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のんびりとじっくりと!

  ーおじさんのバーチャル旅行記!ー                      

 
Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

黒石稲荷ーつがるみち337


久須志大神


 黒石陣屋跡(黒石城址)は現在は「御幸公園」という公園になっていますが、その下を一本の用水堰が流れています。
 浅瀬石川から水を引いたこの堰は「宇和堰(うわぜき)」と呼ばれ、領内の水田開発の基となっていましたが、一方では、もうひとつの堰である「小阿弥堰」とともに、陣屋を防御する「堀」の役目も負っていたとされています。

 この宇和堰のそばに、赤い鳥居をともなった小さな社・久須志神社(久須志大神)があります。詳細は分かりませんが、御祭神は少彦名神と思われます。小さなお堂と神馬、そして地蔵堂がある可愛らしい社です。

 ここには「御穀水」と書かれた石碑が立っていて、その井戸が現在も残っていますが、石碑の脇の方に「花山院忠長」の名前が見えます。
 黒石は花山院忠長にまつわる伝承が数多く残る町ですが、かつて、忠長もこの社を詣で、通りを歩いたということなのでしょうか。

 久須志大神からは坂道が上の方に延びていて、市内(大工町)へと続いていますが、この坂は「下ノ坂」といって、藩政時代には両脇に武家屋敷などがあった所です。

◇久須志大神

  
下ノ坂古図
地蔵堂
御穀水碑
花山院忠長




公園側の鳥居


 久須志大神の向かい側には石段があり、稲荷神社の境内へと続きます。裏側(公園側)にも鳥居があり、扁額には「稲荷神社 八幡宮」と書かれていますが、そこのあたりの由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  (配祀)譽田別尊   草創年月は不詳だが、 当初黒石村支配の内に黒石稲荷と称えて三尺四方の小堂があった。 黒石村中にて産土神として崇敬し、 文安三年 (一四四六) 九月十日、 秋覚と申す者を別当にして初めて勧請す。
  慶安四年 (一六五一) 五月、 黒石村などで拝殿、 鳥居を新規に増築す。 元禄四年 (一六九一)、 寂照院境内三十間四方の内に社殿を建立、 現今の社地へ遷座し、 爾来、 御家門繁栄の祈願所として黒石藩の藩費を以て維持、 社殿の改修造営がなされた。 以後、 境内に八幡宮社堂をも建立、 両社の祭事を年々執行したが、 明治初年に八幡宮御祭神を稲荷神社に合祀した。 明治六年四月、 社格郷社に列せられる。※青森県神社庁HP 】とあります。

「下ノ坂」の方には石造りの立派な鳥居があり、社号標の傍らには庚申塚が置かれていました。石灯籠の手前には御神木の大イチョウの木がありますが、なかなかの大きさです。広い境内には神馬やきつね像などがありました。高台にある境内からは、浅瀬石川や岩木山を望むことができます。

◇稲荷神社

 
稲荷神社
庚申塚
境内から
御神木
境内



 由緒にも書かれているように、古くから「黒石稲荷さま」として崇められてきた社ですが、やはりここにも花山院忠長卿が深く関わっており、江戸時代初期に忠長が黒石に配流になった際に「稲荷宮」として、この地に遷座したと伝えられています。
 忠長がその罪(後陽成天皇の女官と密通した罪)を許されて黒石の地を去った後、明暦2年(1656)に津軽信英に黒石領5千石が与えられ、黒石陣屋が築かれる分けですが、その後、この稲荷宮は黒石津軽家の祈願所となりました。「弘前藩領と黒石領との境界を決める際、稲荷神が関わった」という話も残されているように、この社は黒石陣屋の「館神」として崇敬を集めていたようです。


 
拝殿と八幡宮
拝殿
拝殿
木鼻
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  巨石と神石  

浅瀬石羽黒神社ーつがるみち333


羽黒神社


 黒石市浅瀬石は、その名の通り浅瀬石川沿いに開けた集落ですが、その中心部に羽黒神社が鎮座しています。
 拝殿の入口に、
ー 「村中のもといの 羽黒様 参る心は 後の世のため」 - 
という手書きの歌が掲げられていましたが、「村のもとい(基)」という言葉が示しているように、この社は古くから村の産土社であり、村民の崇敬を集めてきた神社のようです。

 十和田湖方面へのバイパスができるまでは、この神社のある道路がいわば「表通り」でした。住宅が立ち並ぶ道路沿いに一の鳥居があり、となりは長寿院という浄土宗のお寺になっています。
 鳥居をくぐって中に入ると、境内には猿田彦の碑や神馬、狛犬、社務所、末社などがありますが、拝殿の横には大きな土俵があります。この土俵では「子どもの心身を鍛え、地域・家族のつながりを深め、五穀豊穣を祈念する」ために、例年、子ども会相撲大会などが行われていて、例大祭の奉納行事となっています。
 拝殿の建物や、その内部、本殿などは朱色がとても鮮やかで、美しい神社です。拝殿の中に、顔(頭部)が隠された二体の像が祀られていましたが、どうやらこれはオシラ様のようでした。

 この羽黒神社の由緒については、
【御祭神:倉稲魂命 誉田別命  延暦十三年(七九四)、 坂上田村麿により勧請され、 寛治 七年(一〇九三)、 八幡太郎源義家が守兵を遣わせ国家安泰、 武運長久を祈ったと伝えられる。
 建長四年(一二五二)、 初代浅石城主千徳行重が再興以来、 千徳家代々厚い信仰を寄せ、 しばしば御社殿を修築し、 田村羽黒宮と尊称し、 領内第一の大社として殷賑を極めた。 しかし、 慶長二年 (一五九七)、 浅石城落城と共に灰塵に帰したが、 同四年、 大浦為信により再建され、 浅瀬石村の氏神と定められた。 当時の鎮座地は、 旧浅石城の寺社屋敷にあり、 村落から離れていた為、 宝永七年(一七一〇)現在地に奉遷された。
 明治三年、 羽黒神社に改称、 高賀野村八幡宮を合祀し、旧浅瀬石村の村社となった。※青森県神社庁HP 】とあります。

◇羽黒神社

  
参道
境内
拝殿
拝殿内



  
一の鳥居
拝殿入口
村中の・・
オシラ様



雄石と雌石


 拝殿の左側(向かって)に大きな木があり、その根元には特徴のある大石が二個。
 この二個の大石の名前は「雄石・雌石」といいますが、そばに立てられている説明板には、
【その昔、浅瀬石城主千徳氏は栄華の限りを尽くし、その繁栄は、この地方の独特の文化と信仰の聖地を形成したといわれております。
 慶長二年、浅瀬石城が戦禍で灰燼にきした時、浅瀬石城本丸の横の中庭に大事に保管され、浅瀬石の産土神として崇め奉られておりました汗石が、ここに安置されている雄石・雌石だといわれております。本来、浅瀬石の呼称は「汗石」だということが「汗石御領内社宮調上書」に記されており、それによりますと、現在の浅瀬石川が汗石川であり、それが室町中期頃、名称が浅瀬石川に変えられたと言い伝えられております。】と書かれていました。

 神社の由緒や、この「雄石・雌石」の説明にも書かれているように、かつての浅瀬石は千徳氏の居城があり、黒石地方の中心地として栄えた所ですが、やがて、津軽統一の波に呑み込まれ、城は落城、千徳氏は滅びました。
 - 「雄石・雌石」は、そんな地方史の証人であり、また、「浅瀬石」という地名の源でもあった分けです。

 この由緒ある大石・・・落城以来、行方不明だったようですが、説明板には続けて、次のように記されていました。
【落城の時、杳としてその行方がわからなかったのが今回(昭和六十二年より)浅瀬石羽黒神社造営工事の際、偶然に楓の根元から発見され、ここに再び世上の注目を浴びることとなりました。古よりの言い伝え通り、形体・風格は昔のままそのとおりといわれております。】

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ひっそりと「白山姫神社」-つがるみち330




「袋の観音堂」と呼ばれ、津軽三十三霊場の27番札所である黒石市の白山姫神社。
 温湯温泉の近くに鎮座するこの社は「午年生まれの津軽一代様(守り本尊)」ということもあり、多くの人々が参詣に訪れる神社です。
 小高い山の上に社殿があるため、参道の登り口には参拝者用の杖なども置かれています。境内までは、右、左、右、左と曲がりくねった参道が続き、けっこうきつい登りです。私も初めて登ったときは、途中に立っている三十三観音の数を数えながら休み休み登りました。
 今回、久しぶりに訪れてみましたが、名物の大イチョウの葉っぱもすっかりなくなり、冬の装い。参道も境内もひっそりと静まり返っていました。


◇白山姫神社

【御祭神:伊邪那美命 菊理姫命   大同年間 (八〇六~八一〇)、 坂上田村磨将軍が観音様のお姿を袋に入れ、 大木の枝にかけ、 武運長久を祈願した故事にはじまり、 後にお堂を建立し、 観音様を祀り、 国家安泰・万民豊楽を祈ったと伝えられている。
 文明年間 (一四六九~一四八七)、 南部光政が再建し、 延徳元年 (一四八九) には、 浅石領内十七社に加えられ、 元亀二年 (一五七一)、 千徳大和守政氏が社殿を改築し、 領内の大社として殷賑を極めた。
 慶長二年 (一五九七)、 浅石城落城と共に廃社となり、 数年間荒廃していたが、 寛永四年 (一六二七)、 袋村の住民等が産土神として再興し、 袋の観音堂と称せられた。 藩政中期には、 津軽三十三霊場二十七番札所に指定され、 又、 午年生まれ一代様として、 津軽一円に親しまれている。 明治以来、 袋観音堂を白山姫神社と改称し、 今日に至っている。 ※青森県神社庁HP


  



 


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うっすらと「浄仙寺」-つがるみち329




 地元の新聞記事によると、今年は例年よりも里の初雪が遅かったのだとか。。
 先日、朝起きてみたら庭にうっすらと雪が積もっていたので、雪景色を期待して黒森山の浄仙寺へ行ってみました。
 下手な写真をバシャバシャ撮っていると、住職さんらしき方が話しかけてきて、
「昨日はほんとにきれいな雪景色だった。今日は少し(雪が)とけてしまった。」と言っていました。
 それにしても、ついこの間まで、「紅葉真っ盛り」といった感じでしたが、境内はすっかり冬の佇まいです。やがて、辺り一面銀世界になるのでしょう。


◇黒森山浄仙寺


【浄仙寺は、文政7年(1824年)是空行者が開山(黒石来迎寺良諦の弟子)。寺宝、本尊、阿弥陀如来立像(恵心僧都作と伝えられる)。
 是空は中野不動尊境内の洞窟にて断食修行中『これより北の方清泉の湧き出たるところにて修行されよ』との霊告により、黒森山中に至り、清泉(現在本堂脇にある)を見付け、終世陰遁修行の地と定め、後に浄仙庵と号し、明治8年浄仙寺となる。
 二世寂導行者は、文政8年(1825年)13才にして是空の弟子となり、専ら浄教を修し、師を助けて当寺の開拓整備に尽力され又学僧としても誉れ高く、92才にて入滅した。幼少よりよく仏像を彫刻し、一刀彫数千躰に及び、博く信者に施され、遠くは北海道・秋田までも分布されたといわれる。
 四世明空は、明治3年教師補を拝命し、寺小屋「黒森学校」運営に専念し、津軽一円より学を志すもの多数ここに学ぶ。政治、経済、有名人多数を輩出している。
 明治40年明空本堂を新築。昭和19年火災により本堂、庫裡全焼し、昭和41年本堂を再建し現在に至る。※黒石観光協会HPより



  




  


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中野もみじ山ーつがるみち322


中野神社本殿


 黒石市の中野神社は、私の地元ということもあり、ちょくちょく出かけるのですが、その由緒については、
【御祭神:日本武尊 大山祇神 坂上田村麿命 岩戸姫命 倉稲魂命 少名彦命  延暦十四年 (七九五)、 坂上田村麿が建立、 更に軍が東夷を討ち帰洛せられし後、 当国の守護神として社殿を創建したと伝えられる。
  御神体の不動尊は推古帝十八年 (六一〇) 唐僧円智上人の作で一木より三体を彫刻し一体は古懸山国上寺に、 一体は長谷沢の東光山五輪寺に一体を中野の黒瀧山に勧請したと言われ、 世にこれを津軽三不動尊と称せられる。 ※青森県神社庁HP】とあります。

 ◇津軽三不動尊   ⇒古懸山国上寺  ⇒長谷澤神社  ⇒中野神社


観楓台


 この神社の境内は昔から青森県下有数の紅葉の名所として知られており、「中野もみじ山」と呼ばれ、シーズンにはたくさんの観光客が訪れます。
 ここがもみじの名所となったのは、亨和2年(1802年)に津軽寧親(つがる やすちか ※黒石藩第6代当主、弘前藩第9代藩主)が京都から百余種の楓苗を取寄せ、移植したのがその始まりとされています。

【全山燃えるような紅葉は滝と渓流に映え、あざやかな世界を展開し、その美観が称賛されています。また、イギリス人女性紀行家イザベラ・バードもこの地を訪れ、「ここはすべてが魅力的である。」と紹介しています。※黒石市HPより】とあるように、その景観はなかなか見事なもので、期間中は夜間ライトアップも行われています。

 実は私は紅葉の頃に訪ねたことはあまりないのですが、今回、久しぶりに境内から「観楓台」と呼ばれている山の上までぶらぶら歩いてみました。

◇中野もみじ山
 
  
もみじ山
もみじ山
もみじ山
もみじ山



  
もみじ山
もみじと渓流
参道
境内



  
大杉
観楓台へ
観楓台
観楓台


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牡丹平大山祇神社と豊岡稲荷神社ーつがるみち303


本殿

奉納草鞋


 菅江真澄が「・・・牡丹平を大杭(おおぐい)村といい、この花巻を小杭(こぐい)村といった。」と記している黒石市牡丹平地区。温湯方面に向かって長い坂道が続きますが、その上り口に大山祇神社が鎮座しています。
 その由緒については、
【御祭神:大山祇神  建立年月日不詳なるも古来より観音堂の祠があり産土神として崇敬してきたが、 天正年間 (一五七三~一五九一)、 当国戦の軍勢により村中並びに堂宇焼失され、 以来一一〇余年間再建ならず、 宝永七年 (一七一〇) 六月十七日、 旧社地に村中にて堂宇再建の上、 観世音菩薩を勧請す。
 正徳元年 (一七一一) 六月、 住吉大明神を村中にて勧請、 明治初年神社改正の際、 観世音の佛体を除き元文三年 (一七三八)、 勧請の大山祇神を出石田の稲荷神社に合祀したが明治七年復社す。 明治九年十二月一日村社に列せられる。 昭和十二年二月二十二日、 山祇神社社名を大山祇神社と改称、 許可され今日に至る。 ※青森県神社庁HP】とあります。
 黒石市や平川市に鎮座する神社の多くは戦国期の争乱の影響をうけ、堂宇消失→衰退→村民の願いにより再建という経緯をたどるものが多いのですが、ここもまた、そのひとつのようです。やはり、地域の中心となる「産土神」に対する崇敬は根強いものがあるようです。
「山祇神社社名を大山祇神社と改称」とありますが、隣村の花巻の社は「山祇神社」・・大杭村(牡丹平)、小杭村(花巻)という旧名と合わせて、この名前のつけ方もおもしろいですね。

