
青森市の後萢(うしろやち)の県道44号線沿いに、その集落名を冠した後萢神社が鎮座しています。
「萢」という文字は、湿地帯を意味するとされていますが、県内にもつがる市富萢とか、鶴田町横萢など「萢」のつく地名があり、以前にそれぞれの集落の神社を訪ねたことがあります。
後萢も、昔はその名の通り湿地帯だったのでしょうが、立派な道路や多くの建物が並び立つ現在は、その面影はありません。
後萢神社は、44号線沿いの町並みを見下ろすことができる小高い丘の上にあり、道路からも赤い一の鳥居や境内を望むことができます。
鳥居をくぐり、参道を右、左と上って行くと、境内の入口があり、そこに二の鳥居と、猿田彦大神の碑がありました。


御祭神は天御中主大神。昭和二十六年に、「後萢集落の氏神として建立された」ということで、比較的新しい神社といえます。
境内には、狛犬のほか、いくつかの末社の祠が立っていました。





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平川市葛川(くずかわ)に「誉田屋敷(こんたやしき)」という高台がありますが、ここに次のような話が伝えられています。
【(その地名は)昔、河内国の誉田の城主がここに落ちてきたからだという。そのころ、切明川にサケの大群が上ってきた。誉田殿は、これを小国(おぐに)の殿様に献上せねばならず、藤のつるを切り取って荷縄にし、いくども坂を越えて小国の城まで運んだ。これが苦しかったので、誉田殿は坂の下で「こんなに上らず、また藤つるがなかったら、こんな苦しい目にあわずにすむものを・・・」といって泣いたという。それからこの坂を「誉田の泣き坂」といった。それから川にサケが上らず、藤も絶えてしまったという。 ※『青森の伝説』より】
葛川には、昔、「葛川館」という山城がありました。築城主や築城年代など、詳しくは分かっていませんが、かつての館跡は現在、神明宮になっています。
道路のそばに「葛川館跡」と書かれた木柱があり、その上に鳥居が立っています。そこから参道が続いていますが、境内は、標高300mほどの山の上にあります。
完全な山道で、うっそうとした森の小路を左右に三回、四回と曲がりながら登って、やっとたどり着きました。


境内には、「神明宮」と書かれた石柱が2基、拝殿の両横には,、末社の祠がそれぞれ立っています。拝殿の柱には、大きな奉納草鞋が掲げられていました。





この神社の御祭神は天照皇大神ですが、その由緒については分かりません。
葛川は江戸時代には「折戸村」と呼ばれていましたが、農作物が育たないやせた土地であったといわれています。時期は不明ですが、土地の開墾と豊作を願って、この神社は建立されたものと思われます。
参道入口の木柱 には、次のように記されています。
【葛川館跡 築城年代、城主は不明。郭の三方は断崖で、南側の台地続きを堀で切断した一郭の館跡である。神明宮境内になっている郭内に、関ヶ原合戦に西軍の武将であった大谷刑部吉継の子と、越後の武将上杉景勝の重臣直江山城守の弟が植えたという伝説をもつ樹齢三○○年を越す松と杉がある。】
その真偽はともかく、なかなかロマンを感じさせる伝説です。因みに、葛川には「直井」という名字の方がたくさんおられます。「直江兼続との関係は・・」と、空想がふくらみますが、兼続ゆかりの人物が、この地にやって来たのかも知れませんね。
なお、木柱に書かれている老杉の大木の一本は、とちゅうから折れて無くなっていました。朽ち果てたものか、自然の力によるものか。。
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緑 みどり



