Category: ふるさと【東北・青森】 > 青森市
吉内稲荷神社 - つがるみち498
青森市浪岡(旧浪岡町)の吉内という所に稲荷神社が鎮座しています。
道路沿いに社号標が立っており、そこから集落の中を通り過ぎ、山側へ向かう途中、りんご畑に囲まれた所に赤い鳥居が立っています。


御祭神は倉稲魂命だと思いますが、その由緒等については詳しくは分かりません。
この稲荷神社一帯には、かつて北畠氏が築いた館があったとされており、吉内館とか北畠古城跡と呼ばれています。
北畠氏が浪岡に入部した時期については諸説ありますが、おおよそ14世紀末から15世紀初期だと言われています。当時、主家である南部氏と安東氏との対立が深まる中、対立を緩和するため、両氏の境界である浪岡に北畠氏が置かれましたが、浪岡に入部した北畠氏は北畠顕家の曽孫といわれています。
吉内は、その北畠氏が最初に入部した地であるとされ、稲荷神社境内の北東側には空堀土塁跡が残っていたといわれています。


稲荷神社らしく、境内にはこ大小二対の狛狐と狛犬が置かれ、社殿を中心にして、左側には馬頭観音堂、右側には鳥居を伴った猿田彦大神の碑がありました。


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
道路沿いに社号標が立っており、そこから集落の中を通り過ぎ、山側へ向かう途中、りんご畑に囲まれた所に赤い鳥居が立っています。


御祭神は倉稲魂命だと思いますが、その由緒等については詳しくは分かりません。
この稲荷神社一帯には、かつて北畠氏が築いた館があったとされており、吉内館とか北畠古城跡と呼ばれています。
北畠氏が浪岡に入部した時期については諸説ありますが、おおよそ14世紀末から15世紀初期だと言われています。当時、主家である南部氏と安東氏との対立が深まる中、対立を緩和するため、両氏の境界である浪岡に北畠氏が置かれましたが、浪岡に入部した北畠氏は北畠顕家の曽孫といわれています。
吉内は、その北畠氏が最初に入部した地であるとされ、稲荷神社境内の北東側には空堀土塁跡が残っていたといわれています。


稲荷神社らしく、境内にはこ大小二対の狛狐と狛犬が置かれ、社殿を中心にして、左側には馬頭観音堂、右側には鳥居を伴った猿田彦大神の碑がありました。




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☆つがるみち☆


鯵ヶ沢の海の駅「わんど」の裏手、道路を挟んだ向かい側に赤い鳥居が立っていますが、ここに神明宮が鎮座しています。
ここの住所は米町ですが、元々は本町裏町と呼ばれていました。米穀を取り扱う場所だったところから、江戸時代に米町と名づけられたといわれています。

小山に向かって、長い石段の参道が続いていますが、その途中からは鯵ヶ沢の漁港を見下ろすことができます。

松の木と下草に覆われた境内には、拝殿と本殿の他、御神塔と狛犬がそれぞれ一対置かれていました。もう少し高い場所にも古い社殿らしきものが見えましたが、行くことはできませんでした。


御祭神は天照大神と猿田彦命で、創建は寛永二年(1625)といわれ、その後、鯵ケ沢町奉行や地域の有志たちの手によって、再建されたと伝わっています。
寛政八年(1796)の7月にこの社を訪れた菅江真澄は、宵宮とねぶた祭の準備で賑わう往時の様子を書き残しているとのことです。

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☆つがるみち☆
ここの住所は米町ですが、元々は本町裏町と呼ばれていました。米穀を取り扱う場所だったところから、江戸時代に米町と名づけられたといわれています。

小山に向かって、長い石段の参道が続いていますが、その途中からは鯵ヶ沢の漁港を見下ろすことができます。

松の木と下草に覆われた境内には、拝殿と本殿の他、御神塔と狛犬がそれぞれ一対置かれていました。もう少し高い場所にも古い社殿らしきものが見えましたが、行くことはできませんでした。


御祭神は天照大神と猿田彦命で、創建は寛永二年(1625)といわれ、その後、鯵ケ沢町奉行や地域の有志たちの手によって、再建されたと伝わっています。
寛政八年(1796)の7月にこの社を訪れた菅江真澄は、宵宮とねぶた祭の準備で賑わう往時の様子を書き残しているとのことです。



