メロンロードその6「チェスボロー号記念碑」ーつがるみち62
以前、「エルトゥールル号遭難事件」を描いたTV番組(確かプロジェクトXだったと思いますが?)を見たことがあります。1890年(明治23年)、当時のオスマン帝国軍艦「エルトゥールル号」が、和歌山県串本町沖で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件で、その時の地元民の献身的な救助活動は、その後の日本とトルコの友好関係の礎となったという内容でした。
実は、青森県にも「チェスボロー号」という船が遭難した際、地元の人々が行った救助活動の話が残されていて、事件や人間愛に満ちた人々の様子を後世へ語り継ぐため、「遭難慰霊碑」が建立されています。
亀ヶ岡から再びメロンロードに出て、高山稲荷神社を目指し、旧車力(しゃりき)村へとやってきました。何回かご紹介しましたが、一帯には沼や池がとても多いのですが、この近くにはあの平将門にまつわる話が伝わる池があります。【承平の頃、ここに城を構えていた将門の側仕えの女人が池で袴を洗っていたとき、あやまって自分も池に落ちて死んでしまった。以来、「袴形池」という。」という話や、【将門の愛用の牛が、突然ものに恐れて、池に飛び込んで死んでしまった。以来、「牛潟」という。】など、池の名前の由来が伝えられています。
この牛潟池から少し進むと間もなく高山稲荷神社の鳥居 が見えてきますが、その手前に「高山小公園」があり、そこに「チェスボロー号記念碑」が建っています。
⇒付近の地図
小公園には展望台が設けられていて、壁には「チェスボロー号」 が刻まれていました。
さて、この遭難のあらましと記念碑建立のいきさつは次のようなものです。
【明治22年(1889年)10月30日の早朝、つがる市車力沖合300m付近で折からの暴風によって座礁した一隻の巨船が牛潟の漁民によって発見され、風速63mの嵐の中、決死の救出活動で乗組員23人中、4人の船員を奇跡的に救助。3日後、奇跡的に助かった4人は無事にアメリカに帰国しました。助けた当時の村人たちの心にも、助けられた乗組員たちの心にも大きな感動が生まれました。その船名はチェスボロー号、アメリカメーン州バス市の船籍。国境を超えた勇気と愛の人間ドラマは感動と共に語り継がれ、旧車力村とアメリカメーン州バス市は、積極的に交流が行なわれるようになりました。それを記念しチェスボロー号記念碑が出来ました。※Web「津軽なび」より 】
悪天候の中、荒海に飛び込み、何時間も粘り強く救助にあたった者、貧しい中から互いに食料を持ち寄り、温かい味噌汁やおにぎりをつくる者など、村人が一体となって救助活動に努めたとされています。ある婦人は、自らの肌で遭難者を温め、見事に蘇生させたといわれており、その姿はまるで「天女」のようだったと語り継がれています。
展望台から奥の方へ進んだところに遭難慰霊碑 があります。十字架は命を落とした19名の慰霊碑。 そのそばに、木造の顕彰碑 が建っていますが、これには歯を食いしばって走っている二人の若者の姿が描かれています。台座に説明書きがありました。 二人は村一番の健脚といわれた若者で、村から青森まで約64kmを一気に走り抜け、県庁に遭難事件を伝えたとされています。「使命感」のなせる技でしょうか。。
ところで、この出来事をきっかけに、車力村とバス市の国際交流が始まった分けですが、100周年にあたる平成2年(1990年)から、ひとつのイベントが始まっています。遭難した船の名前から「チェスボローカップ」と名づけられたこの「水泳駅伝」は、「車力村とバス市の直線距離10,200km」に、毎年の参加者が泳ぐ距離を累計して到達させようというものです。キャッチフレーズは「勇気と愛は海を越える」。
今では日本国内はもとより、世界各国からも参加者が集まり、つがる市の夏の大イベントとなっているようです。
実は、青森県にも「チェスボロー号」という船が遭難した際、地元の人々が行った救助活動の話が残されていて、事件や人間愛に満ちた人々の様子を後世へ語り継ぐため、「遭難慰霊碑」が建立されています。
亀ヶ岡から再びメロンロードに出て、高山稲荷神社を目指し、旧車力(しゃりき)村へとやってきました。何回かご紹介しましたが、一帯には沼や池がとても多いのですが、この近くにはあの平将門にまつわる話が伝わる池があります。【承平の頃、ここに城を構えていた将門の側仕えの女人が池で袴を洗っていたとき、あやまって自分も池に落ちて死んでしまった。以来、「袴形池」という。」という話や、【将門の愛用の牛が、突然ものに恐れて、池に飛び込んで死んでしまった。以来、「牛潟」という。】など、池の名前の由来が伝えられています。
この牛潟池から少し進むと間もなく高山稲荷神社の鳥居 が見えてきますが、その手前に「高山小公園」があり、そこに「チェスボロー号記念碑」が建っています。
⇒付近の地図
小公園には展望台が設けられていて、壁には「チェスボロー号」 が刻まれていました。
さて、この遭難のあらましと記念碑建立のいきさつは次のようなものです。
【明治22年(1889年)10月30日の早朝、つがる市車力沖合300m付近で折からの暴風によって座礁した一隻の巨船が牛潟の漁民によって発見され、風速63mの嵐の中、決死の救出活動で乗組員23人中、4人の船員を奇跡的に救助。3日後、奇跡的に助かった4人は無事にアメリカに帰国しました。助けた当時の村人たちの心にも、助けられた乗組員たちの心にも大きな感動が生まれました。その船名はチェスボロー号、アメリカメーン州バス市の船籍。国境を超えた勇気と愛の人間ドラマは感動と共に語り継がれ、旧車力村とアメリカメーン州バス市は、積極的に交流が行なわれるようになりました。それを記念しチェスボロー号記念碑が出来ました。※Web「津軽なび」より 】
悪天候の中、荒海に飛び込み、何時間も粘り強く救助にあたった者、貧しい中から互いに食料を持ち寄り、温かい味噌汁やおにぎりをつくる者など、村人が一体となって救助活動に努めたとされています。ある婦人は、自らの肌で遭難者を温め、見事に蘇生させたといわれており、その姿はまるで「天女」のようだったと語り継がれています。
展望台から奥の方へ進んだところに遭難慰霊碑 があります。十字架は命を落とした19名の慰霊碑。 そのそばに、木造の顕彰碑 が建っていますが、これには歯を食いしばって走っている二人の若者の姿が描かれています。台座に説明書きがありました。 二人は村一番の健脚といわれた若者で、村から青森まで約64kmを一気に走り抜け、県庁に遭難事件を伝えたとされています。「使命感」のなせる技でしょうか。。
ところで、この出来事をきっかけに、車力村とバス市の国際交流が始まった分けですが、100周年にあたる平成2年(1990年)から、ひとつのイベントが始まっています。遭難した船の名前から「チェスボローカップ」と名づけられたこの「水泳駅伝」は、「車力村とバス市の直線距離10,200km」に、毎年の参加者が泳ぐ距離を累計して到達させようというものです。キャッチフレーズは「勇気と愛は海を越える」。
今では日本国内はもとより、世界各国からも参加者が集まり、つがる市の夏の大イベントとなっているようです。
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