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Category: バーチャル旅行記 > 近畿  

バーチャル旅行記ー「安土城」

  織田信長といえば安土城、安土といえば信長、あの「卑弥呼と邪馬台国」と同じように、信長と安土城は切っても切れない関係ですね。安土城は、1576年に築城が開始され、1579年に信長が移り住み、1582年(天正10年)6月15日、本能寺の変のあおりを受けて焼失しています。その間わずか3年間、信長の居城だったわけです(城郭全ての工事が終わったのは、1581年9月のこととされていますので、その時から数えると、たったの9ケ月)。そういった「城としての生命の儚さ」「幻の城」として、私たちを惹きつけるのだと思います。さて、この安土城について、多くの人が知りたいと思うことは、次の3点ではないでしょうか。
(1)なぜ安土に城が築かれたのか?(2)安土城はどんな城だったのか(外郭、内部の構造など)?(3)なぜ焼失したのか(誰がどんな理由で燃やしたのか)?
 安土に信長が新城を築いた理由としては、①安土は、東西の陸路が通り、交差する交通の要所であったこと。②琵琶湖や瀬戸内、大阪からの水路の便が良い地であったこと。③故郷の尾張から近かったこと。 ④京の都(京都)から近かったこと。などが挙げられています。信長は他の武将のように、ひとつの城に固執せず、清州、小牧山、岐阜と、居城を移していますが、そんな信長にとって、安土は「天下布武」を目指す上で、ぴったりの地だったのではないでしょうか。特に「京に近かったこと」は大きな意味をもっていると思います。当時の信長は、自身の官位の件、天皇の後継者の件、暦の問題などで、朝廷と対立していました。そんな朝廷との駆け引きの上でも安土は便利だったと思います(つかず離れず、近いけれども京の内ではない、かといって遠くもなく、事あればすぐに囲める、睨みをきかせられる、という絶妙の距離)。朝廷にとっては、喉元を抑えられた感じだったかも知れませんね。
 安土城の様子については、近年の発掘調査の結果、多くのことが分かってきています。五層七階、我が国初めてといわれる天守閣(安土は天主閣と呼ぶ)をもつ豪華絢爛な大城郭だったと伝えられています。以前、NHKスペシャル『信長の夢「安土城」発掘』という番組の中で、各階の造りがCGで詳しく紹介されていました。番組を見て、びっくりさせられたのは、中に「吹き抜け」の空間があったということです。斬新な造りの反面、火をつけられたらひとたまりもないこの「吹き抜け構造」については、映画『火天の城』でも取り上げられていました。また、城郭の中に御所の清涼殿を模した建物があったらしいということ。これは、安土に天皇を迎えるための「御幸の間」だといわれています。ただ、この御幸の間は、天守閣から見下ろす位置にあり、そのことからも信長の朝廷に対する意思が伺えるとされています。こうした造りが本当だったとすれば、安土城は、戦いに備えた「軍事施設」というよりも、信長の「権威の象徴」としての役目を負わされた城、といえるのではないでしょうか。
 作家の井沢元彦さんは、『逆説の日本史ー10戦国覇王編・天下布武と信長の謎』(小学館)の中で、安土城は信長の思想を表現した城であり、後に新城を大坂に築くつもりであった、と述べています。信長がそう考えていたという記録はありませんが、その後、秀吉が大阪城を築いたのは信長のアイデアを基にしたものだといわれています。秀吉にとって信長はいろんな意味で「師匠」だったのですね。当時、大坂の中心部には石山本願寺があり、信長と激しく敵対していましたが、戦いの背景にはそんな理由(本願寺の地がほしかった)もあったのでしょうか。
 さて、この安土城が「なぜ焼失したか」について、一般的には「信長の次男信雄は、愚かだったので父親の名城に火をかけた」という説や、明智光秀の娘婿の秀満(明智左馬之助光春)が放火したという説が取り上げられているようです。二人とも、山崎の合戦後、相次いで安土城に入城しているので、そう思われてきたのでしょう。しかし、信雄については、何といっても息子であり、しかも長男の信忠が亡き後、安土の主におさまるのは、順序からいって信雄自身であることなどから、火をかける理由がないとされているし、一方、秀満は、主君光秀の山崎での敗戦が伝えられると、ただちに坂本城へ引き上げ、炎上した当日は安土にいなかったという事実や、坂本城が落城する際、城中の名品を灰にするのは忍びないといい、寄せ手側に引き渡したという行為からして、「そんな心配りのできる者が、天下の名城安土を焼くはずがない」と考えられているなど、二人の”放火”を否定する意見も数多くあります。要するに、炎上の真相は詳しく分かっていません。
 この安土炎上について、工藤健策さんは、その著書『信長は本当に天才だったのか』(草思社)の中で、次のように述べています。ー「安土城は歴史上の建造物として現代では大きな意味をもつが、当時の武将にとって、金箔と朱で”キンキラ”に飾られた天主が名品としての価値をもっていたとは思えない。」- ”キンキラ”はともかく、天下統一が進んでいたとはいえ、まだまだ混乱期にあった当時の武将たちが、「城」に求めたものは「守るに適した堅固さ」だったと思います。そういう意味からすれば(そういう彼らの価値観からすれば)、安土城は、「異質な」城郭だったのではないでしょうか。ですから、誰が燃やしたにせよ、私たちが感じる”もったいない”という気持ちとは、少しかけ離れていたのかも知れません。
 それにしても、琵琶湖の湖畔にそびえ立つ安土城の壮麗な姿を見てみたかったですね。残念ながら、私はまだ、安土城址を訪れたことはありません。「いつの日にか・・・」とは思っていますが。。。



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 しばらく記事を更新しないままに八月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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