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☆つがるみち☆



川代田の地蔵堂の向かい側に二十三夜塔がありますが、その隣に赤い鳥居が立っています。
住所は金山字梅ケ枝。社号標には「天満宮」と書かれていました。
学問の神様である菅原道真を祭る神社ですが、その由緒については、
【寛文八年(一六六八)の勧請と伝えられ、明治九年に村社となって現在に至っている。】ということですが、詳細については分かりません、
鳥居をくぐり、境内を目指して歩きはじめましたが、道は一本道なのに、なかなか先が見えず、不安になりました。

参道というよりも、農道を歩いているような感じで、片側がリンゴ畑になっており、真っ赤なリンゴを相手に、農家の方々が忙しそうに働いていました。木の上には大きな案山子も掲げられています。
畑の反対側は田んぼで、小川にはススキの穂。遠くに岩木山が見えました。


しばらく歩いて行くと、ようやく二の鳥居があり、その奥の林の中に境内が広がっていました。
緑に囲まれた境内には、狛犬が一対と、白壁と赤い屋根の拝殿、その後ろ側に本殿がありました。





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五所川原農林高校の裏側にあたる金山地区(旧金山村)は、大小の溜池が数多く存在する所です。
古くから川水に頼らない新田開発が進められてきた地域で、一番大きな金山大溜池は、津軽藩の新田開発初期(二代藩主・信枚の頃)にはすでに造成されていたと伝えられています。

そんな金山村の川代田という集落にも溜池がありますが、道路沿いに赤い屋根のお堂がひとつ立っています。
中を覗いて見ると、そこには前掛けをしたお地蔵様が数体並んでいました。どうやらここは地蔵堂のようです。お堂の隣には、百万遍の塚と後生車がありました。



お堂のななめ後ろに、古びた小さな祠がありました。溜池の近くということもあり、もしかしたら水神・水虎様ではないかと思い、中を見てみたら、そこに女神型の水虎様が三体祀られていました、

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☆つがるみち☆ ☆水虎様☆
古くから川水に頼らない新田開発が進められてきた地域で、一番大きな金山大溜池は、津軽藩の新田開発初期(二代藩主・信枚の頃)にはすでに造成されていたと伝えられています。

そんな金山村の川代田という集落にも溜池がありますが、道路沿いに赤い屋根のお堂がひとつ立っています。
中を覗いて見ると、そこには前掛けをしたお地蔵様が数体並んでいました。どうやらここは地蔵堂のようです。お堂の隣には、百万遍の塚と後生車がありました。



お堂のななめ後ろに、古びた小さな祠がありました。溜池の近くということもあり、もしかしたら水神・水虎様ではないかと思い、中を見てみたら、そこに女神型の水虎様が三体祀られていました、



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☆つがるみち☆ ☆水虎様☆


鰺ヶ沢町大字赤石町に貴野神社が鎮座しています。
津軽三十三霊場の8番札所である日照田観音堂に行く途中、県道ぞいに大きな石造りの鳥居が立っていて、そこから山の方に参道が伸びています。この道は何回か通っていて、この神社も気になっていたのですが、実際に立ち寄ったことはありませんでした。

道路の端に車をとめて、鳥居をくぐり、石段を上りました。すぐに境内に出るだろうと思っていましたが、どうしてどうしてかなりの距離でした。途中に赤い鳥居が何個もあり、よく整備された石段は右に左に折れ曲がって続いていました。
丘の上の境内は広いのですが、拝殿と本殿、手水舎と狛犬だけがあり、がらんとした感じです。


御祭神は軻遇突智命ですが、詳しい由緒などについては分かりません。
拝殿の中には「三社宮」と書かれた額が掲げられていて、中央の両隣には、稲荷神と岩木山神社御霊が祀られていました。


古くから地域の厚い信仰を集めてきた神社のようですが、鰺ヶ沢町の広報に次のような記事がありました。
【12月31日、赤石芸能保存会が貴野神社へしめ縄・俵奉納を行い、新年の五穀豊穣、無病息災、町内安全などを祈願しました。これは、赤石地区で古くから続く大晦日の朝の伝統行事で、翌年成人を迎える若者が約60㎏ある奉納俵を背負い、登山囃子の音色とともに町内をおよそ2㎞練り歩き、最後に貴野神社へ奉納祈願するものです。】
大鳥居の向かい側には黄金色の田んぼが広がっており、農家の方が忙しそうに稲刈りをしていました。

