
金光上人の塚から辺りを眺めると、後方に神社の森が見えます。以前に来たときには気づかなかったのですが、そこは廣峰神社の境内でした。
一の鳥居は、道路沿いの民家に挟まれた所にありますが、車を止める都合もあったので、今回は金光上人の塚から続く道を進みました。神社の裏側から「侵入」したことになります。

廣峰神社の由緒については、
【御祭神:須佐能男命 人皇五十一代平城天皇の御世、 大同二年 (八〇七) 六月十四日、 坂上田村麻呂の建立にして、 社号を天王社、 一説には御廟社、 或は行岳崎磯の社とも称した。 此の社の東西に田畑二十町余りあり、 其の字名は往古より現在に至るまで天王と称す。 延宝年中 (一六七三~一六八一) の頃より、 いかなることか誤りて牛頭天王と称す。 其の後、 寛政年中 (一七八九~一八〇一)、 社寺御調べの折、 祇園社と称す。 安政二年 (一八五五) 神社明細調べの節、 神典詮議の処、 祇園は須佐能男命に当たる由を以て、 須佐能男命を勧請致したくその旨上申した。 元禄二年 (一六八九)、 北畠権大納言具永が造営して、 旧藩主より現米一石八斗の社料を賜わる旨が津軽記の申書に記載されている。 文化十二年 (一八一五) 四月、 当社焼失し宝物及び書類の大半を失い、 残った物も天保七年 (一八三六)、 凶荒の折り何れかに散乱したと伝えられる。 神仏混淆仕分け以来、 社号を改め廣峰神社と称し今日に至る。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
私が訪ねたときは、まだ「秋」を感じさせる時期だったので、参道には栗の実などが落ちていました。参道の横には取入れが終わったりんご畑が広がっていますが、境内にはりんごの豊作を祈願した「果樹観音堂」なども立っています。
◇廣峰神社




由緒にも書かれていますが、かつては牛頭天王を祀った社であり、「天王社」とも呼ばれていました。多くの牛頭天王社は、明治の神仏分離により、素戔嗚尊を祀る神社となりましたが、この神社もまた同様の経緯をたどったようです。
この地方の中世の覇者は北畠氏ですが、北畠氏は、京都の街並みを模して、浪岡城の周りに祇園神社、八幡神社(浪岡八幡宮)、加茂神社(五本松加茂神社)、春日神社を配しました。ここ廣峰神社は、その中の祇園社にあたり、牛頭天王とスサノオに対する信仰(祇園信仰)を伝える社です。
◇神馬ほか




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☆つがるみち☆



つがる市森田町の下相野地区は、津軽民謡「弥三郎節」の発祥の地として知られていますが、ここに高城八幡宮が鎮座しています。
「八幡宮」という神社名よりも、むしろ「下相野観音堂」という名称で呼ばれているように、ここは津軽三十三霊場の11番札所として、多くの信仰を集めている社です。
私も霊場めぐりをしているときに一度訪ねたことがあります。
その神社としての由緒については、
【御祭神:誉田別尊 高皇産霊神 倉稲魂命 如意輪観世音菩薩 当社は、 寛文五年 (一六六五) に勧請。 これより先、 寛文年間に、 現境内地の奥まった所に、 如意輪観音像を安置する約一坪程の観音堂が創建されていた。 元禄三年七月 (一六九〇)、 集落民の五穀成就と家内安全等の祈願所として社が再建。 延享三年 (一七四六) に集落民が崇拝する産土神と観音像を合祀したが、 明治三年 (一八七〇) に 「神仏分離令」 が出され、 観音像は棄却、 没収されることとなったが、 集落では観音像を秘かに隠しておいて、 身代わり像をわたしたと言われる。 現在本殿には、 三柱の産土神と観音像とが合祀奉齋されている。 明治六年 (一八七三) に郷社に列格される。 社名は旧もと 「八幡宮」 であったが、 隣接の高皇産霊神社と統合したことから、 「高皇産霊」 の 「高」 の一字と、 八幡宮は堀に囲まれ、 「城構えの景観」 だったことから 「城」 の一字を頂戴して、 「高城八幡宮」 と名称を改めたと言われる。※青森県神社庁HPより】とあります。
由緒に書かれているように、かつては堀をともなった砦のような境内だったようですが、現在はその面影は見られません。
◇高城八幡宮





