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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

となりのまちー弘前市「長勝寺」

 長勝寺は、山号を「太平山」といい、16世紀初めに種里の地(現西津軽郡鰺ヶ沢町)に創建されましたが、慶長15年(1610年)、二代藩主津軽信枚による弘前城築城とともに現在の地に移転したお寺です。禅林街中、最も格式の高い寺院であり、当時の宗教や政治の中心であったばかりではなく、弘前城を守る”要”として軍事的な役割を負わされていた寺院であるといわれています。初代藩主津軽為信は、背後が急な崖となっており、天然の要塞ともいえるこの地に新城を築きたかったそうですが、幕府の許可がおりなかったため、断念したという逸話が残されています。境内を案内してくれたガイドさんは、本城が危うくなったとき、藩主が逃れてこれるよう、背後の川と弘前城の堀がつながっていたという話をしてくれました。いわば「第二の城」という役目を与えられていたこの寺には、往事を偲ばせる土塁の遺構(長勝寺構という)も残されています。
 ーこの時代のお寺は、仏事を執り行う場、広い意味での教育の場としての本来の役割の他に”砦”としての役目も課せられていたのですね。あの本能寺も堀と土塁で固められていたとか。。ー さて、シンボルともいえる三門(上の画像)をはじめ、国や県指定の文化財を有するこの寺の境内には、環月臺(為信の正室)、碧巌臺(二代藩主信枚)、明鏡臺(信枚の正室の満天姫)、白雲臺(三代藩主信義)、凌雲臺(六代藩主信著)という、五つの霊廟が立ち並び、正に「津軽家の菩提寺」という感じがします。各霊廟は、革秀寺にある極彩色の為信廟と違って、いずれも木造の質素な建物ですが、風格があり、見る者を落ち着いた気分にさせてくれます。実は、私がこの長勝寺を訪ねてみたいと思ったのは、この明鏡臺の主である満天姫のことを知りたかったからです。
 満天姫(まてひめ)については、その生涯を題材にした小説や読み物がたくさん出版されていますし、その数奇な運命の物語は劇団民藝により、『満天の桜』として公演されています。また、ブログ上でも、たくさんの方々が記事になさっています。私も拝見し、勉強させていただきました。そんな満天姫の生涯を簡単にまとめると、
①天正17年(1589年)頃、徳川家康の異父弟である松平康元の娘として誕生。その後、伯父の家康の養女となり、慶長4年(1599年)に福島正則の養嗣子福島正之に嫁ぐ。しかし、慶長12年(1607年)、正之が乱行のため幽閉され、死去する。このとき、満天姫は正之の子を身ごもっており、程なく男児(後の大道寺直秀)を出産するが、正則の判断もあって徳川家に帰された。
②慶長18年(1613年)、家康は満天姫を津軽弘前藩主津軽信枚に再嫁させることにした。信枚は、石田三成の娘の辰姫を正室として既に迎えていたが、辰姫は側室へ降格され、満天姫は正室として迎えられた。福島正之との間に儲けた男児も一緒だった。満天姫は、辰姫の死後、信枚と辰姫の子である平蔵を信枚の世継ぎとして育て、平蔵は、後に第三代藩主津軽信義となる。
③元和5年(1619年)6月、幕府は広島藩主である福島正則に津軽への転封を、津軽家には越後への転封を命じる内示を出した。しかし結局、満天姫の尽力で、内示から1ヶ月も経たないうちに津軽家の移封は取り消しされ、危機は回避できた。寛永8年(1631年)に信枚が没した後、満天姫は葉縦院と号するようになる。
④一方で実子直秀が、自らは福島正則の孫であるとして、このときすでに改易され一旗本にまで身分を落としていた福島家の大名家再興を考えるようになり、しきりに活動するようになる。葉縦院は、直秀の活動は幕府の心証を害し、津軽家に災いとなると考え、直秀を諫めた。しかし、直秀は一向に考えを改めることなく、江戸へ上って幕府に福島家再興を訴えると言い出した。寛永13年(1636年)、江戸に出発するため葉縦院の居所へ挨拶に訪れ直秀は、葉縦院に勧められるまま杯を空けると、急に苦しみだして死んでしまう。毒が盛られていたという説がある。寛永15年(1638年)、葉縦院は弘前で生涯を終えた。
                ~以上、Wikipediaからの抜粋です~
 こうしてみると、満天姫は「右肩に徳川家、左肩に津軽家を背負った波瀾万丈の人生を送った人」といえるのではないでしょうか。満天姫は津軽家に輿入れする際、養父の家康に「関ヶ原図屏風を拝借したい。」と涙を流して頼んだといわれています。徳川家の宝物ともいえる屏風をあえて所望した満天姫の、徳川家の一員であるという自負心と、遠国の地へ旅立つ決意が偲ばれる話です。また、いくら信枚の意志を継いだとしても、実子がありながら、辰姫の子供を次期藩主として養育するということはなかなかできることではありません。これも津軽家の行く末を考えてのことだったのでしょうか。ただ、私は、満天姫は辰姫に関して、自分と似たようなその境遇(それぞれ、家康及び高台院の養女であったこと、最初の結婚が不幸であったことなど)に、ある意味、同情というか共感していたのではないかと思うのですが、どうでしょうか?それにしても、最後に自分のお腹を痛めた子供を毒殺しなければならなかったなんて、悲惨な話ですね。
 私は、満天姫は、その後の津軽家の礎を築いた人だ思います。だからこそ、二代藩主信枚と三代藩主信義の間に霊廟が建てられたのだと思います。ー明鏡臺(津軽家を照らす鏡、津軽家の行く末を明らかにした鏡)ー正に満天姫にふさわしい廟所名ではないでしょうか。
 ところで、各廟所の扉には「津軽牡丹」という近衛家から許された紋章がつけられていますが、満天姫の霊廟だけは、徳川家の「葵の紋章」であると聞いていたので、明鏡臺をじっとみたところ、確かに「葵」が見てとれました。なんか、秘密の宝物を発見したような気持ちになりました。

                       ☆津軽統一までのあゆみ☆


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⇒こちらもどうぞ。長勝寺を訪ねて! 













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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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