動かなくなった大石「久須志神社」-つがるみち225
天明元年から8年間続いた(1781~1788)大飢饉により、津軽藩領内では人口の3割~5割もの餓死者が相次いだとされています。
新田の開発が行われたつがる市森田(旧森田村)も例外ではなく、天明5年(1785年)に森田村の床前を訪れた菅江真澄は、
「・・・雪のむら消え残りたるやうに、草むらにしら骨あまたみだれちり、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女郎花の生出たるさま、見るこゝちもなく、あなめあなめとひとりごちたるを、しりたる人の聞て、見たまへや、こはみな、うへ死たるものゝかばね也。※『外が浜風』」と、当時の飢饉の惨状を記しています。 ー 「草むらに転がる髑髏(どくろ)の目から薄(すすき)や女郎花(おみなえし)が生えて見るに耐えない。」というくだりは、鬼気迫るものがあります。
菅江真澄がその惨状を目にした「床前」は現在の「床舞(とこまい)」で、ここに八幡宮が鎮座しています。神社の詳しい記録等は焼失したとされるために、その創建については不詳ながらも、古くから村の産土社として崇められてきたとされ、境内には、月夜見尊碑や庚申(幸神)塔、馬頭観音碑などが立っています。
また、本殿のとなりには「猿賀大神」のお堂が建っており、猿賀様の信仰がこの地にも広がっていたことが分かります。
この神社の後ろ側は狄ケ館(えぞがだて)溜池になっていて、青森県の縄文を代表する石神遺跡があるところです。
◇床舞八幡宮






床舞から五所川原方面へ向かって少し進んだところに月見野という集落がありますが、ここに久須志神社があります。
集落を走る道路沿いに大きな赤い鳥居が立っており、その奥は小高い山で、そこへ向かって参道の石段が続いているのが見えます。昔から「鎮守の森」であったことをうかがわせるような眺めです。二の鳥居、三の鳥居・・・とくぐり、石段を登りきったところが境内で、拝殿、本殿、末社などが立っていました。
この久須志神社の御祭神は、大己貴命・ 少彦名命・倉稲魂命ですが、青森県神社庁HP には、【慶長三年、 丹代森右衛門この地に薬師様勧請。 正保二乙酉年、 薬師如来を祀る。 薬師堂。 明治四年、 久須志神社となる。 明治六年四月、 村社となる。 本殿は一般的な神社の造り方ではなく、 地上から高床まで厳重に囲い、 御神体が見えないようにしてある異なった構造である。 】と簡潔に書かれていました。
かつては薬師堂であったということですが、拝殿に掲げられた由緒書きには、次のように記されています。
【久須志神社(薬師様縁起) 現在の地に崇敬するように成たのは慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。・・・】
- 霊夢に導かれた力持ちの村人が、山の奥から大石(薬師様)を探して背負って村まで来たところ、その地で大石が動かなくなったので、そこに祭ったというわけです。
菅江真澄は、寛政8年(1796)にこの社を訪れていますが、この縁起にふれ、
「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。※『外浜奇勝』」と記しています。
◇久須志神社①





広々とした境内には、庚申塔をはじめ二十三夜塔、猿田彦大神碑などが立っていました。また、馬頭観音の祠や竜神様、稲荷大神の祠などもあり、地域の中心的な信仰の場であったことを思わせます。
本殿の後ろにひとつの赤い鳥居 が立っていますが、その奥のお堂は「大石神社」。かつてはここが縁起にある伝説の大石(薬師様)を祭った薬師堂だったのでしょうか。
菅江真澄は、前述の『外浜奇勝』において、
「のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」と書いていますが、それは、この鳥居と大石神社のことのようです。
「十腰内の観音菩薩」とは、現在の厳鬼山神社だと思われますが、当時は、この神社から弘前市十腰内の厳鬼山神社、また、赤倉の大石神社方面へと、参拝の道が続いていたのかも知れません。
「・・むらだつ木々の間から遠近の眺めがよい」と菅江真澄も書いているように、小高い山の上にある境内からは、岩木山がよく見えました。この久須志神社は、村の産土社であるとともに、村人にとって、岩木山巡礼の基点ともなっていた社だったのでしょう。
◇久須志神社②





