「幸畑」という響きの良いきれいな地名の由来については、同村の谷脇に鎮座している熊野宮の由緒板に、
【(周辺の村では)貞享以前に畑に桑を植えて、蚕を生業としてあったので「桑畑村」となり、宝暦年間に現今の「幸畑村」になった。※熊野宮由緒板より要約・抜粋】と記されており、「桑畑」が「幸畑」に転化していったことが分かります。
熊野宮は、前回ご紹介した白山神社のすぐ近くにある社ですが、その由緒については、
【御祭神:伊邪那岐命 伊邪那美命 草創年月不詳、 寛永八年 (一六三一) 村中安全のため再建。 当初新山宮と称していたが、 明治初年神仏混淆廃止後、 仏体を廃し熊野宮と称した。 熊野大権現とも新山宮とも呼ばれたようだが、 貞享元年の書上帳には、 新山権現宮、 五十間に三十間 (五反歩)、 御宮一間四方、 別当和泉太夫とある。 貞享四年の検地帳に、 五間に六間の熊野宮地、 五十間に四八間の境内林がある。 安政二年の書上帖には、 横内組幸畑村新山宮一宇、 東西五六間南北五三間の境内がみえる。
明治六年三月筒井村稲荷神社と共に横内村大星神社へ合祀、 同八年二月復社。 同九年十二月村社に列せらる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
神社は民家に囲まれたところにあり、向かい側には保育園があります。私が訪れたときには、園児たちが保育士さんとなかよく手をつないで散歩中でした。
一の鳥居は金属製のもので、そばに大きな社号標と由緒書きと例祭の予定を書いた案内板などが立っています。そこから杉の木の間を参道が通っていて、社殿へ続いていました。
境内には、御神燈や狛犬、神馬などが並んで置かれています。拝殿の左側には赤い鳥居を伴った稲荷社がありました。右側には、猿田彦碑などが三基並んで立っていましたが、石碑の前には小さな赤い鳥居が立てかけられていました。
◇幸畑熊野宮
前述した由緒板には次のようなことも書かれています。
【(辺りの村と境内一帯は)延暦十一年(七九二年)頃は酋長・甲田丸の領地であり、甲田丸の祈願所があった。その祈願所を五穀豊穣の守護神として寛永八年に再建した。※由緒板より要約・抜粋】
「甲田丸」は八甲田山に因んだ名前なのでしょうが、かつて、この辺り一帯をを治めていた蝦夷の首魁のようです。
津軽には、かつて、中央の政事に「まつろわぬ者」たちが大勢いたとされ、蝦夷と呼ばれていました。岩木山麓の彼らは鬼と呼ばれたり、その首魁は「恵美の高丸(藤崎町)」、「大丈丸、大獄丸(平川市)」などとされています。八甲田山麓にも、女酉長・阿屋須と弟・雲谷の頓慶を首魁とする蝦夷が住んでいたとされています。
蝦夷は、坂上田村麻呂と激戦を繰り広げた後に征討されたと伝わっており、それが多くの神社の由緒にも残っている分けですが、ここ幸畑の熊野宮もそのひとつといえそうです。
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