、おやしろは部落民の山神として信仰されるようになった。由来毎年四月十二日を祭日として、山下内真部町内に於て盛大な祭典が執り行われてきたが、大正の初期見継山は社地として分割払下げを受けて今日に到ったものである。
  因みに日本三大美林の一つであるヒバ林で有名な眺望山はこれより先、130mの所にその入り口があり、畏くも梨本宮高松宮並に秩父宮両殿下の御光来を賜れり、その頂上にはお手植のヒバ紀念樹が美事に育ち、今にその栄光を伝えている。
社前の老木は厳然として山神の鎮座に相ふさわしく神神しさに自ら心身の清まるのを覚えるものがある。※由緒板より】と紹介されています。

「山守」とは文字通り、「所有者に代わって森林の管理、保護をする人」を指しますが、江戸時代、津軽藩は、山林の種類を「本山・田山・見継山・仕立見継山・立山・抱山」と分類して管理していました。
「本山」は、純然たる藩有林ですが、由緒に出てくる「見継山」とは「藩山の伐採跡地に植栽、または天然に生育した林を、山麓の住民(1人または1村若しくは数ケ村)に保護監守を命じ、その報として将来森林経営上の支障とならない限度において自家用材の有償払下げ、その他副産物の無料採取等を許可した山」のことです。

 因みに、津軽藩は米に次ぐ藩の財源としての山林管理をとても重要視し、2代藩主・信政は林政に意を注ぎ、「我に大事と思うものが三つある。第一に家運、第二に土佐守(※3代藩主・信義のこと)、第三に山である。山の用は挙げて数えがたい。後世に至っても、上下共に能く心を山林に用いねばならぬ」と述べたといわれています。

◇大山祗神社奥宮



※HP[太宰ミュージアム」、HP「青森県木材協同組合」等を参照しました。

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奥内三社宮 - つがるみち425




 三柱神社、四所神社、七柱神社など、御祭神の数が神社名となっている社は数多くありますが、三社宮など「宮」がつく社は、いわゆる「三社様」を祭っているところが多いようです。
「三社様」とは、伊勢・八幡・春日を崇める「三社託宣」という信仰に基づくものとされ、次のように説明されています。
【伊勢神宮(天照皇大神宮),石清水八幡宮(八幡大菩薩),春日大社(春日大明神)の三社の託宣,神のお告げを記したもの。中世後期からみられ,近世には広く庶民信仰として普及した。中央には天照大神宮,右に八幡大菩薩,左に春日大明神と記し,その下に託宣を載せて一軸の掛軸に仕立てたものが床の間に飾られ,信仰の対象とされた。託宣の内容は神道・儒教・仏教の三教融合思想に基づき,正直・清浄・慈悲観を強調している。この正直・清浄・慈悲の三つの徳目は,中世以降,伊勢・石清水・春日の三社においてとくに強調された徳目であり,中世神道思想の基本的考え方はこれに由来している。※コトバンクより

 三社様を祭る神社は各地にありますが、青森市奥内の三社宮もそのひとつです。

◇三社宮








 御祭神は、天照大神、誉田別尊、天児屋根命で、創建年代は不詳とのことですが、貞享四年(1687)の検地帳に境内地が記載されているということで、その当時から村の産土社であったようです。
 かつては、大明神社と呼ばれ、その後、蔵王宮となりましたが、明治の神仏分離により、天照大神・誉田別命・天児屋根命という伊勢・八幡・春日の三神を勧請して、社号を三社宮に改称したといわれています。

 神社は国道280号線のバイパスから、少し入った田んぼに囲まれた所にあり、全体がこんもりとした森になっています。
 境内には、御神燈や狛犬、手水舎などがありますが、拝殿の横に石碑を納めた大きな建物が立っています。

 この建物の中に祀られている碑は、岩木山大神、天照大神、馬頭観音、そして弘化2年(1845)銘の猿田彦大神ですが、いずれにも碑の前に燭台が設けられていて、ひとつの祈りの空間になっているようです。