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津軽三十三霊場の8番札所である日照田観音堂に行く途中、県道ぞいに大きな石造りの鳥居が立っていて、そこから山の方に参道が伸びています。この道は何回か通っていて、この神社も気になっていたのですが、実際に立ち寄ったことはありませんでした。

道路の端に車をとめて、鳥居をくぐり、石段を上りました。すぐに境内に出るだろうと思っていましたが、どうしてどうしてかなりの距離でした。途中に赤い鳥居が何個もあり、よく整備された石段は右に左に折れ曲がって続いていました。
丘の上の境内は広いのですが、拝殿と本殿、手水舎と狛犬だけがあり、がらんとした感じです。


御祭神は軻遇突智命ですが、詳しい由緒などについては分かりません。
拝殿の中には「三社宮」と書かれた額が掲げられていて、中央の両隣には、稲荷神と岩木山神社御霊が祀られていました。




古くから地域の厚い信仰を集めてきた神社のようですが、鰺ヶ沢町の広報に次のような記事がありました。
【12月31日、赤石芸能保存会が貴野神社へしめ縄・俵奉納を行い、新年の五穀豊穣、無病息災、町内安全などを祈願しました。これは、赤石地区で古くから続く大晦日の朝の伝統行事で、翌年成人を迎える若者が約60㎏ある奉納俵を背負い、登山囃子の音色とともに町内をおよそ2㎞練り歩き、最後に貴野神社へ奉納祈願するものです。】
大鳥居の向かい側には黄金色の田んぼが広がっており、農家の方が忙しそうに稲刈りをしていました。

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弘前市鬼沢の山ノ越という集落に鎮座する稲荷神社です。
私は、鬼沢にある稲荷神社は、以前に訪ねた楢木の稲荷神社だけかと思っていましたが、山ノ越にもあることを知り行ってみました。
本当は集落の中に一の鳥居があり、そこから参道が続いているみたいなのですが、どうしても場所が分からず、道路沿いのりんご畑の中を歩いて境内に出ました。どうやら、神社の裏側から入ったようです。

その由緒については、
【御祭神:倉稲魂神 創建は不詳。安永年間に再建。明治6年鬼神社へ合祀。明治8年2月復社。明治43年現在地にあらためて再建。 ※青森県神社庁HP】とありますが、それ以上の詳細は分かりません。


森とりんご畑に囲まれ、社殿の赤い屋根が、ひときわ鮮やかに見える神社です。
境内には、御神燈や大きな狛狐、嘉永5年と刻まれた牛頭天皇の碑などが置かれています。
社殿の周りに、庚申塔や、一龍神社、木霊神社など数多くの碑が立っていますが、特に庚申塔は、社殿のとなりに、びっしりと配置されていました。
これら、多くの石碑は、戦前からあった周辺の庚申塔などを、現在の境内地に集めたもののようです。


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私は、鬼沢にある稲荷神社は、以前に訪ねた楢木の稲荷神社だけかと思っていましたが、山ノ越にもあることを知り行ってみました。
本当は集落の中に一の鳥居があり、そこから参道が続いているみたいなのですが、どうしても場所が分からず、道路沿いのりんご畑の中を歩いて境内に出ました。どうやら、神社の裏側から入ったようです。

その由緒については、
【御祭神:倉稲魂神 創建は不詳。安永年間に再建。明治6年鬼神社へ合祀。明治8年2月復社。明治43年現在地にあらためて再建。 ※青森県神社庁HP】とありますが、それ以上の詳細は分かりません。


森とりんご畑に囲まれ、社殿の赤い屋根が、ひときわ鮮やかに見える神社です。
境内には、御神燈や大きな狛狐、嘉永5年と刻まれた牛頭天皇の碑などが置かれています。
社殿の周りに、庚申塔や、一龍神社、木霊神社など数多くの碑が立っていますが、特に庚申塔は、社殿のとなりに、びっしりと配置されていました。
これら、多くの石碑は、戦前からあった周辺の庚申塔などを、現在の境内地に集めたもののようです。




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