石造りの一の鳥居のとなりに由緒板があって、そのそばには月夜見大神と猿田彦神の石碑が並んで立っています。
参道には、手水舎や狛犬が一対置かれていますが、拝殿のそばには多くの祈願札が下げられていて、三十三霊場の雰囲気が漂っています。拝殿の横には如意輪観音像もありました。
扉が開いていたので拝殿の中に入って拝みましたが、線香のにおいが漂よっていました。お参りする人々が絶えないようです。
この神社を再訪した理由は、津軽の水神・水虎様を見たかったからなのですが、境内のどこに祀られているのか分かりませんでした。いろいろ回ったのですが、大きな木の下に末社らしき建物があったので、中に入ってみました。
中の祭壇の上に小さな祠があり、扉を開けて見ると、小さな水虎様が大切に祀られていました。木彫りの河童型の水虎様です。
◇水虎様ほか




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☆つがるみち☆



岩木山麓には多くの温泉がありますが、湯段温泉もそのひとつです。
湯段は嶽温泉から1kmほど離れた所で、周辺には農村公園やゴルフ場などもあり、別荘が立ち並ぶ閑静な場所です。
温泉の由来は古く、「享保9年(1724年)、賀田村(旧岩木町)の柴田長兵衛が発見した。柴田長兵衛に温泉の小屋主を命じられた。嶽温泉とともに、湯治場として知られた。」とあります。因みに温泉を発見した柴田氏は、戦国時代の猛将・柴田勝家の血を引く一族なのだとか。。

温泉の裏側に深い渓谷があって、黒滝渓流が流れています。
うっそうとした森林の中を、流れる渓流の様子はとても美しく、特に新緑や紅葉の時期は一見の価値があるといわれていて、隠れた観光スポットにもなっています。
渓流の段差は二段、三段と滝をつくり、谷の上からも小滝が流れ込んでいます。下まで降りて見ることもできそうですが、今の時期はとても足場が悪く、滑り落ちそうになるので思いとどまりました。
湯段からくねくね曲がった林道の中を進んで行くと、赤い鳥居が見えてきます。ここから先は「中村林道」となり、一般の人は立ち入り禁止のようです。
鳥居のそばには、「黒瀧大神」と「黒瀧國龍大神」と刻まれた二つの石碑が立っていました。対岸に向けて赤い橋が架かっていて、滝壺のそばに小さな祠があります。祠の中に大神が祀られているのでしょう。村人にとって、ここは「龍神様が棲む淵」として神聖視され、古くから崇められてきた場所なのでしょう。
◇黒滝渓流






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☆つがるみち☆


Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市
雪が降る前に


平川市猿賀公園の近くに盛美園があります。
◇盛美園 (せいびえん)
ー 津軽には大石武学流と呼ばれる独特の作庭様式が伝えられており、その典型とされるのが、国指定名勝の盛美園です。明治35年より9ヵ年を費やして作庭されたといわれており、面積3,600坪(約1.2ha)の池泉廻遊式の庭園です。大きく刈り込んだイチイの木は、天地を創造した神々をかたどり、津軽平野と遠山を借景として取り入れ、庭石をきめ細かく配置し、装飾的にもすばらしい名園として有名です。盛美園の一角にある盛美館は、一階が純和風、二階が洋風で建てられており、鹿鳴館時代の特徴を表した和洋折衷の珍しい建物で、庭園と融合した独特の美しさをもち、明治文化の面影を忍ばせています。※青森県観光情報サイトアプティネットより -
四季それぞれの美しさを見せる盛美園ですが、ちょうど今の時期は冬支度の最中で、あちこちで雪囲いが行われていました。
園内には樹齢400年を超えるケヤキの大木もあり、数多くの樹木や大石、池などが巧みに配置されています。
築山の一角に鳥居が立っていて、その上に盛美神社があります。
神社といっても、小さな祠がポツンとあるだけなのですが、その由緒については青森県神社庁HPにものっています。
【鎌倉時代、 津軽藤崎の郷鶉ケ池のほとりに祀っていた倉稲魂神を、 猿賀村の清藤家 (当主清藤盛治) の祖先が、 庭先の欅樹の傍に祀った。 のち、 猿賀神社の境内社であった一王子神社の祭神大山祇神を合祀し、 更に猿賀神社の祭神田道命も奉斎して神威彌々加わり霊験があらたかになった。 明治時代に至って、 清藤家二十四代祖盛美、 たまたま感じるところあり、 邸内庭園の一部を浄めて、 此の処に奉遷し、 更に又、 庭津日神、 庭高津日神をも配祀して小祠を建立した。 】
御祭神は、大山祇神・田道命・庭津日神・庭高津日神の四柱ですが、「竃や屋敷、庭、農地など、農業生活の神」である庭津日神(にわつひのかみ)と庭高津日神(にわたかつひのかみ)を祀っているあたりは、いかにも名園にふさわしい守り神である気がします。