弘前市鬼沢の集落から県道31号線を鯵ヶ沢方面へ向かう途中に郵便局があります。
ここを右折すると、板柳町へ向かう県道133号線に入りますが、一帯の住所は「楢木」となっています。「楢木」と書いて、「ならのき」と読みますが、江戸時代には「楢野木」と表記されていたようで、その名残かと思われます。
県道沿いに、りんご畑や田んぼが広がる農村地帯ですが、近辺には、熊野神社や白山神社、文化財にも指定されている「文永の板碑」などがあります。私も以前に、これらの場所を訪ねたことがありました。
⇒ 以前の記事へ
そんな楢木の集落の中ほど、道路から少し離れた所に稲荷神社が鎮座しています。
「村社稲荷神社」と書かれた大きな社号標と、金属製の立派な注連縄が架かった一の鳥居があり、そこから参道が続いていて、左に曲がったところに社殿がありました。
社殿の前には、御神燈と、稲荷神社らしく狐(狛狐)が置かれています。境内には、猿田彦碑などもありました。また、木の切り株の上に、小猿のような置物がちょこんとのっていたりします。



この神社の由緒等については、全く分かりません。御祭神は倉稲魂神でしょうか。楢木の小字に「用田」という地名があり、この神社の住所も楢木用田となっていて、いかにも新田の開発を思わせるような名前です。地域の開発と村中繁栄を願って建立された社なのでしょう。
境内からは、岩木山を間近に見ることができます。私が訪ねたのは先月の中旬でしたので、山頂は真っ白い雪に覆われていました。




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青森市の桑原には、「昭和大仏」で知られる青龍寺がありますが、その近くに稲荷神社が鎮座しています。
この神社の拝殿には、地元の方が書いたと思われる「桑原郷土史」が掲げられていますが、それによると、
【桑原の地名は、昔この地一帯に桑の木即ち山桑がいっぱいはえていたところから名づけられたという。小字には山崎、稲葉があり、元亀元年(一五七○年)の頃、十数件を要した部落であった。】と、その地名の由来が説明されています。
また、
【桑原方面のイゾ森は、天然のチャシ即ち砦である。・・・付近からは、縄文前期と中期の土器が出土している。】と書かれていますが、一帯には、縄文から平安へと続く遺跡があり、「桑原遺跡」と呼ばれています。この神社の境内からも平安時代の土師器などが発見されていて、「桑原稲荷神社遺跡」と名づけられているようです。

道路沿いの一の鳥居から、小高い山の上に向かって参道が延びていますが、途中には小公園もあり、下の町並みを見渡すことができます。
山頂に社殿が立っていて、御神燈や神馬、手水石、鳥居を伴った猿田彦大神の碑がありました。



この稲荷神社は、青森市内の諏訪神社の兼務社になっていますが、
【御祭神:稲荷大神 安政2年(1855)の書上帖には、稲荷宮一宇、往古建立年月不詳、享保19年(1734)より村中で五穀成就の為に再建。本社 板葺二而建坪三尺四方、覆 萱葺二而建坪弐間に四間、御神楽の儀は三ヶ年に一度執行、と記される。貞享4年(1687)の検地帳には、稲荷社地、宮無之とある。】と紹介されています。
また続けて、
【菅江真澄は「すみかの山」寛政8年(1796)4月20日に「桑原の村になれば、鯨森といふに稲荷の神籬あり。むかし鯢(くじらのこ)の寄り来しところに神をいはひまつる、飯形の社これなりといふ」と稲荷神社の由来伝承を記している。】とありますが、この神社が「鯨森」と呼ばれていたことについては、先の「桑原郷土史」にも書かれていました。

※【】は、拝殿内の説明板と諏訪神社HPからの引用です。
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先回お伝えした八代羽黒神社のすぐ近くに、石渡(いしわたり)の羽黒神社があります。詳しくは分かりませんが、この両羽黒神社が、石渡と八代町との境目になっているようです。
石渡の交差点の信号を県道37号線の方に右折した所に赤い鳥居が立っていて、田んぼに沿って参道が続いていますが、私は、八代羽黒神社からの裏道を通って境内へと出ました。
二の鳥居の注連縄は金属製の物で、境内には御神燈や狛犬などはなく、末社の祠が二つと石塔が一基立っていました。
祠は、「南無妙法蓮華経南無地蔵菩薩」と書かれたものと「愛宕山」と書かれたものですが、それぞれに石仏が祀られていました。



