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  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

水神と鬼3「金比羅宮」ーつがるみち141

 岩木川流域に沿って鎮座する鬼の社は、金木町(五所川原市)と中泊町の境目辺りが北限のようです。
 神社でいえば、先回ご紹介した三柱神社(金木町川倉)、熊野宮(中泊町豊島)、そして、今回の金比羅宮(金木町蒔田)が最も北にある鬼ッコを掲げている社といえます。
⇒三柱神社・熊野宮・金比羅宮
三柱神社・熊野宮・金比羅宮

 前回も少しふれましたが、鬼ッコの分布は、江戸時代以降、農地の開拓が行われた足跡を示すものとも思われますが、この3つの神社がある地域より北側は、十三湖から津軽半島・・水運業や漁業、林業などで発展してきた地域になる分けです。

富野猿賀神社船絵馬


 岩木川は、藤崎町の辺りで支流と合流し、大河となり、たびたびの氾濫で大きな被害をもたらしたものの、津軽の経済を潤してきた分けです。
 藩政時代には、主な流域に川港がつくられ、弘前藩の御用倉も置かれ、賑わっていました。岩木川を渡る船乗り達や川港の人々は、その航海の安全を祈願し、いろいろな水神様などを祭っています。
 上津錦津見神(うわつわたつみのかみ)、中津錦津見神(なかつわたつみのかみ)、底津錦津見神(そこつわたつみのかみ)の三海神を祭っている板柳町の海童神社や、宗像三女神を祭る胸肩神社、そして、数多くの船絵馬が奉納されている富野猿賀神社などは、その代表的なものといえるでしょう。
 また、十三湖の入江近くの薄市(中泊町)は、天然の良港といわれていましたが、ここにも津軽三十三霊場の薄市観音堂があります。

◇岩木川沿いの主な神社など ※画像はクリックで拡大します。

 
藤崎八幡宮
海童神社
胸肩神社
富野猿賀神社
薄市観音堂



 今回訪ねた金木町蒔田の金比羅宮も、そんな水の神様を祭っている神社のひとつですが、この神社については、【勧進年月不詳ですが天明2年(1782)7月、津軽藩と縁故がある近衛家は、特に津軽藩のため内侍所において五穀豊饒の御祈祷を行わせられ、津軽領内へ御守礼二十七通御下賜の内、一通はこの御宮へ奉納されたことをみると、相当重きを置かれた神社であったと思われます。※HP「津軽なび」より】と紹介されています。

一の鳥居


 御祭神は、大物主神ですが、有名なこの神様は、蛇神といわれ、水神として崇められています。
 一方、「金比羅様」といえば、海上交通の守り神であり、古来、水難から守ってくれる神仏な分けですが、【江戸時代に船による流通が盛んになると、海運業者や商人によって金毘羅信仰が日本中に広められ、分社が各地に作られた。明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって神仏習合の金毘羅大権現は廃され、大物主神を主祭神とする神道の神社になった。※wikipediaより】といわれています。

 
 ここの金比羅宮は、四国の本山・琴平宮から、中世期に上方の船主たちが、水路安全祈願のため、金毘羅様の分身を勧請したものとされていますが、それは即ち、この土地もまた、岩木川流域の大事な川港であったことを示しているように思います。

 社号標は「金比羅宮」、拝殿の扁額には「琴平神社」とありました。私が訪ねたときは4月の上旬で、まだ境内の木々は葉っぱをつけておらず、半ば朽ちた老木たちの姿が印象に残りました。もちろん、境内には女神・水虎様も祀られています。

◇金比羅宮境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
境内
拝殿
拝殿から
拝殿内
水虎様



二の鳥居


 さて、この神社の鬼ッコは二の鳥居に掲げられています。一見して、少年のように見える若々しい鬼です。
 黒く長い髪が特徴的で、目をつり上げ、いっしょうけんめいに鳥居を支えているように見えます。
 口をしっかりと閉じ、しっかりと修行に励んでいる・・・そんな感じがしました。
 津軽地方の鳥居の鬼ッコ、今回の金比羅宮のこの鬼ッコで、一通り巡り終えました。各神社の鬼ッコ、それぞれの表情は正に千差万別で、受ける印象もそれぞれ違い、とても興味深いものでした。いずれ、機会をみて、自分なりの「鬼ッコマップ」づくりをしてみたいと思います。

 ⇒金比羅宮鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

ひと休みした鬼「鶴ケ岡八幡宮」ーつがるみち140

 勇んで出かけてはみたものの、肝心の鬼ッコに会えないときもあります。
 弘前市三和地区に鎮座している日吉神社は、大国主命、事代主命、大山咋命(おおやまくいのみこと)の三柱を祭っている神社で、【創立年月不詳であるが、 貞享四年の検地帳には 「山王堂」 となっており、 それ以前に建立されていたのは間違いない。 明治六年四月村社、 同年中畑村胸肩神社合祭、 同年四月笹館村八幡宮合祭、 明治八年二月復社。※青森県神社庁HP】とあります。

 
 この神社もまた、弘前市内で鬼ッコがある社のひとつなのですが、その鬼は拝殿の中に置かれているということで、あきらめていましたが、「もしも、拝殿の戸が開いていれば・・」と思い、行ってみました。結果は×。。鬼ッコを拝むことは叶いませんでした。しかたないので、境内を何枚か写真におさめて帰りました。

 
 日吉神社は、田舎館垂柳遺跡と並んで、北限最古の弥生田が発見された「砂沢遺跡」のそばにあります。遺跡が眠っている砂沢ため池では、何人かの人がのんびり釣り糸を垂れていました。

◇砂沢ため池と日吉神社 ※画像はクリックで拡大します。

 
 
砂沢ため池
二の鳥居
三の鳥居
拝殿
幸神



 実は、鬼ッコが見れず、がっかりした社がもうひとつありました。
 それは、五所川原市鶴ケ岡鎌田地区の八幡宮です。その由緒については、【創建年号は不詳である。 度々の水害により明暦二年現住所へ移動する。 明治六年四月村社に列せられる。※青森県神社庁HP】ということしか分かりませんが、五所川原市内で鬼ッコを掲げている神社なのです。
 そういう分けで、雪解けを待って、さっそく訪ねてみたのですが、鳥居はおろか、境内のどこを探しても鬼はいませんでした。日吉神社と同じく、拝殿の中に納められてしまったのか・・と思い、がっかりしてしまいました。

狛犬と狛鳩


 ところが・・・です。先日、別の神社に出かけた帰り道、この神社の前を通りかかったのですが、何やら鳥居に人形みたいなものが掲げられていました。それは、以前、探してもみつけられなかった鬼ッコだったのです。
 この八幡宮には、入口の鳥居が二つあって、鬼の鳥居のそばには、八幡様らしく、りっぱな神馬と鳩の石像があります。住所が「鶴ヶ岡」だからでしょうか、亀の上に乗った鶴?の石像
馬・鳩・鶴・亀
もありました。鶴というよりは始祖鳥か。。

 拝殿の前の鳥居のそばには、庚申塔や祠が並んでいます。朽ちた鳥居が無造作に立てかけられた祠には大蛇の像、以前は、龍神様
龍神様?
だったのでしょうか。
 隣に青い屋根の祠
水虎様
がもうひとつ。中は、なかなか覗けませんでしたが、下の方を見ると、亀に乗って両手を合わせている像が見えます。苦労しながら上の方を見てみると、それは水の神・水虎様
水虎様
でした。

◇八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
一の鳥居
境内
本殿
拝殿
庚申塔など



八幡宮鬼


 さて、たぶん冬の間、鳥居から降りて「ひと休み」していたと思われるこの鬼・・。顔を見た瞬間、ギョッとします。鼻は残っていますが、右目から下半分が割れてなくなっているのです。
 つり上がった目とか、角とか、頭全体の様子を見ると、以前も怖い表情をしていた鬼だと思いますが、割れた顔が、怖さをいっそう強調しているようです。何はともあれ、2回目の訪問で拝むことができました。

 
 ⇒八幡宮鬼ッコ ※画像複数

                                               
☆つがるみち☆
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

地蔵堂と鬼2「胸肩神社」ーつがるみち139

 西北津軽地方の鬼ッコめぐりも終盤になりました。板柳町、鶴田町、つがる市、五所川原市から中泊町の各地に点在する鳥居の鬼ッコ・・・それは、弘前から十三湖方面へと、江戸時代初期から行われてきた新田開発をはじめとする土地の開拓と無関係ではなく、その多くは、五穀豊穣祈願の象徴として掲げられているものだと思います。
 そのような開発の大動脈が岩木川。津軽地方を潤し、経済発展をもたらしたこの川は反面、「雨三つぶ降ればイガル」といわれるほどの暴れ川でした。 ⇒以前の拙記事をご覧ください。

 
 弘前藩は、その盛んな新田開発のおかげで、実質的な石高は30万石にも達したといわれていますが、【その道程は洪水と凶作との過酷な戦いの連続だった。元和、元禄、宝暦、天明、天保の五大飢饉は、その度に数万人の餓死者を出し、津軽一円を凄惨な地獄へと化せしめた。食えないゆえの赤子の間引きなどの歴史も、津軽の情念となってじょんがら節の哀調や恐山のイタコ信仰の形で今日につながっているのだろう。※HP「TSUGARU BRAND」より】とされています。

 こうしてみると、岩木川沿いに、庚申塔などの塚や地蔵堂が多いのも分かるような気がします。水害で亡くなった人々(多くは子ども)や飢饉のために、それ以上生きられなかった幼子の供養なのでしょう。
 今回通りかかった岩木川の土手
岩木川の土手
のたもとにも後生車が立っており、鳥居の奥には地蔵堂がありました。大きな地蔵様のまわりに、たくさんの赤子の地蔵様。。

◇岩木川土手の地蔵堂 ※画像はクリックで拡大します。

 
地蔵堂①
観音様
地蔵堂②
地蔵堂③
地蔵堂④



 今回訪れたのは五所川原市藻川村崎の胸肩神社。その名前の通り、日本書紀で、市杵島姫命(イチキシマヒメ)、田心姫命(たごりひめ)、湍津姫命(タギツヒメ)と呼ばれている、いわゆる「宗像三女神」を祭っている神社です。
 この三女神は、神話によると、「アマテラスとスサノオが天真名井で行った誓約の際に、スサノオの剣から生まれた三女神」で、海の神、水の神として信仰を集めていることは、よく知られているところです。
 

胸肩神社一の鳥居


 この神社の由緒については、【創建年号は不詳である。 明暦二年弁天宮を蟹下と称する地に勧請の処、 度々の水害により弘化三年現住所へ移転せらる。 明治六年四月胸肩神社と改め、 村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】とありますが、御祭神の一柱である市杵嶋姫は、弁才天と同神とされ、各地の胸肩神社
猿賀胸肩神社
に祭られていますが、多くの弁天宮は神池を伴っています。かつては、ここの境内にも池があったのでしょうか。
 「度々の水害により」・・と由緒の中にも岩木川の洪水について記されていますが、【岩木川上流は急勾配のため、雨で水嵩が増すたびに鉄砲水のように氾濫を繰り返した。問題は上流だけではない。川には、水だけでなく、周囲の山からの大量の土砂、さらには、日本海から吹き付ける波風が海岸の砂を運び、ついには十三湖の水戸口(出口)をふさいでしまう。行き場を失った水はどっと津軽平野に溢れ出し、実りはじめた稲穂を一夜にして泥の淵に沈めたのだった。※HP「TSUGARU BRAND」より

 
 海ならぬ岩木川のほとりに、この水神を祭る神社を建立したのは、やはり、水運の発展と人や物の水難防止の祈願をこめたものなのでしょう。境内の中には、もうひとつの水の神・水虎様
水虎様
も祀られていました。
 また、【こうした数々の辛酸をなめながらも、農民たちは黙々と、馬に挽かせて田を打ち返す馬耕(バッコ)を繰り返し、灌漑工事に汗を流した。新田開発とは、まさに水との戦いだった。】とされていますが、馬は、
馬の石像
やはり、力強い味方だったようです。

◇胸肩神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
庚申塔
二の鳥居
神使たち
末社
本殿



胸肩神社鬼ッコ


 さて、水神とともに地域を守っている鬼ッコですが、今まで見てきた鬼達とは少し表情が違うような気がします。何というか、哲学者のような風貌とでもいえばいいでしょうか。
 姿形は修験者風の赤鬼ですが、ものを深く見つめているというか、じっくり物事を考え込んでいるような、そんな容貌です。手をゆったりと膝の上にのせ、参拝する人々の様子をじっと見ている・・そんな威厳を感じさせる鬼でした。

 ⇒胸肩神社鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

観音堂と鬼「三柱神社」ーつがるみち138

 五所川原市金木町の三柱神社を訪ねるのは2回目です。桜の名所・芦野公園の近くにあるこの神社、昨年は、津軽三十三霊場の13番札所である「川倉芦野堂」があるために訪れたのでした。この観音堂については、以前の拙記事をご覧いただければ・・と思います。
 そういう分けで、前回やって来たときには、観音堂ばかりに目がいって、三柱神社そのものは、あまり詳しく見れませんでしたが、二の鳥居と三の鳥居にそれぞれ鬼が掲げられているのを見て、びっくりしたことを覚えています。西北津軽を中心に「鬼ッコめぐり」をしてきましたが、私にとって、そのきっかけになったのがここの鬼ッコでした。