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◇盛美園 (せいびえん)
ー 津軽には大石武学流と呼ばれる独特の作庭様式が伝えられており、その典型とされるのが、国指定名勝の盛美園です。明治35年より9ヵ年を費やして作庭されたといわれており、面積3,600坪(約1.2ha)の池泉廻遊式の庭園です。大きく刈り込んだイチイの木は、天地を創造した神々をかたどり、津軽平野と遠山を借景として取り入れ、庭石をきめ細かく配置し、装飾的にもすばらしい名園として有名です。盛美園の一角にある盛美館は、一階が純和風、二階が洋風で建てられており、鹿鳴館時代の特徴を表した和洋折衷の珍しい建物で、庭園と融合した独特の美しさをもち、明治文化の面影を忍ばせています。※青森県観光情報サイトアプティネットより -
四季それぞれの美しさを見せる盛美園ですが、ちょうど今の時期は冬支度の最中で、あちこちで雪囲いが行われていました。
園内には樹齢400年を超えるケヤキの大木もあり、数多くの樹木や大石、池などが巧みに配置されています。
築山の一角に鳥居が立っていて、その上に盛美神社があります。
神社といっても、小さな祠がポツンとあるだけなのですが、その由緒については青森県神社庁HPにものっています。
【鎌倉時代、 津軽藤崎の郷鶉ケ池のほとりに祀っていた倉稲魂神を、 猿賀村の清藤家 (当主清藤盛治) の祖先が、 庭先の欅樹の傍に祀った。 のち、 猿賀神社の境内社であった一王子神社の祭神大山祇神を合祀し、 更に猿賀神社の祭神田道命も奉斎して神威彌々加わり霊験があらたかになった。 明治時代に至って、 清藤家二十四代祖盛美、 たまたま感じるところあり、 邸内庭園の一部を浄めて、 此の処に奉遷し、 更に又、 庭津日神、 庭高津日神をも配祀して小祠を建立した。 】
御祭神は、大山祇神・田道命・庭津日神・庭高津日神の四柱ですが、「竃や屋敷、庭、農地など、農業生活の神」である庭津日神(にわつひのかみ)と庭高津日神(にわたかつひのかみ)を祀っているあたりは、いかにも名園にふさわしい守り神である気がします。





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☆つがるみち☆


凛とした姿形のケヤキの木は、晩秋から初冬の神社の境内でもひときわ目立つ存在です。平川市尾上(旧尾上町)には、そんな風格を持つケヤキの大木が生えている神社があります。
愛宕神社は、坂上田村麻呂の蝦夷征討の際、建立された社で、将軍地蔵と唱えられていました。境内には珍しい夫婦木や三頭木があります。
七柱神社は、かつて、獅子権現宮と呼ばれ、猿賀神社の摂社でしたが、ここにも田村麻呂の伝説が残っています。この神社の境内は、昔はケヤキの巨木が密集していて「けやきの森」と呼ばれていました。




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愛宕神社は、坂上田村麻呂の蝦夷征討の際、建立された社で、将軍地蔵と唱えられていました。境内には珍しい夫婦木や三頭木があります。
七柱神社は、かつて、獅子権現宮と呼ばれ、猿賀神社の摂社でしたが、ここにも田村麻呂の伝説が残っています。この神社の境内は、昔はケヤキの巨木が密集していて「けやきの森」と呼ばれていました。






