鯵ヶ沢町の赤石町に貴野神社がありますが、県道沿いには、もうひとつ同名の神社があります。
館前町の小津軽沢(こつがるざわ)という集落に鎮座する貴野神社です。

真っ赤な一の鳥居をくぐると二の鳥居があり、そこから木立に囲まれたりっぱな石段の参道が続いています。


石段を上り詰めた所に社殿があり、境内には狛犬が一対置かれていました。社殿の中には、船形をした燭台などがあります。
御祭神は火之迦具土神で、その由緒については詳しくは分からないのですが、明和三年(1766)に再建されたという記録があるようです。


赤石川付近には、かつて、赤石城や赤石館、川崎館などの城(館)がありましたが、この小津軽沢にも館前館という城がありました。
築城年代などは不明ですが、大浦光信と合戦したとされる城主がいたようです。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
館前町の小津軽沢(こつがるざわ)という集落に鎮座する貴野神社です。

真っ赤な一の鳥居をくぐると二の鳥居があり、そこから木立に囲まれたりっぱな石段の参道が続いています。


石段を上り詰めた所に社殿があり、境内には狛犬が一対置かれていました。社殿の中には、船形をした燭台などがあります。
御祭神は火之迦具土神で、その由緒については詳しくは分からないのですが、明和三年(1766)に再建されたという記録があるようです。


赤石川付近には、かつて、赤石城や赤石館、川崎館などの城(館)がありましたが、この小津軽沢にも館前館という城がありました。
築城年代などは不明ですが、大浦光信と合戦したとされる城主がいたようです。



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☆つがるみち☆


先日、黒石市の目内澤(めないさわ)付近を通ったので、集落の外れにある稲荷神社に行ってみました。
両側を田んぼに囲まれた道を走って行くと、神社の手前に大きな観音様が立っている延命地蔵尊があります。

この神社については、旧青森県神社庁HPに、
【御祭神:倉稲魂命 貞享元年 (一六八四) 十一月、 村中にて建立したと伝えられているが、 そもそも古来より僅かの宮地があった所と言われている。 明治四年神社改正に付き、 同六年五月十日中郷村飛内の村社稲荷神社へ合祀したが、 その後、 同八年四月復社願いを申請の上、 拝殿並びに大鳥居を建立し、 同月十七日に復社する。】とあります。
何年か前の冬、一度訪ねたことがあり、記事にしましたが、やはり、冬場とは違った印象でした。
⇒ 以前の記事へ




実りの秋を迎えた田んぼは黄金色一色で、刈り取りも進んでいました。


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☆つがるみち☆
両側を田んぼに囲まれた道を走って行くと、神社の手前に大きな観音様が立っている延命地蔵尊があります。

この神社については、旧青森県神社庁HPに、
【御祭神:倉稲魂命 貞享元年 (一六八四) 十一月、 村中にて建立したと伝えられているが、 そもそも古来より僅かの宮地があった所と言われている。 明治四年神社改正に付き、 同六年五月十日中郷村飛内の村社稲荷神社へ合祀したが、 その後、 同八年四月復社願いを申請の上、 拝殿並びに大鳥居を建立し、 同月十七日に復社する。】とあります。
何年か前の冬、一度訪ねたことがあり、記事にしましたが、やはり、冬場とは違った印象でした。
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実りの秋を迎えた田んぼは黄金色一色で、刈り取りも進んでいました。


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☆つがるみち☆


JR油川駅周辺には、十三森熊野宮の他に、もうひとつの熊野宮があります。
十三森の社と区別するためか、こちらの神社は「伝馬町熊野宮」と呼ばれることが多いようです。
津軽藩は、寛文4年(1644)に、奥州街道と合流する油川に伝馬場を作らせましたが、これにより伝馬町ができました。
伝馬町は羽州街道の終着点であり、この先で、奥州街道と交叉することになります。熊野宮の鳥居付近に「羽州街道終点地伝馬町」という標柱があり、それには、
【江戸時代初期の寛文四年(一六六四)伝馬派立ちとして開かれ、安永七年(一七七八)には五十九軒の家があった。ここは、羽州街道の終着点であり、油川港に諸国廻船の出入りが多かった安土桃山時代から、町内で最も賑やかな町であった。】と書かれていました。


鳥居をくぐって、少し参道を進んだ所に御神木があります。
大きなケヤキの木で、樹齢は不明ながらも、樹高が15m、幹周り5.3mという、なかなか立派な大木です。

社殿までの参道は、反時計回りに続いていて、途中には、青面金剛、猿田彦大神、大田神などの碑や、池を伴った末社などが立っていました。
社殿の前には、手水舎や石燈篭、角を生やした狛犬などがあります。




