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Category: ふるさと【東北・青森】 > 西目屋村   Tags: つがるみち  

謙信への思い「広泰寺と不識塔」-つがるみち161

 「戦国時代で一番好きな武将は?」と問われれば、迷うことなく「上杉謙信」と答える私ですが、残念ながら未だに謙信ゆかりの地を訪ねたことはありません。ずっと昔に米沢の上杉神社に出かけたことはありますが、春日山城とか川中島古戦場など、行ってみたいと思ってはいるのですが。。
 そのかわりに・・・という分けでもないのですが、西目屋村に、深く上杉謙信を敬愛した?人物が建てた寺院と塔があるということなので、訪れてみました。


広泰寺①


 寺院の名前は「広泰寺(こうたいじ)」、塔は「不識塔(ふしきのとう)」といいます。
 以前、記事で取り上げた乳穂ヶ滝や鹿嶋神社を通り過ぎ、暗門の滝方面へと進んで行くと、目屋ダム(美山湖)が見えてきます。さらにさかのぼったところに川原平という集落・・ここにそのお寺と塔
周辺の地図
が建っています。
 少し道に迷いましたが、何とか目的地に着きました。ここに「弘前大学白神自然環境研究所」
「弘前大学白神自然環境研究所」
という建物がありますが、一帯は植物園になっており、この研究所が管理しているようです。ここに車を停めて入園届を書き、いざ、出かけようとした時に、管理人の方が「出るかも知れないから、一応、これを着けて行きなさい。」と言って、渡してくれた物は熊よけ用の鈴
熊よけ用の鈴
でした。

 研究所のそばに道案内板
道案内板
が立っていましたが、まずは広泰寺へ。100m程歩くと、木々の間から、その建物は見えました。少し離れたところから見ると、その造りは「お寺」という感じがしますが、近寄って見ると、茶色いレンガ造り・二階建ての姿形は洋館のようでもあり、不思議な感じのする寺院です。

 この広泰寺は、明治44年(1911)に完成した分けですが、建てたのは「斎藤主(さいとうつかさ)」という人物です。
 斎藤主は、万延元年(1860)に弘前市で生まれましたが、17歳の時に上京し、その後、北海道に渡って役人生活を送りながら、英語や測量学、天文学などを習い、その知識を生かして北海道の奥地から千島、国後などの調査・測量に従事したとされています。その後、全国各地で土木事業に従事した彼は、明治35年(1902)に独立し、弘前で土木建築請負業を始めました。
 明治35年という年は、あの悲劇の「八甲田雪中行軍」が行われた年ですが、この年はまた、冷害による大凶作の年であったといわれています。特に、西目屋村の惨状はひどく、「村人は米も麦はもちろんソバや豆まで食べ尽くし、ワラビの根を掘って食いつないだ」とされています。
 村人たちの窮状を見かねた斎藤は、村を救わんがために立ち上がり、水路のトンネル工事を起こし、動員された村人に日当を支払うようにしました。生活に困り切っている村人は喜んで働いたといわれています。さらには、村の原野の開墾や植林などを手がけ、篤志家として尊敬を集めたとされています。

 斎藤は、晩年には仏門への関心を深め、横浜市鶴見にある總持寺管長・西有穆山(にしありぼくざん)の下で参禅・修行を行っていましたが、その西有管長から「山形県米沢にある広泰寺が住職無住になっていて誠に惜しい」という話を聞かされます。 
 広泰寺は元々は戦国武将・上杉謙信が開基したもので寺格は非常に高く、上杉家では代々寺領を与えて保護していましたが、斎藤が米沢に出向いた時には既に荒れ果てて修復出来ない程の状態になっていたといわれています。それを見た斎藤は、寺格をそのまま譲り受けて寺を移転させようと考え、自ら住職の資格を得て広泰寺を西目屋村に再建する事を決心したという分けです。

 - 斎藤主が、謙信をどのように思っていたのかは定かではありませんが、「高潔な人格をもった義の人」で「仏門の求道者」でもあった謙信の姿に己を重ね合わせようとしていたのではないでしょうか。

◇広泰寺

 
広泰寺②
広泰寺③
広泰寺④
広泰寺⑤
広泰寺⑥



不識塔①


 そんな謙信への傾倒を示すように、斎藤は翌1912年に「不識塔」を建てます。
 名前は、もちろん謙信の法号「不識庵」からとったものですが、「不識」とは、梁(中国)の武帝と達磨大師の間で取り交わされた問答の中に出てくる言葉で、単に「知らぬ」という意味ではなくて、【ただ頭の中で考えたり、本で学んだ知識などでおしはかれるものではない。あらゆる偏った見方、考え方を捨てて、仏様に身も心も預けて、仏様とともにその教えに生きるとき、初めて真理と自分とがひとつになり、悟りがひらけて、自分も仏様になれるということ。※米沢市春日山林泉寺HPより】とされており、謙信もまた、その本旨を極めようと、修行に励んだといわれています。

 この不識塔はここへ来る途中の道路からも遠望できましたが、実際に道案内に従って遊歩道を登るのはなかなかきついものがありました。
 山頂めがけて登っていくと、突然視界が開けて、その建物が姿を現します。何と、鉄骨に囲まれた塔です。この鉄骨は改修工事用に組まれた足場だそうですが、撤去される見込みはたっていないとのことです。
 塔は、高さ20.8m、底部の直径が5.94mと説明書きにありましたが、元々の姿は鉄骨のため、よく分かりませんでした。説明板には、鉄骨が組まれる以前の写真がありましたが
不識塔
、それを見ると、こけしに似ているような何とも特徴のある姿形です。この不識塔の形は、斎藤主の「主」という漢字をかたどっているといわれていて、地元の人は不識塔を「主(つかさ)の塔」とも呼んでいるとのことです。
 - それにしても、早く鉄骨が取り払われた本来の姿を見たいものです。

◇不識塔

 
不識塔②
不識塔③
不識塔④
不識塔⑤
不識塔⑥


 青森の各地を訪ね、多くの紀行文を残した大町桂月は、ここ広泰寺と不識塔を訪れた際に、「寺一つ 家ひとつ満目 尾花哉」と詠み、【山の奥に思ひがけなき平地ありて、家一つ、祠一つ、寺一つ、峰上に高さ五丈ばかりの赤煉瓦の塔立てり。斉藤主といふ人、ここを開墾せむとて、田の未だ成らざるに、先ず社寺を置き塔を建てたるに、開墾成らず、空しく志を齎らして逝けり。その屍骸はアルコール漬けにして塔の中にありと聞く。世には奇抜なる墓もあるもの哉。 ※『岩木山より暗門滝へ 四・暗門滝』 広泰寺説明板より】と記しています。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Comment
 
こんばんは、はじめまして
いつも興味深くブログを拝見させていただいております。

レンガ造りのお堂とは珍しいですね~
ちょっとモダンなかんじもして素敵です(*´▽`*)

お写真の緑の森の中に佇む姿がまた良いですね♪
 
こんばんは。

僕も上杉謙信、戦国武将の中ではの中では大好きです。

機会がありましたら、是非春日山城や、川中島古戦場へお出でください。

なかなか面白いですよ。

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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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