 神社のそばにはバス停があり、そこから長い下り坂が続く分けですが、本殿の後ろ側には地蔵堂があります。そしてその隣には大きな庚申塔が立っています。
 他にも坂道の途中には、庚申塔や甲子塔がありますが、街道沿いの道祖神として祀られてきたもののようです。境内は、道路と並行する形で築かれていました。

◇牡丹平大山祇神社

 
地蔵堂
庚申塔
境内①
狛犬
境内②



一の鳥居


 牡丹平は付近を流れる浅瀬石川の丘陵地帯にあたる分けですが、そこからの坂道は「石名坂」や「長坂」といった集落名にもなっています。
 大山祇神社からの坂道を降りていくと、102号線のバイパスにつきあたり、長坂(豊岡長坂)の集落に出ますが、ここに稲荷神社が鎮座しています。


 102号線から見ると小高い丘があり、こんもりとした森になっていますが、神社の入口は旧道沿いにあり、白い一の鳥居を挟むように庚申塔が立っています。

 鳥居をくぐって参道を進むと、やがて下り坂となりますが、小川の向こうに二の鳥居があり、上の方に石段が続いています。石段を登り切った所に三の鳥居があり、境内へと出ます。

 境内には石灯籠や大きな狛犬、末社などがありますが、そこからの眺望はなかなかのもので、通ってきた坂道や温湯・十和田湖方面へと続く街道、岩木山などを見ることができました。

 この神社については、
【御祭神:倉稲魂命  古来より稲荷宮と称え小堂があった。 天正年中に戦いのため村中並びに堂宇破損し、 果ては焼失した。 その後七十年あまり再建されずにいたが、 ようやく寛文三年 (一六六三) 四月、 村中には稲荷宮を再建し産土神として祀った。 又、
この西に古来より高さ五尺余り、 直径二間余りの石森があり、 この上にも小堂を建立して産土神同様に崇め祀った。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 ここもまた、戦国の争乱を生き延びてきた社のようです。 - 「この西に古来より高さ五尺余り、 直径二間余りの石森があり」と書かれていますが、どんな所なのでしょうか。

◇豊岡稲荷神社

 
参道
三の鳥居
境内
狛犬
本殿


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  縄文と弥生  

花巻山祇神社ーつがるみち297


花巻遺跡


「花巻」といっても、私の地元・黒石市の集落のことで、前回、ご紹介した稲荷神社のある牡丹平の隣村になります。
 江戸時代にこの地を訪れた菅江真澄は、
『花巻についた。むかし、牡丹平を大杭(おおぐい)村といい、この花巻を小杭(こぐい)村といった。そのころ、孫次郎というものがいて、「これは子をも食い、孫までも食ったのか。子喰村の孫倉というのは鬼であろう」などと人に言いたてられ、世間のきこえがよくないというので、村の名を花巻といいかえたという。
 しかし花巻の地名はむかしここに牧場があり、その牧のめぐりにさした古杭が、そこに朽ちのこっているところから、大杭、小杭などとよんだ名なのであろうか。とはいうものの、この土地は馬を飼った広い野もみえないので、別な方面からこの名だけついたのだろうか。』と記しています。

「大杭」「小杭」の名称の由来は定かではないようですが、実は、この花巻は昔から縄文時代の遺跡があることで知られていて、菅江真澄は、『追柯呂能通度』の中で、花巻遺跡から発見された土器や石器、土偶、遺跡の様子などについて記述しています。

  花巻遺跡は、大正から昭和初期において考古学界の代表的な遺跡でしたが、その存在を知らしめたのは中谷治宇二郎(なかや じうじろう:※物理学者・中谷宇吉郎の弟)という考古学者でした。
 治宇二郎は、花巻遺跡に関する論文を表し、その中で、遺跡から発見された円筒上層式土器を『花巻式土器』と命名しましたが、本人が若くしてこの世を去るとともに、この土器名も消滅してしまいました。

 遺跡は、浅瀬石川の北側の丘陵地帯にありますが、
【昭和60年と62年に黒石市教育委員会で花巻遺跡の発掘調査を行ったが、調査の結果、竪穴住居跡1棟、土坑跡20基、石棺墓10基などが発見されている。縄文時代前期から後期にかけての大集落が存在していたと思われる。もっとも注目されたのは、縄文中期末~後期初頭のものと思われる組石石棺墓7基である。
 石棺墓はその名のとおり石で造った棺桶で、青森県内では、この黒石市花巻遺跡ほか数か所で発見されているだけである。この組石石棺墓は、穴掘りだけでなく、大石の運搬や石組に大勢の人手を要する埋葬方法であるため、当時のムラで特別の地位にあった人物達の墓と推定されている。】
 - こうしたことから、この遺跡は、縄文期の埋葬方法を知ることができるだけでなく、当時の「ムラ」の構造を研究する上で貴重な遺跡とされています。
※上記写真と【】は黒石市HP、『青森県の歴史シリーズ』を参照しました。


花巻山祗神社


 そんな花巻の集落の中心に山祗神社が鎮座しています。神社の由緒については、
【御祭神:大山祇神  草創年月日不詳なるも、 古来より現境内に大山祇神を祀る小堂ありて小喰野村にて産土神として崇敬された。
 天正年間 (一五七三~一五九二) 当国戦の際、 村中並びに堂宇破損或いは焼失され、 再建ならず、 その後慶安三年 (一六五〇) 六月村中にて堂宇新築す。
 明治四年神社改正に付き村社に列せられ、 同六年五月九日豊岡村稲荷神社を合祀し、 同八年四月二十六日豊岡稲荷神社を復社す。 ※青森県神社庁HP】と説明されています。

「天正年間 (一五七三~一五九二) 当国戦の際」とは、戦国時代にこの地を支配していた浅瀬石千徳氏と南部氏との抗争、及び、その後の千徳氏と津軽氏との争いを指していると思いますが、かつて、村の産土神として崇められていた社が再建されたのは、津軽氏の時代になってからのようです。

 住宅地に囲まれた道路沿いに「山祗神社」という扁額が掲げられた赤い鳥居がありますが、反対側の通りには大きな庚申塔も立っています。
 境内には、狛犬が2対(4体)ありますが、そのうちの1対は風化が進み、もう少しで原型が分からなくなるような姿でした。

 拝殿の両脇には大きな草鞋が掲げられ、地域の崇敬ぶりが偲ばれます。神社の後ろには小川が流れていて、その先の浅瀬石川流域には、花巻遺跡が眠っています。

◇花巻山祗神社

 
一の鳥居
鳥居から
境内
狛犬
拝殿



  
燈篭・狛犬①
燈篭・狛犬②
末社
庚申塔


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市  

高舘と牡丹平の稲荷神社ーつがるみち296


高舘稲荷神社


 黒石市の高舘地区は、かつて高舘城という城(館)があった所ですが、現在の稲荷神社がその場所にあたります。
 神社の下を流れる高舘川を天然の堀として、境内のさらに上の方に郭が築かれていたようですが、すぐそばを東北自動車道が走っている現在では、その面影を見ることはできません。
 この城がいつ頃築かれたかは定かではありませんが、戦国期には千徳氏の居城だったといわれています。

 浅瀬石城主であった千徳氏は、南部氏の一族で、当時の黒石地方を治めていた分けですが、後に、津軽統一を目指す大浦(津軽)為信と結託し、南部氏に叛旗を翻すことになります。
 南部氏は、千徳氏を討つために武将・名杭日向を派遣しましたが、千徳氏はこれを撃退。その攻防の舞台のひとつが、この高舘城でした。
 ⇒ 浅瀬石千徳氏について(以前の記事)


庚申塔


 一の鳥居は、高舘の集落がある通りに立っていますが、高速道路が走るガード下の隣に赤い神橋が架かり、橋を渡って参道の石段を上ることになります。
 金属製の注連縄が張られた二の鳥居のそばには、注連縄が回された大きな庚申塔が2基と二十三夜塔が置かれていました。

 石段を登り切ると、左右にそれぞれ鳥居が立っています。右側の道は、りんご畑へと続いているようですが、その入口にあるのが大山祇神社で、祠には大山祇神を中心にして、左右に薬師大神と馬頭観音が祀られていました。

 左側に立つ三の鳥居からは、二本の大杉(御神木)に挟まれて、社殿までの参道が続いています。大振りな造りの狛犬や、拝殿の木鼻と龍の彫り物、きつねが居る本殿の造りなど、なかなかに見ごたえがある社殿でした。
 この稲荷神社については、
【御祭神:倉稲魂命  草創不詳。 延宝三年 (一六七五) 六月十日、 村中で建立。※青森県神社庁HP】とあるだけで、その詳細については分かりません。
 私が訪ねた日は、どうやら例祭の日だったようで、社殿の中には多くの人々が集まって談笑していました。神社の例祭は、地域の交流の場でもあります。

◇高舘稲荷神社

 
大山祇神社
参道
狛犬
拝殿
本殿



牡丹平稲荷神社


 高舘の稲荷神社からの帰り道、牡丹平(ぼたんだいら)地区に鎮座する稲荷神社を尋ねました。
 牡丹平の集落は、温湯方面へと向かう大通りに面していますが、この神社は、そこから少し離れた場所に位置しています。
 その由緒については、
【御祭神:倉稲魂命  寛永八年 (一六三一) 六月十日、 村中にて初めて勧請す。 伝え聞くに、 この所は寛文年間 (一六六一~一六七二) 黒石二代領主津軽信敏公が折々、 御鷹狩りをなされた所で、 藩主代々常に崇敬篤く、 社堂建立なされ、 同時に御饌米として一ケ年白米一俵宛て、 廃藩に至る迄、 御寄付戴く。 宝暦二年 (一七五二) 四月、 三代領主津軽采女政とら(たけ)公、 馬術御調律のため境内の北側に馬場を開設せられ、 今尚その跡がある。 明治四年神社改正につき村社に列せられる。 ※青森県神社庁舎HP】と記されています。
- 由緒にも書かれているように、黒石藩代々の藩主の崇敬が篤かった社のようです。

 由緒に出てくる黒石藩4000石の3代当主・津軽采女(政たけ)は、吉良上野介の娘婿であり、いわゆる「赤穂事件」を身近に見た人物なのですが、後年、日本最古の釣り指南書とされる『何羨録』を執筆したことで知られています。
 ⇒ 津軽采女の記事①       ⇒津軽采女の記事②

 2代領主・津軽信敏が鷹狩を行い、津軽采女が開設したとされる馬場の場所が、この神社の境内付近だとされているようですが、確かに境内の周りには広大な杉林が広がっており、その面影が残っているようです。 
 静かな林の中に見える赤い色鮮やかな本殿が、印象に残る神社でした。

◇牡丹平稲荷神社

 
一の鳥居
狛犬
拝殿
本殿
本殿のきつね


  
幼杉
石碑と燈篭
猿田彦碑
境内


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馬場尻稲荷神社ーつがるみち295


馬場尻の庚申塔①


 黒石市に「馬場尻(ばばしり)」という少し変わった地名がありますが、ここに市の民俗文化財に指定されている庚申塔があります。
「馬場尻の庚申塔」と名づけられたこの庚申塔群は田んぼを背にした道路沿いに立っていますが、そばに説明板があります。
【馬場尻の庚申塔  この庚申塔は、元文五年(一七四〇)八月二十二日に馬場尻村の藤治郎ほか八人が創建した。碑面に庚申信仰の由来等を彫り込んである貴重なもので、市内で最も古い庚申塔である。※説明板より

 黒石市には、竹鼻八幡宮赤坂八幡宮の境内にも指定民俗文化財の庚申塔がありますが、説明板に書かれてあるように、ここの庚申塔は黒石市最古のもののようです。

 石碑の隣には地蔵堂もありますが、さらにその隣の奥は八幡宮の境内になっています。この八幡宮については、
【御祭神:誉田別尊 草創年月不詳。 南津軽郡役所記録によれば 「享保二年 (一七一七) 九月に、 村中にて建立」 とある。※青森県神社庁HP】とあります。庚申塔とともに、地域の産土神として崇められてきた社のようです。

◇馬場尻の庚申塔と八幡宮

  
馬場尻の庚申塔②
地蔵堂
八幡宮
境内
拝殿



馬場尻稲荷神社


 庚申塔を見た後、西馬場尻の方へ向かいました。ここに稲荷神社が鎮座しています。
 この神社は、住宅地に囲まれた道路沿いに位置していますが、金属製の注連縄と大きな社号標が立っています。鳥居の横は少し小高くなっていますが、そこには大きくてごっつい感じのする庚申塔と、それとは対照的にスリムな二十三夜塔が置かれていました。
 そこからは少し曲道になっていて、二の鳥居、三の鳥居と続く参道になっています。
 横幅のある拝殿や、少し頭が平べったい貫禄のある狛犬、注連縄が張りめぐらされた手水舎など、地域の方々に大切に守られてきた神社という感じを受けました。

◇馬場尻稲荷神社

 
庚申塔
参道
境内
狛犬
拝殿



境内の御神木


 この馬場尻稲荷神社の由緒については、
【御祭神:宇賀御魂命  寛文五年 (一六六五) 八月十日、 西馬場尻にて堂宇建立初めて勧請す。 宝永五年 (一七〇八) 二月、 村中にて堂宇再建、 正徳二年 (一七一二) 八月十日、 村中にて精舎一宇造立す。 其の後再三改築を成し、 明治四十二年八月二十七日、 村社に列せられ、 三大祭及び臨時大祭には村長は供進使として幣帛料を供え参列した。 昭和二十一年に至り、 国有境内地譲与申請の処、 昭和二十二年法律第五十三号に依り昭和二十六年八月十日附を以て譲与される。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。
 - 「村中にて勧請、再建、造立・・」「大祭には村長は供進使として・・」という文からも分かるように、正に村の信仰や文化の中心として崇められてきた社だったのでしょう。