拝殿


 三柱神社の由緒については、【建立年月日不詳であるが三社権現と稱したが、 明治四年三柱神社と改める。 明治六年金木八幡宮へ合祭のところ同八年復社同九年村社になる。明治四十年四月十九日幣帛供進神社に指定になり、昭和二十六年一月二十五日境内地譲与になった。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
 黒門の奥に佇んでいる観音堂は、相変わらず「品の良さ」を感じさせます。樹齢が500年ともいわれている金木町の名木・ケヤキ
金木町の名木・ケヤキ
もそのままでした。枝には、たくさんの若い葉っぱ。

 観音堂のそばに、いくつか祠が
建っていますが、中を覗いて見ると、大小の石が祀られていました。前掛けをしていたり、着物が着せられたりしているところをみると、これはお地蔵様
祠の中
のようです。小さなお顔が彫られているものもありました。

◇三柱神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
一の鳥居
末社
観音堂①
観音堂②
拝殿


 津軽三味線発祥の地・金木町らしく、拝殿のそばには津軽民謡の碑や、弘前藩4代藩主・津軽信政の時代に、この地で新田開発に努めた奉行の館跡の木碑も立っていました。 ⇒民謡碑・木碑
民謡碑・木碑


 拝殿の前に、何やら黄色い案内板があったの見てみると、「特攻機」。
特攻機
矢印の方に目を向けると、何と屋根の下に戦闘機(隼?)
戦闘機(隼?)
が吊されていました。翼に「奉納」と書かれているところをみると「飛行機絵馬」とでもいうべきなのでしょうか。。
 ー 日の丸に「若櫻」、そして「陸軍特別幹部候補生」「航空兵合格記念」の文字・・何となく胸が痛みます。
 出征していった若者は、その後、どうなったのでしょうか。。


二の鳥居


 さて、この神社の鬼ッコですが、前述のように、二の鳥居と三の鳥居に掲げられています。
 二の鳥居の方は、石造りの鬼。金木町の鬼は、力士型のものも多いのですが、この鬼も修行中の力士のようにも、修験者のようにも見えます。
 つくりの大きい鼻と、つり上がった目、右手で鳥居を支えている姿ですが、長く黒い髪が印象的な鬼です。

三の鳥居


 一方、三の鳥居の方は、金棒を手にした、節分のお面のような鬼らしい赤い鬼ッコ。とがった角と太い眉、目も大きく、睨みつけているような表情をしています。現在は、少し塗りがはげかかっていますが、以前は、もっと怖い顔に見えたのではないでしょうか。
 大きく開いた口の中には、たくさんの歯。何本あるのでしょうか。。

 ⇒三柱神社鬼ッコ ※画像複数


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  巨石と神石  

人丸と鬼「嘉瀬八幡宮」ーつがるみち135

 金木町嘉瀬にある「鬼ッコ神社」・・今回は、八幡宮(以下、嘉瀬八幡宮)を訪ねました。この神社は、先回、ご紹介した奴踊りのモニュメント
奴踊りのモニュメント
のある橋のすぐそばに鎮座しています。
 その由緒については、【建立年月日不詳であるが口伝に依ると元亀三年の建立にして明治六年四月村社になり明治四十年七月幣帛供進神社に指定になり昭和二十五年十月境内地譲与になった※青森県神社庁HP 】とあります。広い境内は、古くからこの地域の産土社として崇められてきたことを思わせます。

参道


 川に沿って進んで行くと、赤い神橋があり、一の鳥居が見えてきます。そばに、百万遍の塚があり、古びたお堂が建っていましたが、中には、色鮮やかな前掛けをしたお地蔵様
地蔵堂
が祀られていました。
 川岸に開けたこの神社の境内は、なかなか奥行きがあり、神武天皇碑をはじめ、庚申塔、二十三夜塔などが立っていました。「八幡様」ということで、神馬、鳩、狛犬なども拝殿に向かってズラーッと並んでいます。
 ⇒嘉瀬八幡宮境内 ※画像複数
 

 目を引いたのが、大黒天と恵比寿様のお堂です。両者とも福をもたらす七福神たちですが、【大黒と恵比寿は各々七福神の一柱であるが、寿老人と福禄寿が二柱で一組で信仰される事と同様に、一組で信仰されることが多い。このことは大黒が五穀豊穣の農業の神である面と恵比寿が大漁追福の漁業の神である面に起因すると考えられている。また商業においても農産物や水産物は主力であったことから商売の神としても信仰されるようになっていった。※wikipediaより
 ー 二柱をひとつのお堂に祭っているのは、やはり、新田開発に伴う五穀豊穣と、岩木川を利用した水運の繁栄を祈願したものと思われます。

 こういった様々な「神」を祭っている社を見ると、【各村々にある氏神・産土神は、今の村の人々の祖先・氏の上を祭っているだけではなく、多くは、分村、移住してきた時、団結と信仰の中心として何かを祀った。それは、もとの居住地の堂社であったり、あるいは近隣のものであったり、地域の流行神であったり、指導的立場の山伏、修験者が選んだりした。※小館衷三『岩木山信仰史』】ということがよく分かります。

◇嘉瀬八幡宮 ※画像はクリックで拡大します。

 
神橋
参道
大黒天と恵比寿
神武天皇像
境内



人丸の神石


 ところで、この嘉瀬八幡宮には、何とも奇妙な自然石?があります。名づけて「人丸の神石」・・人丸は、あの歌聖・柿本人麻呂のことです。
 正面から見ると、
人丸の神石
起き上がり小法師が、大きく口を開けているような形の石ですが、後ろへと回って見ると、何と、そこには「人丸」の文字。。
文字「人丸」

 この神石については、【嘉瀬八幡宮境内に“歌の神”として「人丸」の二文字を刻んだ大石が祀られています。その文字は「万葉集」の歌人で、三十六歌仙の一人でもある柿本人麻呂を意味するといわれ、同地区の昔日の文化を象徴する神石であると伝えられています。高さ70cm程の神石、いつ、だれが、どこで彫ったものか、いまでも歌の神として、詣でる人たちの姿が時々見かけられます。※HP「津軽なび」】と紹介されています。太宰治を生んだ文学の町・金木ならではの史跡?といったところでしょうか。

 余談ですが、以前、梅原猛先生の『水底の歌』という本を夢中になって読んだことがあります。「藤原不比等を中心とする時の政権に追われた柿本人麻呂は、やがて水死刑に処された。」「人麻呂は正史には登場しないが、同時代に柿本猿という人物がいる。人麻呂は懲罰のため、猿に改名させられた。」「人麻呂=猿は、即ち、猿丸太夫である。」といった内容は、まるで推理小説を読んでいるようでした。
 柿本人麻呂が津軽へとやって来た分けはありませんが、この神石、何となく人麻呂の肖像画と似ているような。。。
人麻呂と神石


お堂の鬼


 さて、この八幡宮には二体の鬼がいます。拝殿の前に二つの祠
稲荷様と鬼の祠
がありましたが、覗いて見ると一方は稲荷様、そして片方の祠には、木製の鬼が祀られていました。
 丸いドングリ目とふくよかな頬、大きく出っ張ったお腹など、なかなか貫禄のある鬼ッコです。
 口元のあたりが腐蝕していたり、左の手がもぎとられていたりと、痛々しい感じですが、かつては鳥居にあったものなのでしょうか。ろうそくも立てられていて、お参りする人々も多いようです。

二の鳥居の鬼


 続いては二の鳥居に掲げられている石造りの鬼。
 この鬼も風化が進んでいて、その表情はよく分かりません。祠にあった鬼と違って、こちらはやせ型の怖い表情をしていた鬼ッコだったと思われます。
 以前は、その角も鋭く尖り、牙もむき出しにしていたのではないでしょうか。
 「老骨にむち打って」、守り神としての役目を果たそうと、必死に鳥居を支えている・・そんな感じでした。
 
 ⇒嘉瀬八幡宮鬼ッコ ※画像複数

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奴踊りと鬼「嘉瀬稲荷神社」ーつがるみち133

 道路を走っていると、橋の欄干に面白いモニュメント
田舎館垂柳遺跡
があるのをよく目にします。それは、その地域特有の歴史とか名所・旧跡、あるいは産物などを描いたものなのですが、なかなか車を停めて撮影することができず、通り過ぎてしまう場合がほとんどです。
 今回は、五所川原市金木町嘉瀬(かせ)の稲荷神社を訪ねましたが、集落の橋の上に、盆踊りに興じている農民の姿を描いた人形?が置かれていました。「嘉瀬の奴踊り」です。

嘉瀬奴踊り


 この嘉瀬の奴踊りは、奥津軽の名物のひとつで、青森県の無形文化財にも指定されていますが、嘉瀬に約300年前から伝わる盆踊り唄です。
 旧金木町の新田開発は、主に元禄年間(1688~1703年)になされましたが、【嘉瀬の奴踊りは、この開拓事業の成就祈祷の「願人坊」が、田植時期に、出雲大社や住吉大社の神事である「田植踊り」を勧進して、金木新田の田植踊りとしたもので、日本の北限に現存している貴重な、しかも、他に例のない動きをもつ、特異な田植踊り】といわれています。
 唄は、「♪さあさこれから 奴踊り踊る(ソラ ヨイヤナカ サッサ)・・」とテンポよく進んでいく分けですが、その歌詞の中に「♪嘉瀬と金木の間の川コ 石コ流れで 木の葉コ沈む」というのがあります。実はこの歌詞は、「誠実な者は恵まれず、狡猾なものがはびこるのは残念なことだ。この世の中は逆さまだ」と藩政時代の社会を風刺したものといわれ、次のような伝承が残っています。

 ー 弘前藩4代藩主・津軽信政は、新田を開発し、米の増収を図ろうと、藩士まで投入し、開墾に力を入れていましたが、多くの藩士は「武士」の面子もあり、積極的ではありませんでした。【しかし、鳴海伝右衛門は、妻子と奴の徳助をつれて嘉瀬に住み、近隣の百姓たちと共に藩主の命令に従い、開墾に熱意をもち、昼夜の別なく総力をあげ、数年後には三石町歩の良田を造成することに成功しました。ところが、ある年に金木御蔵に年貢米を納めに行った際、かつて同僚であった者(要領よく立ち回った者)が金木御蔵の役人として出世しており、伝右衛門を見る目が意外にも冷たく、腰抜け武士の典型よと冷笑されてしまいます。以来、伝右衛門は次第に懐疑的になり、日がたつにつれて沈みがちになっていきました。】
 主人思いの奴・徳助はこのさまをみて、恵まれない主人をなぐさめようとして、即興的に節をつけて歌い踊ったのが、この奴踊りの始まりで、【徳助は、秋の取り入れの振舞酒の席や、月見の夜など自ら踊り、主人の不遇をなぐさめました。この奴徳助の心遣いに、伝右衛門は心から喜んで、自分でもこれを唄って踊りました。これが藩主の知るところとなり、やがて二人を弘前のお城に呼び、御前で唄い踊らせたところ、ことのほか喜ばれて賞讃されました。それからは、村人も踊りを習い、お祭りやお盆には村をあげて踊るようになりました。】と伝えられています。 
 ※【】は、五所川原市HP他を参考にしました。

 
 ー 「石コ流れて木の葉コ沈む(世の中逆さまだ)」という歌詞には、苦労しっぱなしで恵まれない農民達の思いも詰まっているのかも知れません。
 ⇒奴踊りモニュメント ※画像複数


稲荷神社拝殿


 さて、嘉瀬地区は同じ金木町の喜良市と境を接している所ですが、喜良市同様、ここにも鳥居に鬼を掲げている神社があります。
 稲荷神社もそのひとつですが、この神社は嘉瀬駅のすぐ近く、境内の横を津軽鉄道が走っていました。青森県神社庁HPには、【創立年月日不詳であるが、 「神社微細調書」 (安政二年八月) に依ると、 寛永十年再建と記載してある。 】と紹介されています。
 御祭神は、もちろん稲荷神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、お使いのキツネたち
キツネ像
も大小合わせて4体ありました。
 ここにもまた、杉の木の大木があり、神木として祀られています。境内の説明板によると、高さが25m、幹回りが4mほど、樹齢はおよそ450年とのことです。境内には、たくさんの杉木立がありますが、この神木は
神木
ひときわ高く、拝殿に長い影を落としていました。

◇稲荷神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
一の鳥居
二十三夜塔
神使たち
神木と拝殿
拝殿



二の鳥居


 鬼ッコは二の鳥居に掲げられています。今まで、般若のような鬼らしい鬼や、力士のような、どちらかというと人間に近い鬼など、様々な鬼を見てきましたが、この神社の鬼は山伏風の姿をしています。
 鳥居の鬼には、その地域の願いみたいなものがこめられていて、それがそれぞれの鬼ッコの顔や姿に表れていると思うのですが、嘉瀬の村人は、どんな思いでこの鬼を掲げたのでしょうか。
 黒と赤、そして青い色が鮮やかな、少し上目づかいの若々しい鬼です。その表情は、何となく健さん(高倉健)にも似ているような・・。健さんに叱られるかも知れませんが。。
 ⇒嘉瀬稲荷神社鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  

十三恋しや「長円寺」ーつがるみち132

 五所川原市の飯詰地区・・その地名の由来は、アイヌ語の「イズミ」が転化し、「いいづめ」になったものともいわれています。「イズミ」は、見晴らしが良いという美しい景観を表す言葉とされていますが、ここ飯詰地区は、津軽半島の背骨ともいえる中山山脈と津軽平野を一望できる高台に位置しています。
 平野部と十三湊を結ぶ交通の要所としても栄えた所で、戦国時代には、浪岡北畠氏の家臣であった朝日氏が城を構えていた場所でもありました。
 この飯詰城(高楯城)は、天正16年(1588年)に津軽為信の攻撃を受け落城した分けですが、その落城にまつわる悲話は、様々なかたちで語られ(白米城の話、朝日氏の亡霊の話、奥方の逃避行の話など)、残されています。
 ⇒拙記事「飯詰城」     ⇒拙記事「実相寺」