この神社の由緒については、全く分かりません、御祭神は隣の八代羽黒神社と同じ倉稲魂命でしょうか。
かつてはこの地に「石渡村中抱えの観音堂」があったようです。この観音堂が神社の前身だと思われますが、祠の石仏は、そんな神仏習合の名残を伝えているようです。




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津軽の神社でよく見かける「鳥居の鬼っこ」。掲げられている場所は、一の鳥居、二、三の鳥居であったり、拝殿の屋根の下であったりとさまざまですが、色や形、表情などにそれぞれ特徴があり、見ていてあきません。
平川市にも、そんな「鬼っこ」のある神社が二つあります(もっとあるのかも知れませんが、私の知っている限りでは)。
ひとつは、日沼の三社神社で、ここの鬼っこはカラフルな青鬼でした。そして、もう一社は柏木町に鎮座する八幡宮です。
石で造られた地味な感じの鬼っこですが、ちょっと寄り目の愛嬌のある顔つきで、その両肩で、重そうな鳥居を、いっしょうけんめい支えています。

柏木町の中心部にあるこの神社は、道路沿いに鎮座していて、「八幡宮」と書かれた一の鳥居、「八幡大神」の額が架かる二の鳥居、そして鬼っこのある三の鳥居と参道が続いています。四の鳥居の後ろにもうひとつ馬蹄形の鳥居があって、奥に拝殿が立っています。
境内には、狛犬と御神馬がそれぞれ数対と、手水石や石灯籠、庚申塔や青面金剛などもあり、なかなかにぎやかです。
大きなイチョウの木が数本そびえていて、境内はこんもりとした森になっています。拝殿の横に、八坂神社があり、その門には龍が刻まれていました。また、社殿のわきには、忠魂碑や地元力士の顕彰碑なども立っています。



その由緒については詳しくは分かりませんが、
【御祭神:譽田別尊 創立由緒不詳なるも、社伝に依れば、慶長六年 (一六〇一)、津軽大守藤原朝臣為信公、故ありて神鏡一面寄付の上、三間四方の社殿を建立し勧請したと云う。しかし、元和初年、社殿焼失のため神鏡一面のみ残して、縁起書宝物等は全て灰塵に帰すと云う。後に元和八年 (一六二二)、修験者義法坊、柏木の境内に小社を建てて、八幡宮を勧請したと伝えられる。 ※青森県神社庁旧HPより】とあり、長い歴史をもつ地域の産土社です。



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藤崎町の中野目の集落の西側に惣染宮があります。
訪ねる前に、地図を見て場所を確かめたのですが、よく分からずうろうろした挙句、やっとたどり着きました。
りんご畑の中を小さな農道が通っており、その傍らに赤い鳥居が立っています。扁額には「惣染宮」、社号標には「馬頭観世音庚申塚」と書かれていましたが、その名の通り、馬頭観音を祀る社で、江戸末期に立てられた庚申塔(猿田彦碑)などがあります。
境内には、鮮やかな衣装をまとった御神馬と狛犬、庚申塔が何基か立っていますが、ひときわ目を引くのが、ハリギリの大木で、樹齢等は分かりませんが、この社の御神木になっているようです。
庚申塔のそばに「馬頭観音大神」と刻まれた大きな碑があります。これは、建立300年の記念碑で、平成2年に、地域の人達の手で300年祭が執り行われ、大がかりな整備が行われたとのことです。



その由緒については、
【中野目村には「三間と四間の観音堂地があり、元禄二年(1689 年)に神職の長利太夫が勧請してお堂を建て、観音を祀った‥」という内容の古い記録があります。そして、貞享4年( 1687 年)の「御検地水帳」には、「観音堂地十二歩」の記載が見られ、ここの堂地が古くからあったということが分かります。また、村の豪農で大庄屋も務めた村上多次兵衛が、昔からの観音堂地に堂社と鳥居を建て松や杉を植えて馬頭観音を祀ったという記録も残っています。 ※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」より】と書かれています。
社殿の後ろ側にはりんご畑が広がっています。私が訪ねたときにはまだ花が咲いていませんでしたが、きっと今頃は白いりんごの花で埋め尽くされていることでしょう。