「稲荷様」ということで、きつねを探してみましたが、拝殿の前には像がなく、本殿へと回ってみたところ、その中に一対のきつねが向かい合って祀られていました。

 ところで、この神社の境内には、とても姿形のよい御神木が2本そびえているのですが、それは杉と松。玉垣に囲まれ、注連縄が張られた2本の大木は、仲良く寄り添うように立っています。
 大杉は、空に向かって真っすぐに伸び、大松はなだらかな曲線を描きながら伸びています。どうやら根元は合体しているようで、異種の木々がこうした形で並び立つ姿は、とても珍しいこともあって、「御神木」として大切にされてきたのだと思います。「夫婦杉松」といったところでしょうか。

◇本殿、御神木ほか

  
木鼻
本殿
本殿のきつね
御神木


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小屋敷と飛内の稲荷神社ーつがるみち294


小屋敷稲荷神社
  
飛内稲荷神社


 黒石市内から旧浪岡町へ向かう途中に小屋敷(こやしき)と飛内(とびない)という集落があります。隣どうしの村ですが、いずれの集落にも稲荷神社が鎮座しています。


二十三夜塔ほか


 小屋敷に鎮座する稲荷神社については、
【御祭神:倉稲魂命  寛文二年 (一六六二) 十二月九日、 黒石藩の祖先津軽十郎左衛門信英公は、 次男十郎兵衛信純に所領千石を以て分地させ、 下目内沢、 小屋敷、 飛内、 馬場尻四ケ村の領主となる。 その後、 元禄二年 (一六八九) 九月六日、 二代信俗が嫡子なくして死去したので、 御家名廃絶となり幕府の天領となった。 後、 黒石領に復する。 創立年月日は不詳といえども、 一書には 「正徳二年 (一七一二) 九月、 村中で建立し、 同四年四月十日御神体を安置す」 とある。 明治四年神社改正に付き、 同六年五月五日、 中郷村飛内の稲荷神社へ合祀、 その後、 同八年四月、 復社願いを申請の上許可され村社に列せられる。※青森県神社庁HP 】とあるように、黒石藩の始祖・津軽信英とその子孫達が領地の村々を拓いていった過程で勧請された社のようです。

 そばには小学校や工場、住宅などが並び立つ一角にこんもりとした森がありますが、そこが稲荷神社です。
 参道へと続く一の鳥居の隣にもうひとつ赤い鳥居が立っていますが、その下には二十三夜塔などが置かれていました。この鳥居の奥には祠がひとつ。風化のためでしょうか、足の長さを失った神馬
神馬
が奉納されているところをみると、どうやら馬頭観音を祀っているようです。
 参道を進み、二の鳥居をくぐると社殿が見えます。両脇の狛犬は少し風化が進んでいますが、社殿は比較的新しいものらしく、木々を背にぽつんと建っていました。

◇小屋敷稲荷神社

 
馬頭観音
参道
狛犬
境内
拝殿



庚申塔ほか


 小屋敷を過ぎると、ほどなく飛内の集落に至りますが、ここに鎮座する稲荷神社については、
【御祭神:倉稲魂命  元和二年 (一六一六) 八月十日、 飛内村中にて堂宇建立、 初めて勧請す。 寛永元年 (一六二四) 四月、 花山院少将忠長卿が宮地へご遊覧され、 その後、 同年八月、 小堂宇を新規造営、 慶安三年 (一六五〇) 四月、 村中にて拝殿を再建す。 その後、 明暦二年 (一六五六) 六月、 黒石藩の祖先津軽信英公巡村の節、 堂宇再建す。 これより代々の祈願所となる。 明治四年四月村社に列せられる。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 余談ですが、先の小屋敷稲荷神社の住所は「小屋敷宮岸」、ここは「飛内宮岸」・・共に「宮岸」という地名になっています。その由来などについては分かりませんが、両社の「宮地」を中心に発展してきた所といえそうです。

 由緒に出てくる花山院忠長は、「藤原北家の流れの江戸初期の公家で左近衛少将だった。慶長14年(1609)、後陽成天皇の女官と密通した罪により、徳川家康の裁定で蝦夷流罪が決定し、その後津軽に移された。忠長は、松前や津軽の配流地に京風の文化を伝えた。」とされる人物ですが、黒石市は、温湯地区をはじめ、忠長にまつわる逸話や伝説が多く残っている町です。この飛内稲荷神社もまた、そんな伝説を伝える神社のひとつなのでしょう。

 金属製の注連縄が張られた一の鳥居から二、三の鳥居と参道が続いていますが、社殿までは時計回りに半回転するかたちになります。
 参道の途中には大きな庚申塔などが置かれていますが、稲荷神のお使いのキツネは、三の鳥居をくぐったところに居ます。いかめしい感じではなく、どことなく「いたずらっ子」のような愛嬌のあるキツネ像です。

 社殿の横に「明治百年記念」と彫られた石碑があり、その隣に、注連縄が張られ、玉垣で囲まれた御神木がありますが、その由緒が書かれていると思われる説明板は文字が消えていて読み取れませんでした。きっと、何かいわれのある古木なのだと思います。

 一見、民家を思わせる茅葺屋根の社殿は、とても趣があります。扉が開いていたので、その中を拝むことができました。

◇飛内稲荷神社

 
境内
きつね像
御神木
拝殿
拝殿内



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隠れた名木2「浅瀬石廣峯神社ほか」ーつがるみち274


東公園のポプラ


【ポプラ(英語: poplar 学名Populus)は、双子葉植物綱キントラノオ目ヤナギ科ヤマナラシ属またはハコヤナギ属 に属する樹木(ハコヤナギはヤマナラシの別名)。北半球の温帯に約100種が分布する。日本のポプラ属は、ヤマナラシ、ドロノキ、チョウセンヤマナラシの3種が自生する。一般には明治期に導入された外来種をポプラと呼ぶ。※wikipediaより】とありますが、特に北日本に大きな木が多いようです。

 黒石市に桜の名所としても知られる東公園がありますが、公園の境界付近に2本のポプラの巨木が佇立しています。
 2本ともに樹種は「セイヨウハコヤナギ」で、大きさもほとんど同じなのですが、右側(向かって)が樹高28m・幹周6.56mで、左の木が樹高25m・幹周6.47mとなっています。実は、この2本のポプラ・・・前々回ご紹介した「東北巨木調査研究会」の方々の調査などによると、全国で1位と2位の大きさを誇る巨木とされています。

樹齢はおよそ150年以上とされていますから、外来種が日本に根付いた頃のものなのでしょうか。両方とも雌木であり、まるで姉妹のように寄り添っているところから、「東公園の姉妹ポプラ」と名付けられる予定でしたが、地元の方からの要望で、「じょんからポプラ」に決まりました。さすが、じょんがら節のふるさと・黒石です。以前は、2本のポプラの間に多くの木があったために、この姉妹ポプラは、その大きさがあまりよく分かりませんでしたが、現在は間の木々が伐採されたために、その雄姿をはっきりと見ることができます。

◇東公園のポプラ

 
ポプラ説明板
ポプラ①
ポプラ②
ポプラ③
ポプラ④



浅瀬石城址
  
廣峯神社


  中世から戦国期にかけて、各地を支配した領主達は、城(館)を築き、領地の安定と繁栄を願い、「まちづくり」を進める中で、多くの神社や寺院を築きました。津軽でいえば、津軽氏の弘前、安東氏の藤崎、北畠氏の浪岡などがそうですが、千徳氏の黒石・浅瀬石もそのひとつです。

参道


  浅瀬石城址から少し離れたりんご畑に囲まれたところに廣峯神社があります。かつては、牛頭天皇を祭る「牛頭天皇社」でしたが、神仏分離を機に、現在の神社名になったと思われます。浅瀬石城の館神として建立されたのでしょう。御祭神は、多くの廣峯神社と同様に、素戔嗚尊と五十猛命と思われますが、牛頭天皇は素戔嗚尊の本地仏とされています。

 城跡からりんご畑の中を進んで行くと、やがて赤い鳥居が見えてきます。鳥居の脇には「史跡 牛頭天皇社」と書かれた木柱が立っていますが、その隣に「国内最大級ポプラの木」という大きな看板があります。東公園と同じく、ここにもポプラの名木があります。


 境内に、この巨木の説明板がありました。
【名称 夫婦雷樹  (雷樹の「雷」は)昔、雷が落ちたためといわれるが不明】
「夫婦」は2本のポプラが夫婦のように寄り添っているところから命名されたものですが、説明板には、
【検査結果から、夫婦ではなく、女性同士と判明】とありました。 ー 2本とも雌株である・・と、味気ない書き方ではなく、何となくユーモアを感じさせる記述ですね。
【樹齢 百五十年 樹高約二十五メートル(各) 主幹周 右:四七二センチ(国内六位) 左:三八十センチ】【ポプラの巨木として対になっているのは国内随一】と、誇らしげに書かれてありました。

 鳥居をくぐって進んで行くと、なるほど2本のポプラがまるで大きな門のように立っているのが見えます。両木の間には注連縄が張られていました。
 境内は狛犬や末社などもなく、社殿が立っているだけのいたってシンプルなものですが、それだけにこの夫婦雷樹の存在が目立ちます。社殿を挟み込むように、2本の太い幹が立っている様は、まるで巨象の大足のようでした。

◇廣峯神社の夫婦雷樹

 
夫婦雷樹①
社殿
夫婦雷樹②
夫婦雷樹③




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隠れた名木「アカシデとハリギリ」ーつがるみち272


黒森山浄仙寺


 私の地元・黒石市に、今まではあまり知られていなかった「隠れた名木」があるということで訪ねました。
 はじめに訪れたのは名刹として名高い黒森山浄仙寺。お寺のある黒森山(606m)周辺は、豊かな自然に恵まれ、ウォーキングコースも整備されている所です。
 コースは、浄仙寺を周回しながら、地元ゆかりの文学碑を見ることができる「文学の森コース」をはじめ、うっそうと生い茂ったブナの原生林の中を歩く「ブナの森コース」など、7コースがあり、時間と体力に応じて選べるようになっています。
 その中のひとつに「黒森山のアカシデコース」がありますが、このコースについては、
【日本一の大きさを誇るアカシデの木を見ることができるコースです。樹齢約150年、樹高14メートルのアカシデの巨木からはたくましい生命力を感じます。コース自体も比較的短く、初心者にもお勧めのコースです。※黒石市HPより】と紹介されています。

「アカシデ(赤四手)」は、【カバノキ科クマシデ属の落葉高木。北海道南部、本州、九州、朝鮮に分布する。高さは15mほど。花期は4〜5月頃で、若葉が生えると同時に咲く。秋には葉が紅葉する。シイタケのほだ木、製炭材、公園木なに利用される。
 和名の由来は、若芽が赤いこと、秋に美しく紅葉することから。「しで」は、注連縄(しめなわ)などに使われる紙垂(しで)のことで、花穂の垂れ下がる様子が似ていることから。※wikipediaより抜粋】とありますが、この黒森山のアカシデが注目されるようになったのは最近のことで、市民団体「東北巨木調査研究会」の方々による調査の結果、「主幹の幹回りは3.38メートルで、アカシデとしては全国6位。支幹を含めた合計の幹回りは4.69メートルと全国最大」であることが確認されたとのことです。

 浄仙寺から少し進んだ所に駐車場がありますが、私はそこから「アカシデコース」を歩いてみました。小鳥の鳴き声を耳にしながら曲がりくねった林の中を歩くこと約1km。急に視界が開け、その場所にアカシデの木がありました。
 巨木・大木というよりは、むしろ「麗木」といった方がよいかも知れません。主幹から分かれた支幹の姿形がとても美しく、汗をかきながらここまで登り詰めてきた登山者をホッとさせるような「名木」でした。

◇黒森山のアカシデ

 
アカシデ①
アカシデ②
アカシデ③
アカシデ④



安入集落


 続いて訪れたのは、黒石市安入(あんにゅう)地区にあるハリギリの木です。
 恥ずかしながら、私は道順が分からず、とりあえず、以前訪れた長谷澤神社方面へ向かって進み、途中から分かれる別の道をたどったところ、偶然に発見しました。
 細い道を少し進んだ所が、分かれ道になっていて、そこに大きなハリギリの木が立っています。弘前の身代地蔵尊のハリギリや青森市孫内八幡宮のものは、いずれも境内にある巨木でしたが、このように、集落の入口にポツンと立っているハリギリは初めてです。

 前述の市民団体による調査では、高さは不明ながらも、「幹周5.6m、ハリギリでは国内7位の巨木」とのことです。

 その太い根に抱きかかえられるように立っているのは青面金剛の石碑。
青面金剛の石碑
「文化八年(1811)」の年号が刻まれているところをみると、約200年前にここに置かれたものなのでしょう。年月が経つうちに、現在のように、根っこに包まれるようになったものなのでしょうか。

 青面金剛は庚申信仰、猿田彦、道祖神とも関わりが深いとされていますが、古くから村の分かれ道に立つ樹齢300年ともいわれるこのハリギリの巨木は、変わらずに集落を見守ってきたのでしょう。

◇安入のハリギリ

 
ハリギリ①
ハリギリ②
ハリギリ③
ハリギリ④


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蛾虫坂「稲荷神社」ーつがるみち267


 
黒石の八郎伝説
 
蛾虫坂からの眺望


 黒石市の温湯には、「昔、八郎という若者が浅瀬石川の水を飲み過ぎて、体中鱗だらけになり、龍になった」という面白い伝説があります。
 温湯温泉から板留温泉へ行く途中の坂道は小高い丘になっていますが、ここにも次のような八郎の話が伝えられています。
【昔八郎が、この下を流れる浅瀬石川と中野川をせき止めて、ここに飲み水を溜めようと、エビ(※柳の枝を折り曲げて、ざるのように作った土砂の運搬具)一杯の土を盛った。しかし、中野のお不動様に叱られて、そのまま逃げた。そのときの土盛りだという。※『青森の伝説』角川書店
 
 この八郎が造った土盛は「蛾虫(がむし)坂」と呼ばれていますが、新道が開通するまでは、人々の往来が絶えなかったようです。 
 ー 【いで湯の地である温湯村や板留村は、浅瀬石川に沿う温泉と景勝の地として津軽郡中に知られていました。温湯村と板留村の間、浅瀬石北岸の断崖を登る大坂道であった蛾虫坂とその峠からは、大川(浅瀬石川)をはじめ、温湯村、板留村、中野紅葉山・・・などが眺望でき、絶景であったとされています。※黒石市HPより】 ー

