のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: 津軽統一までのあゆみ  

十三湊と安東氏4ー「市浦歴史民俗資料館」

 「安東史跡をめぐるみち」にしたがって、福島城址、山王坊遺跡、春日内観音堂、唐川城址と巡ってきましたが、最後に十三湖中の島にある市浦歴史民俗資料館を訪ねました。先回もお伝えしましたが、十三湖周辺は、縄文時代から中世にかけての遺跡
十三湖周辺の遺跡 ※歴史民俗資料館パンフレットより
がたくさん残っているところで、中でも十三湊遺跡は国史跡にも指定されています。民俗資料館は、そんな十三湖の歴史的な資料や出土品などを展示している場所です。

 館の中の展示コーナーは、時代に合わせて区切られていますが、まず目を引くのは、「オセドウ貝遺跡」の出土品です。「オセドウ」とは「お伊勢堂」が訛ったもので、現在は神明宮になっているところです。大正12年に貝塚が見つかったのに続いて、「円筒式土器」をはじめ、縄文前期から中期にかけてつくられた貴重な土器などが多数発見されました。
 このオセドウには、はるか昔、神武天皇の東征の際、頑強に抵抗した大和の長髄彦(ナガスネヒコ)が、その兄の安日彦(アビヒコ)とともに、津軽に流れてきて、ここで亡くなったという伝承があります。安日彦は、奥州安部氏の祖ともいわれ、安部氏の流れをくむ安東氏は、ここを長髄神社とし、崇拝したと伝えられています。しかし、何せ神話時代の言い伝えであり、まともには信じられていませんでした。しかし、その後の発掘で身長2m近い巨大な人骨
オセドウ貝遺跡・巨大な人骨
が見つかり、「これこそ長髄彦の骨ではないか。」と話題になりました。もちろん、真偽は?ですが。。。

 
 五月女萢(そとめやち)遺跡
五月女萢(そとめやち)遺跡
は縄文後期~晩期の遺跡です。時期的には、つがる市木造の「亀ヶ岡遺跡」と重なります。展示されている多くの石器や土器は、当時、ここ十三湖及び岩木川周辺に「亀ヶ岡文化」が広がっていたことを物語っています。

 「中世」の展示室には、十三湊遺跡から出土した様々な陶磁器や土器、山王坊遺跡にあった五輪塔の他、貴重な古文書や絵図など、安東氏の軌跡を思わせるものが展示されていました。残念ながら、このコーナーは撮影禁止でした。それでも、入口に掲げられている環日本海交易図
環日本海交易図
などを見ると、「日の本将軍」と呼ばれた安東氏の日本各地及び海外での活躍の跡が分かります。

↓歴史民俗資料館 ※クリックで拡大します。
市浦歴史民俗資料館①
市浦歴史民俗資料館②
市浦歴史民俗資料館③
市浦歴史民俗資料館④
市浦歴史民俗資料館⑤
市浦歴史民俗資料館⑥
市浦歴史民俗資料館⑦
市浦歴史民俗資料館⑧※パンフレットより
市浦歴史民俗資料館⑨※パンフレットより


 ところで、この十三湊、興国元年(1340年)の大津波によって壊滅したというのは本当のことなのでしょうか? ー 発掘の結果によれば、中世を代表する巨大な港湾都市であったことは証明されたものの、大津波の被害を思わせる跡は発見されなかったということで、現在は否定されているようです。ー
 そんな発掘の結果を裏づけているものは、かつて十三湊は日本の 「三津七湊(さんしんしちそう)」 の一つに数えられていたという事実です。このことは日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に記されていますが、この本が成立したのは室町時代の後期。また、安東氏が南部氏に敗れ、北海道へ逃れたのは1443年頃のこと。とすれば、「大津波」の約100年後。当時の十三湊はまだまだ「健在」だったということになります。こうしたことから、ー衰退の原因は大津波というよりも(それが事実だったとしても)、安東氏が抗争に敗れ、十三湊を放棄したことにあるー と考えられます。

 その後、南部氏の時代になり、次第に交易の中心は大浜湊(青森港)や野辺地港へと移され、十三湊は整備されることも無く、港としての機能は衰えていきました。ですが、津軽氏の時代になると、また活気を取り戻します。
 津軽藩の財政源は、鯵ヶ沢港を通して大阪など上方に米を送り、販売して得られる収入でした。収穫された米は岩木川の水運によって、いったん、十三湊に集められ、そこから海路鯵ヶ沢に運ばれるしくみになっていました。「十三小(米)廻し」と呼ばれたこの体制は、再び十三湊に繁栄をもたらした分けです。
 しかし、やがて年月が経つにつれ、港には川からの土砂が堆積し、水深が浅くなり、大船の入港は困難になっていきました。また、水運の要であった岩木川も、新田開発その他により、水量、川幅等が減退していったために、やがて、米の運搬は陸路を通じて行われるようになりました。ー「十三小(米)廻し」の終わりとともに、十三湊の衰退が再び始まったわけです。ー

 
 こうしてみると、十三湊に衰退をもたらしたものは、政治状況の変化、交易・経済ルートの変化、そして自然環境の変化であったことが分かります。

 十三湊の繁栄をのみこんだ「大津波」とは、すなわち、こうした大きな「時代のうねり」であったのかも知れません。

                       ☆津軽統一までのあゆみ☆

関連記事

記事を読んでいただき、ありがとうございます。よろしかったら、応援をお願いします!

                 日本史 ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ にほんブログ村    


Comment

Trackback
08-2017
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

«   »

カテゴリー

openclose

グループ別記事

よろしくお願いします!
⇩に参加しています。応援してくださると励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村        

歴史 ブログランキングへ
Welcome
 しばらく記事を更新しないままに八月になってしまいました。。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
My Profile
Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
My Friend
Thanks!
現在の閲覧者数:
My Contents
記事で紹介しているContentsをまとめています。ご覧ください!
コメント&トラックバック
Comments<>+-
Trackback <> + -
QRコード
QR