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平川市日沼(旧尾上町)は、一帯を流れている平川沿いにある集落ですが、弘前市や田舎館村と境を接する所です。
平川を渡った所には富岳神社(弘前市)があり、その対岸には大袋稲荷神社(田舎館村)が鎮座しています。
この日沼の集落の道路沿いに三社神社があります。弘前へ行く途中によく見かける神社ですが、ゆっくり境内の中を見たことはありませんでした。
大きな社号標のとなりに一の鳥居があって金属製のしめ縄が架かっています。そこから民家に挟まれた参道が続いていますが、二の鳥居、三の鳥居、四の鳥居とくぐって行くと境内に出ます。境内には狛犬が二対、神馬、末社などが立てられていました。
この神社の名物は、四の鳥居に架かっている「鬼っこ」です。以前、鳥居の鬼っこを探して神社めぐりをしましたが、そのとき、ここにも立ち寄って、鬼の写真だけを撮って帰ったことがありました。
青い体の鮮やかな鬼っこです。赤く太いゲジゲジまゆげが特徴で、何となく「こち亀」の両津勘吉に似ています。

その由緒については、
【御祭神:天照皇大神 譽田別尊 天児屋根命 当社草創の年月日は不詳だが、 往古より中津軽郡和徳村和徳字俵元の高山治助氏邸内に祀られ、 明治十三年五月八日、 許可を得て無格社となる。 明治十八年九月十四日、 当村葛西利三郎邸内へ移転の許可を得、 同年十月十四日、 新たに社殿を造営して同邸内に奉遷する。 爾来、 当日沼村の産土神として村中一同厚く崇敬す。 大正三年七月十日、 当村の樋口甚左衛門氏は、 祖先が邸内に祀っていた少名彦神社を合祀して現地へ奉遷した。 大正十一年八月二十一日、 従来中津軽郡豊田村境関に鎮座する富岳神社の氏子であった当日沼を、 三社神社の氏子区域に変更することが承認され、 大正十三年五月十五日村社に列せられ、 同年六月二十四日、 神饌幣帛料供進神社に指定される。 ※青森県神社庁HPより 】とあります。
由緒に書かれているように、元来、個人の邸宅の守り神であったものが、村の産土社として崇敬されるに至ったもののようです。
また、村の者が合祀したとされる少彦名神は、大己貴神とともに相殿神として祀られているとのことです。
◇日沼三社神社






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☆つがるみち☆


黒石市から浪岡町へ向かう途中に本郷の集落がありますが、小学校からほど近い所に見事なイチョウの巨木があります。
その樹高は26m、幹回りが6.6m、樹齢は300年を超えるという大樹ですが、特に天然記念物に指定されている分けではなく、隠れた名木といえそうです。
このイチョウの木は、とある民家の庭(敷地)にそびえています。根元に赤い鳥居と小さな祠が立てられていますが、祀られているのは、このお宅の守り神でしょうか。
今の時期、イチョウの姿形の移り変わりはとても早く、つい昨日まで枝先に「黄色い花を咲かせていた」葉っぱは、寒気や風のために散り落ち、地面を黄色に染めます。この本郷のイチョウの葉っぱも、庭いっぱいに広がり、まるで黄色いじゅうたんが敷き詰められているように見えました。





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その樹高は26m、幹回りが6.6m、樹齢は300年を超えるという大樹ですが、特に天然記念物に指定されている分けではなく、隠れた名木といえそうです。
このイチョウの木は、とある民家の庭(敷地)にそびえています。根元に赤い鳥居と小さな祠が立てられていますが、祀られているのは、このお宅の守り神でしょうか。
今の時期、イチョウの姿形の移り変わりはとても早く、つい昨日まで枝先に「黄色い花を咲かせていた」葉っぱは、寒気や風のために散り落ち、地面を黄色に染めます。この本郷のイチョウの葉っぱも、庭いっぱいに広がり、まるで黄色いじゅうたんが敷き詰められているように見えました。