長円寺本堂


 そんな飯詰集落の中心に長円寺があります。山号は「太伊山(たいいざん)」、曹洞宗の寺院です。
 このお寺の創建は不明ですが、弘前市長勝寺の聖眼雲祝和尚(長勝寺十四世)が開山したと伝えられています。本堂には本尊である釈迦牟尼佛と、脇侍として文殊菩薩と普賢菩薩が祭られています。
 境内には、県の重要文化財にも指定されている鐘楼堂や六地蔵尊堂などの他に、数え切れないほどのお地蔵様や仏像、石像が立っていて、圧倒されます。中でも、ひときわ目を引くのが、たくさんの弟子達
たくさんの弟子達(地蔵)
に見守られながら横たわっているお釈迦さま。
 この大きな石像は、釈迦が入滅した姿を描いた、いわゆる涅槃像ですが、このように上を向いている涅槃像は、あまり例がなく、とても珍しいということです。それにしても大きな体、大きな足です。

幸福観音


 境内のもうひとつの巨像が聖観世音像で、「幸福(しあわせ)観音」と名づけられたこの観音様は、「その優しい御面相を拝む人々みんなが幸せになって貰いたい」という願いから、平成8年(1996年)5月に安置されたとのことですが、遠方からも幸せを祈願する大勢の人々が訪れるということです。
 本堂を背にして、すっくとそびえているその姿は、とても壮観ですが、この観音像や鐘楼堂の周りには、千体地蔵尊
千体地蔵尊
をはじめ、たくさんのお地蔵様や仏像が立ち並んでいます。よく見ると、子ども(童姿)のお地蔵様が多く、年長の者が年下の者を優しく包んでいるといった像もありました。そんな様子が、この境内全体を優しい雰囲気にしているのだと思います。⇒幸福観音を囲む地蔵 ※画像複数

◇長円寺境内と本堂 ※画像はクリックで拡大します。

 
 
六地蔵尊
釈迦涅槃像
本堂
鐘楼
幸福観音



長円寺鐘楼


 さて、以前にも少しご紹介しましたが、この長円寺の梵鐘には、次のような伝説があります。【昔、長勝寺と長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が、京都から津軽へ送られてきた。しかし、十三湊へ入ったとき暴風雨になり、雌鐘は湖底に沈んでしまった。今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだという。以来、十三湖は沈鐘湖とも呼ばれ、今でもよく晴れた日に、漁夫が水中の鐘を見かけることがあるという。しかし、人の気配がすると鐘の中から魚のようなものが現れて、たちまち泥をかきたてて見えなくなってしまうのだという。※『青森の伝説』角川書店

 この梵鐘は、
長円寺梵鐘
正徳6年(1716年)に京都で名工といわれた近藤丹波藤吉が鋳造したもので、高さ127cm、口径77cm、厚さ8cmの青銅造りで、四方に、笛、太鼓、笙、琵琶を奏する四人の天女が
梵鐘の天女
刻まれており、その音色の美しさと合わせて名鐘といわれています。私は、昨年の夏に十三湖
十三湖
を訪ねたとき、このもの哀しい伝説を知り、長円寺を訪ねたいと思っていましたが、今回、思いが叶いました。

 なお、この梵鐘は、寛永の頃に、異国船に備えるための大砲鋳造用として、さらには、昭和18年、太平洋戦争中に行われた金属回収と、2度に渡って徴用されましたが、村人の切願によって供出を免れたといわれています。 ー 地元の人々に愛され続けてきた鐘だった分けです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  名木めぐり  

流れ松と鬼「沖飯詰八幡宮」ーつがるみち130

 神社やお寺を訪ねて西北津軽を走っていると、道路際に地蔵堂や庚申塚などが立っているのをよく目にします。
 中には、鳥居や小さな祠といっしょに、たくさんの庚申塔や二十三夜塔
庚申塔・二十三夜塔
がある場所もあり、ときどき立ち寄って見たりすることもあります。
 今回は、五所川原市沖飯詰の八幡宮を訪ねましたが、道の途中に、小さな鳥居と小さな祠のそばに、形の良い松が生えている場所がありました。辺りは見渡す限り田んぼが広がっており、その姿形が引き立って、とても美しく見えます。

 この松は、通称「沖飯詰の松(おきいいづめのまつ)」と呼ばれるクロマツで、五所川原市の指定名木
標柱
にもなっているものですが、高さ約10m、幹回り6.8m、樹齢はおよそ400年という老松です。
 標柱に記されている説明によると、この老木は【もとからここにあったのでなく、かつての大洪水で飯詰から流されてきて、ここに根づいたもの。この辺り一帯が洪水で水浸しになった際、飯詰から見れば沖合にあたることから、村人は「沖飯詰」と命名した。】 ー 大雨による岩木川の氾濫は、あたかも平野部に海が出現したかのようだったということがよく分かります。この老木は、「沖飯詰」という地名の起源を物語るものとして祀られている分けです。

◇沖飯詰の松 ※画像はクリックで拡大します。

 
沖飯詰の松①
沖飯詰の松②
沖飯詰の松③
沖飯詰の松④
沖飯詰の松⑤



 この沖飯詰集落の村社となっている八幡宮は、「流れ松」から少し進んだ道路沿いに鎮座しています。
 五所川原市の鬼ッコめぐりのひとつとして訪ねましたが、車を停める場所がなく、例によって、近くの民家の庭先をお借りしました。ご主人は快く許可してくれましたが、「鬼見にきたのが・・こないだも(この間も)、だれだが(誰かが)来て見でったやー。そったらに(そんなに)めずらしいべなー。」と、にっこりと笑って話してくれました。地元の人にとっては、「鬼」は当たり前のようです。

八幡宮拝殿


 八幡様らしく、社号標のてっぺんには鳩がとまっていました。
社号標
民家の間を参道が延びていて、なかなか奥行きがある神社です。
 この八幡宮の創建の時期は、はっきりとはしていませんが、この辺り一帯の社がそうであるように、ここもまた、新田開発がほぼ整った頃(1650年~70年?)に、五穀豊穣を祈念して建立されたものと思われます。
 本殿の後ろには田んぼが広がり、実りの時期には、境内はまた違った様相を見せることでしょう。

◇八幡宮境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
二の鳥居
三の鳥居
拝殿
本殿
御神木



八幡宮二の鳥居


 鬼ッコは、二の鳥居に掲げられていました。逆光で、顔に影ができていたせいもあると思いますが、何となくその顔は優しい表情に見えました。
 お腹も突き出ており、腕の筋肉も盛り上がってはいますが、睨んだり、威圧したりという感じではなく、穏やかに人々を見守っている・・そんな印象です。丸く黒い小さな目や虎ひげに囲まれた口元など、とても親しみやすい鬼でした。

 ⇒沖飯詰八幡宮鬼ッコ ※画像複数
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(五所川原市3)ーつがるみち128

 どこの地域にも必ずといっていいほど「八幡宮」があります。熊野宮や稲荷神社と並んで、最も多い神社です。
 今回は、五所川原市内の鬼の棲む八幡宮を二つ訪ねました。
 唐笠柳(からかさやなぎ)八幡宮は、【創立年号は不詳である。元禄二年藩主信政公五所川原新田開発成就につき、当社へ御紋型燈篭二基、御幕一張奉納せられる。元禄四年六月信政公当社へ御社参せられ、御太刀、御馬奉納される。※青森県神社庁HP】とされているので、弘前藩4代藩主・津軽信政(1646年-1710年)の時代には、既に津軽氏や多くの地元民の崇敬を集めていた社のようです。

八幡宮参道


 今の時期はどこの神社もそうですが、雪解けが終わったばかりで、境内の木々も葉っぱをつけている分けではありません。少し殺風景な感じもしますが、それだけに境内の建物や石像・石碑などもよく見えます。
 八幡宮といえば鳩と馬ですが、ここの狛鳩?と神馬はとてもオシャレで、鳩のくちばしと馬の頭には、白粉が塗られていました。狛犬はマフラー?
鳩・神馬・狛犬
を首に巻いています。拝殿の中にはたくさんの絵馬。塀に囲まれた本殿の中にも狛犬がいました。

◇唐笠柳八幡宮境内・拝殿・本殿 ※画像はクリックで拡大します。

 
 
神使たち
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


八幡宮鬼ッコ


 さて、ここの鬼ッコは、拝殿の前の専用のお堂の中に納められています。以前は鳥居に掲げられていたのでしょうか、木造の少し風化した鬼です。
 その色や形は仁王様を思わせます。大きなギョロ目で睨みつけている、恐ろしい感じのする鬼です。
 他の神社では、鬼ッコは鳥居にあったり、拝殿の上の方にあったりと、なかなか間近で見ることは出来ないのですが、こうして目の前の鬼を見てみると、ほんとに丁寧に彫られていることがよく分かりました。  ⇒唐笠柳八幡宮鬼ッコ ※画像複数


 一方、こちらは同じく五所川原市内の七ツ館の八幡宮です。
 この八幡様については、【創建年代不詳。 『安政二年神社微細社司由緒調書上帳』 に 「広田組七ツ館村 一、 八幡宮一宇 右、 草創年月不詳候得共、 明暦年中 (一六五五~五八) 村中安全之為村中再建仕候」 とある。 明治六年四月広田神明宮に合祭。 明治八年二月復社。 ※青森県神社庁HP】とあり、やはり新田開発に合わせて勧請された社のようです。「村中安全之為・・」という文からは、この地域の守り神であったということが分かります。

八幡宮参道


 参道の入口付近には、二十三夜塔などが置かれていました。拝殿の隣に赤い鳥居が建っていますが、そこには馬頭観音とともに二つの祠が建っていました。
 その中のひとつを覗いて見ると現れたのは白い着物?を着た水虎様。女神形の水虎様は亀の背中に乗っている姿が多いとは聞いていましたが、ここの水虎様の足元には、確かに亀がいました。
 亀は吉兆を表す生き物だといわれますが、水の神・水虎様とともに水難事故を防ぎ、豊作をもたらすものとして、その台座に彫られたものなのでしょうか。

◇七ツ館八幡宮境内と拝殿 ※画像はクリックで拡大します。

 
二十三夜塔
末社
馬頭観音
水虎様
拝殿①
拝殿②



八幡宮鬼ッコ


 この神社の鬼ッコは、一の鳥居に掲げられていますが、実はなかなか正面から拝むことはできません。大きな米俵が、この赤鬼の体を隠しているからです。
 鳥居の真下からは見えないので、少し離れた所からカメラの目を通して見てみました。斜めの位置からはその姿形がよく分かります。
 長くとがった耳と、黄色いつり上がった目、大きな鼻、口からは牙ものぞいています。どちらかというと面長な顔立ちの鬼です。今まで見た鬼と違って、その両手は、しっかりと鳥居の笠木を持ち上げていました。
 ⇒七ツ館八幡宮鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

鬼ッコめぐり(五所川原市2)ーつがるみち127

 津軽平野を流れる岩木川に沿って、十三湖まで縦に長く延びている五所川原市。津軽地方では一番「鬼ッコ」の数が多い所ですが、水虎様とともに、「水神」として祀られている所も多いようです。今回は磯崎神社を訪ねました。
 青森県神社庁HPには、【建立年月日不詳であるが文政年中の勧請と伝えられている。明治六年旧小田川村立野神社へ合祭のところ同年復社同九年村社になる】とあり、江戸後期に建立された神社のようです。
 

磯崎神社参道


 一の鳥居からは、小高い山に向かって急な参道が延びています。なかなかきつい登りでした。登り切ったところが境内になっていて、眼下に平野が広がっています。
「磯崎」という名前からは、茨城県の大洗磯前神社などのように「海」を連想しますが、ここは津軽平野の内陸・・海ではありませんが、往時は、岩木川を渡る川船、溜池、そして水をたたえた水田など、この境内から眺められる風景は海に例えられたのかも知れません。
 御祭神は、大己貴命と、国造りにあたって大己貴命を助けたとされる少名彦命。多くの磯前(崎)神社では、この両神がペアで祭られることが多いようです。
 私が訪ねたときは、拝殿の裏側などに少し残雪もありましたが、水虎様や馬頭観音なども祀られている境内はとても静かで、落ち着いた雰囲気でした。

◇磯崎神社境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
磯崎神社入口
水虎様
馬頭観音堂
馬頭観音
磯崎神社拝殿


磯崎神社一の鳥居


 鬼は一の鳥居に掲げられています。鳥居と同じように石造りの鬼で、道行く人々を見守っているようです。
 その姿からは、かつては、厳しい表情をした鬼ッコだったと思われますが、今は、だいぶ年月が経ったせいか、その角もその頭も丸みを帯びてきているようです。
 しかしながら、つり上がった眉や、大きな「への字形」の口、筋肉質のひきしまった体などは、なかなか威厳を感じさせてくれます。
 ⇒磯崎神社鬼ッコ ※画像複数


 続いて向かったのが、種井という地区にある熊野宮です。
 余談ですが、「熊野宮(神社)」と名のつく社はとても多いです。岩木山麓から津軽半島の端っこまで広がっています。根強い熊野信仰の現れでしょうか。
 ここ種井の熊野宮は、閑静な住宅地の中にポツンと鎮座していました。青森県神社庁HPには、【創建年号は不詳である。 明治六年田川八幡宮へ合祭の処、 明治八年二月復社。 明治九年十二月村社に列せられる。 】とあります。

