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Category: ふるさと【東北・青森】 > 田舎館村   Tags: つがるみち  

嘉暦の板碑「大袋稲荷神社」ーつがるみち255


平川と岩木山


「平川市」という名称の由来ともなっている平川は、平川市の坂梨峠西麓に源を発する延長約40kmの一級河川です。
 藤崎町の辺りで浅瀬石川と合流し、岩木川となるわけですが、その流域の市町村には、平川市、大鰐町、弘前市、田舎館村、藤崎町 などがあります。
 田舎館村を流れる平川の周辺に「大袋(おおふくろ)」という集落がありますが、ここの川沿いに稲荷神社が鎮座しています。

 一帯は、田舎館村と弘前市との境目にあたり、神社の後ろの土手の対岸には、以前に訪れた富岳神社の森が見えます。また、今の時期は夏場と違い、木々の葉なども茂っておらず、稲荷神社の境内の様子もはっきりと見ることができました。

 社号標は集落の道路沿いに立っていて、そこから民家の中を歩いて行くと一の鳥居があります。そこから、二、三、四と鳥居をくぐるわけですが、二の鳥居には米俵を載せた大きな注連縄が張られていました。社殿は参道を右側に折れた所に建っています。

◇稲荷神社参道
 
 
平川
稲荷神社
一の鳥居
二の鳥居
四の鳥居


 大きな石燈籠がありますが、狛犬などもなく、わりとあっさりとした境内です。拝殿・本殿ともに新しく改修されたものらしく、きれいで、色がとても鮮やかでした。

 この稲荷神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂神  当社創建の年月日は不詳なるも、 古来稲荷宮と称えられ、 元和四年 (一六一八)、 当村南方の川辺に新たに社殿を建立し、 当村葛西又右衛門を始め村民一同深く信仰し産土神と崇め祀った。 慶安元年 (一六四八)、 平川洪水にて宮地残らず川へ落ち、 又右衛門屋敷の内へ遷し祀った。 これに依り、 貞享年間の御調べの時には、 社地川へ落ちたる為に御調べに記載されなかった。 その後、 延宝九年 (一六八一)、 又右衛門が社地の復興を計り、 御神慮を安じ奉らんと、 年々重く奉賽し、 ついに平川洪水より九十八年目の延享三年 (一七四六) 六月、 現地へ再建された。 以来、 社地の整備等に村民一同協力し、 弘化二年 (一八四五) 五月、 当村葛西勘十郎より祠堂田地一反歩の寄進あり。 明治六年五月十日、 村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とあります。
 ー 古くから村の産土社であったようですが、「平川洪水により・・・」とあるように、地域は何度も平川の氾濫に悩まされてきたのでしょう。

◇稲荷神社境内

 
境内
五の鳥居
拝殿
本殿
忠魂碑と板碑



嘉暦の板碑


 境内に大きな忠魂碑がありますが、その手前にひとつの石碑が立てられています。
「石碑」と書きましたが、実はこれは台座の上に据えられた板碑で、刻まれている年号から「嘉暦(かりゃく)の板碑」
「嘉暦(かりゃく)の板碑」
と呼ばれています。そばにある説明板には、次のように書かれていました。

【嘉暦(かりゃく 1326~29)は鎌倉末期、後醍醐天皇朝の年号。 その頃津軽の豪族安東氏は内紛を起こして戦乱状態にあった。 その原因の一つは、十三湊の本家季長(すえなが)と、藤崎の分家季久の争いに対する鎌倉幕府の裁きの不手際からで、板碑はこの戦いの死者への供養碑といわれる。 近年、この乱の背景に元寇以来、民族意識に目覚めた北方蝦夷の問題を取り上げる研究者も多い。 なお、この板碑を人の見ていないときに撫でると、オコリ(熱病の一種)が治ると言われた。

「その頃津軽の豪族安東氏は内紛を起こして戦乱状態にあった。 」とありますが、この戦乱は「安東(藤)氏の乱」とも、津軽一円を巻き込んだことから「津軽大乱」とも呼ばれています。
【発端は、1268年(文永5年)に津軽でエゾの蜂起があり、蝦夷代官職の安藤氏が討たれた事件である。更に1318年(文保2年)以前から続いていたと見られている蝦夷代官・安藤又太郎と従兄弟の安藤五郎三郎との間の内紛に、1320年(元応2年)エゾの再蜂起が加わった。得宗家では、1325年(正中2年)に蝦夷代官職季長から季久に替えたが戦乱は収まらず、却って内紛が反乱に繋がったと見られている。その後も季長は得宗家の裁定に服さず戦乱は収まらなかったため、翌1326年(嘉暦元年)には御内侍所工藤祐貞が追討に派遣された。※wikipediaより抜粋
 この大乱の泥沼化は、鎌倉幕府に騒乱を平定する力がないことを内外に示し、その威信を低下させることに繋がったともいわれています。

 なお、安東季長の城館は、深浦町関にあったといわれており、この地にある関の古碑群は、この大乱のときの供養碑であるとされていますが、ここ稲荷神社の板碑もまた戦乱で命を落とした者への供養碑だったのでしょう。

 説明板の終わりに、「この板碑を人の見ていないときに撫でると、オコリが治ると言われた」とありますが、オコリ(瘧)とは、「隔日また周期的に起こる」という意味で、「悪感や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。えやみ。わらわやみ。瘧(ぎゃく)。」で、日本の古文献にもしばしば登場する疫病です。主に、低湿地帯において流行したとされていますが、ここ田舎館の地でも、平川の氾濫や打ち続く戦乱によって、自然環境が悪化し、疫病が蔓延したのでしょうか。

「人の見ていないときに撫でると」・・・人が大勢いるときには御利益が薄まるということでしょうか。あるいは、オコリに罹った者は、その伝染が恐れられたために、人々の前に出るのが憚られたということなのでしょうか。
 それにしても、○○様やお地蔵様を撫でると病気平癒の御利益があるという話はよくありますが、「板碑」は初めてです。それだけ、地域の人々に大切にされてきた板碑だったのでしょう。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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 しばらく記事を更新しないままに八月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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