「蛾虫(がむし)」という少し変わった名前ですが、地名にもなっており、その蛾虫坂の麓に稲荷神社が鎮座しています。


稲荷神社入口


 坂道の入口にあたるこの神社については、
【御祭神:倉稲魂命  一羽の鶴が傷ついて芦辺に居りしが、 後に元の如く癒えて飛び去ったのを神山右沖なる人がこれを見て芦原を捜したところ、 湯気の立つ処があるのを発見して名称を鶴泉と名づけた。 天正十九年 (一五九一) 夏、 陸奥浪岡城主源中納言唯秋の家臣工藤次郎左衛門なる者あり。 訳ありて浪人をし、 此の地へ参り川原に小さな葛家を建て妻子を伴い居住し湯の恵みを受けたが、 十数年後、 廃湯を思い、 浴する人々のために芦を結び風雪の凌ぎをなした。 後の人、 これを山形の湯と唱え浴する人が増えていった。 寛永元年 (一六二四) 八月中旬、 花山院忠長卿が御入浴の際、 山方の温湯と名付け、 百年も後には奥州一の湯になるだろうと云われた。 宝永七年 (一七一〇) 元の宮地であるがむし坂へ同村の六右衛門が社殿を再建、 更に寛政七年 (一七九五) 村中にて再建す。 ※青森県神社庁HPより】とあります。
 神社の縁起というよりも、温湯温泉の由緒について述べられていますが、それだけ、この社は、温泉を主とした村の発展に深く関わってきたのでしょう。

 境内の手水舎のそばに大きな石がありますが、この石は松尾芭蕉の句碑でした。
「行秋や手をひろげたる栗のいが」 ー 元禄7年(1694)9月、芭蕉は最後の旅で故郷の伊賀に立ち寄りますが、芭蕉の衰弱ぶりを見かね伊賀の門人たちは、出立しようとする芭蕉を引きとめます。この句はそんな門人への挨拶句だと言われているようです。
 石の正面にこの句が刻まれているわけですが、側面には、天保3年(1832)この句碑を建立した吉村子文という方の句がありました。 ー 「行秋や古巣に帰る鳥の影」
 かつて、多くの旅人達が往来した蛾虫坂にふさわしい句といえるでしょうか。

◇稲荷神社と芭蕉の句碑

 
二の鳥居から
拝殿
本殿
芭蕉句碑①
芭蕉句碑②



頂上へ①


 本殿のわきからは頂上へと至る坂道が続いていますが、県内最古の芭蕉の句碑
県内最古の芭蕉の句碑
の案内板が立っていました。
「この先二百米位」と書かれてあったので登ってみることにしましたが、これがまちがいのもとでした。曲がりくねった道が延々と続き、息が切れて何度も休憩する始末。。やっとの思いで頂上へたどり着きました。

 頂上の木々の間からは温湯や板留の町並みが見えますが、ここにひとつのお堂が建っていました。そして、その前には句碑らしき大石。これが、県内最古の芭蕉の句碑なのでしょうか。残念ながら刻まれた文字は読めませんでした。

 後で調べてみたら、蛾虫坂の頂上には七面堂というお堂があり、その傍らに安永2年(1773)3月に建立された芭蕉の句碑 ー 「梅の香にのつと日の出る山路かな」 ー があるとのことですが、ここが本当にそれなのか?

 青森県の各地にも芭蕉の句碑は数多くありますが、この稲荷神社と同じ温湯・薬師寺にも「山中や菊は手折らぬ温泉の匂ひ」の句碑があります。
「旅の詩人」松尾芭蕉は、やはり、多くの人々に敬愛されているようです。

◇県内最古の芭蕉句碑を訪ねて

 
頂上へ②
頂上へ③
頂上から
七面堂?
県内最古の芭蕉句碑?


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石名坂館「稲荷神社」ーつがるみち252


狛犬


 黒石市浅瀬石の近くに石名坂(いしなざか)という集落がありますが、ここには、かつて「石名坂館」という城がありました。城主(館主)は石名坂氏で、館の築城年代は詳しくはわかりませんが、南北朝期から戦国期にかけて浅瀬石・千徳氏の支配下に入っていたようです。
 天正13年(1585)、南部氏が浅瀬石城を攻撃した戦い(宇杭野合戦)において、当時の館主であった石名坂近江守正長は討ち死にし、その後廃城となったといわれています。


石名坂館跡


 石名坂館は、付近を流れる浅瀬石川を天然の堀として、主郭と外郭で構成されていたといわれていますが、現在は、その主郭跡に稲荷神社が鎮座しています。
 すぐそばを東北自動車道が走る坂道を歩いて行くと、傍らに墓地が見えてきますが、その上が小高い丘になっていて、稲荷神社の社殿が建っています。

 一の鳥居から延びている石段を上っていくと、二の鳥居の両脇に岩の上にのっかった姿の狛犬が置かれていました。
 このような姿の狛犬は「獅子山型狛犬」とも呼ばれていて、溶岩や積み上げた岩で獅子山を造り、それを崖と谷に見立てて、「親獅子は千尋の谷へ幼い我が子を突き落とし、そこから這い上がってくる強い子だけを育てる」という、いわゆる「獅子の子落とし」の説話を狛犬で表現しているものとされています。
 津軽地方では、あまり見かけないもので、私も初めてでした。狛犬は、赤い三の鳥居のそばと拝殿の前にもありましたが、こちらは一般的な造りのものです。

 拝殿には、鈴と並んで鰐口が下げられていました。こうした仏具は、神仏混合の名残を感じさせます。

◇稲荷神社境内

 
一の鳥居
二の鳥居
獅子山型狛犬
境内
拝殿



手水岩


 境内には、龍が乗った手水石がありますが、その後方にこの社の由緒を記した石碑
石碑
が立っています。
 それには、【文治五年六月奥州藤原氏滅亡の際、家臣佐藤庄司基治は今の岩手県西磐井郡彌榮村(※現在の一関市弥栄)石名坂より移住して・・・・】と書かれています。また、この稲荷神社の縁起については、
【御祭神:倉稲魂命  文治五年 (一一八九)、 源頼朝が藤原泰衡を滅ぼした際に、 家臣佐藤庄司基治が当地に移住し、 平泉藤原氏全盛時代に平泉七社の内に数えられた稲荷宮と祇園社を館内に勧請し、 創立したのに始まる。
 仁治元年 (一二四〇)、 千徳伊探守行重が浅石城主になると、 佐藤氏はその家臣となり、 神社は領内の名社として領内十九社の内に列した。 慶長二年 (一五九七)、 浅石城落城により廃社となったが、 その後、 佐藤氏が中心となって神社を再興し、 石名坂の産土神として宝永五年 (一七〇八)、 村中にて社殿が造営された。※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 佐藤庄司基治(佐藤基治:さとう もとはる)は、
【奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した武将。源義経の従者佐藤継信・忠信の父。※wikipediaより】で、奥州藤原方の武将として、鎌倉軍と戦った佐藤一族の頭首でした。
 その領地は「石那坂」と呼ばれ、この地での戦い(石那坂合戦)に敗れた基治一族は、やがて「青森県に逃れた。黒石市・石名坂は、佐藤基春のかつての所領・石那坂から名付けられた」という伝承が残っているわけです。

 伝承に従うならば、佐藤基治は福島飯坂から平泉へと逃れ、ここ黒石石名坂に居住し、「平泉七社」を模した稲荷宮を建立したことになります。小規模ながら、この地に、かつての平泉の栄華を再現しようとしたのでしょうか。佐藤一族は、その後、「石名坂氏」を名乗り、戦国時代を迎えるわけです。

 拝殿の後ろの本殿は、すっぽりと覆われ、その中を見ることはできませんでしたが、稲荷様らしく大きな「正一位」の扁額が掲げられていました。
 隙間から覗いて見ると、恵比寿様と大黒様の姿が見えました。豊穣の神・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)とともに、五穀豊穣を願って祀られているようです。

◇本殿ほか

 
拝殿から
末社
本殿①
本殿②
恵比寿様と大黒天


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家臣の手で2「中川胸肩神社」ーつがるみち244


胸肩神社


 前回は、浅瀬石城主・千徳氏の家臣が建立したとされる平川市(旧尾上町)の李平保食神社を取り上げましたが、今回ご紹介するのは黒石市中川に鎮座する胸肩神社。ここもまた、同様の由緒をもつ社です。
「黒石」という地名の由来は必ずしもはっきりと分かっているわけではありませんが、
【蝦夷の住む土地を久慈須(クジシ)、国栖(クニス)と称したことから、国栖が『くるし』、さらに、『くろいし』に転化したのではないか】といわれています。
 文献の上で最も古い記録としては、【興国四年(1343年)6月20日付の工藤右衛門尉貞行の妻しれん尼が書いた書状があり、そこには「つがるいなかのこをり、くろいしごう、おなしき、まん所しきの事右所は、くどううえもんのぜうさだゆきさうだいの所りようたるあいだ、しれん、かのごけとしてそうでん(中略)ちゃくそんりきじゅ丸にゆづりあたう也(後略)】とあるとのことです。
 ー 工藤右衛門尉貞行は、鎌倉幕府から派遣されていた地頭で、黒石郷を支配していた。貞行の娘かいず御前は、八戸の領主南部信政に嫁いでいたが、貞行が没してから、貞行の妻しれん尼が、領地をかいず御前の子力寿丸(南部信光)に与えた。ー という意味の文書ですが、この書状からは、興国四年以前から「黒石郷」という地名が存在していたことや、工藤右衛門尉貞行没後に、南部氏の支配下となったことなどが読み取れます。 ※【】は黒石市観光協会HPを参考にしました。

 南部氏の所領となった黒石の郷は、やがて南部氏流一戸氏の一族である千徳氏が治めることとなり、その居城があった浅瀬石村は、中心地として栄えたわけですが、もともとこの地は、古くから大きな集落がつくられていた所でした。
 浅瀬石城址の南側にあたる丘陵地帯に「浅瀬石遺跡」がありますが、ここは縄文時代から平安時代の住居跡や出土遺物が多数発見されている遺跡です。8世紀前半・後半、9世紀前半・後半に造られたことを示す竪穴住居跡は31棟見つかっており、また、出土した土師器(はじき)は、ロクロ使用前(8世紀)の物とロクロを使用した物(9世紀)が見つかっているなど、津軽の地域では数少ない奈良時代の文化や生活様式を伝える貴重な遺跡といわれています。
 同じく奈良時代の貴重な遺跡である前回の李平上安原遺跡もすぐ近くにあり、浅瀬石川の南側一帯は津軽の古代文化が花開いた場所といえそうです。
 ⇒浅瀬石遺跡と李平上安原遺跡
浅瀬石遺跡と李平上安原遺跡


一の鳥居


 胸肩神社のある中川(なかがわ)は、バイパスと水田に挟まれた集落ですが、浅瀬石川の岸に開けた所で、かつては、村のすぐそばまで川が迫っていたことでしょう。神社は、そんな集落の中心に位置しています。
 この胸肩神社については、
【御祭神:市杵嶋姫命  文明年間 (一四六九~一四八七)、 浅石城主千徳左衛門政久の家臣中河隼人が社殿を建立して、 弁才天を勧請した。 大永三年 (一五二三) 中河村の産土神となったが、 慶長二年 (一五九八) 浅石城落城により廃社となった。 寛永元年 (一六二四)、 村中にて社殿を再建し、 文珠菩薩像を奉斎して、 弁天宮と称した。 明治三年、 菩薩像を弘前市最勝院に納め、 胸肩神社と改称した。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)は、いわゆる宗像三女神の一柱で、日本の代表的な水の神ですが、海辺でもなく、大きな湖沼もないこの地に祀られているのは、やはり浅瀬石川が存在していたためと思われます。農耕に欠かせない水を恵んでくれる大河に感謝するとともに、その氾濫による安全を祈願して祀られたものなのでしょう。
 創建は千徳氏の家臣「中河隼人」によるものとされていますが、現在の「中川」という地名も、この「中河隼人」からきているのかも知れません。
 比較的狭い境内に、一から三の鳥居まで立てられていることは、古くから村の崇敬を集めてきた神社であることを感じさせます。拝殿前の狛犬は雪の中にすっぽり埋まって、姿が見えませんでした。

◇胸肩神社①

 
二の鳥居
三の鳥居
拝殿①
拝殿②
本殿


 社殿の隣にもうひとつ社号標と鳥居が立っていて、社号標には「諏訪神社」と刻まれ、鳥居には「文殊菩薩」の扁額が掲げられています。その鳥居の奥には「史跡文殊社」の木柱と祠があります。祠の中は「諏訪神社」となっています。
 由緒に「村中にて文珠菩薩像を奉斎して、 弁天宮と称した」とありますが、ここがその「文殊菩薩堂」だと思われます。やはり明治の神仏分離の際に「諏訪神社」となったのでしょうか。

 かつて「弁天宮」と呼ばれていたこの胸肩神社。多くの弁天宮は神池を伴っていますが、
冨野猿賀神社の弁天宮(中泊町)
この社にも「鵲の池」と呼ばれる池があります(現在は雪に埋もれて見えませんでしたが)。
「鵲の池」というその名前から、何かしら古の伝説でもあるのかと思いましたが、どうやらそうではなく、「鵲(かささぎ)は、古来から神の世界と人間の世界とを結ぶ神使といわれる鳥。それにあやかり、御祭神と氏子との間をとりもってほしい」という願いから名づけられたとのことです。

◇胸肩神社②

 
諏訪神社①
諏訪神社②
諏訪神社③
鵲の池①
鵲の池②


 黒石郷の領主であった千徳氏は、戦国時代になると大浦(津軽)為信と手を組み、周辺の南部勢を打ち破り、津軽統一を果たしていくわけですが、やがて対立し、浅瀬石城は落城、一族も滅亡します。 ⇒以前の記事へ。
 それに伴って、ここ中川の弁天宮も廃社となったわけですが、後に村人達の手で社殿が再建されます。支配者が変わっても、「産土社」に寄せる村人の思いは変わらなかったようです。

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火流しの山里「大川原稲荷神社」ーつがるみち242


大川原集落


 黒石市を走る国道102号線を曲がって、394号線を進むと名所・中野もみじ山(中野神社)黒森山浄仙寺があります。
 この道は、八甲田山・酸ヶ湯へと続いていますが、その途中に「大川原(おおかわら)」という集落があります。
 大川原は、南八甲田山系の裾野、中野川の渓流沿いに開けた、ひっそりとした山里ですが、ここに稲荷神社が鎮座しています。

