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Category: ふるさと【東北・青森】 > 十和田市   Tags: みちのくあれこれ  

「七勇士」の石碑ーみちのくあれこれ3


七勇士の石碑


 青森県では今、弘前城石垣修理事業に伴う天守閣移動関連の話題でもちきりで、新聞紙上でも大きく取り上げられていますが、7月の末頃、地元紙にこんな記事が載っていました。
 -「七勇士」の石碑倒壊危機
地元紙より

「七勇士」とは、八甲田雪中行軍の際に弘前31連隊の道案内をつとめ、苦難の末、八甲田越えを成し遂げた当時の若者七人のことです。


 映画「八甲田山」が公開されてから、八甲田雪中行軍の出来事は広く知られるようになりましたが、史実はまだまだ闇につつまれた部分も多いようです。
 例えば、青森5連隊が厳冬期の八甲田山を越えるにあたって、なぜ案内人をつけなかったのかということもそのひとつです。小説や映画では、地元民の案内申し出を大隊長が一喝して断る場面がありますが、これについても「軍の威厳を保とうとした」とか「民間人の安全を考え、巻き込みたくなかった」などと解釈が分かれるところです。
 一方、福島大尉(映画では高倉健が演じた徳島大尉)率いる弘前31連隊がその行程で案内人の力をフルに活用したことは事実で、映画などでは、そのことが両者の明暗を分ける一因となったように描かれます。ともあれ、31連隊を先導した案内人達の功績は大きく、「真冬の八甲田越え」という壮挙を陰で支えた功労者といえるでしょう。


雪中行軍案内者顕彰碑

東道旌表碑①

東道旌表碑②


 弘前31連隊が屯営を出発したのは明治35年(1902)1月20日のことで、弘前から小国・切明(平川市)、十和田湖を半周し、戸来(新郷村)を経て三本木(十和田市)へ。そこから増沢、田代、田茂木野、青森へと至るコースで、弘前への帰営を含めた全行程はおよそ224km、11泊12日(予定では10泊)、総272時間という壮絶な行軍でした。
 ⇒弘前31連隊行軍経路
弘前31連隊行軍経路

 七勇士たちが先導に立ったのは、増沢から田代、そして田茂木野へと至るコースで、正に八甲田山のど真ん中を突っ切る行軍中最大の難関でした。

 七人はマタギ経験者を含む旧大深内村の壮健な若者たちでしたが、夏場ならまだしも、厳冬期の八甲田越えは想像を絶する苦難の連続だったようです。
◇増沢から田代
【田代平は、ゆるやかな傾斜の草原である。しかし、冬には一面の雪原と化す。風をさえぎる樹木とてない雪原は吹くにまかせた猛烈な北風が雪面を払い、どこまでが雪面でどこからが空なのか視界を失わせる。・・・磁石も凍りついて役に立たなくなる酷寒の中、しかも目標物のない雪原はそれ自体が白い巨大な眩暈のように人の方向感覚を幻惑する。】
 増沢から山あり谷ありの道を長い時間をかけて歩いてきた一行は、日が暮れたため、ここ田代で雪中露営をよぎなくされました。
◇田代から鳴沢、馬立場、田茂木野
【極限状態にある一隊に吹きつける寒風の強さは、はじめて経験するものだった。風速は25mを超えていた。踏み出そうとする一歩は、上体に吹きつける強風のために押し戻される。呼吸もままならず全員があえぎ続けながら歩いた。眠りながら歩く者も出はじめ、倒れる者も出た。歩けなくなった隊員を両脇から支えて歩く隊員もまたよろめいて歩けなくなるというすさまじさで、総崩れの危機が弘前隊に迫っていた。】
 1月28日の早朝、雪濠を出た一行は七勇士の先導で、青森5連隊を苦しめた鳴沢、馬立場方面へ出発。中の森、賽の河原を経て、29日の午前2時過ぎに田茂木野へたどり着いたのでした。27日午前6時過ぎに増沢を出てから実に44時間、弘前隊は一睡もしないまま強行軍を続けたことになります。「あわや遭難」という危機的状況の連続だったようですが、それを救ったのは福島泰三大尉の的確な判断もさることながら、やはり七勇士たちの働きが大きかったのだと思います。


説明板


 弘前31連隊の雪中行軍の成功は、青森5連隊遭難という大事件の陰に隠れてその偉業について多く語られることはありませんでした。隊を成功に導いた七勇士についても同様です。
 七人のほとんど全員が凍傷をわずらい、歩行困難になった方もいたとのことです。
 もうひとつ、長年にわたって彼らの心を苦しめたのは図らずも5連隊の遭難現場に遭遇してしまったことです。福島大尉の「八甲田で見たことはいっさい他言すべからず」という厳命を他の隊員と同様、この七人もまた守り通した分けです。彼らが「数個の凍死体を目撃し、同情の念を投げつつ下り降りた」と、重い口を開いたのは、遭難から30年後のことだったと伝えられています。

 七勇士の石碑は、十和田市へと向かう国道102号線の途中から分かれる県道40号線沿いにありますが、この道は増沢、田代方面へと続く道です。
 この石碑は、昭和6年に七人の勇気と努力を讃えるために地元・大深内村の人々によって建立されたもので、名付けて「東道旌表碑(とうどうせいひょうひ)」。「東道」は道案内、「旌表」は顕彰という意味です。
 もともとは、村内の別の場所に建てられたものなのだそうですが、雪中行軍百年を機に八甲田を望む現在の場所に移され、「雪中行軍七勇士の歌」という鎮魂歌も作られたそうです。

 実際に行ってみると、新聞記事の通り、石碑の周りは縄が張られ、「立入禁止」の札。なるほど、台座と碑をつないでいる部分などが、かなり風化しています。
 石碑の裏には「七勇士」として、「沢内鉄太郎、福沢留吉、福村勝太郎、小原寅助、沢内吉助、氏家宮蔵、中沢由松(※敬称略)」の七人の方の名前が刻まれていました。
 石碑のそばにある説明板には、雪中行軍の様子と七人の業績について述べられていますが、終わりの方で福島大尉の「(5連隊の遭難を見たことは)口外すべからず」という厳命ついてにふれ、「明治を終わり、大正を過ぎて、昭和五年までだれ一人として語る者がなかったことは、律儀な南部人の鑑であろう。」と書かれていました。

 この石碑のその後ですが、地元民の「柏地区の宝物として守り、語り継いでいきたい」という思いが通じたらしく、補修に向けた動きが始まったようです。
 ー「七勇士」の石碑補修へ
地元紙より


※【】をはじめ、記事については 山下康博 著『指揮官の決断』 中経出版 等を参照しました。


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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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