熊野宮社殿


 かつては、もう少し広かったのかも知れませんが、こじんまりとした境内には二十三夜塔なども建てられていました。一の鳥居をくぐり、左に折れたところに二の鳥居、その先に拝殿があります。
 この拝殿のわきに赤く塗られたお堂があったので、覗いてみたら、これまた赤い石像がありました。女神姿の水虎様です。この神社から少し進んだところは岩木川、昔は水害にも悩まされてきたのでしょう・・水神様が祀られている理由も分かります。
 この二体の水虎様、以前はその周りが朱色で装飾されていたようです。きっと鮮やかな色をしていたのだと思います。女神型の水虎様は、亀の上に乗っているものが多いとされていますが、一体の台座は亀なのでしょうか。。

 
◇熊野宮境内 ※画像はクリックで拡大します。

 
二十三夜塔ほか
水虎様①
水虎様②
熊野宮拝殿①
熊野宮拝殿②



熊野宮一の鳥居


 さて、ここの鬼ッコは、どちらかというと小粒な赤鬼です。ですが、しっかりと口を閉じ、大きな目をつり上げて睨んでいる、といった感じです。
 木造のせいか、体にひびが入っていますが、それがまた貫禄を感じさせます。体の大きさに比べて、頭(顔)がとても大きく造られており、「鬼らしい鬼」に見えます。また、指先の爪が鋭くとがっているところなど、なかなか凝った造りの鬼ッコです。
 ⇒熊野宮鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

風の守り神「立野神社」ーつがるみち125

 金木町・喜良市の鬼ッコめぐり、三つ目の社です。喜良市桔梗野に鎮座している立野神社を訪ねてみました。
 この神社は、旧名・小田川村と呼ばれた地域にありますが、【建立年月日不詳であるが寛文十二年の再建とある。 明治六年村社になり明治四十二年七月一日幣帛供進神社になり昭和二十五年九月十九日境内地譲与になった。 ※青森県神社庁HPより】とあります。先回訪れた熊野宮と川上神社のいずれの縁起にも、【明治六年旧小田川村立野神社へ合祭された】とあるところをみると、この立野神社は、この地域一帯の中心となる社であったようです。

名木説明板


 ところで、先回、金木町には「十二本ヤス」をはじめ、名木が多いということを少し紹介しましたが、それは即ち、町全体が古木・老木の保護に力を入れているからで、名木の側には説明板が立っており、樹齢等について、分かりやすい説明が記されています。
 熊野宮の隣にあった地蔵堂のクロマツや境内のイチョウの木など、印象に残るものばかりでした。この立野神社にもいくつか御神木がありましたが、中でも、樹齢500年といわれる「センの木」も町の名木に指定されているようです。
 ハリギリ(針桐)とも呼ばれるセンの木は、日本では北海道を中心に多く分布するとされていますが、その特徴として、【肥えた土地に自生するので、開拓時代はこの木が農地開墾の適地の目印であった。※wikipediaより】といわれています。ー この神社のセンの木もまた、一帯の農地開拓の目印だったのでしょうか。
 ⇒金木町名木 ※画像複数

立野神社拝殿


 さて、この立野神社の御祭神は、級長津彦命と級長津姫命ですが、初めて知った神様で、恥ずかしながら私は読めませんでした。
 級長津彦命(しなつひこのみこと)は、【『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。※wikipedia他より】ということで、「風の神」な分けです。

 風は、太陽や水とともに、稲作にとって欠かせないもので、暴風は大きな被害をもたらすため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになったとされています。
 ここ金木町の辺りも、以前は日本海はもちろん、岩木川や十三湖も今よりもずっと内陸に入り込んでいた分けで、時として強風にさらされることも多かったと思われます。加えて、稲の穂が出始める頃の「やませ」と呼ばれる冷たい北東の風による冷害や、刈り入れ時の台風による被害などは、農民を苦しめ続けてきたのだと思います。

◇境内の様子です。 ※画像はクリックで拡大します。

 
立野神社参道
庚申塔など
天満宮?
稲荷神社
拝殿



立野神社一の鳥居


 鬼は、一の鳥居にでーんと座っていました。大きく張り出したお腹を持てあますように、両足を投げ出し、ゆったりと堂々と居座っている・・そんな感じの赤鬼です。貫禄十分といったところでしょうか。
 その姿は修験者のようにも、その顔は獅子頭のようにも思えます。大きな存在感のある鬼ッコでした。
 この神社の御祭神が「風の神様」ということもあってか、私にはこの鬼ッコが、よく目にする「風神」のようにも見えました。この鬼は、地域の風の守り神として掲げられたのかも知れません。
 ⇒立野神社鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

鬼ッコめぐり(五所川原市1)ーつがるみち124

 五所川原市は、鳥居に鬼ッコを掲げている神社がとても多いところです。
 中でも金木町の神社には、なかなか味わいのある面白い鬼ッコがたくさんいますが、その金木町の喜良市(きらいち)を訪ねました。以前にご紹介した奇木「十二本ヤス」のあるところです。
 十二本ヤスは、道路沿いからしばらく走る山の中にありましたが、この喜良市の集落の中心部に熊野宮と丹生川上神社
熊野宮と丹生川上神社
という二つの社が鎮座していて、どちらの神社の鳥居にも鬼が掲げられています。

熊野宮拝殿


 熊野宮は、【建立年月日不詳であるが当村草創のとき建立天正十二年再建。明治六年旧小田川村立野神社へ合祭のところ同八年復社同九年十二月村社になる。 ※青森県神社庁HPより】とあり、戦国時代の末期にはこの地域の産土社となっていたようです。
 御祭神は、多くの熊野神社同様、伊邪那岐命・伊邪那美命・事解男命です。事解男命(ことさかのをのみこと)は、黄泉平坂における伊弉諾尊と伊弉冉尊の別離の時、伊弉諾尊が別れを告げた際に、その唾から速玉男神(はやたまのをのかみ)が生まれた後、掃き払ったときに生まれた神です。「掃き払う」ということは、「身についた穢れを落とす」ことにつながることから、この神は魔除の力をもつ神とされ、伊弉諾尊、速玉之男神と共に熊野神社に祀られることが多いとのことです。

 金木町を回ってみると、いたる所に「名木・神木」があり、その説明板が立てられていますが、この神社の境内にも注連縄が張られた御神木が何本かありました。いずれも樹齢が300~500年のもののようです。⇒熊野宮御神木 ※画像複数
 また、狛犬
熊野宮狛犬
など神使が頬被りをしている姿は、この金木町特有のものですが、ここでは、手水舎の足元にあるチビ狛犬
手水舎
にも手ぬぐいがかけられていました。

◇拝殿の様子です。 ※画像はクリックで拡大します。

熊野宮拝殿①
熊野宮拝殿②
熊野宮拝殿③
熊野宮拝殿④
熊野宮拝殿⑤


熊野宮一の鳥居


 さて、鬼ッコの中にはいわゆる「力士型」といって、お相撲さんの姿をしているものも多いのですが、ここ熊野宮の鬼は正に関取。力士そのものです。
 髷を結った頭に白い肌。眉もその目も優しい感じで、白い歯が印象的です。米俵の上に掲げられた様子は、豊作を共に喜び合っているようです。
⇒熊野宮鬼ッコ ※画像複数


 続いて、丹生川上神社へと足を伸ばしました。とはいってもこの神社は熊野宮のすぐそばです。この神社もまた、【建立年月日不詳であるが天正十二年の再建にして明治六年旧小田川村立野神社へ合祭のところ明治八年復社。 ※青森県神社庁HPより 】とあり、熊野宮とほぼ同時期に建立された社だと思われます。
 御祭神は水波女神です。水波女神(ミヅハノメカミ)は、罔象女神(みつはのめのかみ)とも呼ばれ、闇おかみ神や高おかみ神と並ぶ代表的な水神とされています。
 灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨、止雨の神を祭るこの神社も、農業にとって欠かせない水の安定した供給を願って建てられたものなのでしょうか。

川上神社拝殿


「丹生川上神社」といえば、奈良県吉野郡の社が有名ですが、ここは、その末社といえそうです。
 境内には、御神木の根元にたくさんの庚申塔などが、まとめられて置かれていました。
 ここでもまた、狛犬や神馬達が頬被りをしていますが、何と、石燈籠にも手ぬぐいが巻きつけられていました。寒さから燈籠を守る・・という分けではなさそうですが。。ちょっとした遊び心かな。

◇拝殿ほか ※画像はクリックで拡大します。

   
川上神社境内
庚申塔など
狛犬
神馬
石灯籠


川上神社一の鳥居


 一の鳥居に掲げられている鬼ッコは、ここも「力士型」です。熊野宮の柔和な鬼とは違って、目をつり上げ、厳しい表情をした赤鬼です。
 頭部が少し欠けているので、よけいに険しい姿に見えるのかも知れません。相撲に例えていうならば、熊野宮の鬼は勝負が終わって安堵している鬼、こちらは、これから勝負に臨もうとしている鬼・・そんな感じがします。何となく、ピリピリした緊張感が伝わってくるようです。
  ⇒川上神社鬼ッコ ※画像複数

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  水虎様  

水神と鬼2「高おかみ神社」ーつがるみち120

 津軽の西北地方及び五所川原市は、農業潅漑用の溜池がとても多い所です。
 新田の開拓にあたって、沼地の埋め立てや用水路づくりに苦心してきたことは、各溜池の水門入口付近に立っている「工事記念碑」や、「水の神様」を祀る神社が周辺に点在していることからも、そのことがよく分かります。
 以前、同じ五所川原市で、大きな溜池のそばに水神「闇おかみ神」と「鬼」を祀っている闇おかみ神社を訪ねましたが、今回、は同じように「二の沢溜池」という大きな溜池のそばにあり、同じく水神を祀っている高おかみ神社に行ってみました。

高おかみ神社一の鳥居


 集落が続く道路沿いに、ひときわ高い一の鳥居が立っていますが、道路を挟んだ向かい側に、ひとつのお堂があります。中を覗いてみると、十字の前掛けをして晴れ着を着せられたお地蔵様が、たくさん納められていました。化粧地蔵のお堂です(お化粧は、あまり施されていませんでしたが)。
 幼くして亡くなった不幸な子ども達の霊を慰めているとされるこの化粧地蔵・・ここにも津軽独特の風習が残っていました。辺りの溜池などで水難事故に遭った子どももいたのでしょうか。
 ⇒化粧地蔵堂(画像複数)

高おかみ神社境内


 この高おかみ神社は、【文化文政の頃当村の新岡仁兵ヱ、 其田弥太郎両人の内神を産土神として祀る。 明治六年に嘉瀬八幡宮へ合祭のところ同八年復社。 同九年村社になり明治四十年六月十二日幣帛供進神社に指定せられる。※青森県神社庁HP】とありますが、この地を切り拓いた村人の守り神であったようです。
 御祭神の「高おかみ神」は、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとされる神で、「闇おかみ神」と同一神であり、「闇」は谷間を、「高」は山の上を指すとされています。「おかみ」は水を司る「龍」であることから、祈雨、止雨、灌漑の神として信仰されている分けです。村人にとっては、稲作に欠かせない「水」を恵んでくれる神様だったのですね。

◇境内の様子です。 ※画像はクリックで拡大します。

狐像と狛犬
交通安全祈願碑
神馬堂
馬頭観音
神馬


 拝殿の脇に小さな祠
拝殿脇の祠
がいくつか並んでいたので覗いてみました。そのうちのひとつに、観音様のような女神様のような
水虎様
像が納められていました。実は、これは水虎様だったのです。水難で亡くなった子どもの供養と、水難事故防止祈願のために祀られたといわれる水虎様・・私は、その姿は河童
実相寺の水虎様
だと思っていましたが、
【水虎様は、すべて河童の形をしているわけではありません。岩木川を境にして西側には河童の形をしたもの、東側には、カメに乗った女神様の形をしたものが多いのです。河童の形をした神様も不思議ですが、岩木川を境にして形が違うのも不思議です。※HPまるごと青森「津軽不思議発見!水虎様」より】なのだそうです。確かに、ここ高おかみ神社の地区は、岩木川の東側で、水虎様が「女神形」なのも頷けます。
 西と東を比べれば、西の方が土地が低い分けで、いったん岩木川が氾濫すると湿地帯が多かった西側は、被害も大きく、事故も多かったと思われます。東側も、もちろん、そうだったと思いますが、反面、水の管理・潅漑は土地が高い分大変だった分けで(大小の溜池はその証)、そういった農業用水の確保の安全も「水の神=水虎様」に祈願したのではないでしょうか。結果、女神形が生まれた・・などと思ってしまいます。

高おかみ神社二の鳥居


 さて、鬼ッコは二の鳥居にありました。ここにもまた、農業や潅漑を手助けしてくれる優しい鬼が祀られています。全身が赤、緑っぽい「垂れ目」の鬼で、とても愛くるしい姿をしています。
 私が鬼ッコの写真を撮っていると、境内の掃除をしていた土地の方が、いろいろとこの神社の由緒や、かつて、この地域を開拓した人々の話を聞かせてくれました。話の節々に、この神社やこの地域に対する愛着が感じられました。
 その方の話によると、「この間も、マイクロバスで大勢の人がやってきて、この鬼ッコを見て帰って行った。」とのことです。
 ⇒高おかみ神社鬼ッコ(画像複数)

