
藤崎町の中島地区に中島小畑八幡宮が鎮座しています。
「中島」と「小畑」という隣接した集落の名前を併せ持つ神社となっています。
第二次世界大戦以前には、中島と小畑は、「中小(なかこ)」と呼ばれ、一つの村として活動していました。神社名は、そんな当時の様子を物語るものといえそうです。
御祭神は誉田別命と八幡太郎義家で、参道には、御神燈や狛犬とともに、八幡様のお使いである鳩の像(狛鳩)も置かれています。
境内には末社と地蔵堂、百万遍塚、庚申塔と猿田彦碑の他、郷土力士の顕彰碑なども立っていました。



参道の入口に由緒を記した説明板がありますが、それによると、この神社の創建は明治八年(1875)、矢沢の正八幡宮の遥拝所として分離・建立されたとのことで、当初は「正八幡宮遥拝所」と呼ばれていたようです。


説明板には、
【分離にあたり、中島、小畑地区の人々は、川部の熊野宮の奥の院を譲り受け、近くの赤沼のほとりに祀られていた薬師様をも合祀して、新しい堂社を建立した。】と書かれていました。


因みに、由緒に出てくる赤沼 は福舘地区にある沼ですが、この沼には「村に異変があると赤く濁ったことからその名がついたといわれており、村人は沼の色を見て豊凶を占っていた。」という話が伝えられています。
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☆つがるみち☆



藤崎町の福舘(ふくだて)は、合併以前は旧常盤村に属していた集落です。
旧常盤村は、室町時代から戦国時代にかけて、安東氏や浪岡北畠氏が支配していた所で、久井名舘など、安東氏や北畠氏ゆかりの武将の館跡に由来する地名が残されています。
福舘もそのような集落のひとつで、中世の安東時代に築かれた砦から名づけられたものだといわれています。
稲荷神社は、そんな福舘の中心に鎮座している社ですが、道路沿いの真っ赤な鳥居と、そのそばに立つ幕末と明治期の大きな庚申塔が印象的な神社です。
御祭神は宇賀魂命で、その由緒については、
【延宝3年(1675) に、福舘村の一戸弥五左衛門という人が、産土様のお宮として建てたのが始まりだと伝えられています。その昔、神社から西方約30丁(約3270m)の所に「舘」があり、北畠氏の一族が守り住んでいましたが、この神社は、その古舘の守護神だということです。】と紹介されています。


また、建立にまつわる話として、
【一戸弥五左衛門らがこの村の田地を開墾した時、一人のおじいさんが現れ、持っていた杖で「ここが良い土地だ」と導いてくれました。そして「私は舘の神様である」と告げたというのです。そのことから一戸弥五左衛門が延宝3年にその神様を祀るお堂を建て、皆崇敬するようになったということです。】という物語も残されているようです。





※【】は、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」を参照しました。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市
ようやく桜



雲谷の稲荷神社から合子沢(ごうしざわ)の方に足を伸ばしてみました。
合子沢は自然に恵まれた集落で、合子沢川にはイワナやヤマメが生息しており、上流には養魚場もあります。
また、周辺一帯はタケノコをはじめとする山菜の宝庫で、湧水もあります。平成10年には、青森市制施行100周年に合わせてオープンした合子沢記念公園も造られ、市内から近いこともあり、たくさんの人々が訪れています。

私は集落に鎮座する稲荷神社に行ってみたのですが、神社へと向かう途中の坂道に赤い鳥居が立っていたので立ち寄ってみました。
小高い丘の上に社殿といくつかの石碑が立っていて、付近からは八甲田山と雲谷峠を望むことができます。
何の社かは分からなかったのですが、後で地図を見たら「猿田彦大神」となっていました。


鳥居をくぐると、そのそばには、天保三年と刻まれた猿田彦大神の石碑が立っていて、そこから少し上った所に社殿があり、両脇に重そうな注連縄が張られた大きな碑が立っていました。
左側の碑は慶應四年建立の馬頭観音碑。とても大きくて立派なものです。
一方、右側には、石碑が二つ並んで置かれています。ひとつは、嘉永四年と刻まれた保食神ですが、もうひとつは嘉永三年と銘記されていますが、何の碑かよく分かりませんでした。注連縄の下の方に馬の姿が描かれているところをみると、これも馬頭観音碑なのかも知れません。