◇石碑群、狛犬、本殿など






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飛鳥羽黒神社 - つがるみち424




 前回お伝えした西田沢のとなりの集落が飛鳥で、ここに羽黒神社が鎮座しています。
 一帯の集落は、国道280号線のバイパスと旧道の間に広がっていますが、旧道沿いに「羽黒神社」という大きな社号標があり、参道に鳥居が立っているのが見えました。
 ところが、この参道は草ぼうぼう・・・。かつては、りっぱな道だったのでしょうが、今はあんまり利用されていないようです。

 とにもかくにも、草の中を歩き、鳥居をくぐり抜けると、今度は線路につきあたりました。少し離れた所に踏切があったので、それを渡って、やっと神社にたどりつきました。境内の横には別の道があり、どうやらバイパス側から続いているようです。

 ここ飛鳥の羽黒神社については、
【御祭神:大山祇神 大己貴神 倉稲魂神  草創年月不詳、寛永7年(1630)飛鳥村中の安全のため再建。明治9年村社に列せらる。もとは羽黒権現と称し、安政2年の書上帖には羽黒宮一宇、堂社 屋禰板葺二而建坪三尺四面、雨覆 板葺二而東西四間南北三間、社地境内共東西六拾間南北五拾間がみえる。明治初年の神仏分離に際して、羽黒神社に改めた。
 飛鳥村は明治9年ごろに夏井田村を合併したが、現在羽黒神社は飛鳥・夏井田(※隣の集落)両町会の産土神となっている。※諏訪神社HP「兼務社について」より】と紹介されています。

◇飛鳥羽黒神社






 由緒には、江戸時代には「羽黒権現」と呼ばれていたとありますが、明治初年に「大山祇神社」に改称、その後「羽黒神社」と改称されたという経緯をたどっているようです。
 境内はとても広く、拝殿の左右には、文政5年(1822)銘の大田ノ神碑や十和田龍神大神、稲荷社、馬頭観音碑などが並んで立てられています。
 拝殿の中には、祭壇の左側に奉納された神馬(木馬)が置かれていますが、右側には権現様の獅子頭が2つ納められていました。
 菅江真澄は津軽を旅した際に、「陸奥(みちのく)のならわしとして、どこの浦、どこの山里でも、熊野の神様をまつる行事のはじめに、獅子頭を持って踊るということがある。そして、その獅子頭をひたすら権現様と言っている。」と紀行文に記していますが、この地域にも同じような風習が残っているようで、4年に一度、この神社に神楽が奉納されているとのことです。

◇拝殿、獅子頭、末社



 
 境内には、幹の真ん中に丸い穴が空いた珍しい樹木などがありますが、拝殿の横に、幹の途中から枝が3本に分かれた大きなケヤキの木があります。
 このような形の木は平川市の愛宕神社でも見かけましたが、「三頭木」と呼ばれ、昔から「山ノ神」が宿ると敬われていて、木こりやマタギの人々も伐採せずに守ってきたといわれています。
 この羽黒神社のケヤキの木も、注連縄は張られていないものの、御神木として崇められているのでしょう。

◇大田ノ神碑、神馬など
 


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西田沢八幡宮 - つがるみち423




 松前街道(国道280号線)の海岸沿いに西田沢の集落がありますが、道路際に「青森海岸」と書かれた標識があったので車を降りでみました。
 青森海岸は、陸奥湾に面した津軽半島の東側の海岸で、青森市から蓬田村、外ヶ浜町へと松前街道にそって続いています。防波堤の上に立って見ると、左右に青森市街と蓬田村方面を見渡すことができました。




 海岸付近は、浜田川という川の河口にあたり、浜田橋という橋が架けられていますが、その橋のたもとに社号標とジャンバラ型の注連縄が下がった大きな鳥居が立っています。
 ここが西田沢八幡宮への入口で、川沿いに参道が続いていますが、民家と民家の間を歩いて行くと、やがて二の鳥居があり、その先に境内があります。


