Category: ふるさと【東北・青森】 > 平川市
園内に道端に


黒石市の温湯温泉の近くに上山形、下山形の集落がありますが、ここはかつて、近隣の花巻村、南中野村などとともに山形村と呼ばれていた所です。
102号線を温湯方面に向かって進んで行くと、山手の方に採石場がありますが、その近くに熊野宮が鎮座しています。私は、この神社の存在は知っていましたが、その詳しい場所が分からず、何度か引き返したことがあります。今回、やっとたどり着きました。
細い道に沿って小さな川が流れていますが、神社の入口に赤い橋が架かっていて、それを渡った所が境内です。一の鳥居には赤銅色の立派な金属製の注連縄が下がっていました。

石段を上り、参道を進んで行くと間もなく二の鳥居があり、その奥に横向きの赤い拝殿が見えます。拝殿は南向きに建っているようです。
境内には意味ありげな大きな自然石や手水舎、二の鳥居のそばと拝殿の前にそれぞれ狛犬が置かれています。本殿は拝殿を見下ろすように、一段高い場所にありました。



神社の入口付近に由緒碑が立っていますが、それには
【熊野宮の創立年代は詳かでないが伝承等では往古創建以来数百年経つといわれる。社伝に依れば貞享二年七月、下って明和、天保、慶応年間と度々堂宇の新改築を行う。八幡宮は延宝元年村中にて堂宇建立或いは元禄九年八月上山形村宅右衛門建立ともあるが、創建は、熊野宮とほぼ前後すると思われる。両社共、明治八年四月村社に被列。同四十年九月六日八幡宮を熊野宮に合祀す。 ※以下略】とありました。
なかなか古い由緒をもつ社のようですが、明治時代に八幡宮を合祀したようで、由緒碑も「熊野宮・八幡宮由緒碑」となっています。御祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、誉田別命でしょうか。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
102号線を温湯方面に向かって進んで行くと、山手の方に採石場がありますが、その近くに熊野宮が鎮座しています。私は、この神社の存在は知っていましたが、その詳しい場所が分からず、何度か引き返したことがあります。今回、やっとたどり着きました。
細い道に沿って小さな川が流れていますが、神社の入口に赤い橋が架かっていて、それを渡った所が境内です。一の鳥居には赤銅色の立派な金属製の注連縄が下がっていました。

石段を上り、参道を進んで行くと間もなく二の鳥居があり、その奥に横向きの赤い拝殿が見えます。拝殿は南向きに建っているようです。
境内には意味ありげな大きな自然石や手水舎、二の鳥居のそばと拝殿の前にそれぞれ狛犬が置かれています。本殿は拝殿を見下ろすように、一段高い場所にありました。



神社の入口付近に由緒碑が立っていますが、それには
【熊野宮の創立年代は詳かでないが伝承等では往古創建以来数百年経つといわれる。社伝に依れば貞享二年七月、下って明和、天保、慶応年間と度々堂宇の新改築を行う。八幡宮は延宝元年村中にて堂宇建立或いは元禄九年八月上山形村宅右衛門建立ともあるが、創建は、熊野宮とほぼ前後すると思われる。両社共、明治八年四月村社に被列。同四十年九月六日八幡宮を熊野宮に合祀す。 ※以下略】とありました。
なかなか古い由緒をもつ社のようですが、明治時代に八幡宮を合祀したようで、由緒碑も「熊野宮・八幡宮由緒碑」となっています。御祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、誉田別命でしょうか。



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☆つがるみち☆


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遅咲きの八重桜


黒石市高賀野(こがの)は、かつて浅瀬石城が築かれていた所です。浅瀬石城址をはじめ、集落の周辺には、寺院跡などの遺構を示す標柱が立っていますが、八幡宮もそのひとつです。

浅瀬石城については、このブログでも何回か取り上げましたが、千徳氏によって築かれた城です。
千徳氏は、一戸南部氏の一族であり、閉伊郡の千徳城を居城としていましたが、ここ高賀野の地に入部し、仁治元年(1240年)千徳行重によって築かれたのが浅瀬石城で、文安(1444年ー1449年)の頃に至って、城の全体が整ったとされています。
戦国時代になると、千徳氏は津軽為信と結託し、主家である南部氏に対抗し、津軽統一を目指しますが、やがて両者は対立し、為信軍の攻撃を受け、城は落城しました。
この八幡宮は、初代城主・千徳行重の勧請によるものとされており、代々の城主から館神として崇敬されていたそうですが、浅瀬石城址に立っている説明板 にもその名前が書かれています。



高賀野は急な坂道が続く集落で、上り坂の終点はりんご畑になっていますが、この神社は畑を見下ろす高台にありました。
入口の鳥居のそばには大きな庚申塔。境内には意味ありげな自然石と神馬、そして、愛嬌のある狛犬が一対置かれていました。


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☆つがるみち☆

浅瀬石城については、このブログでも何回か取り上げましたが、千徳氏によって築かれた城です。
千徳氏は、一戸南部氏の一族であり、閉伊郡の千徳城を居城としていましたが、ここ高賀野の地に入部し、仁治元年(1240年)千徳行重によって築かれたのが浅瀬石城で、文安(1444年ー1449年)の頃に至って、城の全体が整ったとされています。
戦国時代になると、千徳氏は津軽為信と結託し、主家である南部氏に対抗し、津軽統一を目指しますが、やがて両者は対立し、為信軍の攻撃を受け、城は落城しました。
この八幡宮は、初代城主・千徳行重の勧請によるものとされており、代々の城主から館神として崇敬されていたそうですが、浅瀬石城址に立っている説明板 にもその名前が書かれています。



高賀野は急な坂道が続く集落で、上り坂の終点はりんご畑になっていますが、この神社は畑を見下ろす高台にありました。
入口の鳥居のそばには大きな庚申塔。境内には意味ありげな自然石と神馬、そして、愛嬌のある狛犬が一対置かれていました。




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☆つがるみち☆



黒石市を流れる浅瀬石川の川沿いに貴船神社という社があります。
浅瀬石地区は、かつて浅瀬石城が築かれていた所で、城址のある高賀野集落の周辺には多くの史跡があります。
戦国時代にこの地の覇者であった千徳氏の栄華を物語るものや、その落城にまつわる史跡などは、歴史保存会の方々によって立てられた標柱によって知ることができますが、ここ貴船神社にも白い標柱がありました。

農道に沿って立っている小さな神社ですが、その歴史は古く、文明年間(1469-1486)に浅瀬石城主・千徳政久によって開創されたといわれています。
津軽では、水神を「十和田様」と呼んだり、それを祭る神社を「十和田神社」と言ったりしますが、ここもまた、かつては十和田神社と呼ばれていたということです。社殿の前には、水神を象徴する昇り龍・降り龍の石碑がありました。

御祭神は闇おかみ神で、藩政時代には、町居堰・新屋堰・猿賀堰等の水神として崇敬されました。
「町居堰・新屋堰・猿賀堰」はいずれも、浅瀬石川からの取水のために造られた用水堰ですが、江戸時代の用水管理は、地元農民が用水組合をつくり、その自治によって行うという形でした。藩で開削した用水路を農民に渡し、受益者負担で管理させるというやり方は官民一致の理想を示したものですが、実際には、用水配分の利害をめぐる農民たちの水争いが絶えず、藩政の悩みの種でもあったようです。



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☆つがるみち☆