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青森市の雲谷峠(もやとうげ)は、標高553m、三角型のきれいな形をした山で、付近の道路からは岩木山が望める展望所などもあります。
八甲田山の手前にあり、形もよいことから市民に親しまれ、スキー場としても賑わいをみせている山です。
この山の裾野一帯には、昔、阿弥須(オヤス)という女首長が率いる蝦夷の集団が住み着いていて、蝦夷征伐を目指す坂上田村麻呂に激しく抵抗したという伝説があります。難儀した田村麻呂は、蝦夷を驚かすために太鼓や鐘を鳴らして攻め立て、阿弥須軍を屈服させたとされており、これが青森ねぶたの起源だともいわれています。
⇒ 大星神社の記事へ
名前は「雲谷峠」ですが、実は峠ではなく独立した山なのですが、それは、女首長・阿弥須の弟である頓慶(トンケイ)に由来するといわれています。即ち、田村麻呂と戦った蝦夷の英雄を偲んで、地元の古老たちは、この山を「雲谷のトンケ」と呼んできましたが、後に、「トンケ」に「峠」の字が当てられ「雲谷峠」になったとされているようです。

雲谷峠(山)に行く途中に「津軽藩雲谷牧場趾の碑」が立っています。
石碑の裏側には、
【雲谷の牧場について 雲谷の牧場は初開不詳で薩摩の浪人川越六郎左衛門が故あって雲谷に居住、牧場を開いていたと伝えられている。津軽藩では寛永八年正月川越源右衛門を牧頭とし献上馬進上馬などの名馬養育のため牧場を開かせた。幾多の名馬を産し公卿諸侯へ送られた。 ー以下略ー ※碑文より】と書かれていました。
津軽藩では、3代藩主・信義と続く4代・信政の頃から産業振興が盛んになりましたが、新田の開発や鉱山の開発とともに良馬の生産に重点が置かれ、津軽坂(鶴ヶ坂)、枯木平、滝の沢、入内、そしてこの雲谷の地に牧場が開かれました。これらの牧場は「津軽五牧」と呼ばれ、良馬を産出し、各地の有力大名への献上品ともなりました。
雲谷牧が開かれたのは寛永八年(1631)の頃で、天保三年(1832)に藩の財政急迫により廃止されましたが、以後も村営牧場として良馬を産出し続けたようです。

稲荷神社は、牧場跡のすぐ近くの道路沿いに鎮座している社です。
金色の米俵が乗った太い注連縄が張られた一の鳥居のそばには猿田彦の碑があり、奥へと参道が続いています。
境内には、社殿がポツンと立っているだけで、いたってシンプルな神社です。
その由緒などについては詳しく分かりませんが、村人から「雲の明神」として崇められてきた神社です。
かつては、雲谷峠(山)に鎮座していましたが、後に現在の場所に遷座したといわれています。平安の頃、この地を治めていた雲谷のトンケイが、山中に空堀を巡らした一社を建立し、「雲の明神」と名づけたという、言い伝えがあるようです。



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縄文の学び舎・小牧野館がある青森市野沢から、八甲田酸ヶ湯方面へと向かう県道122号線沿いに大柳辺の集落があります。住所は野沢川部となっていますが、バス停などの名前も大柳辺となっている所です。
大柳辺は「おおやなべ」と読むそうですが、集落の外れに集会所があり、近くに稲荷神社が鎮座しています。
両端に雪が残る道路に沿って、白、赤、赤の三本の鳥居が並んで立っていますが、石造りの鳥居は稲荷神社、真ん中が庚申様、端っこのものは山神様の鳥居です。
三つの鳥居には、少し色あせていますがブルーの注連縄が架かっていて、いずれも模様が編まれたジャンバラ型の注連縄です。特に稲荷神社のものは重量感のある豪華なものです。


