高野山観音堂ー津軽三十三寺社巡り20

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 今別町役場の近くの坂道を登って行くと踏切がありますが、踏切を渡り切った所は広場になっていて、ここに高野山観音堂があります。
 広場から、さらに上の方に道が続いていて、杉木立の中を登って行くと、開けた場所があります。一帯の50年前の様子について、
【朝から花火が打ち上げられ、町には5月14日から3日間「今別町大観桜会」のポスターがはられ、「大運動会、消防観閲式、婦人会仮装、町内駅伝競走、上磯相撲大会」などと書かれていた。小学校のある丘の上、三十三観音のあるところがその場所だ。山桜、八重桜が十数本、松の木にまじって咲いていた。この丘から三厩湾が見渡され、はるかに北海道の山々も望まれる。津軽の観桜会は弘前、金木、青森、今別という順で、昭和5、6年ころには見世物小屋ができ、行商人も集まったし、青森からはカフェーが出張してきて、大いににぎわったものだと土地の人は自慢していた。※地元紙:陸奥新報HPより】と書かれています。当時の町の賑わいがしのばれる文章です。


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 高野山観音堂は、津軽三十三霊場の20番札所ですが、建物は立派な寺院造りで、その前に案内板が立っています。
【この観音堂の草創は古く天長年中(826年頃)であると言われ、本尊は十一面観音で慈覚大師の作と伝えられている。
 寛政5年(1794年)の御堂建立に当たっては西国三十三霊場の土を運ばせ御堂の下に埋めたことからここに参詣すれば西国三十三観音を拝するに等しいとみ言われ津軽霊場三十三観音の二十番掛所として広く知られている。※案内板より

 その入口には鰐口が吊り下げられており、たくさんの巡礼札が貼られていますが、中に入ると、中央に祭壇があり、如来像とともに、本尊の十一面観音が祀られています。
 御堂の前の広場の周りには、観音像が置かれていて、ここからは、今別の町と海を望むことができます。昔も今も、ここは「観音の丘」として、町民の信仰を集めているのでしょう。

◇高野山観音堂







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 現在、観音堂は本覚寺の末寺となっていますが、先の案内板に書かれているように、その草創は本覚寺よりも古く、藩政時代には、津軽三十三霊場のひとつ(20番、あるいは23番)として信仰を集めていました。
 しかしながら、その後、観音堂は荒廃したために、寛政3年(1791)に、本覚寺の愍栄上人が本尊の古仏を引き取り、本覚寺客殿裏に安置しました。この時、愍栄上人は、自らが彫り上げた十一面観音像を古仏の体内に納めたといわれています。
 その後、寛政5年に「円通庵」が創建され、本尊は再び、ここに遷されることになりましたが、この時、村の者を西国に行かせ、三十三霊場の土を持ち帰らせ、新堂の下に埋めたと伝えられています。

 - 御詠歌 : 高野山誓いをここに今別の 石の光りも弥陀の舎利浜 ー

※『津軽三十三霊場』 陸奥新報社 等を参照しました。

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                                              ☆津軽三十三寺社巡り☆
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