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浪岡城址の下(南側)を浪岡川と正平津川という二つの川が流れていますが、一帯は「北中野」という集落になっています。
北中野の集落は、浪岡北畠氏との関わりが深い所ですが、長慶天王の潜幸伝説も残っている所です。
源常林の銀杏 (げんじょうばやしのいちょう)は農業用の溜池付近にそびえたつ大きなイチョウの木ですが、樹高が19mで幹回りは6,7m、樹齢は300年以上といわれています。
巨木とあって、「8百年ほど前、津軽十三の福島城主藤原秀栄の子が、病死した乳母の墓の目印に銀杏の枝を挿した。それが育って、この大イチョウになった」とか、「長慶天皇がこの地に潜んで浪岡源常と称した」という伝説が語られています。
また、「戦国時代に、津軽為信の家臣がこの巨木を歌にし戦勝祝いの席で歌った」とされ、これが「津軽山歌」になったともいわれており、イチョウのそばには「津軽山唄発祥の地」の石碑も立っています。


この伝説の大銀杏から少し離れた道路際に「金光上人」というバス停があります。高僧の名前がそのままバス停になっている分けです。
金光上人については、
【鎌倉時代前期に、念仏-浄土宗を東奥に広めた僧で、法然と出会い、師と仰ぐようになった。正治2年(1200)頃、念仏布教の旅にでた。津軽にやってきた上人は、外ヶ浜のある川から「夜な夜な光物がでる」という話があり、旅先でそれを聞いた上人はその川に行き、川底から阿弥陀如来を発見した。これが蓬田村を流れる阿弥陀川の伝説である。
その後、金光上人は、阿弥陀如来を背負い梵珠山に登り、布教の道場を開き、五本松(浪岡)に庵を結び布教を続けたと伝えられている。金光上人の死は建保5年(1217)のことで、遺言により北中野に墓がつくられた。※青森市HP「なみおか今・昔」より要約・抜粋】とされています。
バス停の向かい側に小高い丘があって、そこに金光上人の塚(墳墓)があります。丘の上には東屋も設けられていて、とても見晴らしのよいところです。上人の墳墓の前には、真新しい菊の花が供えられていました。



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☆つがるみち☆


Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市
初雪の境内


黒石市温湯の薬師寺には「石割楓」と名づけられた名木があります。
樹齢が500年、樹高11.7mm、幹周5.2mという老木ですが、名前の通り、地面の石を割り、大地をしっかりとわしづかみしているような姿形をしています。
久しぶりに訪れてみましたが、相変わらずの迫力でした。






薬師寺の創建は寛文元年(1661)、花山院忠長が温湯温泉へ湯治に訪れた際、薬師像を安置したのが始まりと言われています。
黒石市山形町にある津軽三十三霊場の26番札所・法眼寺は、元禄4年(1691)にここから現在地に移ったお寺で、ここには薬師堂だけが残りましたが、その後、「瑠璃山薬師寺」として再興されました。
だいぶ前に訪ねたときには気づかなかったのですが、境内の入口に「石敢當」という石碑が立っています。
石敢當(いしがんとう)は、主に沖縄や九州地方において「魔除け」として信仰されている石碑ですが、この薬師寺のものは、文政6年(1823)に建立されたもので高さ約92cm、幅61cm、厚さ54cmで、青森県内では非常に珍しいものとされ、市の文化財にも指定されています。
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樹齢が500年、樹高11.7mm、幹周5.2mという老木ですが、名前の通り、地面の石を割り、大地をしっかりとわしづかみしているような姿形をしています。
久しぶりに訪れてみましたが、相変わらずの迫力でした。







薬師寺の創建は寛文元年(1661)、花山院忠長が温湯温泉へ湯治に訪れた際、薬師像を安置したのが始まりと言われています。
黒石市山形町にある津軽三十三霊場の26番札所・法眼寺は、元禄4年(1691)にここから現在地に移ったお寺で、ここには薬師堂だけが残りましたが、その後、「瑠璃山薬師寺」として再興されました。
だいぶ前に訪ねたときには気づかなかったのですが、境内の入口に「石敢當」という石碑が立っています。
石敢當(いしがんとう)は、主に沖縄や九州地方において「魔除け」として信仰されている石碑ですが、この薬師寺のものは、文政6年(1823)に建立されたもので高さ約92cm、幅61cm、厚さ54cmで、青森県内では非常に珍しいものとされ、市の文化財にも指定されています。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市
観楓台の秋
黒石市の中野もみじ山で「もみじ祭り」が行われています。夜間にはライトアップもされ、例年、たくさんの人々でにぎわいます。
最近は、冷たい雨の日が多く、肌寒い毎日ですが、先日、晴れ間をみつけて朝早く訪ねてみました。
駐車場に車をとめて中野神社への道を進みます。途中にはハロウィン風のカボチャが木の根元に置かれたりしていて楽しめます。
神社の社殿の横から細長い階段の道が続いており、そこを登りきると「観楓台」という小高い山の上に出ます。早朝ということもあり、訪れる人はあまりいませんでしたが、三脚を持った写真好きの方々がベストショットをねらっていました。





