
藤崎町榊に鎮座する榊八幡宮を訪ねたのは、2ヶ月前のことで、桜が咲き始めた頃でした。
重そうな米俵が乗った豪華な注連縄が張られた鳥居から参道が延びていますが、鳥居をくぐった所に地蔵堂があり、その向かい側にはイチョウの木にからみついた老松などが生えています。地蔵堂のそばには、これまた注連縄が張られた馬頭観音の碑などが立っていました。



境内には、二十三夜塔と庚申塔などが置かれていますが、御神馬は赤い玉垣に囲まれ、大切に祀られていました。赤い屋根の三つの祠は、神明宮と観音堂、そして稲荷宮のようです。



この神社の由緒については、
【大字榊にある八幡宮には、品多和気命(ほんだわけのみこと ※一般的に八幡宮に祀られている応神天皇)が祀られています。この神社は、万治7年(万治は3年で改元されていることから次の年号の寛文4年-1664 年か)に、「榊村八幡堂」として村中で
お堂を新築したという記録があり、さらに慶安元年(1648 年)に新建され、神主は円太夫という人であったという記録が見られます。その後時を経て明治6年(1873 年)に矢沢の正八幡宮に合祀されましたが翌年には復社し、さらに翌年の明治8年に村社となりました。 ※藤崎町「ふるさとの史跡散歩」より】と紹介されています。
なお、本殿を囲んでいる玉垣などについては、
【明治4年(1871 年)には神殿が造られ、さらに明治43 年(1910年)、皇太子時代の大正天皇が北海道と本県に行啓されたのを記念して玉垣が造られた】とのことです。


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☆つがるみち☆



青森市の築木館(つきのきだて)については、
【江戸期までは築野木館または槻館と書いた。集落の東方の野内川左岸の丘陵端(字山ノ井)に築木館跡があり、「新撰陸奥国誌」には「館迹、本村の寅卯の方弐拾間にあり、今は畑となりて形界詳ならず」とある。】と書かれています。
さらには、
【菅江真澄は「すみかの山」の寛政8年(1796)4月20日に「槻木館といふに至る。建武のむかし、隅田の小太郎なにがしの柵のあととてあり」と記し、南北朝初期の砦跡と伝承する。現在も畑地で「タテの畑」と呼ばれるが、単郭の遺構に二重の堀跡や土塁跡が残る】とありますが、この集落に久須志神社が鎮座しています。
集落の道路から、少し山側へ小道を進んだ所に鳥居が立っていて、ひっそりとした森の中に境内があります。
境内には、狛犬や御神燈のほか、「馬頭観音様」「大石様」「山の神様」などと書かれた木柱があり、祠や大石などが置かれています。





この神社の由緒については、
【御祭神:大己貴命 少彦名命 安政2年(1855)の書上帖には、草創年月不詳、明和年中(1764~72)同村の佐次兵衛が再建、村中で維持してきた稲荷宮と薬師堂の相殿一宇、本社 板葺二而建坪弐尺四面、覆 萱葺二而建坪弐間に九尺と記されている。明治初年の神仏分離に際して久須志神社と改められた。】とありますが、古くから薬師様を祀っていた場所のようです。


拝殿の中に、集落の奥にある薬師山の絵が掲げられていましたが、その山の麓に築かれた祭壇が描かれており、昔からこの山を聖山として崇めていた様子が伺えます。この神社は、薬師山の遥拝所でもあったように思えます。

※【】は、青森市諏訪神社HP「兼務社の紹介」からの引用です。
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