一の鳥居をくぐりぬけて境内に入ると、参道が続いており、右へ曲がると社殿が立っています。境内には、狛犬や御神燈ほか、いくつかの石塔が置かれています。赤い柱の拝殿には木彫りの龍や特徴のある木鼻が架けられていました。



この神社については詳しくは分かりませんが、拝殿の中に簡単な縁起が記されていました。
○一五九二年 稲荷神社
○昭和四十六年 拝殿再建
○昭和五十一年 本殿再建
○平成二十二年 鳥居再建
○祭神 倉稲霊大神
どうやらこの社は、文禄年間(1592-1596)に、村人の手によって、五穀豊穣と村の繁栄を願って創建されたようです。
鳥居を伴った庚申塔は天保二年、山神様は明治二十三年の建立と刻まれていました。
山間部に位置しているためか、境内にはまだ少し雪が残ってはいますが、黒い土の間から黄緑色のふきのとうが顔を出し始めていました。



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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市
中野不動の滝



先日、猿賀神社付近をぶらぶらしていたら、近くに小さな赤い鳥居が立っていたので立ち寄ってみました。
辺りの住所は平川市猿賀石林になっているようですが、この鳥居は、盛美園の庭の裏側にあり、盛美園の塀が近くまで迫っています。
鳥居に掲げられている扁額には「猿田彦大神」とあります。背の高い杉が何本か立っており、その奥に猿田彦の碑や青面金剛、庚申塔が置かれています。大きな猿田彦碑には注連縄が張られ、地元の信仰の厚さがうかがえます。




この猿田彦大神の近くは墓地になっていますが、そこに道路によって遮断された形の土盛があり、「遺跡小田ノ森」という説明板が立っています。
【古図に大丹森(オオタンモリ)とあり夷賊酋長大丹丸(大丈丸とも)の首塚があったことから此の名が起ったと言伝えられ古墳塚が五基と七坊あった。昭和三十五年に古銭一万四百六十七枚、焼失屋敷、焼米、鉄製品が出土し、古銭の下限から鎌倉末期に埋れたものと推定されている。この地は縄文から歴史時代に至る遺跡包蔵地帯でもある。 ※説明板より】
縄文の昔から続いていた遺跡らしいのですが、発掘された古銭の中には、紀元前175年の中国の漢の半両銭や紀元前118年の五銖銭なども含まれていたとのことです。
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平川市本町は、付近に私鉄の平賀駅やJAの建物、学校などが立ち並ぶ、旧平賀町の中心地ですが、その住宅街の一角に八坂神社が鎮座しています。
御祭神は須佐之男尊(スサノオノミコト)。その由緒については詳しくは分かりませんが、
【享禄年間(1528-1531)に、大光寺城主・滝本播摩守が千手観音を勧請したのがはじまり】 と伝えられています。
住宅にはさまれた道を進んで行くと、川があり、そこに赤い神橋が架かっています。橋を渡った所が境内ですが、雪解けが進んだとはいえ、まだ少し雪が残っています。
境内には新旧の御神塔や狛犬、神馬、地元力士の顕彰碑などが置かれていました。神池を伴った末社が立っていましたが、弁天宮でしょうか。拝殿のとなりには、二十三夜塔と庚申塔、青面金剛像がまとめて置かれていました。






一帯は、鎌倉時代の初期に幕命を受けた曽我氏が大光寺城主となり治めていましたが、南北朝時代になると安東氏、さらに室町期には南部氏の所領となり、大光寺城には南部氏の城代として滝本氏が入りました。ここ八坂神社の前身である千手観音堂は、その滝本氏が建立したもののようです。
しかしながら、大浦為信による津軽統一が進み、天正三年(1575)、大光寺城は奇襲を受けて落城します。その後、大光寺城は、為信の娘婿である津軽左馬之助藤原建広(たけひろ)が城主となりましたが、建広は、消失した千手観音堂跡に大光寺城落城戦死者供養のために聖観音堂を建立しました。この観音堂が、明治になって八坂神社となる分けです。
因みに、津軽左馬之助建広は、後の二代藩主・信枚と津軽家の跡目相続をめぐって争い、津軽の地を追放されたといわれています。


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