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Category: ふるさと【東北・青森】 > 弘前市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

となりのまちー弘前市「高照神社」その2

 きりりとした眉を上げて、毅然とした表情で真っ直ぐを見つめているこの人物
津軽信政
が、弘前藩第4代藩主津軽信政公です。先回に続き、高照神社見聞記録の2回目として、今回は、信政公の治績や逸話などをご紹介していきたいと思います。
 津軽信政は、正保3年(1646年)、3代藩主津軽信義の長男として弘前城で生まれました。その後、明暦2年(1656年)、父信義の死去にともない、家督を継ぎます。しかし、若干11歳で藩主となったため、成人するまでは叔父にあたる津軽信英

津軽信英

 津軽 信英(つがる のぶふさ)は、江戸時代の旗本。黒石領5000石の初代当主。弘前藩2代藩主信枚の次男。母は徳川家康の養女満天姫(実父は家康の異父弟、松平康元)。ただし生母は別の女で、なかなか子に恵まれなかった満天姫が手元に引き取って育てた、という説もある。江戸神田の津軽藩藩邸にて生まれた。兄に弘前藩3代藩主・信義(生母は石田三成の娘、辰姫)がいる。
                          ~wikipediaより~
が後見役として、弘前藩及び信政を支えていました。この信英は、信政の人となりに大きな影響を与えた人物です。幼い頃から、聡明だった信政は、生涯に渡って儒学・兵学・神道・武芸の習得に励み、55年という長い治世の間に、津軽新田の開発、治水工事、植林、検地、城下町の拡大、養蚕や織物、製糸業などの発展・育成に努め、その善政は弘前藩の全盛期を築いたといわれています。また、対外的には寛文9年(1669年)のシャクシャインの乱

シャクシャインの乱

 胆振、日高地方などのアイヌ民族が、沙流川とシベチャリ川周辺の漁猟権をめぐって部族抗争となった。これをアイヌ民族への支配拡大に利用しようとした松前藩が一方を支援。策謀に気づいたシベチャリ族の副族長シャクシャインが、ほかの部族に呼びかけて松前藩と戦った。和人との交易に規制をかけることで利益を得ようとするなど、松前藩が実施してきた圧政に対するアイヌ民族の不満の表れでもあった。
                            ~kotobankより~
の鎮圧や天和3年(1683年)の日光東照宮の普請役を務めるなどの功績を挙げています。
 さて、この信政が”師”と仰ぎ、生涯に渡って影響を受けた人物が2人います。ひとりは吉川神道の祖吉川惟足

吉川惟足

 吉川 惟足(よしかわ これたり、元和2年(1616年) - 元禄7年11月16日(1695年1月1日))は、江戸時代前期の神道家。初名は元成と称し、惟足・従時と称した。尼崎屋五郎左衛門と称し、号は視吾堂・相山隠山・相隠士。吉川神道の創始者。姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも読む。生まれは武家の家であったが、江戸日本橋の魚商に養子に入り家業を継いだが、商いがうまくいかなかったことから鎌倉へ隠居した。1653年(承応2年)京都へ出て萩原兼従の門に入って吉田神道の口伝を伝授され、新しい流派を開いた。その後江戸に戻り将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得、1682年(天和2年)幕府神道方に任じられ、以後吉川家の子孫が神道方を世襲した。
                             ~kotobankより~
です。この吉川神道について少し調べてみたのですが、私には難しくてよく分かりませんでした。ただ、「生活における倫理の大切さ」や「君臣の道を遵守することの大切さ」などが強調されていることは、何となく理解できました。信政は、常に自分を律し、よき君主たらんと努めていたといいます。この「君臣の道のあり方」については、次のような逸話が残されています。
 ー  信政は居室に「畏天命」(てんめいをおそる)「畏大人」(たいじんをおそる)と記した衝立を用いていた。家臣はどちらをどの向きにして立てるべきかいつも迷っていたが、ある時、信政は苦笑いしながら、自分の側に「畏天命」(君主であることを天命とする自戒)を、家臣の側に「畏大人」(君臣の節度の戒め)を向けよと、教え諭したという。ー ※信政の言行録「高岡公明訓録」(弘前市立弘前図書館蔵)より。なお、「高岡」とは、神社が建っている集落名です。信政が名づけたともいわれています。このため、高照神社は当初、「高岡霊社」とよばれていました。
 さて、信政に影響を与えたもう一人の人物は、あの山鹿素行です。叔父の信英の影響もあり、素行の教えやその人物を深く崇拝した信政は、素行を弘前藩で召し抱えたいと望みました。しかし、残念ながらそれは叶いませんでした。ところが、その代わりに素行の二人の娘である鶴(つる)と亀(かめ)が、それぞれ家臣に嫁ぐことになりました。結果的に素行の”血”とその教えが津軽の地にもたらされることになったのです。この鶴(つる)様の嫁ぎ先の相手は喜多村宗則といい、後に家老に取り立てられました。宗則の死後、鶴様は息子の喜多村政方に対して、四書五経や父素行の学問など全てを徹底的に教え込んだといわれています。そんな母の薫陶もあり、政方は祖父の山鹿流兵学や、儒学などを修め、弘前藩の発展に尽力することになります。ー凛とした気品を感じさせるーそんな母親だったのではないでしょうか。
 ところで、「山鹿素行」といえば、何といっても赤穂藩、忠臣蔵ですね。大石内蔵助(良雄)が吉良邸討ち入りの際、叩いたのが「山鹿流陣太鼓」・・・。史実かどうかは別として、忠臣蔵の名場面のひとつです。あの討ち入りは元禄15年(1703年)のことでした。実は、信政と浅野内匠頭(長矩)は、どちらも素行の門下生だったので、非常に親しい間柄であったといわれています(長矩の刃傷から始まる一連の赤穂事件を、信政はどんな思いで見つめていたのでしょうか)。そういうつながりから、大石内蔵助の従弟の郷右衛門は信政に召し抱えられ、用人を勤めていたのです。討ち入り後、信政は郷右衛門を召し出し、内蔵助以下、赤穂浪士達の忠義を賞賛したといわれます。
 こうして、山鹿素行と大石良雄の血統は津軽弘前に残ることになったのです。山鹿家と大石家の墓所は、いずれも弘前市新寺町の貞昌寺(津軽山鹿家)と本行寺(津軽大石家)にあります。

 「高照神社訪問記」は2回で終えるつもりでしたが、信政公に関わる逸話を述べていくうちに、ついつい長文になってしまい、神社にある文化財を紹介することができませんでした。次回に回したいと思います。
                       ☆津軽統一までのあゆみ☆  
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 記事を更新しないままに10月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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