 この山里は、奇習「大川原の火流し」
「大川原の火流し」
が行われることで知られています。
【大川原の火流し:毎年8月16日の夜、集落を流れる中野川で行われ、アシガヤを編み上げた3つの舟(長さ3m、幅1・5m、帆柱の高さ3m)に火をつけ、1隻を5~6人の若者(舟子)が引きながら、500mほど下流の大川原橋まで川を下ります。すげ笠に野良着姿の舟子が、帆柱の火を消さないように「ヤーレヤーレ、ヤーレヤ」と掛け声を発しながら舟を走らせる姿はまさに勇壮。また、川岸では地元の小・中学生らが、笛や太鼓のはやしで、悪戦苦闘する若者たちを盛り上げます。3隻の舟には意味があり、それぞれをワセ(早生)・ナカ(中生)・オクテ(晩生)と稲の3種に見たてたもので、その火の燃え具合から、翌年の豊凶を占いますが、地区では、村内安全、疫病退散を願う伝統行事としても受け継がれています。 ※黒石市HPほかより

 青森県の無形民俗文化財にも指定されているこの伝統行事は、南北朝時代、御醍醐天皇の第三皇子・宗良親王を長年にわたってかくまった信濃の豪族・香坂高宗の子孫が、戦いに敗れて大川原に落ちのび、南朝方戦死者の慰霊と故国をしのぶため、約600年程前に始めた「精霊流し」が起源だと伝えられています。
 宗良(むねよし)親王(1311年 - 1385年)は、和歌に長じた人物としても知られていますが、南北朝の対立の激化にともない、吉野、伊勢、越中、越後など諸国を流浪の末、信濃国・伊那郡の豪族であった香坂高宗に招かれたのは、1344年(興国5年・康永3年)頃のこととされています。
 香坂高宗(こうさかたかむね)は、宗良親王を約30年にわたり庇護し続けた「南朝の忠臣」として知られる武将ですが、親王は、香坂の領地・信濃を拠点としたために、「信濃宮」とも「幸坂の宮」とも呼ばれていたようです。
 この香坂が治めていた領地は信濃国の「大河原」。香坂の子孫が落ち延びてきたとされるここ黒石の「大川原」 ー その地名の一致は興味深いものがあります。

 大川原地区も過疎化が進み、集落の小学校は廃校となりましたが、現在は「お山のおもしえ学校」という観光施設に生まれ変わっています。私が訪ねたときは、その学校跡や温泉、川沿いの地蔵尊などが、深い雪の中に建っているのが見えました。

◇大川原集落

 
中野川
地蔵堂①
地蔵堂②
大川原温泉
お山のおもしえ学校



稲荷神社


 村社・稲荷神社は、中野川沿いの高台にあります。
 雪をかき分けながら坂道を上ったところが境内で、そこからは集落と黒森山を見渡すことができます。社号標と一の鳥居、そして本殿は、半分以上雪に埋まっていました。
 境内には、末社の祠がひとつ。夏場には、他の石碑なども見られるのかも知れません。大きな雪帽子をかぶった狛犬と石灯籠が印象的でした。

 この稲荷神社については、
【御祭神:倉稲魂命  元禄八年 (一六九五) 七月、 住吉大明神と観世音とを建立。 時の公家村は、 往古、 外ケ浜より笠松峠をかけて小川添に下り黒森山の下を通り、 オーバク平と云うところを経て国中の方へ出る道筋だが、 寛永年中、 高橋久作、 佐藤三之丈の二人は国中より浅瀬石川に沿い小川に上って土の目量を計ったところ、 当地は良土であったので、 此処を住民地と定め、 田畑を開墾し段々移住の者が増えた。 後に黒石藩主より公家村を改め小川原村と云う名を付けられ、 更にその後、 いかなる事か現在の大川原となった。 万治年中に田山堰ができてから堰添を通り黒石へ出ることとなった。 元文元年 (一七三六) 四月、 稲荷大明神を住吉大明神の内へ造立す。 明治四年神仏仕分けの際、 住吉宮並びに観世音を廃止、 稲荷大明神を氏神として勧請す。 奇習 「大川原の火流し」 の里の鎮守さまである。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。

 集落の歴史をも伝えている由緒書きですが、かつては「公家村」と呼ばれていたとのことで、前述の「大川原火流し」の由来(宗良親王、香坂高宗とその子孫の伝説)との関わりを感じさせます。

◇稲荷神社

 
境内
末社
狛犬と灯籠
社殿
境内から


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境内でひと休み「赤坂八幡宮」ーつがるみち240


八幡宮


 地元・黒石市の神社めぐりの続きです。
 前回にご紹介した目内沢の稲荷神社の近くに赤坂という集落があります。目内沢から、橋をひとつ渡ったところですが、この赤坂の村の入口に八幡宮が鎮座しています。
 私が訪ねたのは昨年の11月中旬。初雪もまだ降らず、刈り入れ後の田んぼが辺りに広がっていました。

一ツ森岩吉碑


 神社の一の鳥居のとなりに大きな石碑が立っています ー 「一ツ森岩吉碑」。
 一ツ森岩吉については、「1866(慶応2)年4月5日生まれ、1934(昭和9)年8月4日死す。黒石市赤坂の八幡宮境内にその碑がある。」と黒石市HPで紹介されていますが、赤坂出身の力士だったようで、その活躍を讃えて村の有志たちの手で顕彰碑が建立されたとのことです。

 この赤坂八幡宮の由緒については、
【御祭神:誉田別尊  寛正年間 (一四六〇~一四六六) の創建、 慶長年間 (一五九六~一六一五) 本村宇野某、 殊に大神を信仰崇敬し、 堂宇の朽敗を嘆き社殿を建立、 更に近村の力士を募集して相撲を行なう。 宝暦年間 (一七五一~一七六四)、 村中にて社殿を再建し、 明治四十二年八月二十七日村社に列格、 神饌幣帛料を供進される。 更に、 昭和二十一年に至り国有境内地譲与申請の処、 昭和二十五年二月三十一日に法律第五十三号に依り無償譲与となる。 ※青森県神社庁HP】とあり、古い歴史をもつ社です。
「近村の力士を募集して相撲を行なう」とありますが、この八幡宮の境内にはかつて土俵がつくられており、村の若者たちの力試しの場であったようです。

 各地の神社の境内には土俵がつくられており、奉納相撲や各種の相撲大会なども盛んですが、昔、娯楽の少なかった時代には、神社の境内で行われる相撲大会は、村人の楽しみであったのでしょう。
 境内の土俵や力石(力試石)は、そんな当時の様子を偲ばせますが、重い米俵を軽々と持ち上げる力士は、人々の人気を集めたと思われ、神社の鳥居の「鬼っコ」にも、力士を思わせるものが数多くあります。「重い米俵」は即ち豊作の象徴であり、それを担ぎ上げる力士もまた村人の敬愛を集めたのだと思います。この神社に限らず、郷土(町村)出身の力士の顕彰碑は多くの神社に建てられています。

◇力士顕彰碑など

 
神社土俵(浪岡八幡宮)
力試石(常盤八幡宮)
力士型鬼(金木熊野宮)
力士顕彰碑①(田舎館稲荷神社)
力士顕彰碑②(藤崎鹿島神社)



一の鳥居


 一の鳥居の注連縄は金属製のものですが、どちらかというと横長で細身のものです。
 新しく奉納されたと思われる灯籠の後ろには、神馬と狛犬がそれぞれ一対ずつ。その後ろに拝殿と本殿があります。境内には樹木が少なく、道路沿いからもよく見渡すことができ、明るく開放的な感じのする社です。

 拝殿の隣には、二十三夜塔や庚申塔などが立っていますが、ここの庚申塔は赤坂の庚申塔
赤坂の庚申塔
と呼ばれ、黒石市指定民俗文化財になっているものです。少し風化しているため、はっきりしないのですが、どうやら刻まれている像は「青面金剛(しょうめんこんごう)」のようです。

 青面金剛は、
【日本仏教における信仰対象の1つ。青面金剛明王とも呼ばれる。夜叉神である。インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰である庚申信仰の中で独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。・・・三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されるが、一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。 彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。※wikipedia他より】といわれ、古来から庚申信仰と深い関わりをもっています。

 日本各地の石造の庚申塔には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が描かれている例が多いといわれていますが、以前、訪ねた弘前市・常盤神社の庚申塔には、青面金剛像と踏みつけられている邪鬼、そして三猿が刻まれていました。
 ⇒常盤神社の庚申塔
常盤神社の庚申塔


 この八幡宮のある赤坂は、かつては、六郷村の中の集落だったわけですが、近くには、同じく市の文化財に指定されている庚申塔がある竹鼻八幡宮があります。一帯には、昔からの庚申信仰が根強く残っているようです。

◇赤坂八幡宮

 
参道
拝殿
狛犬
拝殿と本殿
赤坂の庚申塔


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稲荷神社と延命地蔵尊ーつがるみち239


稲荷神社と延命地蔵尊


 黒石市に目内沢という集落があります。
「目内澤は、天保年代(1644年)黒石~目内澤~常盤、黒石~目内澤~本郷の交通の要衝であるため、往来も激しく・・※延命地蔵尊由緒書き」とあるように、藩政時代から黒石と青森方面を結ぶ要の村でした。
 現在は「上目内沢」と「下目内沢」とに分かれていますが、その両方に稲荷神社が鎮座しています。今回は上目内沢の稲荷神社を訪ねました。

稲荷神社


 見渡す限りの雪の原 - といった感じですが、道路沿いに大きな社号標と赤い鳥居が立っています。
 境内も雪に埋もれ、白一色でしたが、鳥居から拝殿へと続く参道はきれいに除雪されていました。
 庚申塔でしょうか、不明の石碑が3基ほど。雪に埋もれているものもあるのかも知れません。拝殿の前には大きな狛犬が雪帽子をかぶっていました。

 この稲荷神社は、
【御祭神:倉稲魂命  貞享元年 (一六八四) 十一月、 村中にて建立したと伝えられているが、 そもそも古来より僅かの宮地があった所と言われている。 明治四年神社改正に付き、 同六年五月十日中郷村飛内の村社稲荷神社へ合祀したが、 その後、 同八年四月復社願いを申請の上、 拝殿並びに大鳥居を建立し、 同月十七日に復社する。 ※青森県神社庁HP】と紹介されています。以前から「宮地」があったということですが、古くから村落の崇敬を集めていた祠があったのかも知れません。

 拝殿の奉納額には、「平成3年9月28日の台風19号により樹齢200年以上の杉の大木がなぎ倒され、本殿・拝殿・鳥居等も飛ばされるという甚大な被害を被りました。氏子一同の力強い御協力により、総工事費430万円、5年計画で新築完成」とありました。

◇稲荷神社

 
境内
石碑
狛犬
拝殿
本殿



聖観音と延命地蔵尊


 この稲荷神社の手前に、大きな聖観音像が立っており、ひとつのお堂があります。「延命地蔵尊」と呼ばれるお堂です。
 観音様の後ろに、その由緒を記した石碑が立っていますが、それには、
【寛政6年(1794年)に建立した地蔵尊は、天明3年(1783年)とあくる天明4年津軽郡中一円は元禄大飢饉以来の飢渇に襲われ、無残・地獄絵図の天明大恐荒であった。この地も、手前の坂道を登れずに倒れて逝く姿を目のあたりにして、天明の餓死者の供養と人々の助命を願い「延命地蔵尊」として、有志一同が建立したのであります。・・・朝な夕な地蔵尊にひたすら家族の延命を願いまた豊作を願い、信心すれば大願成就が成る風評が津軽地方にあったのであります。】と、その建立の主旨や地元の信仰の深さについて記されています。

由緒石碑


 由緒書きには続けて、
【また、日露戦争(1904年)に、お上から縄を掛けられたということであります。陛下のご命により国中から体格の優れた青年が続々と召集され、また、戦争が悪化するにつれて多数の戦死者が出たものであります。国家の義務とはいえ、親や子、妻を残して出征した家族となってみれば、別段の想いであったことでしょう。これだけは他人の力でならぬこと、いずれは神、仏にすがって見るがよし、そこにきて、この地蔵様を信心すれば兵隊に召集されず。また、出征しても戦死しない、という噂が伝わり、兵隊を持つ家族は我も我もと駆け込み村はずれの地蔵の周りはいつも信者で黒山の人であったという。そのことが、お上の耳に達し、「これは由々しい国事犯が目内澤に出来たものだ」「徴兵回避を宣伝する不届きな奴め」と、巡査を派遣して地蔵様に荒縄を掛けたのであります。】と書かれていました。

 日露戦争と青森県といえば、大戦前夜(1902年)におこった八甲田雪中行軍事件が有名ですが、国家の存亡をかけたこの戦争の記念碑や慰霊碑は、多くの神社に立てられています。ここ目内沢の地でも、兵隊にとられていく大事な家族の安全を願う切実な思いがあったのでしょう。「君死にたまふことなかれ」 - そんな思いでお地蔵様を拝んでいたのだと思います。

「お上から縄を掛けられた」ということから、この地蔵尊は「縄掛け地蔵尊」とも呼ばれているとのことです。
 いわゆる「縛地蔵(しばりじぞう)は、【強請呪術(じゅじゅつ)による祈願法の一つ。地蔵などを縄で縛り上げ、願い事をかなえてくだされば、縄をほどいてあげますというもの。※kotobank】で、祈願者が厄除け、家内安全、病気平癒などを願った風習ですが、あるいは、ここ目内沢の村人も、お地蔵様に縄をかけて徴兵されていく身内の無事を祈ったのかも知れません。声高に「反戦」を叫ぶことのできない村人の心情が反映されたお地蔵様といえるでしょうか。

 この延命地蔵尊もまた、
【平成3年9月28日(1991年)の台風19号がこの地方を痛撃し、最大風速62メートルを記録したほどの烈風に遭い、高台にある地蔵尊建物は崩壊し、地蔵尊はなぎ倒され、甚大な被害を被った】とのことですが、現在は、地元の人々の手により再建され、【孫の進学のための学業成就、家内安全、無病息災、五穀豊穣などのため、お参りする人々が絶えない】とのことです。