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: つがるみち  鬼ッコめぐり  

水神と鬼「闇おかみ神社」ーつがるみち107

 以前、弘前市・十面沢(とつらざわ)の貴船神社を訪ねたときに、その祭神が「闇おかみ」であることを知りました。
「闇おかみ」は水(淡水)を司る神様で、十面沢のみならず、各地に鎮座している「貴船神社」の祭神となっている分けですが、中には、祭神名そのまま「闇おかみ神社」を名乗る社もいくつかあります。今回は、五所川原市にある「闇おかみ神社」を訪ねてみました。

闇おかみ神社


 この神社は、五所川原市の神山という地区にありますが、この辺り一帯には「長橋溜池」をはじめ、大小の溜池が点在していて、稲作の「源」になっています。
⇒闇おかみ神社付近
闇おかみ神社付近

 闇おかみ神は、水を司る水神で【農耕民族にとって水は最も重要なものの一つであり、水の状況によって収獲が左右されることから、日本においては水神は田の神と結びついた。※wikipediaより】とされています。
 田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿い、または水源地に祀られていることが多く、「水分神(みくまりのかみ)」とも呼ばれています。
「みくまり」の「くまり」は「配る(くばる)」で、即ち、稲作にとって重要な水を分け与える・・という意味ですが、ここ闇おかみ神社の一帯は長橋溜池の側、いわば「分水点」であり、正に水神を祀る場所にふさわしい所といえます。 

闇おかみ神社拝殿


 参道
闇おかみ神社参道
には、二体の狛犬と神馬の像が立っています。また、隣には、境内社の金比羅神社
金比羅神社参道
もありますが、ここにも狛犬がいます。これらの狛犬や神馬達・・いずれも頬被りをしており、金木町の八幡宮と同様、ここにも「神の使い」に対する地域の心づかい(寒さから神使を守る)が感じられます。
 ⇒狛犬と神馬(画像複数)

 
 拝殿の中に
拝殿内
、ひとつの新聞記事が額に入れられて掲げられていました。境内の神木である「クロマツ」の移植の記事です。このクロマツは樹齢が約350年という名木ですが、道路整備のため現在の所へ移植されたとのことです。
 ⇒境内のクロマツ(画像複数)

 金比羅神社の参道に雪に埋もれた小さな祠
水虎様
が顔を覗かせていました。中を見ることはできませんでしたが、これは「水虎様」のようです。
 水虎様は、水難事故で亡くなった子どもの供養とその安全を守るための水神信仰ですが、ここもまた沼地に囲まれた土地・・昔は悲惨な事故もあったのかも知れません。

 
 
闇おかみ神社鬼ッコ①
 
闇おかみ神社鬼ッコ②
 
闇おかみ神社鬼ッコ③


 さて、ここ闇おかみ神社には、何と三体の鬼ッコがいます。ここの鬼ッコは鳥居に掲げられているのではなくて、入口に二体、拝殿に一体あります。
 入口の社号標の前に片膝をついて、どっかと座っているのが「青鬼」です。
青鬼
横綱?をしめ、赤い化粧まわしをしているその姿は、どう見ても「鬼」というよりは「関取」といった感じですね。

 一方こちらは、御神木・クロマツの隣の「緑鬼」。
緑鬼
長い赤い角、つり上がった眉と黄色い大きな目、とがった手足の爪など、いかにも鬼らしく怖い感じがします。自分専用の「家」の中に納まっていました。

 三体目は、拝殿に掲げられている「赤鬼」です。
赤鬼
こちらは、垂れた眉、まん丸いどんぐり目、上向きの鼻など、どこかとぼけた表情をしていて、親しみやすい優しい鬼、といった感じです。

 ー 津軽の鬼は、稲作の神様でもあり、荒れ地を開墾したり、田植えや稲刈りのための道具をもたらしたり、田んぼに水を引くための用水路を造ったりと、村人に感謝されている分けですが、この神社に祀られているのは、「闇おかみ神」と同様、稲作に不可欠な水を司る神様として崇められてきたからだと思われます。
 溜池から田んぼに水を引くという作業は、大変困難な仕事で、それこそ「鬼の神通力にすがりたい」という思いだったのでしょうか。

                              ☆つがるみち☆                            
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山の神「十二本ヤス」ーつがるみち90

 昨年の12月初旬に、太宰治のあしあとを訪ねて金木町へ出かけましたが、帰り道、喜良市(きらいち)という所に寄りました。ここには「十二本ヤス」
「十二本ヤス」地図
という名木があるからです。
 よく知られた巨木で、ネットや雑誌などで何回か見ていて、雪が降る前に一度訪ねてみたいと思っていました。
「ヤス」というのは、魚などを突き刺して獲るフォーク形の漁具です。この木は、幹の途中から12本の枝に分かれ、巨大なヤスのように見えることから「十二本ヤス」と名づけられたとされています。
 その姿形から、地元の人々に畏怖され、「神木」として崇められてきた巨木で、大正時代に伐採の話もあったと言われていますが、「祟り」を恐れて、誰一人として斧を振るう者はいなかったそうです。

※画像はクリックで拡大します。画像と○○○○をクリックしながらご覧ください。

十二本ヤスへ


 金木町から喜良市方面へ車を走らせて行くと、途中に「十二本ヤス」と書かれた案内板が見えてきます。
案内板

 ここから延々と山道を数km進むと古びた鳥居があり、そこから参道?
十二本ヤス鳥居
が延びていました。登り切ったところに説明板。前の方に小さな赤い鳥居
赤い鳥居
が見えます。
 その奇怪な姿
十二本ヤス①
を見たときは「おっ・・。」と声を上げてしまいました。
 以前、入内の石神様
入内の石神様
を見たときも驚きましたが、それ以来です。あちらが「奇石」ならば、こちらは「奇木」。その異様な姿には圧倒されます。

十二本ヤス


 この十二本ヤスは、「ヒノキアスナロ(ヒバ)」の木で、説明板には、【樹高が33.46m、幹回り7.23m、樹齢は800年で、平成2年(1990年)に「新・日本名木百選」に選ばれている】と書いてありました。
 何というか、人の手に例えるならば根元は手首。その上に握り拳のような巨大な幹が広がり、それこそ「天に向かって」真っ直ぐに伸びている・・といった感じです。横や後ろから見てみると、また違った表情を見せますが、その奇抜さは変わらず、一度見たら忘れがたい印象を与える大木です。大げさですが、道に迷ってこんな樹木に出合ったら、そこに「神様」をみるのではないでしょうか。。  ⇒十二本ヤス(画像複数)

指揮官の決断


 根元のみならず幹の中にも
十二本ヤスの鳥居
鳥居が置かれているほど、古くから崇められてきたこの十二本ヤスですが、次のような伝説があります。【・・その昔、弥七郎という評判の臆病者がいた。みんなの笑い者にされていた弥七郎は、ある日、魔物を退治しようと決心し、山に入った。夜も更けたころに「弥七郎」と呼びかける怪しげな声が聞こえてきたので、声のする方へマサカリの一撃を加えたところ、「ギャッ!」という悲鳴が聞こえ、年老いた白い毛の大猿が血に染まって死んでいた。弥七郎は、その供養のためヒバの若木を植えたところ、成長するにつれてその木は異様な姿になった。※wikipediaより
 ー この異様な木は、【新しい枝が出て13本以上になっても、その分古い枝が枯れて12本以上になることがなかった。】とされ、その不思議さや「12」という数字から「山の神」として神聖視されてきたといわれています。

 多くの観音堂や神社には、山の神を祀るお堂
山神堂 ※左:今泉観音堂 右:長谷澤神社
がありますが、古来、山の神は「12」という数と深い関わりがあるとされています。山下康博さんの著書『指揮官の決断』は、明治35年の八甲田雪中行軍の顛末を、遭難した青森五連隊と生還した弘前三十一連隊を比較しながら描いた作品ですが、その中で「山の神」について、次のように書かれています。【「山の神」は山を守り支配する女性神として信仰され、「十二様」とも呼ばれる。これは、山の神に十二人の子どもがいたとされることに由来する。子だくさんであることから、豊かな実りや猟果をもたらす神として祀られてきた一方、禁を破った者には祟りをもたらす神として、山で暮らす山民や狩猟民に畏れられてもきた。そのため、マタギや炭焼き、木こりなどは毎月十二日に山に入るのを避け、仕事仲間が十二人の場合には木彫りの人形を伴い、十三人にして入山したという。まして、旧暦の山の神の日の雪山への遠出は禁忌中の禁忌であった。※山下康博『指揮官の決断』中経出版

 この「山の神の日」とは、新暦で1月24日、旧暦では12月12日にあたり、この前後は天候が大荒れになると信じられていました。青森五連隊は、青森市・田茂木野
雪中行軍兵士達が眠る陸軍墓地:青森市幸畑
で「山の神の日に八甲田山に入るのは死にに行くようなものだ」という村人の諫言を無視して行軍を続け、遭難する分けですが、その彷徨がはじまったのが即ち1月24日(旧暦12月12日)だった分けです。

   ☆つがるみち☆
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太宰治のまち3「続・雲祥寺」ーつがるみち69

 【六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ、二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさんの本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。】 ー 太宰の小説『思ひ出』や『津軽』に登場する「子守のタケ」は、越野タケさんという方で、その実家は雲祥寺の近くにあったため、広い境内は彼女の小さい頃の遊び場でした。そんなこともあり、タケは幼い太宰を連れて、たびたびこのお寺を訪ねたといわれています

雲祥寺山門


 雲祥寺は山号「金木山」を称する曹洞宗のお寺で、由来によると、その創建は慶長元年(1596年)、「九戸の乱」を逃れ、津軽地方に至った南部櫛引村領主・武田甚三郎が一緒に逃れてきた腹心の繁翁茂和尚と共に一寺を建立したのが始まりとされています。
 この武田家はこの地に土着し、後に津軽藩を経済的に支えた「金木屋」となりますが、現在の山門は、その金木屋が亨和三年(1803年)に寄進したものです。因みに、町名「金木町」はこの屋号(金木屋)から生まれたともいわれています。
 山門の上の方に鐘楼堂
鐘楼堂
が乗っている姿はとても特徴があります。両脇には迫力満点の仁王像。
仁王像
そして、その由緒を示すように、一対の武田菱の寺紋
武田菱の寺紋
が刻まれていました。

雲祥寺本堂


 本堂は青森特産の銘木である総ヒバ造りで、どっしりとした風格のある建物です。
 この本堂の前に一本の「老松」
境内の老松
が立っています(寝そべっているというべきか)。樹齢500年以上といわれるこの老木は、雲祥寺創建以前からここにあったものとされていますが、私にはその姿形が大蛇(龍)のようにも見えました。太宰とタケもまた、この老松を見ていたのでしょうか。。

雲祥寺祭壇


 本堂の祭壇中央には「聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)」と記された額が掲げられていました。(にわか勉強ですが)「聖諦第一義」とは、「根本の真理」を表す仏教用語だということで、達磨大師にまつわる故事が残されています。
ー 昔、熱心な仏教信者であった梁の武帝は、中国へ禅の教えを伝えにやって来た達磨大師と会見し、「自分が為してきたこと(寺院の建立、仏典の写経、高僧の供養など)にはどんな功徳があるか」と問うたとき、達磨は「無功徳(ご利益なんか何にもない)」と答えたとされ、次いで「聖諦第一義とは如何」という質問には、「廓然無聖(かくねんむしょう)・・そういう尊いものなど何処にもない」と応じたのだとか。。

 太宰がこの「聖諦第一義」という言葉をどのようにとらえていたのかは分かりませんが、本堂の中には自筆と思われる色紙
色紙・聖諦第一義
も飾られていました。お寺からお願いして書いてもらったものでしょうか。

 再び『思ひ出』から・・【たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放(つ)けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。】

 太宰が「恐ろしくて泣き出した」ものは寺宝の「十王曼陀羅」
「十王曼陀羅」
という地獄絵で、作者は不明ながらも、江戸初期の終わりか中期の初め頃のものとされています。全て金箔が用いられているため、現在でも絵柄ははっきりしていて、近づいてみるとその迫力に圧倒されます。
十王曼陀羅巻一
太宰が『思ひ出』によって紹介して以来、見学者も増えたとのことです。

 雲祥寺は、幼い頃の太宰の思い出(タケとの思い出)がいっぱい詰まったお寺でした。後年、太宰はこの「母のように慕っていた」タケと小泊村で30年ぶりに再会しますが、その様子は小説『津軽』に生き生きと描かれています。
 現在はそこ(北津軽郡中泊町小泊)に、小説「津軽」の像記念館があり、太宰とタケの再会の場面
太宰とタケ
を描いた像が建てられています。

                               ☆つがるみち☆ 

◇この一年間、拙いブログを訪れていただいた皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。皆様よいお年をお迎えください。 


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太宰治のまち2「雲祥寺」ーつがるみち68

 金木町には「太宰治記念館」をはじめ、郷土の作家・太宰治を「物語る」ものが数多く残されています。
 人々の憩いの場所でもある「芦野公園」は、芦野湖を含む約80haの自然公園。園内には2,200本もの桜の木が植えられており、「日本さくら名所100選」にも選ばれている公園で、弘前公園と並ぶ桜の名勝地です。
 ここは幼い頃に太宰もよく遊んだ所だそうで、園内を「走れメロス号(津軽鉄道)」
園内を通る津軽鉄道
が走っており、橋のたもとには「太宰治文学碑」も建てられています。この文学碑
太宰治文学碑
には、「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」という、ヴェルレーヌの詩の一節が刻まれており、上部には「不死鳥」がのっていますが、これは「太宰の生まれ変わり」を意味するものなのだそうです。この碑の前では、例年6月19日(太宰の誕生日)に、生誕祭(以前は「桜桃忌」と呼ばれていた)が開催されます。