その由緒は詳しくは分かりませんが、「熊野山十二所権現」を祀る社で、807年に坂上田村麿が創建したと伝えられています。
また、宮司さんの澤田家に伝わる「由緒書」には、
【澤田家の初代は「大永のころ」(1521 ~27)「西国辺りより当国へ」下り、2代目から神職を勤めています。「弘治のころ」(1555~57)北畠家の祈願所となりました。】と書かれているようです。

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☆つがるみち☆ ☆名木めぐり☆
十三森の社と区別するためか、こちらの神社は「伝馬町熊野宮」と呼ばれることが多いようです。
津軽藩は、寛文4年(1644)に、奥州街道と合流する油川に伝馬場を作らせましたが、これにより伝馬町ができました。
伝馬町は羽州街道の終着点であり、この先で、奥州街道と交叉することになります。熊野宮の鳥居付近に「羽州街道終点地伝馬町」という標柱があり、それには、
【江戸時代初期の寛文四年(一六六四)伝馬派立ちとして開かれ、安永七年(一七七八)には五十九軒の家があった。ここは、羽州街道の終着点であり、油川港に諸国廻船の出入りが多かった安土桃山時代から、町内で最も賑やかな町であった。】と書かれていました。




鳥居をくぐって、少し参道を進んだ所に御神木があります。
大きなケヤキの木で、樹齢は不明ながらも、樹高が15m、幹周り5.3mという、なかなか立派な大木です。



社殿までの参道は、反時計回りに続いていて、途中には、青面金剛、猿田彦大神、大田神などの碑や、池を伴った末社などが立っていました。
社殿の前には、手水舎や石燈篭、角を生やした狛犬などがあります。




その由緒は詳しくは分かりませんが、「熊野山十二所権現」を祀る社で、807年に坂上田村麿が創建したと伝えられています。
また、宮司さんの澤田家に伝わる「由緒書」には、
【澤田家の初代は「大永のころ」(1521 ~27)「西国辺りより当国へ」下り、2代目から神職を勤めています。「弘治のころ」(1555~57)北畠家の祈願所となりました。】と書かれているようです。

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☆つがるみち☆ ☆名木めぐり☆


青森市のJR油川駅一帯は、かつての十三森村です。
駅の入口前には、
【十三森村は、江戸時代油川組二十六ケ村中の一村で、油川村の支村。江戸後期安永七年(一七七六)に戸数三十八。・・・】と書かれた木柱が立っています。

この駅のすぐ近くに鎮座しているのが熊野宮(熊野神社)です。
御祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊で、創建年代は不詳ですが、駅の木柱には、
【熊野神社は、筆頭願主森山弥七郎で寛文十一年(一六七一)の創建。】とあります。
道路沿いに大きな木造の鳥居があり、その後ろには、昇龍と降龍が掘られた門柱が立っていますが、なぜか上に小さな狛犬がちょこんとのっています。この門から参道が反時計回りに続いていて、その奥に拝殿と本殿がありました。



境内には、狛犬や灯篭、手水舎、末社などがありますが、社殿を覆い隠すような大きな木が印象的です。


広い境内ですが、がらんとした感じの社です。
かつて、境内には今よりも木々が多く、「林」の状態だったらしいのですが、数十本切ってしまったようです。その中には、直径1m以上の大木が数多くあったのだとか。
タモや松の木はほとんど切られ、切り株が数多残されていたといわれています。また、戦時中は松から油をとったため、境内は更地状態になっていたようです・

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駅の入口前には、
【十三森村は、江戸時代油川組二十六ケ村中の一村で、油川村の支村。江戸後期安永七年(一七七六)に戸数三十八。・・・】と書かれた木柱が立っています。

この駅のすぐ近くに鎮座しているのが熊野宮(熊野神社)です。
御祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊で、創建年代は不詳ですが、駅の木柱には、
【熊野神社は、筆頭願主森山弥七郎で寛文十一年(一六七一)の創建。】とあります。
道路沿いに大きな木造の鳥居があり、その後ろには、昇龍と降龍が掘られた門柱が立っていますが、なぜか上に小さな狛犬がちょこんとのっています。この門から参道が反時計回りに続いていて、その奥に拝殿と本殿がありました。



境内には、狛犬や灯篭、手水舎、末社などがありますが、社殿を覆い隠すような大きな木が印象的です。


広い境内ですが、がらんとした感じの社です。
かつて、境内には今よりも木々が多く、「林」の状態だったらしいのですが、数十本切ってしまったようです。その中には、直径1m以上の大木が数多くあったのだとか。
タモや松の木はほとんど切られ、切り株が数多残されていたといわれています。また、戦時中は松から油をとったため、境内は更地状態になっていたようです・



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