◇延命地蔵尊

 
延命地蔵尊①
延命地蔵尊②
延命地蔵尊③
地蔵堂①
地蔵堂②


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向拝の下に「保食神社ほか」-つがるみち238


保食神社


 私の住んでいる黒石市に境松という町会があります。
 田舎館村との境目にあたるこの地区は、鎌倉時代末期に南朝方の武将であった工藤氏が築いたとされる黒石城(旧黒石城)があった所です。
 後に津軽氏の時代になると黒石藩の本城は、黒石陣屋に移りますが、津軽為信は、この旧黒石城を隠居所としていたともいわれています。
 そんな境松に(住所は違いますが)鎮座しているのが保食神社です。

参道


 この神社については、
【御祭神:保食神  寛永十八年 (一六四一) 五月、 元町中にて社殿の建立願いを出し、 早速許可を得て、 三尺四面の堂宇を造営す。 元禄十一年 (一六九八) 五月以降は黒石領主の祈願所となる。 明治四年四月神社改正に付き、 同六年四月十七日、 甲大工町の郷社稲荷神社へ合祭、 同七年四月復社し村社に列せられる。※青森県神社庁HP】とあるように、歴代の黒石藩主の崇敬を集めてきた社のようです。

 市内の中心から田舎館方面へと進んで行くと、小学校の入口付近に赤い鳥居が立っているのが見えてきます。社号標は雪の中に半分埋まっていました。
 食物の神である保食神(うけもちのかみ)を祭る神社にふさわしく、一の鳥居には米俵を思わせる大きな注連縄が張られています。夏場とは違い、今の時期は参道や境内全体が雪に覆われているため、どことなく殺風景な印象を受けます。本殿も雪の間から、ちょこっと顔を出していました。

 拝殿の前に立って正面を見ると、向拝の下に一体の木彫りの像が掲げられているのが見えます。よく見てみると、それは力士のような像。「力士形鬼」とでもいうべきでしょうか。足を踏ん張り、右手と両肩で、しっかりと梁を支えていました。

◇保食神社

 
狛犬
本殿
拝殿
力士像①
力士像②



熊野宮


 保食神社のすぐ近くには熊野宮が鎮座しています。
 住宅の中に参道が続いていて、歩いてほんの1,2分で境内へと出ます。
 この神社の後ろ側は崖になっていて浅瀬石川が流れています。現在は、城跡らしきものはありませんが、かつては、辺り一帯が旧黒石城の敷地だったとされています。天然の堀・浅瀬石川が防御の役目を果たしていたのでしょう。

 熊野宮については、
【御祭神:伊弉諾尊 伊弉冉尊   寛文三年 (一六六三) 四月、 村中にて千手観音を祀り飛龍宮を建立。 元禄二年 (一六八九) 六月、 熊野宮を同社へ勧請、 以来産土神として村中の崇敬を受け今日に至る。 明治六年六月、 社格村社に列せられる。※青森県神社庁HP 】と紹介されているように、藩政時代から地域の産土社として崇敬を集めてきた社のようです。

 この熊野宮の拝殿の向拝の右下にも一体の像がありました。よく見るとそれは「熊」。熊野宮の熊にあやかったものなのでしょうか。小さな熊の像ですが、こちらも肩で梁をしっかり支えていました。

◇熊野宮

 
狛犬
本殿
拝殿
熊の像①
熊の像②


 津軽の神社の名物といえば「鳥居の鬼っコ」ですが、鬼っコを鳥居だけでなく、拝殿に掲げている神社も少なくありません。
 その多くは、地域の繁栄と五穀豊穣を願って祀っているわけですが、多くの鬼っコや、ここ境松の2つの神社の力士や熊などを見ると、一種のユーモアを感じます。よい意味での「遊び心」といえばいいでしょうか。それだけ、地域の社に対する愛着が深いのだと思います。

◇拝殿の鬼たち

 
板柳町常海橋八幡宮
鶴田町胡桃館八幡宮
鶴田町境八幡宮
中泊町熊野宮
五所川原市闇おかみ神社


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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

花山院忠長の足跡2「板留少名彦神社」-つがるみち190

 黒石市から十和田湖へと続く国道と並行して浅瀬石川が流れていますが、上流の浅瀬石川ダム(虹の湖)付近の清流に沿って、「温湯」「落合」「板留」という温泉街が広がっています。
 一帯は黒石温泉郷
黒石温泉郷
と名づけられ、古くからの湯治場として発展してきた分けですが、最近では「津軽こけし館」や「津軽伝承工芸館」などの文化施設を訪れる家族連れや観光客で賑わっています。

温泉郷


 この温泉街に「落合大橋」という橋が架かっていますが、その下の河川敷に「浅瀬石川アートの道」という遊歩道が造られています。
 河道には、所々に碑が立てられていますが、それは地元の伝説や地名の由来などを絵と文で記したもので、「民話モニュメント」と呼ばれているものです。自然豊かなふるさとの川の保全と、地元の伝説を次世代に伝えようという願いのもとに考案されたものですが、
【黒石の八郎伝説:むかし、黒石の山形村に生まれた八郎が友達と山へ芝刈に出かけ、川でとった岩魚を一人でこっそり食べてしまったら、急に喉が渇き、川の水を飲んでも飲んでも止まらなくなってしまったとさ。その内、八郎の体には鱗が生え、やがて龍となっていく。そして十和田湖、十三潟へと住みかを求めて歩くが、最後に遠く秋田の八郎潟の主になった話。】などが大人にも子どもにも分かりやすく紹介されています。

 このモニュメントの中に、花山院忠長(かざんいん ただなが)にまつわる伝承がいくつかあります。
 花山院忠長は、後陽成天皇の女官と密通した罪により、天皇の逆鱗にふれ、北海道松前に配流された公達ですが、松前の後、津軽に配流されたのは慶長19年(1614年)頃のことといわれています。
 温湯温泉の名前の由来は、忠長が湯浴みをした際、「この湯は少し温いな・・」と言ったことから名づけられた・・という話など、黒石には忠長の伝承が数多く残っていますが、モニュメントの中には、こんな話もありました。
【二庄内(にしょうない)由来:むかし、花山院様が牛に乗って山に遊んだ。その帰り、途中の村でみんなの疲れを癒すことになり、酒を振る舞うことにした。一行の人数から二升が要ると命じたが、小さな村だったので集めることができず、以後、その村を「二升無い村」と呼ぶように伝えた。そして今の二庄内の名になったという。】

◇浅瀬石川アート

 
 
浅瀬石川アート碑
民話モニュメント①
民話モニュメント②
民話モニュメント③
民話モニュメント④



板留の由来


一の鳥居


 温湯や落合と並ぶ温泉街である「板留(いたどめ)」の由来も忠長。
【むかし、花山院様が浅瀬石川の上流で川狩をした折、村人たちが川端にある出湯に名前をつけてもらうことにしました。しかし、川の水が入り込んで入浴できなかったので、村中の板を集めさせ、川止めをしてから入ったそうだ。それで、板で留めて入った湯だから「板留の湯」と名づけてくれたそうです。】

 この伝承は温泉街の小高い丘の上に鎮座している「少名彦神社」の由緒にもなっているようで、【寛永元年(一六二四)八月中旬、花山院忠長卿が鶴泉へ御温湯治なされる折り、天気も宜しいので川狩りをなされては如何かと申し上げたところ、『温泉があると聞く、入ってみたい』と仰せられた。そこで、『川上に家が三軒あり、川原の湯の出る処と水が入り交わる処に板三枚を立て、湯が入るようにしては如何でしょうか』と申し上げた。湯加減も良く小瘡に殊の他効き、眼にも大変良い。そこで、忠長卿は此処を「板留」と名付けられた。その後、湯の効能に感じ、御使者を遣わされ薬師の神を建立致すべき旨仰せつけられ小堂建立となった。元禄元年(一六八八)四月八日堂宇村中にて再建、更に宝永元年(一七〇四)九月中にて再建す。享保十四年(一七二九)七月堂宇修理、文化十三年(一八一六)三月、大国主命を薬師堂内に勧請するも明治四年神社御改正に付き、同六年五月八日中野神社へ合祭する。同八年三月復社願いの上村社に列格となる。※青森県神社庁HPより】と紹介されています。
 御祭神は、医薬・温泉・禁厭・穀物・知識・酒造などを司る「少彦名(スクナビコナ)」。温泉地にふさわしい神様です。

 温泉宿の裏側が参道になっていて、小高い山へと続いていますが、その途中には湯煙
湯煙
が立ち上っています。後で分かったのですが、この神社のある場所が源泉のようです。
 そういうこともあり、この社は「板留温泉の発祥地」として、地元の人々の信仰を集めているのでしょう。小さいながらも拝殿、本殿ともに、なかなか趣のある造りです。

 境内の一角には大きなイチョウの木
境内のイチョウの木
がありました。端っこの今にも崩れそうな所に生えています。その根元には、多くの石がつまれ、倒れないように補強されています。これもまた、地域の人々の努力なのでしょう。
 - このイチョウの葉っぱがすべて落ちる頃には根雪になる・・・そんな言い伝えがあるようです。

◇少名彦神社

 
参道
境内
拝殿
本殿
御神木


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国替えを救った社「三嶋神社」-つがるみち184

 津軽には、戦国時代から江戸時代にかけて、支配者であった津軽氏の庇護を受けながら続いてきた寺社が多い分けですが、それだけに、各神社の由緒には津軽氏に関する伝承が数多く残っています。
 初代藩主・為信が津軽統一のために神仏の加護を願い、寺社を参詣し、戦勝祈願を行ったという話や、3代・信義が「津軽三十三霊場」を創始したという話など、特に為信から4代・信政の時代にかけて、多くの伝承が伝えられていますが、これは即ち、津軽氏による領国支配の完成と重なっていて、寺社政策は政治の要だったことを思わせます。 - 今回訪れた黒石市三島に鎮座する三嶋神社も津軽氏との関わりを伝えている社です。


一の鳥居


 「三嶋(三島)」という社名の神社は、【全国でおよそ400社近くあり、その多くは伊予の大山祇神社(大三島神社)か伊豆の三嶋大社と関係のある神社である。祭神は大山祇神社系のものでは大山祇神である。三嶋大社系のものは大山祇神または事代主神のどちらか、あるいは両神を祀ることが多い。※wikipediaより】といわれています。御祭神の「大山祇命 (おおやまつみのみこと)」と「積羽八重事代主神 (つみはやえことしろぬしのかみ)」の2柱を総称して「三嶋大名神」と称するということです。また、伊予、伊豆ともに「海」に面している関係からか、地方の中には宗像三女神を主祭神とする三島神社もあるということで、青森県では八戸市の三嶋神社がそうなっています。ここ黒石の御祭神は大山祇神です。

 この神社の一の鳥居にもりっぱな金属製の注連縄が掲げられていますが、よく見ると、その上にチョコンと「鶏」が乗っています。天照大神を「天の岩屋戸」から迎え出し、以来、神使といわれている鶏ですが、ここの境内にも天照大神を祀る神明社があります。その関係で鶏が置かれているのでしょうか?
 境内には、「未来へ遺そう 農地 水」という大きな看板が立てられていました。地域ぐるみで農村の美しい自然環境を保全しようとする働きかけが行われているようです。それにしても、このようなスローガンが境内に掲げられているところをみると、この三嶋神社は古くから住民の「拠り所」だったのでしょう。
 拝殿の前には3体(対)の狛犬が置かれています。太い一本眉で極端に「寄り目」のもの、猫のように可愛らしいものなど、愛嬌のある神使たちです。 ⇒狛犬
狛犬


◇境内

 
境内
二の鳥居
三の鳥居
参道
狛犬



三社大神①


 拝殿の隣に「三社大神」と書かれた鳥居があり、その奥にお堂がありました。
 前回の竹鼻八幡宮と同様、ここでもまた、三体の神様をひとつ屋根の下に祀っているようです。末社は左側(向かって)からそれぞれ「薬師宮堂」「神明宮堂」「馬頭観音堂」でした。 ⇒三社大神
三社大神 左:薬師宮堂 中:神明宮堂 右:馬頭観音堂


 さて、この神社の由緒については、【当社は三嶋明神の御神霊を安置し、 永禄年間 (1558~1570) に社殿五間四面の大社にして殊に壮麗を極めたが、 天正年間 (1573~1592) 千如房と申す修験者が別当の時、 失火の為社殿を焼失した。 その後、 多門坊という修験者が別当となるが、 卯の年の飢饉にて人々死に絶え、 一時御尊体を土上に安置し仮宮を建て祀る。 慶長年間 (1596~1615)、 津軽藩祖為信公が越後国川中島へ御国替を命じられた時、 多門坊は御国替なきよう願い、 神社へ籠り誠心を尽くして祈念する処、 遂に御国替赦免仰せ付けられたと云う。 依って多門坊は御報礼申し上げようとするも、 家計不如意の為、 久しく報恩叶わず、 慶長3年 (1598) 3月3日、 社殿再建の上奉遷し今日に至れりと云う。※青森県神社庁HPより抜粋】 とあります。

 津軽藩は、安土桃山から江戸時代を通じて国替えやお取り潰しに遭わなかった藩のひとつなのですが、それでも何度かその「危機」に見舞われています。
 天正18年(1590年)の秀吉による「奥州仕置き」の際には、宿敵・南部氏から「為信が掠め取った自分達の領地を返すよう」要求され、窮地に陥りますが、近衛家などへの接近を図った為信は、結局、本領安堵を認められます。為信は、このときの秀吉や、仲を取り持ってくれた石田三成への恩義を終生忘れることはなかったといわれています。 (⇒関連記事へ) 
 そして、その後に起こったのが由緒書きにある(文中_線)「川中島」への国替え令です。

 由緒では藩祖・為信のときの話になっていますが、実際は2代藩主・信枚のときで、【元和5年(1619年)6月、幕府は安芸広島藩主である福島正則に津軽10万石への転封と蟄居を、津軽家には信濃川中島藩10万石への転封を命じる内示を出した。津軽よりも中央(江戸)に近い土地への転封、石高も増えているため一見栄転に見えるが、見かけの石高ではない実収入、移転にかかる諸費用、父祖の地を離れることなどを考えると、決して割のいい話ではなかった。これに対し、信枚は移転費用捻出のため佐竹義宣より借財し、家中の準備をさせる旨を家臣に通達している。また領内から転封の際は同行したい旨の嘆願が届いているなど、かなり現実的に実現手前まで進行していたことが窺える。※wikipediaより抜粋】といわれています。

