となりのまちー弘前市「貞昌寺」


を訪ねてきました。辰姫は、1598年、豊臣秀吉が亡くなった後に、高台院(北政所=ねね)の養女となっていました。ー高台院は、淀殿や三成との敵対心から東軍側についたとされていますが、この三成の娘を養女にしたり、側近に西軍側の関係者が多かったりしたことから、必ずしも「東軍寄り」ではなかったのではないか?ともいわれています。高台院にしてみれば、天下の行く末よりも、秀吉と自分が築き上げた豊臣家の安泰が第一であり、そのために東、西を問わず、あらゆる人脈を探っていたのではないでしょうか。ー
さて、辰姫は、関ヶ原の戦いの後、兄重成と共に津軽に下り、津軽家の庇護を受けて暮らしていましたが、慶長15年(1610年)頃、二代藩主津軽信枚に嫁ぎます。二人はとても仲睦まじい夫婦であったといわれています。辰姫にしてみれば、ようやく安住の地を得た思いでいっぱいだったのではないでしょうか。しかし、そんな幸せもつかの間、北の守りを重視する徳川幕府は、慶長18年(1613年)、家康の養女である満天姫(まてひめ)を信枚に降嫁させます。こうして満天姫が正室となったため、辰姫は側室に降格となり、上野国大舘に移されます(そのため大舘御前と称された)。ところが、信枚は参勤交代の際には、必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、やがて、長男信義(のぶよし)が誕生します。辰姫はそれから数年後、32歳でこの世を去りますが、残された信義は、津軽家に引き取られ、育てられます。信枚は、「自分の嗣子は信義」という強い意志をもっており、反対する家臣の意見を断固として拒んだといわれています。辰姫への思いがよほど深かったのでしょうか。三成の津軽家に対する恩義に報いようとする気持ちが強かったのでしょうか。ーこうして、信義は三代目の藩主になります。つまり、三成の孫が藩主になったわけです。
ところで、辰姫が移された上野国大舘は、関ヶ原の戦いの戦功として加増された津軽藩の”飛び地”であり、旧尾島町(現群馬県太田市)の地域が大半を占めていました。ここには津軽藩とのつながりを感じさせる史跡が数多くあり(私はまだ行ったことはありませんが)、東楊寺境内には、辰姫のお墓もあります。このお墓はその後、信義の手により貞昌寺に改葬され、現在に至っています。
そういった歴史事情もあり、尾島町と弘前市は、平成3年に友好都市になっています。弘前市といえば「ねぷた祭り」で有名ですが、昭和61年に弘前ねぷたが初めて尾島の夏祭りに出陣したのをきっかけに、 「尾島ねぷた」が開催されるようになり、祭り期間中は、たくさんの観光客で賑わっているということです。これも、辰姫が結んだ”縁”でしょうか。
さて、私が訪れた貞昌寺は、津軽為信が生母を弔うために建立した浄土宗のお寺です。近代的な寺院の境内には、辰姫(荘厳院)の他、為信と信枚の生母、為信の息女が埋葬されています。私は、庫裡で辰姫のお墓の場所を聞きましたが、「寺の裏に四つの大きな墓があるところ。」と教えてもらいました。この四人のお墓のことだな、と思い、その場所へ行ってお墓に手を合わせました。残念ながら「荘厳院」という墓碑銘は確認できませんでしたが。。。
この貞昌寺には、 「一文字の庭」と呼ばれる有名な庭園があるので入ってみました。広大な庭園の景色は、とても美しく、紅葉の頃にもう一度来てみたいなと思いました。
☆津軽統一までのあゆみ☆
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☆こちらもどうぞ。 ⇒ 貞昌寺庭園「一文字の庭」!
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