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弘前市の八代町(やしろまち)は、県道37号線沿いに位置する地区ですが、ここに羽黒神社があります。
住所はちがっていますが、この神社から歩いてすぐのところにもうひとつ羽黒神社が建っていて、境内からはその杜が見えます。
二つの羽黒神社が隣に並んで立っているわけですが、こちらは町名を冠していて八代羽黒神社となっています。
住宅とりんご畑に囲まれた所にぽつんと立つ小さな神社ですが、一の鳥居の注連縄は金属製の立派なもので、そこから参道が続いています。
境内には、狛犬や御神燈などはなく、拝殿と本殿のみ。拝殿のとなりと、一の鳥居の近くにそれぞれ末社の祠が立っているだけの、いたってシンプルな社です。
私が訪ねたときは天気も良く、白いりんごの花や境内に咲いている草花がとてもきれいでした。



御祭神は倉稲魂命で、その由緒については、
【創建は不詳であるが、宝永二年 (一七〇五年) の「社堂縁起」には「船水村羽黒権現宮、貞享三年 (一六八六年) に建立」とあり、安政二年 (一八五五年) の「神社書上帳」には「藤代組八代村、石渡村の産神羽黒宮」とあり、当時は両村の産土神社だったようである。】とあります。
津軽藩では貞享4年(1687)の総検地後、新たに行政区域25組を設置しましたが、由緒に書かれている「藤代組」もそのひとつでした。


由緒には続けて、
【明治七年、制度改正により船水鎮座少彦名神社に合祀されるも、氏子の羽黒神に寄せる熱意強く、旧六月二日の例祭日には旧社地に氏子が集り盛大なる羽黒祭を行うのを例としてきたが、終戦後俄に旧社地、社殿に還遷しようとの気運が高まり昭和二十九年旧六月一日、実現に至り再興された。】と書かれていますが、地元の人々のこの神社に寄せる崇敬の念は強いものがあったようです。


※【】は、青森県神社庁の旧HPからの引用です。HPは現在、リニューアルされて新しくなっているようです。
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岩木山麓の鬼伝説が残る弘前市鬼沢。その伝説の象徴である鬼神社へ向かう途中の道路沿いに、小高い丘があり、そこに赤い鳥居が立っています。
この道路を通るたびに気になりながらも素通りしていたのですが、今回は車を降りて立ち寄ってみました。
石段を上ると鳥居があり、その扁額には「牛頭天皇」と書かれています。地図上でも、この社は牛頭天皇社となっていました。
丘の上には小さな社殿がひとつあって、中には御神酒が供えられ、大切に祀られています。そして、社殿を囲むように、数多くの庚申塔や猿田彦碑が立っていますが、その大きさ、形、年代ともさまざまです。社殿の後ろ側はちょっとした崖になっていて、川が流れていました。
地元の方のHP「フジタ林檎園」では、鬼沢に伝わる伝説や神社の由来などについて数多く紹介していますが、私もこのHPを見て、鬼沢めぐりをしたことがありました。
この牛頭天皇社については、
【牛頭天皇は、閻魔大王の側近とされ知られています。周囲に2分する河川の地点に祀られています。その理由は、その昔、村人たちが河川から流れる水取りの争い事を避けるためとの云われがあります。・・・村人が河川から流れる「水取り」の争い事が起きないよう、閻魔大王の側近である牛頭天皇をここに配置し、監視するといった云われから、ここに現在も丁重に祀られています。】と紹介されています。


牛頭天皇社から、少し歩いた所に猿田彦神社があります。
この社もまた、川に沿った小高い丘の上にあり、たくさんの庚申塔がずらっと並んで立っています。その様子は牛頭天皇社とそっくりで、「兄弟社」といった感じです。
ひとつの庚申塔には、「言わざる、聞かざる、見ざる」の三猿が描かれていました。
この場所に多くの庚申塔や猿田彦碑が祀られていることについては、
【猿田彦神は、この地では、昔から河川の水を引く大神様として村人から信仰される云われからも祀られているようです。】とありました。
伝説では、鬼沢の鬼は、「水不足で困っている村人のために、一夜にして堰を造り、水を引いてくれた。」とありますが、この地では、農業に欠かせない水の確保を願って、鬼人、牛頭天皇、猿田彦などを祀る風習が根づいていたようです。





