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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: つがるみち  

先代供養その2「袋宮寺」ーつがるみち86

 弘前藩の3代藩主・津軽信義はわずか13歳で家督を継いだこともあり、譜代の家臣達との対立も多く、船橋騒動や正保の騒動

船橋騒動・正保の騒動


船橋騒動

寛永11年(1634年)、3代藩主信義の時に起こったお家騒動。2代藩主信枚の側室・辰姫は藩の飛び領地上野国大舘で暮らしており、3代藩主となる信義も大舘で産まれ育った。その時乳母となったのが旧宇喜多秀家家臣・船橋半左衛門の妻である。
元和9年(1623年)に辰姫が死去したため信義は江戸弘前藩邸に引き取られ、信枚の死後寛永8年(1631年)に13歳で藩主となった。それに伴い信義が幼少の頃から近侍していた船橋半左衛門親子の権力がにわかに強力となる。藩内では元々古参の譜代家臣と新参者の家臣の間に対立が生じており、これを契機に新参家臣らが船橋半左衛門に集まって対立は決定的となった。
寛永11年(1634年)7月、信義は3代将軍徳川家光の上洛に同行、翌月江戸藩邸に帰りつく。この時譜代派の家臣が江戸の町家に立て篭もり「船橋半左衛門らの放逐」を藩に求めた。藩は説得にあたったが失敗、結局幕府が介入し藩主信義、船橋派の代表、譜代派の代表らを喚問して騒動解決をはかった。


正保の騒動

正保4年(1647年)、3代藩主信義を強制隠居・嫡子信政を廃嫡させ、信義の異母弟で幕府旗本の信英を藩主に擁立しようとする主君押込の企てがあった。計画段階で信義へ密告があり大きな騒動となる前に防がれている。(この密告者が信英の弟・津軽百助信隆だとされている。)異母弟や妹婿も処罰したが、信英については関与が明らかでないことやすでに旗本の身分であったことなど信義自身が信英に好意的であったことからなにも咎められなかった。

                    ~wikipediaより~
などのお家騒動に見舞われています。また、一度言い出したら自説を曲げない典型的な「津軽のジョッパリ」で、乱行も多く、どちらかというと「暗君」のイメージが強い殿様です。次の4代・信政が「中興の英主」と言われるほどの「名君」であったために、よけいにそう思われているのだと思います。
 ですが、信義は歌人としても有名で、和歌集を残すほどであったし、絵画に対する才能もかなりのものであったといわれているほか、一説には「津軽三十三霊場」の創始者ともいわれています。また、十三湖の水戸口の工事、鉱山の開発、新田開発などを推し進め、藩の財政を豊かにし、当時の弘前藩の実高は10万石を越えていたとされていて、続く信政の「善政」の土台は信義によって築かれたともいえそうです。
 信義は明暦元年(1655年)に亡くなりますが、4代・信政が、その供養のために造らせたのが弘前市・袋宮寺(たいぐうじ)にある「十一面観世音菩薩立像」です。

袋宮寺山門


 袋宮寺は「那智山袋宮寺」と称し、先回取り上げた「熊野宮」の別当として樋口村(現・樋の口町)にあり、報恩寺・神宮寺・薬王院
報恩寺(弘前市)・神宮寺(平川市)・薬王院(弘前市)
と共に「津軽天台四山」に数えられていましたが、明治の神仏分離により、現在の地に移ってきたものです。
 また、当初は「津軽三十三霊場」の1番札所でしたが、その後、江戸時代中期の頃に霊場の番付が見直され、現在は札所を退いています。境内には、そんな名残りを示すように西国三十三観音
西国三十三観音
が奉安されています。こちらは地蔵堂。
地蔵堂
中には化粧地蔵や閻魔様の像
地蔵堂の中
が納められています。境内の観音様や地蔵様はいずれも色鮮やかな頬被りをしていました
境内の観音様・お地蔵様


袋宮寺本堂


 本堂は、すぐ近くの報恩寺の末寺であった「無量院」という観音堂でしたが、袋宮寺の移転に伴い、新たにその本堂となったものです。当時の法恩寺周辺には大伽藍が立ち並び、弁天宮や阿弥陀堂もあったといわれていますが、この「無量院観音堂」もそのひとつで、延宝5年(1677年)頃の建立と伝えられています。
 法恩寺は、4代・信政が父・信義の菩提を弔うために建立したお寺ですが、同じく供養のために十一面観音像を本尊として、この無量院に安置した分けです。五間四方という小規模な建物ですが、均整のとれた美しい堂宇で、「境内仏堂」と呼ばれるこの種の建築では、県内において、七戸町の見町(みるまち)観音堂
見町観音堂
に次いで古いものだとされています。

十一面観世音立像


「観音堂」と記された入口
袋宮寺本堂
の戸を開けると、巨大な観音様が目に飛び込んできます。はじめはお腹の辺りしか見えないのですが、目を上に向けると、その大きさが実感できます。この十一面観音像について袋宮寺のHPでは次のように紹介しています。
【・・この御尊像は、延宝五年(1677年)に津軽四代藩主信政公が、父信義公の菩提を弔うために弘前城内の老木を使用し、悲願をこめて作らせたものであるとされ、地方においては稀に見る大作です。頭部には11の面があり、丈は1丈9尺6寸(6.15メートル)、肩幅5尺、天衣の裾幅7尺3寸、水瓶2尺5寸、輪光の直径6尺3寸となっています。胴は一木を前後に割って内部をくり抜いて側面で合わせ、頭部と両腕は金具で取り付け、全身を漆と金箔で仕上げており、作者は不明ですが江戸時代作の代表的なものと見られます。※袋宮寺HPより

 古来、人々から「背高観音様」と呼ばれ、篤く信仰されてきた観音様ですが、当時、5万石にも満たない小藩であった弘前藩がこのような大観音像を安置したことについては、幕府の目を憚るところもあったようです。 
ー この観音像、大きさもさることながら、その「荘厳さ」には圧倒されます。
   ⇒十一面観世音菩薩立像(画像複数)

 この6m以上という「背高観音」に合わせるためでしょうか、本堂の天井はとても高く、そこには天女が描かれていました。
天井に描かれた天女
また、壁面には、観音様と上人様を真ん中にして円く輪になった人々を描いた額(法話の様子でしょうか?)
観音様と人々
も掲げられており、信仰の深さが感じられました。
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