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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

軍師の眠る寺「誓願寺 3」ーつがるみち81

 大河ドラマ「軍師官兵衛」も始まりましたが、たまに書店に行くと、官兵衛をはじめ、軍師を描いた本や雑誌をよく目にします。中国では劉邦と張良、劉備と孔明、我が国では後醍醐天皇に楠木正成、武田信玄と山本勘助、秀吉に半兵衛と官兵衛、上杉景勝と直江兼続・・などなど、「軍師」を扱った戦記物の人気は衰えないようです。
 実は、戦国時代の津軽にも為信に仕えた名軍師がいました。名前は沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)。 ー ここ誓願寺は、その面松斎の墓所があるお寺です。

「沼田面松斎」・・私もよく知りませんでした。山門の前にこの人物についての説明板
説明板
がありました。【・・(津軽為信と)前世からの宿縁に結ばれていたかのように、固い主従の契りを結んだ軍師沼田面松斎は鬼謀秘計を駆使し、津軽平定という夢の実現に尽力した。尚、易学、風水、密教などの該博な知識を活かし、地方の一大名には過ぎた程の堅固にして壮麗な城と城下町の縄張りを果たした。】
 何とも格調高い紹介文ですが、その述べるところによると、津軽為信の津軽統一を支え、弘前城及び城下町・弘前の礎を築いた人物だったようです。

沼田面松斎の石像
 

 本堂の手前に面松斎の石像が建てられています。
 この石像は、弘前城築城400年祭及び面松斎の400回忌にあたる平成23年に、その功績を讃えて建てられたものです。同時に「顕彰会」
顕彰会 ※地元紙『東奥日報』記事より
も開催され、多くの人々が面松斎の墓前で焼香したようです。
 それにしても、石像とはいえ威厳のあるこの表情・・
面松斎石像
いかにも「軍師」という感じです。

 さて、沼田面松斎は上野国(群馬県)出身で、名前は祐光(すけみつ)といい、細川藤孝に仕えましたが、その後、浪人となり、名を面松斎と改めて津軽の地に流れつき、永禄11年(1568年)に津軽為信に仕官したとされています。
 武田流軍学の大成者で陰陽道や易学に通じ、諸国の事情にも詳しかった人物であり、卓越した軍略で為信を支えた・・とされていますが、その活躍の記録はほとんど残っていないため、実像はよく分かっていません。主の影となって働く「軍師」という役目柄、記録に残らないのは当然なのかも知れません。

 以前、堺屋太一さんが豊臣政権のナンバー2であった豊臣秀長(秀吉の弟)について語っていた番組を見たことがあります。その中で堺屋さんは、秀長の事績を記した物が数少ないことにふれ、「それこそが(記録が少ないこと)、秀長が偉大な補佐役であったことを示している。全てを兄・秀吉の手柄とし、黒子に徹していた証拠だ・・秀長の活躍は、後の秀吉の出世ぶりをみると分かる。」という意味のことを述べていました。
 ー 沼田面松斎が為したこともまた、為信の津軽統一のための戦いをみると分かってくることなのかも知れません。 

津軽太平記


 このような半ば「謎に包まれた」面松斎と為信が支え合って津軽家を興す過程を描いた本が、獏不次男さんの『津軽太平記』です。為信と面松斎の活躍が生き生きと描かれています。
 津軽為信は策略に長けた武将だといわれています。大仏ケ鼻城(石川城)の石川高信を攻めたときは、自分の城・堀越城
堀越城
を修理すると称して着々と軍備を拡張してみたり、先回お伝えしたように大光寺城攻めは正月元旦の奇襲。また、浪岡城攻略にあたっては領内に流言を放ち、人心の離間をはかって分裂を誘ったともいわれています。
 こうして、天正13年(1585年)には津軽統一を成し遂げる分けですが、その卓越した戦略は、面松斎に負うところが大きかったのかも知れません。

 その後、天下人・秀吉の「奥州仕置」の際に為信は本領安堵を願い出ますが、南部氏の反対もあり、危機に陥ります。『津軽太平記』には、このとき、その広い人脈を通じて奔走し、所領安堵をもたらした面松斎の姿が描かれています。
 余談ですが、為信父子はこのときの秀吉の裁定やそれをとりもった石田三成に深く感謝し、弘前城の「館神」として秀吉の木像
秀吉の木像
を祀ったり、三成の遺児を津軽に逃したりして恩義に報いています。
 一方、津軽家では家康の養女・満天姫
長勝寺・満天姫霊屋
を2代目・信枚の室に迎えるなど、徳川家との結びつきを深めていく分けですが、面松斎は、あの天海僧正と刎頸の友でもあったといわれており、津軽家と江戸幕府をつなぐパイプ役でもあったようです。
 こうしてみると、沼田面松斎は、豊臣・徳川政権下における津軽家繁栄の基礎を築いた人物であったともいえそうです。

誓願寺本堂


 沼田面松斎の墓所は本堂の裏側にあり、そこには大きな墓碑が立っていました。
沼田面松斎の墓所

 石像の側の説明板には次のように書かれています。【・・授けられた戒名は「清光院殿面松斎大居士」。院殿大居士の号は、藩主にしか許されない格式の高いものである。】 ー 近づくと、その戒名が
沼田面松斎の墓碑
はっきりと見えました。

  ー 次回は、沼田面松斎と弘前城築城を取り上げてみたいと思います。

                               ☆つがるみち☆
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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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