※【】は、前述のHP「フジタ林檎園」からの抜粋です。
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青森市合子沢の猿田彦大神から少し歩いた所に稲荷神社が鎮座しています。
坂道を歩いて行くと、道路がY字形に分かれている場所があり、そこに豪華なジャンバラ型の注連縄が張られた一の鳥居があります。
境内には、狛犬や御神燈、末社の十和田神社などが立っている他、滑り台や相撲の土俵などもあり、子ども達の遊び場や村人の憩いの場にもなっている様子がうかがえます。



この神社の由緒については詳しくは分かりませんが、寛保元年(1741)、五穀豊穣と村中繁栄を願って、合子沢村と近隣の村が共同して建立した社のようです。
以後、地域の産土社として崇敬され、明治初期には雲谷の稲荷神社などを合祭して村社となり、合子沢神社と改称。その後再び稲荷神社と称し、現在に至っています。御祭神は倉稲魂命、猿田彦大神、大宮姫神。




後で分かったことですが、この神社から200mほど離れた所に合子沢松森(2)遺跡があります。
合子沢一帯は、八甲田山の噴火によってできた台地上に立地しており、縄文時代から平安期にかけての集落跡が多数見つかっています。
それらには、「合子沢松森(1)、(2)・・遺跡」というように番号がつけられていますが、この稲荷神社の近くのものは、合子沢松森(2)遺跡です。
この遺跡は、東北新幹線建設工事に係わって発掘調査が実施されましたが、
【調査の結果、竪穴住居跡、土器埋設遺構、溝跡などの遺構や土師器や須恵器などの遺物を確認し、本遺跡は、平安時代を主体とする遺跡であることが判明した。 ※青森市教育委員会「合子沢松森(2)遺跡」発掘調査概報より】とのことです。
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桜 さくら



藤崎町に藤越という集落がありますが、その由来について次のような話が残されています。
【藤越は昔「田中萢」と呼ばれる湿地帯でした。慶長年間、細越村(現在は青森市)で開拓に励んでいた木村弥太衛門ら3人の夢枕に鹿島神が現れて、「田中萢を開拓せよ‥」と告げました。3人は勇んで開拓を進め、その土地は立派な耕地になったのでした。】
集落の道路沿いに鹿嶋神社が鎮座しています。
御祭神は武甕槌神で、境内には御神燈や狛犬、庚申塔、藤越村の由来を記した記念碑などが立っています。
社殿の横に鳥居を伴った馬頭観音堂があり、そのそばには、根元から三つに分かれた大きな御神木があります。馬頭観音堂のまわりの桜がとてもきれいでした。



その由緒については、
【慶長元年(1596年)、現在地より東側の字東一本木にお堂が建てられ、藤崎村の毘沙門宮(鹿島神社)の分霊を祀って鎮守としたのがこの神社の始まりとされます。そして明治21 年(1881年)お堂が火災で焼失し、その後現在の字西一本木に移転しました。】とあります。


由緒に書かれている「藤崎村の毘沙門宮」とは現在の鹿島神社のことですが、この社は町の中心部にあり、「坂上田村麻呂が戦勝を祝って毘沙門堂を立てた際、植えた一本の藤の木から花が咲き、一帯は藤咲(崎)村と呼ばれるようになった」といういわれをもつ神社です。
ここ藤越の鹿嶋神社は、その分霊を祀って創建された分けですが、
【その時、藤崎村の毘沙門宮の神木の藤の木から一夜にして根や枝葉が伸び田中萢に至ったので、この地を「藤越」と改め、神社を創建した。】といわれています。


※【】は、藤崎町「ふるさとの史跡散歩」を参照しました。
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☆つがるみち☆