 西田沢八幡宮については、
【御祭神:譽田別尊  高おかみ神  草創年月不詳、 寛永十年 (一六三三) 村中にて再建。 爾来村中産土神として尊崇。 安政二年の書上帖には、 油川組田沢村八幡宮一宇、 板葺屋根の建坪二間四面の堂社、 萱葺の建坪東西三間南北二間の雨覆、 東西五十間南北三十間の社地境内、 東西十九間南北九間の社司屋敷一軒がみえる。
 明治十一年平内の田沢村 (現東田沢) と区別する為、 田沢村を西田沢村と改称した。 字浜田に油川城跡があり、 城主奥瀬判九郎・同善九郎が居城したという。 享和二年 (一八〇二) 伊能忠敬の 「測量日記」 には家数二八とある。 明治初年の新撰陸奥国誌には、 「家数十八軒。 古墟あり奥瀬善九郎か住せし処なりと云。 善九郎は油川村の城主の由。 古書に見れは、 此の村旧は油川村の裡にして、 今の油川村比檐の処なりしなるへし」 とある。 ※青森県神社庁HPより】と紹介されています。この辺りの神社には、青森市栄町の諏訪神社の兼務社が多いのですが、この八幡宮もそのひとつのようです。

 由緒に書かれているように、戦国時代には近くに油川城があり、南部方の奥瀬氏が一帯を支配していましたが、天正13年(1585年)3月、大浦(津軽)為信による攻撃により落城。奥瀬氏は一戦も交えず下北方面へ逃走したという話も残されています。
 この八幡宮は、そんな戦国期を経て、江戸初期に村の産土社として再建され、人々の信仰を集めてきた社といえそうです。

◇西田沢八幡宮
 





 神社のすぐ隣には保育園があり、私が訪ねたときは、元気な子ども達の声が境内いっぱいに響いていました。社殿の後方は田んぼで、その向こうに280号線バイパスや新幹線の架橋などが見えます。
 境内には、御神燈をはじめ、子どもを抱いた狛犬や修改築の記念碑などが立っています。望遠鏡を手にした軍人の石像がありましたが、これは、日中戦争当時の兵士を描いたもののようです。御神馬は、屋根つきのお堂に大切に祀られていました。
 境内社(末社)もいくつかありましたが、一番大きな社が十和田神社で、その隣に赤い鳥居を伴った稲荷社があります。また、境内の入口と、拝殿の後方には、水は枯れていましたが、神池と思われる池があり、それぞれに祠が立てられていました。いずれも龍神様を祀っている祠だと思います。

 西田沢の村は、海辺のため土地が低く、かつては川の氾濫や津波などにより、大きな被害をこうむった歴史があるのかも知れません。実際に、「この辺りは古くから高潮や冬季風浪により浸食が著しく、50年間で激しいところでは40~50mの浸食があり、約百戸の家屋移転もあった」という記録もあるようです。

 境内に龍神社、十和田神社があること、そして御祭神に高おかみ神が祀られていることなど、この神社は、水神を崇める社といってもいいのかも知れません。

◇末社、本殿など
 
 

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幸畑熊野宮 - つがるみち422




「幸畑」という響きの良いきれいな地名の由来については、同村の谷脇に鎮座している熊野宮の由緒板に、
【(周辺の村では)貞享以前に畑に桑を植えて、蚕を生業としてあったので「桑畑村」となり、宝暦年間に現今の「幸畑村」になった。※熊野宮由緒板より要約・抜粋】と記されており、「桑畑」が「幸畑」に転化していったことが分かります。




 熊野宮は、前回ご紹介した白山神社のすぐ近くにある社ですが、その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 草創年月不詳、 寛永八年 (一六三一) 村中安全のため再建。 当初新山宮と称していたが、 明治初年神仏混淆廃止後、 仏体を廃し熊野宮と称した。 熊野大権現とも新山宮とも呼ばれたようだが、 貞享元年の書上帳には、 新山権現宮、 五十間に三十間 (五反歩)、 御宮一間四方、 別当和泉太夫とある。 貞享四年の検地帳に、 五間に六間の熊野宮地、 五十間に四八間の境内林がある。 安政二年の書上帖には、 横内組幸畑村新山宮一宇、 東西五六間南北五三間の境内がみえる。
 明治六年三月筒井村稲荷神社と共に横内村大星神社へ合祀、 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 神社は民家に囲まれたところにあり、向かい側には保育園があります。私が訪れたときには、園児たちが保育士さんとなかよく手をつないで散歩中でした。
 一の鳥居は金属製のもので、そばに大きな社号標と由緒書きと例祭の予定を書いた案内板などが立っています。そこから杉の木の間を参道が通っていて、社殿へ続いていました。