 この国替えの理由についてはいろいろ諸説あり、福島正則はもちろん、いまだ豊臣家に温情的な津軽家に対する一種の「仕打ち」ともいわれていますが、弘前城の築城とそれに伴う「まちづくり」に邁進していた津軽藩にとっては、正に青天の霹靂だったに違いありません。
 結局、藩主・信枚と家臣、そして信枚の正室・満天姫(家康の養女)らの幕府への働きかけにより転封は取り消され、最終的に福島正則が直接、信濃川中島藩4.5万石に減封・移封された分けですが、もしもこのとき、実際に国替えが行われていたら、その後の津軽の歴史や風土・文化なども、ずいぶん違ったものになっていたことでしょう。

 それにしても、この三嶋神社の縁起で語られる多門坊という修験者・・・焼失した社殿を再建したり、国替え問題を三嶋明神に祈願し、取りやめさせたりするなど、大きな力を持っていたものです。伝承なので詳しくは分かりませんが、あるいは津軽家縁故の修験僧だったのでしょうか。

◇三社大神・拝殿・本殿

 
三社大神②
拝殿①
拝殿②
拝殿③
本殿


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境内でひと休み3「竹鼻八幡宮」-つがるみち183

 境内でひと休みした神社、3社目です。黒石市竹鼻に鎮座している八幡宮を訪ねました。
 この神社のある竹鼻地区は、黒石市の中心部から離れた旧浪岡町との境にある農村地帯ですが、すぐそばを東北自動車道が通っており、長谷澤神社や法峠へと抜ける道筋にあります。
 私は法峠寺を訪ねた帰り道にここへ立ち寄りました。


境内


 集落の道路際に社号標が立っていて、その道を進むと一の鳥居へと出ます。境内の隣には農村公園があり、とても静かな環境に囲まれた社です。
 「八幡宮」ということで御祭神は誉田別尊ですが、その由緒については、【延宝3年 (1675) 4月15日竹鼻村中にて建立す。安政2年 (1855) の書上帳によれば「御棟札:宝暦十庚辰年三月・文化十三丙子年八月・天保十二辛丑年九月・右堂社古来より村中にて再建仕来候」とあり、代々村中にて社殿を改築し今日に至る。※青森県神社庁HPより】とあります。
 「村中にて建立・改築」と書かれているところをみると、古くから地域の「産土社」として信仰を集めていた神社であることが分かります。

 拝殿の前に立つ一対の狛犬は少し風化していますが、太い一本眉の大きな顔のつくりで、睨んでいるようにも笑っているようにも見えます。今は色があせていますが、以前は、口元などは赤く塗られていたのでしょう。

 狛犬の前には一対の神馬。ひとつは、いかにも神様が乗るような躍動感のある像で、上げた右足のつくりなど、なかなか見ごたえのある馬です。
 ところが、もう一体は石像ではなくて、何と、いろいろな神社の境内に見られる「神馬堂(厩舎)」に安置されているような飾りつけられた白馬です。しかも、ガラス張りのお堂に入ったままの姿。「箱入り娘」ならぬ「箱入り神馬」といったところでしょうか。このような神馬は初めてです。

 拝殿から階段が渡されている本殿には、石灯籠が立ち、扉には奉納された草鞋も掲げられていました。
 境内の一角に、注連縄が張られた横長のお堂があります。近づいて見ると、それは、「神明宮社」「愛宕宮社」「保食宮社」「大山祇宮社」「稲荷宮社」「権現大神社」・・・六つの神様を祀っている末社を合体したお堂でした。 - 「末社群」というか「神様のアパート」というか。。
 中を覗いてみましたが、それぞれの御神体が大事に祀られていました。
 ⇒六つの末社
上左:神明宮社 上中:愛宕宮社 上右:保食宮社 下左:大山祇宮社 下中:稲荷宮社 下右:権現大神社


◇境 内

 
狛犬
神馬
拝殿
本殿
末社群



境内入口


 さて、境内の入口付近、道路を隔てたところに、庚申塔や二十三夜塔、馬頭観音などの石仏が並んで建てられていますが、その中に「黒石市指定民俗文化財」があります。それは、『廻国納経塔』、『百観音碑』、『五庚申塔』で、通称『竹鼻の文化財』と呼ばれているものです。そばに説明板が立っていました。

『廻国納経塔』・・・正徳4年(1714)に六十六ヶ国霊場の完行記念として建立。津軽
          最古の碑。
『百観音碑』・・・・西国・坂東・秩父の百観音霊場巡礼の記念塔。正徳4年の建立は
          津軽最古。
 - ともに「津軽最古」と称されるものが、どうしてここ竹鼻八幡宮に集められ、建てられたものか、不思議です。

 もうひとつの文化財『五庚申塔』については、【文化6年(1809)「五庚申の年」に豊作を祈願して建立。津軽ではただ一基。】と説明されていました。
 庚申信仰については、【道教に由来するとされる人間の体内にいる虫「三尸(さんし)」が、60日に一度の庚申の日に人間が眠ると体から抜け出し、天帝にその人間の罪悪を告げ、その人間の命を縮めるとされることから、庚申の夜は眠らずにすごすようになった。一人では夜を過ごすことは難しいことから、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになった。※wikipediaより】ということなど少しは知っていましたが、「五庚申」については分かりませんでした。

 少し調べてみると、【庚申(かのえさる)の日は、暦に従って60日おきにめぐってくるため、1年に6回だが、旧暦では平年は353~356日、閏年は383~385日あるので、年によっては、一年に庚申が5回しかなかったり、逆に7回あったりするということも起こる。これらは、それぞれ「五庚申の年」「七庚申の年」などと呼ばれて、人々によって特別に意識されていたようだ。・・・「五庚申の年は不作、七庚申の年は豊作」と言われている地方が多いようだが、「五庚申・七庚申ともに凶作になる 」という伝承もある。いずれにしても、五庚申や七庚申の年にはそれを記念して、「庚申塚」「庚申塔」というものを立てるという習わしが、とくに東北地方には広くあったようだ。※HP「宮澤賢治の詩の世界」を参考にしました。】ということが分かりました。

 ところで、この竹鼻の『五庚申塔』が建立された文化6年((1809)という年は、黒石藩が成立した年でもある分けですが、時の弘前藩の藩主は第9代・津軽寧親(つがるやすちか)でした。
 当時、東北地方は、天明の大飢饉(1782年~1788年)をはじめ、自然災害や冷害、疫病が相次ぎ、農作物の収穫が激減。弘前藩の記録では、死者が十数万人に達したとも伝えられています。
 また、寧親の時代には、幕府から蝦夷地警備を命ぜられたこともあり、出費が増大。それを賄うために領民に重税を強いたため、ついに文化10年(1813年)には、弘前鬼沢の義民・藤田民次郎を中心とする大規模な農民一揆が起こります。

 - こうしてみると、この『五庚申塔』が建てられた頃は、特に農民にとっては悲惨な時代だった分けで、この庚申塔には、「豊作祈願」はもとより、「安心して生活できる平和な世の中」への願いも込められているように思います。

◇竹鼻の文化財

 
庚申塔他①
庚申塔他②
竹鼻の文化財
廻国納経塔と百観音碑
五庚申塔


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神馬像いろいろーつがるみち176

 神馬(像)は、狛犬とならんで神社の境内にはなくてはならない神使です。
 神馬(しんめ、じんめ)は、「神様の乗りもの」とされ、元々は、日本の神社に奉納された馬、あるいは祭事の際に使用される馬を指しますが、【奈良時代から祈願のために馬を奉納する習わしがある。奉納者は民間人から皇族まで様々である。小規模な神社ではその世話などが重荷となること、また高価であり献納する側にとっても大きな負担となることから、絵馬などに置き換わっていった。また、等身大の馬の像をもって神馬とすることも多い。※wikipediaより】とされています。
 津軽の神社の境内に立つ神馬も、このような経緯を踏まえているものと思われますが、昔から馬は、農家にとって大切な働き手であったために、境内に馬頭観音を祀り、馬の像を奉納することも多かったようです。
 - 今回は寺社めぐりをひと休みして、今まで見てきた神馬像のいくつかを紹介したいと思います。

 
大光寺慈照閣
沖館観音堂
一野渡八幡宮
高山稲荷神社
津軽赤倉山神社

    1       2      3      4      5

◇1→津軽三十三観音霊場30番札所である「大光寺慈照閣」がある平川市保食神社の神     
   馬です。目や鼻、口元などが、とてもくっきりと見えます。
◇2→同じく平川市にある三十三霊場29番札所「沖館観音堂(神明宮)」の像です。
   慈照閣のものとつくりは似ていますが、鋭い目をしていて、今にも走り出し
   そうです。足には奉納された草鞋。
◇3→座頭石を訪ねたときに立ち寄った「一野渡八幡宮」の神馬です。体全体が金属で
   覆われており、重さ軽減するために、お堂には吊るしひもがあります。鉄の鎧を
   まとった騎馬という感じです。
◇4→つがる市「高山稲荷神社」の社務所前に立つ大きな神馬。
◇5→同じく、つがる市繁田の「津軽赤倉山神社」の神馬。金色で津軽家の紋章である
   「津軽牡丹」が描かれています。


  
鶴田町境・八幡宮
五所川原鶴ヶ丘・八幡宮
石川八幡宮
五所川原市持子沢・香取神社
五所川原市長富高おかみ神社
月夜見神社

    6     7     8    9     10     11

◇6→鶴田町境にある「八幡宮」の神馬像です。ここは鳥居の鬼っコを探して訪れまし
   た。躍動感あふれる神馬です。特に足のつくりは見事なものだと思います。
◇7→片足を上げた形の神馬の多くは、台座に支え棒があり、それで上げた足を支えて
   いますが、ここ五所川原鶴ヶ丘の「八幡宮」の神馬は片足を上げたままです。ど
   うやってバランスをとったのでしょうか?作り手の技。。。
◇8→雪の中に佇む弘前市・石川八幡宮の神馬。首に下がっているバケツは飼葉桶か。
◇9→年代が古い狛犬や神馬の中には、地域の方々の手で、ていねいに補修されている
   ものもあります。この五所川原市持子沢「香取神社」の神馬もそのひとつです。
   その足は補修されるたびに短くなっていったのでしょうか。地域の「温かさ」が
   伝わってきます。
◇10→西津軽地方によく見られる手ぬぐいで頬かむりした神馬。ここも鬼っコ探しで出
   かけた五所川原市長富「高おかみ神社」です。
◇11→神馬像には、いろいろ飾られているものもありますが、ここ弘前市「月夜見神
   社」の神馬はクリスマス風。


鶴ヶ坂保食神社

黒石市馬頭観音社


 さて、神馬は「神の乗り物」ということもあり、大きくて、足が速く、縦横に野原を駆けぬけていく・・といったサラブレッドのようなイメージがあります。
 TVや映画でおなじみの戦国時代の「騎馬軍団」もそうしたイメージですが、もともと日本の古い時代の馬(日本在来馬)は、今とはかなり違った姿形であったといわれています。
 この日本在来馬については、【すべて小型馬・中型馬であり、ポニーに分類され、これはモンゴルの他、中国や朝鮮半島で最も一般的であった蒙古馬系に属する。競馬等で親しまれているサラブレッドなどの近代軽種馬と比べた場合の特徴として、全体としてずんぐりした体形、具体的には、やや大きめの頭部、太短くて扇形の首つき、丸々とした胴まわり、体格のわりに長めの背、太くて短めの肢、豊かなたてがみや尾毛、などが挙げられる。日本在来馬は体質強健で、よく粗飼に耐える。消化器官が発達しており、そのため、野草のみでも育成できると言われる。体は丈夫で、寒冷地でも年間放牧が可能であるとされる。平均的に骨や蹄が堅く、骨折などの事故はあまり起きない。この「蹄が堅い」という在来馬の特長から、日本では雪国で馬にはかせる藁沓(わらぐつ)を除いて、蹄鉄が発達しなかった。※wikipediaより抜粋】といわれています。

 - このような(上記の文中の_線のような)日本古来の馬の姿を表していると思われる神馬を2つ。左上は、青森市鶴ヶ坂「保食神社」の神馬。下は、黒石市の長谷澤神社へ行く途中で見つけた「馬頭観音社」の神馬です。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  津軽の七福神  

津軽の七福神「愛宕山地蔵院」-つがるみち170

「福をもたらす神」として、日本各地に祀られている「七福神」ですが、津軽にもそれぞれの神様を祀っている「津軽七福神霊場」があります。
 以前に訪ねた平川市の赤倉山金剛寺もそんな霊場のひとつで、このお寺には布袋尊が奉安されていましたが、黒石市にも「えびす神(恵比寿、恵比須)」を祀っている愛宕山地蔵院があります。
 地元・黒石の人々からは「あたごさま」と呼ばれ、親しまれている寺院です。

山門


 この地蔵院は、黒石市内の山形町にある分けですが、すぐ隣には津軽三十三霊場・26番札所である法眼寺が建っています。
 ここはまた、津軽弘法大師霊場第20番札所ともなっていて、次のように紹介されています。
【古くは京都三宝院末の修験道であったが、修験廃止により真言宗となり、醍醐派に属す。本尊勝軍地蔵尊を安置する。承応三年(一六五四)、津軽土佐守(3代藩主:信義)が創建、開基は日蔵という。信英公(黒石初代藩主)が弘前より分知となり、その後元禄十年に黒石三代領主津軽政たけ公が寺禄三十石を下賜、津軽黒石藩代々の祈願所となる。慶長年間津軽為信公が浅瀬石山上(黒石)に愛宕宮を創建、勝軍地蔵尊を勧請する。そのころ地蔵院は愛宕権現といわれていた。のちに浅瀬石山上より岩木町愛宕山橋雲寺に遷座のおり、本尊を寄進されたといわれている。※HP真言宗津軽仏教会「津軽弘法大師霊場」より

 まったくの余談ですが、黒石藩の3代目の当主・津軽政たけは、後に我が国最古の釣りの指南書『何羨録』を著した津軽采女ですが、奥方は吉良上野介の娘「あぐり」で、浅野長矩の妻と同名でした。湯川裕光さんの小説『瑤泉院』
『瑤泉院』
では、松の廊下で上野介が梶川与惣兵衛と、自分の娘の「あぐり」について語っているとき、それを耳にした長矩が「自分の妻と自分を揶揄している」と思い込み、逆上して上野介に斬りかかった、という筋で物語が展開していきます。なかなか面白く、興味深い「忠臣蔵物」でした。

 話がそれましたが、津軽藩2代目・信枚の「黒石・高賀野から、雲にのって将軍地蔵が渡ってきた」という霊夢により築かれた旧岩木町の橋雲寺のルーツは、ここ黒石の愛宕様だった分けです。この地蔵院には、普賢菩薩も合祀されており、辰年と巳年生まれの「一代様」としても多くの信仰を集めています。