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最近は、冷たい雨の日が多く、肌寒い毎日ですが、先日、晴れ間をみつけて朝早く訪ねてみました。
駐車場に車をとめて中野神社への道を進みます。途中にはハロウィン風のカボチャが木の根元に置かれたりしていて楽しめます。
神社の社殿の横から細長い階段の道が続いており、そこを登りきると「観楓台」という小高い山の上に出ます。早朝ということもあり、訪れる人はあまりいませんでしたが、三脚を持った写真好きの方々がベストショットをねらっていました。





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以前、鳥居や拝殿に架かっている「鬼っこ」を探して津軽の神社を歩いたことがありますが、五所川原市の長橋地区神山に鎮座する闇おかみ神社もそのひとつです。
目当ての鬼っこは、入口の社号標の前に一体、御神木の隣に一体、そして拝殿と三体も祀られていました。
⇒ 以前の記事へ
ですが、前回の訪問は春先だったために、境内の中にも雪があり、ゆっくり回って見ることはできませんでした。そういう分けで、今回は再訪です。

その由緒については、
【御祭神:闇おかみ神 明暦二年 (一六五六) 勧請。 明治六年観音堂を闇おかみ神社と改め松倉神社へ合祭。 同八年復社。
明治九年十二月村社に列せられる。 明治十七年五月松野木観音林より現社地へ移転。 明治四十四年九月八日神饌幣帛料供進指定神社に列格せられる。※青森県神社庁HPより】と簡潔に記されているだけで、詳しいことは不明ですが、すぐそばに長橋溜池という大きな農業用の溜池があることから、灌漑の安全と豊作を願って水神・闇おかみ神が祀られるようになったと思われます。
今回、あらためて訪ねてみたのですが、神社入口に並んでいる庚申塔や十字前掛けをまとった多くのお地蔵様など、新しい「発見」がありました。また、三体の鬼っこや、御神木の見事なクロマツなども健在でした。
◇闇おかみ神社





長橋地区は、かつて長橋村と呼ばれていましたが、その地名の由来は「村中に長橋と呼ばれる溜池あり、各村には耕地が多くこの水を引いて耕作をしているからこの溜池に因んで村名とした」とされています。
また、神社の鎮座地である「神山」は、この地に中世の館である「神山館」が築かれ、神山左京之助なる人物が居館としていたことに基づくといわれていますが、館跡からは、中国産の青磁碗や日本産の焼物の破片が出土しているとのことです。
江戸時代、この地を訪れた菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、
【杉羽立という村のあとを通り、むかしかかっていたが、いまは名ばかり残っている長橋というところで、広い池(長橋溜池)がよこたわっているのを見わたした。こうしてゆくゆく心に浮かんだことを歌によみ、神山というところにきて、村のはずれにある井杭の柳に歌をかきつけた。「草たかみ野越えはらこえわけ来れば そのかみやまの麓也けり」】と書いています。
闇おかみ神、鬼っこと水神を崇めている社ですが、実は、境内にはもうひとつの津軽の水神・水虎様が祀られているということが再訪の理由でした。
以前は拝めなかったのですが、今回、境内の真ん中に小さな祠がポツンと立っていたので、扉を開けて見ると、その中には女神型の水虎様が大切に祀られていました。




※五所川原市立図書館「長橋地区の地名」を参照しました。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市
白岩森林公園の秋
真っ白な岩肌の屏風が立ち並ぶ平川市の白岩森林公園は、 四季の自然が美しい場所ですが、秋に訪れたのははじめてです。白壁の東屋から見る山の峠付近は、赤、黄、緑に染まっていました。





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