 境内には、御神燈や狛犬、神馬などが並んで置かれています。拝殿の左側には赤い鳥居を伴った稲荷社がありました。右側には、猿田彦碑などが三基並んで立っていましたが、石碑の前には小さな赤い鳥居が立てかけられていました。

◇幸畑熊野宮










 前述した由緒板には次のようなことも書かれています。
【(辺りの村と境内一帯は)延暦十一年(七九二年)頃は酋長・甲田丸の領地であり、甲田丸の祈願所があった。その祈願所を五穀豊穣の守護神として寛永八年に再建した。※由緒板より要約・抜粋
「甲田丸」は八甲田山に因んだ名前なのでしょうが、かつて、この辺り一帯をを治めていた蝦夷の首魁のようです。

 津軽には、かつて、中央の政事に「まつろわぬ者」たちが大勢いたとされ、蝦夷と呼ばれていました。岩木山麓の彼らは鬼と呼ばれたり、その首魁は「恵美の高丸(藤崎町)」、「大丈丸、大獄丸(平川市)」などとされています。八甲田山麓にも、女酉長・阿屋須と弟・雲谷の頓慶を首魁とする蝦夷が住んでいたとされています。
 蝦夷は、坂上田村麻呂と激戦を繰り広げた後に征討されたと伝わっており、それが多くの神社の由緒にも残っている分けですが、ここ幸畑の熊野宮もそのひとつといえそうです。

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幸畑白山神社 - つがるみち421




 前回の記事に続いて、青森市幸畑にある神社のご紹介になります。
 幸畑の谷脇という所に白山神社が鎮座しています。
 集落は道路沿いに広がっていますが、その途中はゆるい坂道になっていて、そばにちょっと小高い丘があり、そこに白い鳥居と社殿が見えます。大変小さな神社なので、ついつい見過ごしてしまいそうになります。




 道端に石段があって、そのそばには庚申塔が置かれていますが、御神燈や狛犬などはなく、背の高い樹木に囲まれて白い社殿がぽつんと立っています。
 その由緒については、よく分かりませんが、
【御祭神:伊弉並尊 菊理姫命  本社の勧請年月は不詳であるが、その昔、深持村の産土の神であったというが、同部落の名がなくなってから無格社となっている。しかし今尚参拝する人が多い。※『筒井町誌』より】と紹介されています。
 また、安政2年(1855)の『神社微細社司由緒調書上帳』には、「白山権現」として記録されているとのことです。

 小さな境内ですが、前述したように、大きな木々に囲まれており、神社らしい雰囲気が漂っています。鳥居の横にそびえているイチョウの木などは、かなりの大きさのものですが、とりわけ、社殿の後ろにどーんとそびえているのがケヤキの木で、この神社の御神木になっています。

 このケヤキの木は「幸畑のケヤキ」と呼ばれ、「樹齢500年と推定される県内でも有数のケヤキ巨樹である。白山神社の本殿裏に生育し、まっすぐな主幹が地域のシンボルにふさわしい様を呈している。」と紹介されています。樹高が約25mで、幹回りが5.9mという、堂々たる巨木です。

◇白山神社









「白山」あるいは「白山姫」と名のつく神社は全国におよそ2,700社余り鎮座しているということですが、その多くは祭神を菊理媛神(白山比咩神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊の3柱としているといわれています。言うまでもなく、これらの神社は、石川県、福井県、岐阜県にまたがる白山に関わる山岳信仰(白山信仰)に基づくものです。