※画像は、いずれも10月中旬に撮影したものです。
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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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☆つがるみち☆
新田の開発が行われたつがる市森田(旧森田村)も例外ではなく、天明5年(1785年)に森田村の床前を訪れた菅江真澄は、
「・・・雪のむら消え残りたるやうに、草むらにしら骨あまたみだれちり、あるは山高くつかねたり。かうべなど、まれびたる穴ごとに、薄、女郎花の生出たるさま、見るこゝちもなく、あなめあなめとひとりごちたるを、しりたる人の聞て、見たまへや、こはみな、うへ死たるものゝかばね也。※『外が浜風』」と、当時の飢饉の惨状を記しています。 ー 「草むらに転がる髑髏(どくろ)の目から薄(すすき)や女郎花(おみなえし)が生えて見るに耐えない。」というくだりは、鬼気迫るものがあります。
菅江真澄がその惨状を目にした「床前」は現在の「床舞(とこまい)」で、ここに八幡宮が鎮座しています。神社の詳しい記録等は焼失したとされるために、その創建については不詳ながらも、古くから村の産土社として崇められてきたとされ、境内には、月夜見尊碑や庚申(幸神)塔、馬頭観音碑などが立っています。
また、本殿のとなりには「猿賀大神」のお堂が建っており、猿賀様の信仰がこの地にも広がっていたことが分かります。
この神社の後ろ側は狄ケ館(えぞがだて)溜池になっていて、青森県の縄文を代表する石神遺跡があるところです。
◇床舞八幡宮






床舞から五所川原方面へ向かって少し進んだところに月見野という集落がありますが、ここに久須志神社があります。
集落を走る道路沿いに大きな赤い鳥居が立っており、その奥は小高い山で、そこへ向かって参道の石段が続いているのが見えます。昔から「鎮守の森」であったことをうかがわせるような眺めです。二の鳥居、三の鳥居・・・とくぐり、石段を登りきったところが境内で、拝殿、本殿、末社などが立っていました。
この久須志神社の御祭神は、大己貴命・ 少彦名命・倉稲魂命ですが、青森県神社庁HP には、【慶長三年、 丹代森右衛門この地に薬師様勧請。 正保二乙酉年、 薬師如来を祀る。 薬師堂。 明治四年、 久須志神社となる。 明治六年四月、 村社となる。 本殿は一般的な神社の造り方ではなく、 地上から高床まで厳重に囲い、 御神体が見えないようにしてある異なった構造である。 】と簡潔に書かれていました。
かつては薬師堂であったということですが、拝殿に掲げられた由緒書きには、次のように記されています。
【久須志神社(薬師様縁起) 現在の地に崇敬するように成たのは慶長15年からです。春祭4月8日例大祭7月8日秋祭11月8日。この地に崇敬された時は右の通りですが或夜枕神が立って赤わらびの奥山より持って来てくれと依頼を受けたので朝早く行って見ましたら山の中に大石が立っていたのです。その石を背負って薬師流まで来たので一休みしようと思って休んだところその石が動かなくなったのでその地に祭ったそうです。枕神に命ぜられ人 丹代盛右エ門 時慶長3年 35人力あったと称される。・・・】
- 霊夢に導かれた力持ちの村人が、山の奥から大石(薬師様)を探して背負って村まで来たところ、その地で大石が動かなくなったので、そこに祭ったというわけです。
菅江真澄は、寛政8年(1796)にこの社を訪れていますが、この縁起にふれ、
「森田の村ざかいにきて、石をならべて坂をつくってあるところをはるばるとのぼって、薬師仏をまつった堂に行った。むかし、探題某という人が大きな石を背負ってきて、仏として崇めたのがはじめであろうという。※『外浜奇勝』」と記しています。
◇久須志神社①





広々とした境内には、庚申塔をはじめ二十三夜塔、猿田彦大神碑などが立っていました。また、馬頭観音の祠や竜神様、稲荷大神の祠などもあり、地域の中心的な信仰の場であったことを思わせます。
本殿の後ろにひとつの赤い鳥居 が立っていますが、その奥のお堂は「大石神社」。かつてはここが縁起にある伝説の大石(薬師様)を祭った薬師堂だったのでしょうか。
菅江真澄は、前述の『外浜奇勝』において、
「のぼりつめて、むらだつ木々の間から遠近の眺めがよいので、あたりをまわってみた。堂のうしろの方に鳥居があり、ここから十腰内の観音菩薩へ詣でる道があるので鳥居がたっているのだという。」と書いていますが、それは、この鳥居と大石神社のことのようです。
「十腰内の観音菩薩」とは、現在の厳鬼山神社だと思われますが、当時は、この神社から弘前市十腰内の厳鬼山神社、また、赤倉の大石神社方面へと、参拝の道が続いていたのかも知れません。
「・・むらだつ木々の間から遠近の眺めがよい」と菅江真澄も書いているように、小高い山の上にある境内からは、岩木山がよく見えました。この久須志神社は、村の産土社であるとともに、村人にとって、岩木山巡礼の基点ともなっていた社だったのでしょう。
◇久須志神社②





※画像は、いずれも10月中旬に撮影したものです。
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☆つがるみち☆
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