津軽三味線会館


 ところで金木町は「津軽三味線」が生まれたまちとしても知られていますが、芦野公園の一角にも「津軽三味線発祥之地」
津軽三味線発祥の地
という記念碑が建っています。

 津軽三味線は、バチを叩きつけるように弾くその打楽器的な奏法と、速いテンポの曲が特徴とされますが、明治時代に津軽地方で「ボサマ(坊様)」と呼ばれる盲目の旅芸人が家々を回り、軒先で三味線を弾いて、お金や食べ物をもらって歩く「門付け(かどづけ)」の芸として広まったといわれます。
 その始祖が、金木生まれの「仁太坊(にたぼう)本名:秋元仁太郎」という人で、仁太坊は【幼くして天然痘にかかり生死をさまよった末に失明してしまった。さらに子供時代に両親を失って天涯孤独となった。彼は生きるために門付けを行い、毎日の糧を求めて三味線を弾き歩いた。他のボサマより目立つために、より大きな音・派手な技を追求するようになり、やがて「叩き奏法」を編み出して自分の三味線芸を創り上げていった。※Web『発祥の地コレクション』より】といわれています。弟子達には、「人真似で無く汝の三味線を弾け!」と教え、多くの後継者達を育てたのだとか。

 金木八幡宮の隣の「津軽三味線会館」には、津軽三味線の歴史や民謡、郷土芸能等を紹介している展示室があり、多目的ホールでは津軽三味線のライブステージなども行われています。

雲祥寺入口


 この津軽三味線会館の道路を挟んだ向かい側に「雲祥寺」という寺院がありますが、ここもまた太宰の「幼少時の思い出」
雲祥寺案内
が詰まっているお寺です。

 入口から中へと進むと、地蔵堂
雲祥寺地蔵堂
があります。その側に、後生車
雲祥寺後生車
がありますが、「後生車」とは卒塔婆の一種で、通る人に塔婆にある輪を回してもらうことで、供養になるといわれるものです。幼い頃、太宰は当時の後生車の鉄の輪を日の暮れるまで回したといわれていて、『思ひ出』の中で【 そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆が林のやうに立つてゐた。卒堵婆には、滿月ほどの大きさで車のやうな黒い鐵の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからからして、やがて、そのまま止つてじつと動かないならそのした人は極樂へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆にれば地獄へ落ちる、とたけは言つた。】 と述懐しています。
 後生車の上には「汝を愛し、汝を憎む」と刻まれています。これは、小説『津軽』にある、太宰の「故郷に贈る言葉」で、後に郷土の「金木文化会」発会式に出席した折りも、機関紙「金木文化」に同じ言葉を寄せたとされています。
 ー 人一倍愛着を持ちながらも、自分を(その生き様を)拒み続ける故郷・・そんな故郷に対する太宰の複雑な思いや心の葛藤を思わせる言葉です。

奥津軽大観音


 後生車を見た私は山門
雲祥寺山門
へと向かいましたが、その側に巨大な観音様が立っていました。
 「奥津軽大観音」と名づけられたこの観音像は高さが約10m。平成13年11月に完成したものです。雲祥寺HPでは、その建立について、【いよいよ新しい世紀が始まりました。この難値難遇の節目の秋(とき)、雲祥寺では「奥津軽大観音」を造立するという発願を立てました。思えば過ぎ去った20世紀は戦争の100年であります。愛する夫、愛する妻、そして・・愛する子を大勢の方々が失いました。新しい100年が今始まりました。この世紀を平和と安らぎの100年とするべく悲願を込めてこの造立を決意した次第です。】と紹介しています。
  ⇒奥津軽大観音

                          ー 次回へ続きます。

                               ☆つがるみち☆
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太宰治のまち1「金木八幡宮」ーつがるみち67

 つがる市・高山稲荷神社から五所川原市・金木町へとやってきました。
 金木町は太宰治のふるさと。太宰は自分が生まれ育ったまちを【金木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位置し、人口五、六千人の、これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば、水のように淡白であり、悪く言えば、底の浅い見栄坊の町ということになっているようである。※小説「津軽」より】と語っています。
 町の中のあちこちに太宰の「小説の一節」
町の案内板
が立てられており、この町全体の歴史や雰囲気を伝えているようです。金木町を訪ねるのは今年2回目。夏には「川倉芦野堂」に行きましたが、今回は町の中心部を訪ねてみました。

太宰治記念館


 太宰の生家は今は「太宰治記念館」となっていますが、太宰ミュージアム公式サイトでは次のように紹介しています。【太宰治記念館「斜陽館」は、太宰が生まれる2年前の明治40年(1907)、父・津島源右衛門によって建てられた豪邸です。和洋折衷・入母屋造りの建物は、米蔵にいたるまで青森ひばが使用され、どっしりした重厚感が特徴となっています。国の重要文化財建造物に指定され、明治期の木造建築物としても貴重な建物。太宰はここで、家の商売や自らの立場を感じ、兄弟の間にも存在する身分の差を実感。親代わりの叔母きゑ、子守のタケとの出逢いと別れを経験し、成長していきました。】 ー 昭和25年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くの太宰ファンが訪れていましたが、平成8年に旧金木町が買い取り、現在に至っています。館内には
記念館内
蔵を利用した資料展示室があり、太宰が着用したマントや執筆用具、直筆原稿、書簡などが展示されています。

金木八幡宮拝殿


 この記念館のすぐそばに「金木八幡宮」があります。縁起によると、その創建は大永年間(1521年~27年)で、当時の浪岡城主・北畠具永が勧請したのが始まりとされています。天正年間(1573年~91年)には、津軽為信が戦勝祈願を行ったのをはじめ、4代藩主・津軽信政、5代・信寿の治世には、新田の開発成就祈願が行われたと伝えられています。以後、津軽藩歴代藩主の庇護のもと、霊験あらたかな神社として、安永3年(1774年)には「金木組24ヵ村」の総鎮守に選定され、広い信仰を集めるようになったとのことです。
 社殿は、明治38年(1905年)に焼失しましたが、41年には復興。境内には「寺子屋」があり、
拝殿前説明板
後に「尋常小学校」になったとのことですが、太宰はここで遊んだり、子守のタケが借りてきた本を読んでいたといわれています。

 いくつか鳥居をくぐって境内に入ると拝殿が見えてきます。
拝殿
境内には、「八幡様のお使い」とされる鳩や神馬、狛犬の石像がありますが、面白いのはいずれも手ぬぐいで頬かむりをしていることです。このことの説明書き
頬被り説明
が立っていました。それによると氏子の皆さんが「冬の厳しい寒さや夏の暑い日差し」から神社を守るために、誰からともなく「神使」達に手ぬぐいを被せるようになったのだとか。。
  ⇒頬被りをした石像達

金木八幡宮本殿


 境内には、津軽地方の神社の特色を記した説明書きも立てられていました。岩木川沿いには、鳥居などに「鬼が住む」神社が30数ヶ所もあるといわれていますが、この「津軽の鬼っこ」
「鬼っこ」説明 左:金木八幡宮説明書き 右:金木町三柱神社の鬼
についても書かれています。
 また、各神社の大祭などでは、たびたび「神楽」が奉納されますが、「津軽神楽」はその代表的なものです。その「津軽神楽」の由緒
「津軽神楽」の由緒
について書かれたものもあります。それによると、「宝永7年(1710年)に4代藩主・津軽信政が没した際、堰神宮(藤崎町堰神社)の神主・堰八豊後守安隆は、信政の神意にかなうような神楽を献上すれば、神道や地方文化の発展に寄与できると考え、(信政が傾倒していた)吉川惟足の流れの神楽の伝習を受け、これを津軽の社家の人々に伝えたのがはじまりとされる。」とされています。

 ー 藤崎町の「堰神社」といえば、人々のために自ら「人柱」となった堰八太郎左右衛門安高の霊を祀る神社です。私はこの「津軽神楽」の由来は全く知らなかったのですが、こうして、以前、自分が訪ねた社とのつながりを「発見」でき、楽しい思いをしました。今年はその堰神社において「津軽神楽創始300年」
「津軽神楽創始300年」※地元紙「陸奥新報」記事より
を記念して神楽が厳かに奉納されたようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 五所川原市   Tags: 津軽三十三寺社巡り  

「松倉観音堂」ー津軽三十三寺社巡り25-2

 四苦八苦しながら(少し大げさですが)、やっとたどりついた松倉神社。風がとても心地よく感じられます。出迎えてくれたのは、鮮やかな着物を着た観音様やお地蔵様達でした。人の姿と見間違えてしまいそうです。中には、「自然の石をお地蔵様に見立てたのか?」と思わせるようなかわいらしいものもありました。
 杉の木立に囲まれところに拝殿があり、中を通り過ぎたところに観音堂がありました。

↓松倉神社境内 ※クリックすると拡大します。
松倉神社①
松倉神社②
松倉神社③
松倉神社④
松倉神社⑤
松倉神社⑥
松倉神社⑦
松倉神社⑧
松倉神社⑨
松倉観音堂


 松倉観音堂は延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が創建したと伝えられていますが、その後、法然の高弟であった金光上人が承元4年(1210年)に津軽を訪れ、ここに「十一面観世音菩薩」を安置し、信仰の霊山としたともいわれています。いずれにしろ、ここ梵珠山一帯は中世からの山岳信仰の中心地。観音堂も古くから25番札所として、三十三霊場のひとつに選ばれていました。
 明治になると、「松倉神社」となって、十一面観音像は上納させられましたが、後に霊場が復活された際、新たに「馬頭観世音菩薩」が本尊となり、現在に至っています。

 さて、この観音堂、”奥が深くて”、実はお堂の後方に急な岩場があります。そこを上り詰めたところが松倉山の頂上。頂には3つの小堂があり、巡礼の人々はこの小堂にも参拝しているようです。私も登ってみることにしました。

 岩場
岩場
にはロープが渡されており、それに従って登っていくと、間もなく岩と岩の間から小堂
小堂
が姿を現しました。気合いを入れてもうひと登りすると視界が開けます。頂上からは梵珠の山々や津軽平野を望むことができます。晴れた日には遠く日本海も望めるとか。。巡礼の人達もここに立つと、満足感と開放感を感じるのではないでしょうか。

 3つの堂宇は勾配にそって建てられており、下には「大国主神」、続いて「小彦名神」、そして頂上には「大山祇神」が、それぞれ祀られていました。並んで立っている様はとても趣があります。

↓松倉山山頂 
松倉山山頂①
松倉山山頂①
大国主神
少彦名神
大山祇神
松倉山頂③
松倉山頂④


 ちょっとした登山気分を味わった松倉観音堂。様々な形の老木・古木も発見できました。その中でも一番はこれ!
大天狗?
・・・大天狗か。。。

                        ☆津軽三十三寺社巡り☆
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「松倉観音堂」ー津軽三十三寺社巡り25-1

 津軽三十三寺社巡りも、18番小泊「海満寺」まで辿ることができました。この先をさらに進むと竜飛岬
竜飛岬※トリップアドバイザー提供
。19番札所「義経寺」からは、津軽半島をぐるっと一巡りすることになります。日程的にきつい面もあるので、後日、日を改めて訪ねることにしました。巡礼の順番は変わってきますが、25番以降の札所を先に訪ねてみたいと思います。
 そういう分けで、まずは25番札所松倉観音堂へ。津軽三十三霊場の中で、一番の難所といわれているところです。

 現在は松倉神社となっているこの観音堂の付近には、梵珠山(ぼんじゅさん)という山があります。標高468mのこの山は、そんなに高くはないものの、頂上から津軽平野一円が見渡せるため、古くから「聖山」として崇められてきました。その昔、道昭上人がこの山に、釈迦、文殊、普賢の三尊を祀ったとされており、「梵珠山」の「梵珠(ぼんじゅ)」は「文殊」菩薩からきたものであるとされています。そういう由来もあり、この山は8世紀頃から、修験者達の「聖地」とされてきました。
 辺りには、馬ノ神山鐘撞(かねつき)山など、古くからの信仰を思わせる山々も連なっています。また、山麓には「大釈迦(だいしゃか)」という地名もありますが、これは、8世紀後半、桓武天皇の時代に、鬼門封じのために堂舎を建立して釈迦像を安置したことに由来するといわれています。ー 古(いにしえ)からの言い伝えが残る梵珠山一帯。今は、「県民の森」に指定され、登山道、遊歩道が完備され、ハイキングや子ども達の自然観察の場として賑わっています。 ⇒梵珠山付近
梵珠山付近


 この梵珠山と松倉観音堂は遊歩道でつながっていて、梵珠山を通って観音堂へ行くこともできます(その逆も)。ただ、梵珠登山となるとそれなりに準備も必要なので、私は、直接観音堂へと向かいました。砂利道を歩くような速さでゆっくり車を走らせ数㎞。やっと参道入口
参道入口
につきました。赤い鳥居
赤い鳥居
をくぐると、三十三霊場の石標
三十三霊場の石標
が見えます。ここからいよいよ登りが始まります。
 やっぱりというか、予想通りというか、予想以上というか。。。どこまでいっても先が見えず、フーフーいいながら、何回も休み休み登りました。勾配は決して急な分けではないのですが、とにかく長い道のりです。ここでは、登山用のストックが大変役にたちました。しかし、何といっても、一番助けてくれたのは、西国三十三の観音様たちです。数を数えながら、観音様の前で一休み。 ー そのくり返しでした。