 白山信仰は修験道と結びつき、「白山修験」として熊野修験に次ぐ勢力をもち、各地に伝播し、神社等が建立されました。津軽もその例外ではなく、多くの白山(姫)神社が建てられましたが、津軽の場合は、岩木山信仰との関わりも深いとされています。
 岩木山は鳥海山、岩木山、厳鬼山の三つの峰から成り立っていますが、そのうちの厳鬼山の主神は多都比姫(田光の竜女)で、本地仏は十一面観音です。一方、白山の祭神である菊理媛命(ククリヒメのミコト)も神仏習合では本地仏は十一面観音とされており、両神はともに女性ということもあり、信仰が広がっていったといわれています。

 ※wikipedia、小館衷三『岩木山信仰史』等を参照しました。


◇津軽の白山(姫)神社




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八甲田神社 - つがるみち420




 青森市の幸畑(こうばた)の墓苑には陸軍墓地があり、八甲田山雪中行軍遭難資料館や雪中行軍関連石碑、慰霊碑などが建てられています。
 雪中行軍で遭難死した青森五連隊の大隊長を真ん中にして、名もなき下士卒達の白い墓標が並び立つ光景は胸に迫るものがあります。


【・・・のびやかな距離を保って立ち並ぶ墓標は、春には校庭いっぱいに広がった白い運動着の子どもたちのようにも見え、夏には港で白い帆を休めるヨットの一群にも見え、秋には林立する白樺のようにも見える。そして、一面が純白におおわれる冬、 - それは道を失って立ちつくした彼らの最期の悲しい姿に重なるのだった。 ※山下康博 『指揮官の決断』より

 この幸畑墓苑から、八甲田山中へ進んで行くと、第五連隊が生死を彷徨った露営地跡があり、雪中行軍遭難記念像(後藤房之助伍長の像)が立つ馬立場へと至ります。




 八甲田神社は、その幸畑墓苑の近くに鎮座している社で、「病気平癒」「除災招福」などの御神徳により、市民の信仰を集めている神社です。
 その由緒については、
【往昔、阿倍比羅夫は夷賊征討の時、後潟に政庁を置き、八甲田山麓に山霊を祀り、伊邪那岐大神・伊邪那美大神ほか諸神を勧請したが、その後永く廃絶した。
 北畠顕信公、その子・守親公等は父・親房公、顕家公の遺志を継いで南朝の為に画策、霊山(福島県)を出でて再び諸神を勧請して南部氏を頼ったが、時運にあわず八幡岳にて一敗、その後を絶った。浪岡に拠った顕家公の後嗣も津軽氏に打倒されその跡殆煙滅した。
 創立者・小笠原壽久翁は昭和十八年、啓示を受けて八甲田大神(はっこうだおおかみ)を祭祀、昭和四十六年には北畠氏縁故者や崇敬者と共に明治百年を期し、現在地に社殿を建立。平成二年に鎮座二十年記念事業として本殿三棟を建立した。※八甲田神社『参拝のしおり』】と紹介されています。

 平安の昔から南北朝、戦国時代を経て、八甲田の神々を祀ってきた古い歴史を持つ社ですが、現在地に八甲田神社として建立されたのは昭和に入ってからのことです。

 敷地が約三千坪という広い境内ですが、社殿の前には手水舎や社務所、天照大御大神や月夜見大神を祀っている曙神社などがある他、郷土の俳人たちの句碑もあります。
 拝殿の後ろ側は、玉垣と門に囲まれた本殿が三棟立っていましたが、残念ながら、中へは入れませんでした。

◇八甲田神社









 御祭神は、「天津御祖大神・伊邪那岐大神・伊邪那美大神・天照大御神・月夜見大神・大地主大神・大山祇大神・北畠顕信命・ 北畠守親命・美穂屋姫大神 ほか」となっています。
 多くの神様の名前に驚かされますが、その数が多いのは、八甲田山は独立峰である岩木山などと違って、連峰の総称であるために、各峰々にはそれぞれの「神様」がおり、信仰を集めていたためだと思われます。八甲田連峰の「萬の神々」が宿る神社といえそうです。

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