となりのまちー弘前市「堀越城址」


浅瀬石城

そして 石川城

と、津軽の戦国時代の城址について、拙いながら述べてきたので、津軽為信を中心とした「津軽戦国史」を自分なりにまとめてみようと思いました。今日、訪ねたのは 堀越城址

です。為信の津軽統一の過程(即ち、南部氏の支城を攻略した過程)を挙げてみると、元亀2年(1571年)に石川城(現弘前市)、和徳城(現弘前市)と大光寺城(現平市)を天正3年(1575年)、天正6年(1578年)には浪岡城、天正13年(1585年)には油川城・横内城(いずれも現青森市)と田舎館城(現田舎館村)、そして、天正16年(1588年)には飯詰高楯城(現五所川原市)を攻略して津軽地方を統一しました(その後、同盟を結んでいた浅瀬石城の千徳氏と不和になり、1597年に攻め滅ぼしました)。こうしてみると、中央では織田信長による比叡山焼き討ち、本願寺や一向一揆との戦い、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、そして本能寺の変の後の山崎の合戦、豊臣秀吉の天下統一など、正に、信長~秀吉の時代(安土桃山)に、ここ津軽にも、し烈な覇権争いがあったことが分かります。
さて、ご紹介する「堀越城」は為信によって攻略された城ではありません。為信の津軽統一の中心となった城であり、ここを拠点として、津軽統一がなされたのです。-為信は謀略と奇襲が得意で、石川城、大光寺城、浪岡城といずれも機略を用いて落城させています。その策略の多くが、この城で語られたのかも知れませんね。。 しかし、為信が家康側として関ヶ原の戦いに参陣中、石田方の勝利を信じて謀反を起こした武将もあり、為信はこの平定に苦労しました。ー関ヶ原の戦いにおいて、為信は、徳川方、石田方の双方に勢力を分散したといいます。あの真田家と同じですね。お家大事ということですよね。- さらに慶長7年(1602年)、為信が嫡孫である大熊(当時3歳)の顔に誤って大火傷を負わせてしまった時、家臣が堀越城の本丸・二ノ丸・三ノ丸へ襲撃したりするなど、不穏な事件が相次いだために、堀越城は居城として不備があると感じ(俗な言い方をすれば縁起が悪い)、慶長16年(1611年)、高岡城(後の弘前城)を築き、居城を堀越城から移しました。それにより、堀越城は廃城になったのです。
現在は熊野神社の境内となっていますが、境内に入ると、そこは主郭らしいつくりや土塁が積み上げられていて、空堀の跡も残っています。昭和60年(1985年)11月に国史跡指定を受け、現在は、史跡公園として整備するために、継続して発掘調査が行われています。
☆津軽統一までのあゆみ☆
そんな堀越城址を訪ねてきました。⇩
堀越城本丸付近!
堀越城外周!

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