↓松倉観音堂参道 ※クリックで拡大します。
参道①
参道②
参道③
参道④
参道⑤
参道⑥
参道⑦


 休みながら、ぼんやり辺りを眺めていると、様々な木々や切り株の様子がおもしろい形に見えてきます。例えば、
 1.岩に根をはる木。
岩に根をはる木
~小さい島に見えました。
 2.お稲荷様のような切り株。
お稲荷様のような切り株
~赤いきれは営林署が伐採した印のようです。
 3.狛犬のような古い切り株。
狛犬のような古い切り株
~二匹の狛犬が向かい合っているようです。

 こうして、何度も休みをとりながら、三十二番観音石像にたどり着き、背後に松倉神社
松倉神社
の赤い屋根が見えたときは、ほっとしました。 ー 次回は、観音堂の様子をお伝えします。

                        ☆津軽三十三寺社巡り☆



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十三湊と安東氏4ー「市浦歴史民俗資料館」

 「安東史跡をめぐるみち」にしたがって、福島城址、山王坊遺跡、春日内観音堂、唐川城址と巡ってきましたが、最後に十三湖中の島にある市浦歴史民俗資料館を訪ねました。先回もお伝えしましたが、十三湖周辺は、縄文時代から中世にかけての遺跡
十三湖周辺の遺跡 ※歴史民俗資料館パンフレットより
がたくさん残っているところで、中でも十三湊遺跡は国史跡にも指定されています。民俗資料館は、そんな十三湖の歴史的な資料や出土品などを展示している場所です。

 館の中の展示コーナーは、時代に合わせて区切られていますが、まず目を引くのは、「オセドウ貝遺跡」の出土品です。「オセドウ」とは「お伊勢堂」が訛ったもので、現在は神明宮になっているところです。大正12年に貝塚が見つかったのに続いて、「円筒式土器」をはじめ、縄文前期から中期にかけてつくられた貴重な土器などが多数発見されました。
 このオセドウには、はるか昔、神武天皇の東征の際、頑強に抵抗した大和の長髄彦(ナガスネヒコ)が、その兄の安日彦(アビヒコ)とともに、津軽に流れてきて、ここで亡くなったという伝承があります。安日彦は、奥州安部氏の祖ともいわれ、安部氏の流れをくむ安東氏は、ここを長髄神社とし、崇拝したと伝えられています。しかし、何せ神話時代の言い伝えであり、まともには信じられていませんでした。しかし、その後の発掘で身長2m近い巨大な人骨
オセドウ貝遺跡・巨大な人骨
が見つかり、「これこそ長髄彦の骨ではないか。」と話題になりました。もちろん、真偽は?ですが。。。

 
 五月女萢(そとめやち)遺跡
五月女萢(そとめやち)遺跡
は縄文後期~晩期の遺跡です。時期的には、つがる市木造の「亀ヶ岡遺跡」と重なります。展示されている多くの石器や土器は、当時、ここ十三湖及び岩木川周辺に「亀ヶ岡文化」が広がっていたことを物語っています。

 「中世」の展示室には、十三湊遺跡から出土した様々な陶磁器や土器、山王坊遺跡にあった五輪塔の他、貴重な古文書や絵図など、安東氏の軌跡を思わせるものが展示されていました。残念ながら、このコーナーは撮影禁止でした。それでも、入口に掲げられている環日本海交易図
環日本海交易図
などを見ると、「日の本将軍」と呼ばれた安東氏の日本各地及び海外での活躍の跡が分かります。

↓歴史民俗資料館 ※クリックで拡大します。
市浦歴史民俗資料館①
市浦歴史民俗資料館②
市浦歴史民俗資料館③
市浦歴史民俗資料館④
市浦歴史民俗資料館⑤
市浦歴史民俗資料館⑥
市浦歴史民俗資料館⑦
市浦歴史民俗資料館⑧※パンフレットより
市浦歴史民俗資料館⑨※パンフレットより


 ところで、この十三湊、興国元年(1340年)の大津波によって壊滅したというのは本当のことなのでしょうか? ー 発掘の結果によれば、中世を代表する巨大な港湾都市であったことは証明されたものの、大津波の被害を思わせる跡は発見されなかったということで、現在は否定されているようです。ー
 そんな発掘の結果を裏づけているものは、かつて十三湊は日本の 「三津七湊(さんしんしちそう)」 の一つに数えられていたという事実です。このことは日本最古の海洋法規集である『廻船式目』に記されていますが、この本が成立したのは室町時代の後期。また、安東氏が南部氏に敗れ、北海道へ逃れたのは1443年頃のこと。とすれば、「大津波」の約100年後。当時の十三湊はまだまだ「健在」だったということになります。こうしたことから、ー衰退の原因は大津波というよりも(それが事実だったとしても)、安東氏が抗争に敗れ、十三湊を放棄したことにあるー と考えられます。

 その後、南部氏の時代になり、次第に交易の中心は大浜湊(青森港)や野辺地港へと移され、十三湊は整備されることも無く、港としての機能は衰えていきました。ですが、津軽氏の時代になると、また活気を取り戻します。
 津軽藩の財政源は、鯵ヶ沢港を通して大阪など上方に米を送り、販売して得られる収入でした。収穫された米は岩木川の水運によって、いったん、十三湊に集められ、そこから海路鯵ヶ沢に運ばれるしくみになっていました。「十三小(米)廻し」と呼ばれたこの体制は、再び十三湊に繁栄をもたらした分けです。
 しかし、やがて年月が経つにつれ、港には川からの土砂が堆積し、水深が浅くなり、大船の入港は困難になっていきました。また、水運の要であった岩木川も、新田開発その他により、水量、川幅等が減退していったために、やがて、米の運搬は陸路を通じて行われるようになりました。ー「十三小(米)廻し」の終わりとともに、十三湊の衰退が再び始まったわけです。ー

 
 こうしてみると、十三湊に衰退をもたらしたものは、政治状況の変化、交易・経済ルートの変化、そして自然環境の変化であったことが分かります。

 十三湊の繁栄をのみこんだ「大津波」とは、すなわち、こうした大きな「時代のうねり」であったのかも知れません。

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十三湊と安東氏3ー「唐川城址」

 安東史跡をめぐるみち
安東史跡をめぐるみち
の3回目です。今回は唐川城址をご紹介します。ここへは、先回訪ねた山王坊遺跡から続く遊歩道
山王坊遺跡から続く遊歩道
を通って来ることもできますが、私はいったん山王坊から国道に戻りました。

 十三湖付近には、牧場がいくつかあり、のんびりと草を食んでいる牛たちに出会うこともあります。のどかな光景です。山手の方へ車を進めていくと、まもなく「大沼公園」が見えてきます。ここは、「岩井・大沼遺跡」と呼ばれる縄文晩期の遺跡です。発掘調査の結果、縄文時代の土器捨て場が発見され、石器や土器製品がまとまって出土したところです。十三湖一帯には、縄文時代の遺跡がとても多く、出土した土器などは、中の島にある「歴史民俗資料館」に展示されています。湖面に架かる大きな橋は 「東日流館橋(つがるやかたばし)」。屋根付きの橋としては、日本一長い橋とされています。唐川城址は、この大沼公園から、さらに5分くらい上ったところにあります。城跡から、道なりに降ると春日内観音堂が見えてきます。

↓唐川城址周辺 ※クリックで拡大します。
十三湖付近の牧場
大沼公園
東日流館橋(つがるやかたばし)
唐川城址①
唐川城址②
春日内観音堂へ
春日内観音堂


 唐川城
唐川城
は、安東氏が十三湖を見下ろす標高160mの山の頂に築いた山城で、福島城の詰めの城(出城)であったとされていますが、元々は古代からの「高地性集落」の跡だともいわれています。城の南側には唐川が流れ、北側は険しい山岳の天然の要害で、堀と土塁に仕切られた城郭といくつかの曲輪があったとされています。
 ここは、1443年、南部氏によって福島城を追われた城主の安東盛季(もりすえ)が立てこもり、防戦した城でした。その後も南部氏の攻撃を受けた安東氏は、同じく福島城の支城であった「柴崎城」に逃亡し、渡島(北海道)へと渡っていったとされています。現在、遺構はほとんど残っていませんが、駐車場の後ろ側にある土塁の跡が当時を偲ばせてくれます。
 展望台が設けられており、十三の大地、十三湖、そして日本海を眼下に見ることができます。すばらしい眺めです。よく晴れた日には岩木山も見えるとか(私が訪ねたときは、あいにくの曇り空)。。黒光りする大きな安東氏の顕彰碑には、「日の本将軍」の文字とともに、日本地図、そして十三湊が描かれていました。

↓唐川城址
唐川城址①
唐川城址②
唐川城址③
唐川城址④
唐川城址⑤
唐川城址⑥
唐川城址⑦


 帰り際にひとつの古ぼけた案内板を見つけました。義経北方伝説
義経北方伝説
を記したものです。大意は、 ー 義経は衣川で死せず、北へ逃亡した。身代わりになったのは、杉目太郎行信という人物である。十三湊へ逃れてきた義経は、当時の支配者「藤原(十三)秀栄」に匿われ、やがて、竜飛から北海道へと渡っていった。ーというものです。
 青森県は、八戸→青森→十三湖→三厩→竜飛と、「義経伝説」がたくさん残っているところです。ロマンをかきたてるこの伝説。。三十三霊場19番札所「義経寺」を訪ねたときに、取り上げてみたいと思います。

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十三湊と安東氏2ー「山王坊遺跡」

 安東氏は、ここ十三湖一帯に「平安楽土」の地を築こうとしていたのでしょうか?都(京都)から様々な文物の移入に努め、繁栄を極めた頃は、周辺に数多くの神社仏閣が点在し、「十三千坊(とさせんぼう)」
十三千坊※「山王坊遺跡の発掘調査成果についてー五所川原市」より
と呼ばれていました。
 少し時代は下りますが、五所川原市の「長円寺」というお寺にはこんな伝説が残されています。 ~昔、長円寺に納めるために、二つの雌雄の鐘が、京都から津軽へ送られてきた。しかし、十三湊へ入ったとき暴風雨になり、雌鐘は湖底に沈んでしまった。今でも長円寺に納められた雄鐘をつくと、その鐘は十三湖の雌鐘を慕って「十三恋しやゴーン」と響き、それに応えるかのように湖底からは「長円寺恋しやゴーン」という雌鐘の音が響くのだという。以来、十三湖は沈鐘湖とも呼ばれ、今でもよく晴れた日に、漁夫が水中の鐘を見かけることがあるという。しかし、人の気配がすると鐘の中からたちまち魚のようなものが現れて、たちまち泥をかきたてて見えなくなってしまうのだという。 ~ 
 ーもの哀しい話ですが、古来から、十三湊が宗教文化の窓口であったことを思わせる話でもあります。ー

 さて、「山王坊遺跡」は十三千坊の中心となった宗教施設。遺跡へと通じる道には、大きな鳥居
シンボル塔
が立っています。実は、これは安東文化を顕彰するシンボル塔で、説明板
説明板
によると、平成5年のNHK大河ドラマ『炎立つ』の中で、十三湖がロケ地になったことを記念して立てられたものです。『炎立つ』は、奥州平泉藤原氏の興亡を描いたものですが、安東氏以前、十三の地は、藤原秀衡の弟の秀栄を祖とする十三氏が治めていたところです。ですから、当然、あの平泉の絢爛たる文化の影響を受けないはずはなく、後を継いだ安東氏もまた、それに倣ったことと思われます。

 シンボル塔をくぐって車を走らせると、やがて「日吉(ひえ)神社」の鳥居が見えてきます。ところで、この鳥居、上にもうひとつ「屋根」がついているような独特の形をしています。この「屋根」は「破風(はふ)」と呼ばれ、仏教と神道の合一を象徴しているもので、このような鳥居の様式を山王鳥居
山王鳥居
というそうです。「山王」とは滋賀県大津市坂本にある「日吉大社(日吉は「ひえ」とも読み、”日枝”とも書く)」の別称であり、安東氏は、その分霊社として、この社を建立したとされています。いわばここは神仏習合の宗教施設。入口にある地蔵堂
地蔵堂
がそれを物語っているようです。

 ここは、古来から霊地・聖域として村民に畏怖されてきたところで、阿吽寺という寺院があった場所ともいわれています。境内の中は無数の杉木立。まさに「神域」を思わせます。小川が流れる境内には小さな橋が架けられており、境内の説明板
境内の説明板
に書かれているように、流れに沿って庭園が造られていたような感じがします。

↓山王坊境内 ※クリックで拡大します。

 
三王坊境内①
三王坊境内②
三王坊境内③
三王坊境内④
三王坊境内⑤
三王坊境内⑥
三王坊境内⑦


 境内を一巡りした後、再びいくつかの鳥居をくぐると拝殿が見えてきます。何回かの発掘調査によると、周りにいくつかの礎石の跡が見つかり、本殿、舞殿、渡殿、仏堂風の拝殿、本地堂と神社と寺院が並存するような伽藍配置であったことが分かってきています。”素人”の私には、それらの宗教施設の判別はできませんでした。ただ、拝殿から少し回り込んだところに磐座(いわくら)
磐座(いわくら)
の跡を見たとき、ここが仏教と神道を、ある意味では超えた「信仰の場」であったことを実感しました。

 
山王坊宗教施設①
山王坊宗教施設②
山王坊宗教施設③
山王坊宗教施設④
山王坊宗教施設⑤
山王坊宗教施設⑥
山王坊宗教施設⑦


 ここ山王坊は、安東氏に取って代わった南部氏が、2回にわたって執拗に攻めた場所といわれています。それは、安東氏の築いた文化の象徴ともいえる場所だったからではないでしょうか。境内の杉木立が、何となく細くてあまり年輪を感じさせないのはその時の戦いで、焼失してしまったせいでしょうか。

