今別八幡宮ーつがるみち397
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今別町については、
【古くから北前船や廻米船の寄港地として発展した町で、江戸時代には松前街道の宿場町となりました。弘前藩では領内の重要視する6つの湊(今別湊、十三湊、蟹田湊、青森湊、深浦湊、鯵ヶ沢湊)と3つ関所(碇ヶ関関所・大間越関所・野内関所)を合わせて津軽九浦として代官所や御仮屋などを設けて重点的に整備し、今別町にも町奉行所や御山奉行所が設置されています。】と紹介されています。
享和2年(1802)には伊能忠敬も測量に訪れたという今別町ですが、町の中心となる社が今別八幡宮です。
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その由緒については、
【今別八幡宮の創建は大同2年(807)に勧請されたのが始まりと伝えられています。中世、当地を支配した今別城の城主平氏の娘が浪岡城(青森市浪岡町)の城主北畠具運卿に嫁いだ際、永禄3年(1560)具運卿が改めて石清水八幡宮(京都府八幡市)の分霊を勧請し社殿を再建しました(一説には城主平杢之介の奥方の懇願により社殿が建立されたとも)。今別湊は江戸時代、弘前藩の九浦に指定され重点的に整備された事から活況を呈し、今別八幡宮も海運や漁業、湊に関わる人達から篤く信仰されました。古くから神仏習合していましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治5年(1872)に今別八幡神社に社号を改め昭和43年(1968)に現在の社号である今別八幡宮に改称しています。】とあります。
一の鳥居と二の鳥居をくぐって進むと、途中に橋がありますが、この橋は跨線橋 で、その下を鉄道(津軽線)が通っているという、珍しい参道になっています。
橋を渡った所からは、小高い丘に向かって上り坂の石段が続いています。上り切った所に、御神燈や手水舎があり、社殿は、さらに高い場所に立っていました。




参道と境内は、たくさんの樹木に囲まれたうっそうとした森ですが、主な樹木にはその名前を記した札がかかっています。この神社の森には、ヒラマヤスギ・アカエゾマツ・ブナ・ウダイカンバ・ミズナラ・ホオノキ・サンショウなど、多くの種類の樹木がありますが、昔から「神域」とされていたため、その保存状態がとても良く、「今別八幡宮自然観察教育林」として、教育活動にも貢献しているとのことです。
本殿には、明暦4年(1658)に山岸屋太兵衛、万治2年(1659)には上林武兵衛という、いずれも越前国新保浦出身の人物が奉納した石造狛犬が置かれていて、今別町指定文化財に指定されています。
越前国(福井県)産の石造狛犬は、弘前市の熊野奥照神社や、青森市の小金山神社などでも見ることができますが、江戸期の日本海西回り航路を利用した北前船関係の歴史資料として貴重な物とされています。
※【】は、HP「青森 歴史・観光・見所」を参照しました。




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松前街道沿いに残る義経北行伝説は、ここ今別の町にもあります。
【今別の川岸に義経は柳の鞭を立て、ぶじに蝦夷地に渡ることができるのなら、この鞭に一夜のうちに枝葉を茂らせたまえと八幡宮に祈った。
あくる日に見たら、柳の鞭に枝葉が茂っていたという。※『青森の伝説』より】
義経が祈ったとされる八幡宮は、ここ今別八幡宮だったのでしょうか。
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☆つがるみち☆
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