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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

家臣の手で2「中川胸肩神社」ーつがるみち244


胸肩神社


 前回は、浅瀬石城主・千徳氏の家臣が建立したとされる平川市(旧尾上町)の李平保食神社を取り上げましたが、今回ご紹介するのは黒石市中川に鎮座する胸肩神社。ここもまた、同様の由緒をもつ社です。
「黒石」という地名の由来は必ずしもはっきりと分かっているわけではありませんが、
【蝦夷の住む土地を久慈須(クジシ)、国栖(クニス)と称したことから、国栖が『くるし』、さらに、『くろいし』に転化したのではないか】といわれています。
 文献の上で最も古い記録としては、【興国四年(1343年)6月20日付の工藤右衛門尉貞行の妻しれん尼が書いた書状があり、そこには「つがるいなかのこをり、くろいしごう、おなしき、まん所しきの事右所は、くどううえもんのぜうさだゆきさうだいの所りようたるあいだ、しれん、かのごけとしてそうでん(中略)ちゃくそんりきじゅ丸にゆづりあたう也(後略)】とあるとのことです。
 ー 工藤右衛門尉貞行は、鎌倉幕府から派遣されていた地頭で、黒石郷を支配していた。貞行の娘かいず御前は、八戸の領主南部信政に嫁いでいたが、貞行が没してから、貞行の妻しれん尼が、領地をかいず御前の子力寿丸(南部信光)に与えた。ー という意味の文書ですが、この書状からは、興国四年以前から「黒石郷」という地名が存在していたことや、工藤右衛門尉貞行没後に、南部氏の支配下となったことなどが読み取れます。 ※【】は黒石市観光協会HPを参考にしました。

 南部氏の所領となった黒石の郷は、やがて南部氏流一戸氏の一族である千徳氏が治めることとなり、その居城があった浅瀬石村は、中心地として栄えたわけですが、もともとこの地は、古くから大きな集落がつくられていた所でした。
 浅瀬石城址の南側にあたる丘陵地帯に「浅瀬石遺跡」がありますが、ここは縄文時代から平安時代の住居跡や出土遺物が多数発見されている遺跡です。8世紀前半・後半、9世紀前半・後半に造られたことを示す竪穴住居跡は31棟見つかっており、また、出土した土師器(はじき)は、ロクロ使用前(8世紀)の物とロクロを使用した物(9世紀)が見つかっているなど、津軽の地域では数少ない奈良時代の文化や生活様式を伝える貴重な遺跡といわれています。
 同じく奈良時代の貴重な遺跡である前回の李平上安原遺跡もすぐ近くにあり、浅瀬石川の南側一帯は津軽の古代文化が花開いた場所といえそうです。
 ⇒浅瀬石遺跡と李平上安原遺跡
浅瀬石遺跡と李平上安原遺跡


一の鳥居


 胸肩神社のある中川(なかがわ)は、バイパスと水田に挟まれた集落ですが、浅瀬石川の岸に開けた所で、かつては、村のすぐそばまで川が迫っていたことでしょう。神社は、そんな集落の中心に位置しています。
 この胸肩神社については、
【御祭神:市杵嶋姫命  文明年間 (一四六九~一四八七)、 浅石城主千徳左衛門政久の家臣中河隼人が社殿を建立して、 弁才天を勧請した。 大永三年 (一五二三) 中河村の産土神となったが、 慶長二年 (一五九八) 浅石城落城により廃社となった。 寛永元年 (一六二四)、 村中にて社殿を再建し、 文珠菩薩像を奉斎して、 弁天宮と称した。 明治三年、 菩薩像を弘前市最勝院に納め、 胸肩神社と改称した。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)は、いわゆる宗像三女神の一柱で、日本の代表的な水の神ですが、海辺でもなく、大きな湖沼もないこの地に祀られているのは、やはり浅瀬石川が存在していたためと思われます。農耕に欠かせない水を恵んでくれる大河に感謝するとともに、その氾濫による安全を祈願して祀られたものなのでしょう。
 創建は千徳氏の家臣「中河隼人」によるものとされていますが、現在の「中川」という地名も、この「中河隼人」からきているのかも知れません。
 比較的狭い境内に、一から三の鳥居まで立てられていることは、古くから村の崇敬を集めてきた神社であることを感じさせます。拝殿前の狛犬は雪の中にすっぽり埋まって、姿が見えませんでした。

◇胸肩神社①

 
二の鳥居
三の鳥居
拝殿①
拝殿②
本殿


 社殿の隣にもうひとつ社号標と鳥居が立っていて、社号標には「諏訪神社」と刻まれ、鳥居には「文殊菩薩」の扁額が掲げられています。その鳥居の奥には「史跡文殊社」の木柱と祠があります。祠の中は「諏訪神社」となっています。
 由緒に「村中にて文珠菩薩像を奉斎して、 弁天宮と称した」とありますが、ここがその「文殊菩薩堂」だと思われます。やはり明治の神仏分離の際に「諏訪神社」となったのでしょうか。

 かつて「弁天宮」と呼ばれていたこの胸肩神社。多くの弁天宮は神池を伴っていますが、
冨野猿賀神社の弁天宮(中泊町)
この社にも「鵲の池」と呼ばれる池があります(現在は雪に埋もれて見えませんでしたが)。
「鵲の池」というその名前から、何かしら古の伝説でもあるのかと思いましたが、どうやらそうではなく、「鵲(かささぎ)は、古来から神の世界と人間の世界とを結ぶ神使といわれる鳥。それにあやかり、御祭神と氏子との間をとりもってほしい」という願いから名づけられたとのことです。

◇胸肩神社②

 
諏訪神社①
諏訪神社②
諏訪神社③
鵲の池①
鵲の池②


 黒石郷の領主であった千徳氏は、戦国時代になると大浦(津軽)為信と手を組み、周辺の南部勢を打ち破り、津軽統一を果たしていくわけですが、やがて対立し、浅瀬石城は落城、一族も滅亡します。 ⇒以前の記事へ。
 それに伴って、ここ中川の弁天宮も廃社となったわけですが、後に村人達の手で社殿が再建されます。支配者が変わっても、「産土社」に寄せる村人の思いは変わらなかったようです。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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 しばらく記事を更新しないままに八月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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