 「安東史跡をめぐるみち」は、ここから春日内観音堂、そして唐川城址へと続いています。

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十三湊と安東氏1ー「福島城址」

 「・・やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波ひとつない。船も浮かんでいない。ひっそりとして、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。」 ー 太宰治は小説『津軽』の中で、十三湖について、このように書いています。~かつてここは「十三湊」と呼ばれ、日本の三津七湊(さんしんしちそう)に数えられるほどの港湾都市として栄えていたが、興国元年(1340年)の大津波により、まちは壊滅してしまった。~ そんなアトランティスを思わせる言い伝えが、「はかなく、もの哀しい」イメージを持たせているのだと思います。
 北津軽の一寒村に伝えられていたこの逸話は、「伝説」に過ぎないとされてきました。しかし、近年の発掘調査の結果、様々な遺構が発見され、港湾施設、宗教施設、土塁や堀など防御施設等を備えた、巨大な港湾都市であったことが分かってきました。

     ↓十三湖 ※クリックすると拡大します。
   
十三湖①
十三湖②
十三湖③
十三湖④
十三湖⑤
十三湖⑥
十三湖⑦


 かつての十三湊の繁栄は、安東氏の時代に最盛期を迎える分けですが、当時の文化や遺構は安東史跡をめぐるみち
安東史跡をめぐるみち
をたどることによって偲ぶことができます。私はまず、福島城址に立ち寄ってみました。※右の画像はクリックで拡大。
福島城址①

福島城址②

福島城址③

福島城址④

福島城址⑤

福島城址⑥

福島城址⑦

福島城址⑧

福島城址⑨

福島城址⑩



 安東氏は、前九年の役(1051年~)で滅んだ安倍貞任(あべのさだとう)の子、高星(たかあき)の子孫と伝えられています。初め、現在の南津軽郡藤崎町に居城を構えていた安東氏は、平安時代末期からこの地を治めていた十三氏(奥州藤原氏の末裔とされています)を寛喜元年(1229年)「津軽萩の台の戦」で破り、その後、本格的に十三湊に進出し、繁栄の基礎を築きました。その拠点となったのがここ福島城。正和年間(1312年~)に、十三氏の居城を改修したもので、発掘調査の結果、総面積は約625,000㎡にも及ぶ東北屈指の城郭であったとされています。

 国道339号線を小泊方面に向けて車を走らせていると、「福島城外堀跡」の木柱が見えてきます。うっかりすると見過ごしてしまいます。私も通り過ぎてしまい、あわててブレーキを踏みました。
 福島城は、外郭と内郭とで構成され、外郭は一辺が約1㎞の三角の形だったといわれています。ここはその外堀。当時を偲ばせる土塁が残っていました。

 外堀を過ぎると間もなく「福島城跡」の道標が見えてきます。狭い小道を行くと、ここが、かつての内郭であったことを示す案内板が立っていました。側には、青々とした木々に包まれた黒門の模擬櫓。往時を思わせるような造りです。かつて内堀であった場所には、小さな橋が架けられています。

 黒門をくぐり、中へ入ると内郭。当時は、一辺が約180mの四角形をしていたとされるこの内郭。十三湖(日本海)からの強い風と砂嵐を防ぐ杉林に囲まれた広大な城跡。かつての繁栄を偲ばせるものは少しだけ残された土塁の跡のみ。。今は夏。青々とした木々の葉っぱが落ちる晩秋の頃には、寂しく荒涼とした風景が広がっているのではないでしょうか。

 かつて、十三湊から得られる財力で、「日の本将軍」と呼ばれた安東氏ですが、やがて、永享4年(1432年)頃、三戸南部氏の来襲をうけます。戦いに敗れた安東氏は渡島(北海道)へと追いやられます。安東氏は、その後、故地津軽十三湊に戻ろうとして、幾たびか戦いを起こしますが、念願叶わず、福島城は住む人もなく荒れるにまかせたままであったともいわれています。 ー 福島城は、そんな安東氏の栄枯盛衰を見つめてきた城郭だったわけです。。

 
 十三湊「安東史跡をめぐるみち」。次回は、山王坊遺跡についてお伝えします。                       
                       
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「春日内観音堂」ー津軽三十三寺社巡り17

 「野をも過ぎ山路に向う雨の空 祈れば晴るる峰の曇りも」 ー ご詠歌に詠まれている通り、春の日差しを思わせる春日内(はるひない)観音堂。 ー ほんとにきれいな名前だと思います。ここは旧市浦村。現五所川原市の「飛び地」にあたります。13世紀の中頃から、この辺り一帯を支配していた安東氏の勢いが盛んだった頃は、ここ春日内には、竜興寺、春品寺という大きな寺が建てられていたということです。その跡地に、観音堂が村人達によって建立されたのは寛文9年(1669年)とされています。明治期には春日内神社と称しましたが、大正になって、神社名を廃し、「春日内観音堂」となりました。本尊は「聖観世音菩薩」です。

 「春日内観音堂」「聖観世音菩薩」と記された石標を通ると、間もなく鳥居が見えてきます。ここからはおよそ300mほど坂道が続きます。静かな杉木立の中を歩いていくと、やがて、鮮やかな朱色の「橋」が見えてきます。ここが観音堂です。老杉に囲まれながら、ひっそりと佇んでいる ー そんな感じでした。

  ↓春日内観音堂 ※クリックすると拡大します。
春日内観音堂①
春日内観音堂②
春日内観音堂③
春日内観音堂④
春日内観音堂⑤
春日内観音堂⑥


 周りを見ると、お堂の左、右、後ろにそれぞれ鳥居が立っていました。左の鳥居の側には、観音堂の由来を記した案内板。年数を感じさせる古い物と、新しく立てられた物、新旧2つが並んでいます。ここの鳥居をくぐった先は、急な崖地になっていて、西国三十三観音像を一巡りするようになっています。

 後ろの鳥居の奥は、小さな滝になっていて、境内に清水が流れこんでいます。『十三往来』には、この滝のことが 「龍水邏(ら)落(らく)」と書かれており、現在よりももっと水量が多かったことが分かります。時期によって、水量が変わるのかもしれません。私が訪ねた時は「滝の水がみなぎっている」という感じではありませんでした。

 右側の古びた鳥居からは、大きな岩が見えます。岩肌を眺めていると、何となくそれが「仏」の姿形にも見えてくるから不思議です。

  ↓春日内観音堂周り
春日内観音堂⑦
春日内観音堂⑧
春日内観音堂⑨
春日内観音堂⑩
春日内観音堂⑪
春日内観音堂⑫
春日内観音堂⑬
春日内観音堂⑭
春日内観音堂⑮


 さて、旧市浦村は、安東氏に関する史跡がとても多いところで、東北自然歩道安東史跡をめぐるみち
安東史跡をめぐるみち
という大きな案内板が立てられています。ここ春日内観音堂も道中のひとつに数えられていました。
 ー 次回は、その「安東史跡」を少し紹介してみたいと思います。      

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「川倉芦野堂」ー津軽三十三寺社巡り13

 亀ヶ岡遺跡から再び国道339号線を北上し、五所川原市に入ります。五所川原市は、旧五所川原市と北津軽郡金木町及び市浦村が新設合併してできたまちです。旧金木町出身の著名人と言えば太宰治ですが、太宰は生まれ故郷のことを「・・これといった特徴もないが、どこやら都会風にちょっと気どった町」であると紹介しています。そんな金木町の名所「芦野公園」を過ぎた所が三柱神社。13番札所川倉芦野堂は、その境内の中にあります。

 行ってびっくり!見てびっくり! ー 少し大げさですが、この三柱神社の二の鳥居、三の鳥居に掲げられているのは、何とあの「!」。。。
 以前、鬼を祀っている弘前市の「鬼神社」についてお伝えしましたが、祀らないまでも鳥居などに「鬼」を掲げている所は30ヶ所以上
鬼を掲げているところ
もあるということ。。

 
 どうして「鬼」なのか?なぜ、津軽地方の岩木川流域に集中して在るのか? ー とても不思議です。「悪霊を追い払う魔除けのため」「豊作祈願のため」など、いろいろ説かれているようですが、この津軽地方独特の神社信仰、いずれ、「鬼ッコ」がある神社等を訪ねて、その由来などを調べてみたいと思います。

 さて、この川倉芦野堂、神社境内の中にあるとはいっても、ここはここで「独立」しているような感じを受けます。黒門から通じるお堂は、小さいながらも何か凜とした気品がある。 ー そんな雰囲気です。先の太宰治の言葉を借りれば「ちょっと気どった」という感じかな。。
 ここは、弘前藩3代藩主津軽信義が、津軽統一の戦いで斃れた者達や、新田開発事業で亡くなった農民を供養するために選んだ霊場のひとつ。「聖観世音菩薩」を本尊として、堂宇が創建されたのは、寛文8年(1668年)のことでした。
 やはり、ここにも明治の神仏分離令をめぐって、政府側と住民達とのいさかいがありました。住民は、なかなか聖観音像を役人に渡そうとはせず、何人かで手分けして持ち歩いていたのですが、そのうち、とうとう観音様は行方不明になってしまいました。今でも、所在は分からないとのこと。。。
 やがて昭和になり、観音様を新たに安置し、観音堂を再建しようとする話が持ち上がり、地元の大地主を中心にして、現在の場所にお堂が建てられた分けです。新本尊は、弘前市の仏師作、長勝寺の住職達によって、納めの儀式が盛大に行われたとのことです。なお、芦野堂の「」は、芦野湖(芦野公園)にちなんだものとされています。

   ↓川倉芦野堂 ※クリックすると拡大します。
 
川倉芦野堂①
川倉芦野堂②
川倉芦野堂③
川倉芦野堂④
川倉芦野堂⑤
川倉芦野堂⑥
川倉芦野堂⑦


 ところで、寺社巡りをしていると、多くの巨木や老木に出会います。ここにも、樹齢250年以上、幹回り4.5mという大きなケヤキの木
ケヤキの木
がありました。「巨木さがし」も今後の楽しみのひとつになりました。

        ↓今まで出会った巨木たち
     
厳鬼山神社大杉
 
北浮田弘誓閣イチョウ
 
日照田観音堂イチョウ
 
見入山観音堂夫婦杉
 
円覚寺竜灯杉
 
川倉芦野堂ケヤキ



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となりのまちー五所川原市「飯詰城址」

 五所川原市にある 飯詰城址
を訪ねてきました。のどかな田園の風景を眺めながら、自宅から車をとばして50分、城跡の入口に着きました。ここからは道がとても狭いので、近くの農家の方の庭先にとめさせてもらいたいと思い、お願いしたら「えよ(いいですよ)。」という返事、端っこの方にとめて車を降りようとしたら、「したらだはじっこでねぐ、まながさとめへじゃ(もっと真ん中にとめてもいいよ)。」と言ってくれました。ありがたかったです。
 細い道を城跡に向かって歩いていくと、妙龍寺
というお寺があります。この寺が城址内に建てられたのは、寛文年間(1661年~73年) とされ、江戸時代に菅江真澄が、飯詰の里を訪ねた時、寺に立ち寄り、 「右のかた岨(そば)の中に七面の堂ありと杜(もり)に ほくゑきゃう(法華経)よむ声」
と詠んだといわれています。
 さて、この飯詰城は、高楯城とも呼ばれ、浪岡北畠氏の家臣だった朝日氏の居城でした。標高約60mの丘陵に築かれたこの城は、津軽平野内陸部と十三湊を結ぶ交通の要所であったといわれています。津軽為信が、天正6年(1578年)、浪岡城を攻略し、主君の北畠氏が滅んだ後、城主の朝日行安は、その後10年間も抵抗を続けましたが、遂に1588年、力尽きて城に火をかけ、主従300余名は自刃しました。この飯詰城の落城を以って、津軽為信の17年に渡る津軽統一事業は完成したのです。正に反為信派の”最後の砦”だったのですね。
 当時、西郭・主郭・東郭という3つの郭で構成されていたこの城は、その間が堀切で区画され、その周囲は、切り立った崖になっており、なかなか攻めにくい城だったと思われます。そのためか、為信は、城を包囲した後、城内に通じる水脈を絶つ作戦にでました。たちまち城内は深刻な水不足に陥り、ついに落城したといわれています。この飯詰城の落城にあたっては、次のような伝説が残されています。
 - 水が不足した城内で、わざと包囲している大浦勢から見える場所で馬を白米で洗い、いかにもに水があるように見せかけたという伝説や、近くの川に鎧を投じて逃れようとしたが力尽き、主従が自害して果てたという伝説(「鎧留」の名が残っているそうです)-必死の抵抗の様子が偲ばれますね。 こうして飯詰城は落城したわけですが、毎年落城の日が近づくと城の周囲に怪異な事が起きたといわれています(日照りや長雨などの天候不順が続いたり、鎧武者たちの亡霊が現れたり・・・)。朝日一族の祟りと噂されていたそうです。なお、西郭には、天守を模した高楯城史料館「あすなろの家」が建てられていますが、私が訪ねた時は開いていませんでした。
                      ☆津軽統一までのあゆみ☆

  
   飯詰城を訪ねて!
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 六月、緑鮮やかな季節になってきました。ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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Author:korekarada       ふるさと「東北・青森県」の史跡を巡り、感想などを綴っています。ときには、まだ見ぬ地方への憧れを「バーチャル旅行記」として、書いていきたいと思います。
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