 山門をくぐって境内へ進んで行くと、「地蔵院」という名前通り、「身代地蔵尊」や「水子地蔵尊」のお堂があり、本堂とともに、たくさんのお地蔵様が祀られていました。ただ、お堂はいずれも施錠されていて、その中を拝むことはできませんでした。貼り紙によると「いろいろな物の盗難が相次いでいるため・・」とあります。残念なことです。

◇愛宕山地蔵院

 
手水舎
身代り地蔵尊
水子地蔵尊
本堂①
本堂②



えびず神


 さて、「えびす神」は【イザナミ・イザナギの間に生まれた子供を祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。(七福神の中では)唯一日本由来の神。※wikipediaより】といわれていますが、「えびす」は大国主命の子である事代主神と同神であるとされていたり、あるいは、古代に東国の者が「東えびす」と呼ばれていたように、異邦の者を意味するともされています。
 しかしながら、私たちが親しんでいる「えびす様」は、「狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿」で、「えびす顔」と称されるふくよかな笑顔の神様ですが、その信仰の広がりは、中世以降の商業発展と深い関係があるとされています。

 境内を真っ直ぐに進んだところが「大師堂」で、「えびす様」は、このお堂に弘法大師とともに奉安されていました。ここにも鍵がかかっていたために、ガラス越しに少しだけ、その姿を拝むのがやっとでした。

◇大師堂(えびす神)

 
大師堂①
大師堂②
大師堂③
弘法大師
えびず様



黒石よされ由来


 この地蔵院の山門の隣に由緒書きが立っていますが、その中で「黒石よされ」の由来について記しています。
 「黒石よされ祭り」
黒石よされ祭り
は黒石市の名物で、祭り期間中に行われる流し踊りは「日本三大流し踊り」にも数えられています。
「よされ」は「貧困や凶作の世は去れ」という意味であるとされていますが、『黒石よされ節』は、「♪黒石よされ節どこにもないよサァーアンヨ♪」という出だしで、にぎやかに始まります。
 この民謡の中に「♪踊り踊るなら 愛宕の庭(つぼ)でサァーアンヨ 深くなるほど御堂のかげヨサレサァーアンヨ♪」という一節がありますが、「愛宕の庭」とは、ここ愛宕山地蔵院のこと。 - ここは「黒石よされ」の発祥の地でもあった分けです。

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※記事の中の○○○○は、以前の記事や画像へのリンクです。また、□(青い枠)で囲まれた画像は、クリックで拡大します。
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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  巨石と神石  

津軽の奥身延「法峠寺 2」-つがるみち160

 法峠寺本院の境内には、本堂をはじめ、供養堂
供養堂
と呼ばれる建物などが建っています。お堂ばかりではなく、お地蔵様などの石仏やキツネの像、鳥居などもあり、ここが様々な信仰の場であることが分かります。木々の間からは、このお寺の中心的なお堂である「題目大石堂」も見えていました。
「霊峰水」と書かれた霊水は健康長寿、家庭円満などにご利益があるそうですが、そこからは石段が上に向かって延び、その途中にひとつのお堂がありました。

 中を覗いてみると、そこに祭られていたのは「清正公大神祇」・・・戦国武将の加藤清正でした。鎧と兜を身に着けた貫録のある像です。
 「何で加藤清正が。。」と思いましたが、清正は、熱心な法華経の信者、日蓮宗の信徒であり、領内に日蓮宗の寺院を数多く創設しましたが、それは、日蓮宗の信者であった母の影響を受けたとされ、母が信仰に打ち込む姿を見て育ったといわれています。
「秀吉に仕え戦場にて生死の間にあるとき、常に頭には南無妙法蓮華経の題目をいただき、先ず口にでるのは法華経の題目であった。清正公は純情一徹で、戦場では何者もおそれず、手柄をたてれば法華経の力と信じ、ますます信仰を深めた。」
 - そんな加藤清正の姿を敬慕する信徒達が、ここにこうしてお堂を建て、祭ったのでしょう。

◇境内と加藤清正のお堂

 
題目堂①
末社
石仏など
参道
清正公大神祇



題目堂へ


 この「清正堂(※正式名は分かりません)」から、さらに上の方へと石段が延びています。両脇には「南無妙法蓮華経」と書かれた題目の幟旗。
 がんばって登りきると、そこに「題目大石堂」があり、日持上人の石像が立っていました。
 上人のそばに、由緒書きがありますが、その大意は、【日蓮大聖人の直弟子、「蓮華阿闍梨日持上人」が御染筆した宝塔題目岩、おなじく三十番神岩が奉られている。今から七百余年前、日持上人は故郷偲ばれる津軽富士を眺め、父母墓前と身延大聖人の御廟に最後のお別れを申し、海外弘教の誓願を込め一遍の御題目にその魂を留められた。】とあります。

 この宝塔題目石の存在が確かめられたのは、享保6年(1721)のことで、「黒石市・妙経寺の八世・日浄が山中に埋もれていたお題目の宝塔を日持上人の彫刻と鑑定し世にあらわれた。」とされていますが、かつて宮沢賢治もこの法峠を上り、山上の宝塔を拝んだのだとか。。

 それにしても、この題目石・・・大変な巨岩で、お堂に後ろから「ふた」をしているようでした。題目堂の中に入って見ると、むき出しの石の前に祭壇があり、その大きさがよく分かります。びっくりです。

◇題目大石堂

 
題目堂②
題目堂③
題目堂④
題目堂⑤
題目堂⑥


 実は、このお堂から先にも道が続いていました。ハーハーいいながら登りましたが、そこには「朝日拝殿」という社がありました。
 この拝殿は、「上人が毎日のように登り、御来光を排し、日蓮大聖人に回向すると同時に、ふるさとの御両親を追慕した」ところといわれています。

◇朝日拝殿

 
朝日拝殿へ
題目石
朝日拝殿①
朝日拝殿②
朝日拝殿③


 日持上人は、津軽海峡を越え、北海道へ、そして樺太の地まで出かけ布教に努めたとされていますが、樺太にも、【樺太の一漁村にヒモチ(日持と推測される。)という名の坊さんが来て、岩に文字を記して北に向かった。この岩に祈ると大漁となり、岩が動くと大嵐か不漁になると樺太住民に信じられていた。】という、「ヒモチという坊さんと題目石」の伝説が残されているようです。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  

津軽の奥身延「法峠寺 1」-つがるみち159

 黒石市に「法峠(ほうとうげ)」という所があります。その名前の通り、峠からは津軽富士・岩木山をはじめ、津軽平野を一望できる他、陸奥湾を眺めることができる風光明媚な場所で、私も小学生の頃、よく遠足に行きました。
 この法峠に法峠寺という寺院があります。山号は「東奥山(とうおうざん)。日蓮宗のお寺ですが、ここは、昔、日蓮の高弟であった日持(にちじ)上人が、諸国を巡った折り、ここに滞在し、開山したとされている寺院で、津軽一円の信者たちの聖地として、「津軽の奥身延」とも呼ばれているところです。

幻の県道


 法峠寺は、黒石市の山中にある分けですが、山腹にある「本院」に向かう途中に「別院」があります。この別院では、冬の間(10月~4月まで)、法務祈祷を行っているとのことです。
 別院を過ぎて山中へしばらく進むと、いかにも山寺を思わせる山門が見えてきますが、この山門を過ぎたあたりに、ひとつの標柱と案内板
案内板:幻の県道
が立っています。

 
 名前は「幻の県道」。説明には【今から800年ほど前には、南部氏が八戸根城に城を構え浪岡北畠氏とみちのく北部平定にあたった頃、当地区の高館城主工藤貞行の娘・加伊寿姫が南部信政に嫁いだ時にもこの道を利用したといわれています。昭和11年9月3日には、秩父宮殿下が率いる歩兵31連隊第3大隊の歩兵500名が、当地区上十川長谷沢神社から法嶺院、法峠寺を経て、傘松峠、東郡高田村と浪岡村の境界を通り、山道を踏み分けて沖揚平を経て酸ヶ湯温泉に至ったと、当時の東奥日報が報じております。その後、太平洋戦争が勃発したことなどにより、戦中戦後の混乱の中で、この道路が未整備のまま時を経て県道酸ヶ湯黒石線に認定されましたが、最近までは通る人もなく通称「幻の県道」と呼ばれるようになりました。現在は、県内外の人々からハイキングコースとして親しまれております。】と書かれていました。
 古の津軽と南部地方を結ぶ最短ルートで、地元民の生活路でもあったこの古道は、現在、その歴史に埋もれた豊かな自然道を散策する活動が続けられています。
幻の県道ハイキング ※地元紙「陸奥新報」記事より


 説明書きにも出てくる宝塔山法嶺院(ほうとうざんほうりょういん)は、長谷澤神社へ行く途中にあるお寺ですが、享保年間(1716~36)の創建とされ、当初は法峠にありましたが、明治18年(1885)に現在の地へ移転したとされています。
 私も以前、長谷澤神社を訪ねたときに、このお寺の立派な鐘楼を見て、びっくりしたものでした。

◇幻の県道、法峠寺別院、法嶺院

 
幻の県道入口
法峠寺別院
法嶺院①
法嶺院②
法嶺院③



山門


 日持上人は、【鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。※wikipediaより】ですが、永仁3年(1295)年、46歳のときに、日本各地へ布教の旅に出発したといわれています。
 東北地方には上人の足跡を伝える遺跡や逸話が多く残されていますが、青森に入った上人は、十和田、三戸を経て、法峠を訪れたと伝えられています。その後、上人は、笠松峠を越えて、現在の青森市に入り、現・本町に蓮華寺を開基したとされていますが、こうしてみると、日持上人もまた、幻の県道を歩いたといえるでしょうか。

 さらに、上人は永仁4年には蝦夷地(北海道)、そして樺太へと渡航し、布教に努め、樺太の地で生涯を終えたともいわれていますが、北海道には、【日持上人が北海道に渡ったとき、それまで見たことも無い魚が大漁に採れた。「法華の坊さん」が来たからということで、その魚を「ホッケ」と呼ぶようになった。】という話をはじめ、多くの伝説が残っているとのことです。

 この日持上人が、法峠で弘教の願いを込めて大岩に「御染筆した」とされているのが「宝塔題目岩」で、現在は山腹の「題目大石堂」に安置されています。
 広い境内からは、山腹へ向けて、長い石段が延びていました。

◇法峠寺本院境内

 
法峠寺①
法峠寺②
法峠寺③
法峠寺④
法峠寺⑤


                            ー 次回へ続きます。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  津軽統一までのあゆみ  名木めぐり  

落城悲話「一本杉とじょんから節」ーつがるみち99

 戦国時代には、城の落城に際して、最期を覚悟しながら勇敢に戦い、散っていった主従や哀れな女性達の物語がたくさんありますが、津軽の戦国もまた同様で、大浦為信の津軽統一の過程で、為信軍に敗れ落城した城の「悲話」がいくつか語り継がれています。
 黒石市・浅瀬石城もそのひとつで、その落城に関する悲話は、「一本杉」及び「じょんから節発祥の地」という史跡として今も残されています。  ⇒浅瀬石城址・一本杉・じょんから節の碑
浅瀬石城址・一本杉・じょんから節の碑


浅瀬石城址館神社


 浅瀬石城は、黒石市・高賀野に築かれた平城で、現在は城址碑
浅瀬石城址
と土塁や掘の跡がわずかに残るのみですが、その絵図
浅瀬石城絵図
を見ると往時の広大さが分かります。
 定かではありませんが、この城は仁治元年(1240年)、南部氏の一族・千徳(せんとく)伊予守行重によって築城されたといわれています。戦国時代には、石川城(弘前市)や大光寺城(平川市)とともに、南部氏の津軽支配の拠点であり、交通の要衝でしたが、永禄4年(1561年)、10代城主・千徳政氏は、大浦(津軽)為信と「統一の暁には津軽を二分する」という盟約を交わし、南部氏に叛旗を翻します。
 その後、千徳氏は為信と組んで、大光寺城や、同族であり南部氏に忠誠を誓っていた田舎館・千徳氏を攻略し、これを滅ぼす分けですが、この千徳氏の裏切りに激怒した本家・南部信直は、大兵を派遣し、浅瀬石城を攻撃します。しかし、千徳氏の頑強な抵抗に合い、城を落とす事ができなかった分けですが、盟友・為信はこのとき千徳氏のもとへ援兵を送らず、このことが同盟亀裂の原因にもなったとされています。
 やがて、津軽平定がほぼ成った後に、為信と千徳氏は対立するようになり、遂に慶長2年(1597年)、為信軍の攻撃を受け、千徳氏は滅亡、浅瀬石城は落城した分けです。

◇『津軽じょんから節』
♪二 ハアー今は昔の七百年前 南部行重城主となりて 伝えつたえて十代あまり
♪三 ハアー頃は慶長二年の春に 大浦為信大軍率い 城主政保討死いたす

一本杉


 東北自動車道・黒石ICの辺りの道端に「一本杉」と呼ばれる杉の木がポツンと立っています。高さ15mといわれるこの老木は、辻堂とともに、もとは浅瀬石城主・千徳氏の菩提寺にあったものといわれていて、現在は「辻堂跡」として史跡になっています。
 この老木には、落城し、滅亡した千徳家の怨念がこもっていると信じられ、古くから大切に崇められてきた分けですが、東北縦貫道路の建設にあたり、この木が路線にあたっていたために、一時は切り倒しの話も出ました。しかし、「切り倒しては災いがおこる」という村民の意見を受け、もとの場所から50mほど離れた現在地に移植されたとのことです。    ⇒史跡一本杉(画像複数)

 さて、この辻堂の住職は常縁(じょうえん)という和尚でしたが、常縁は、【為信軍と戦う主家の必勝を祈願し、神仏の加護を信じて熱祷を捧げていたが、大浦勢は喚声を挙げて辻堂にも乱入し、手当り次第に仏像をこわし、墓をあばく乱暴を働いたので、和尚は先祖代々の位牌を背負い、薙刀を構えて仁王立ちとなり「汝等、大浦の犬ざむらいめ!仏像をこわし、仏を足げにするとは仏道を恐れぬ人非人ども、人は死しても霊魂は不減なり、我れ死すとも、この罪は汝等の子々孫々に至るまで祟りあらん」と大声で叫び、大勢の大浦勢を相手に奮戦したが、多勢に無勢で、逐いに裏道から白岩まで逃れたが、進退極まり浅瀬石川
浅瀬石川
の濁流に飛込んで、その一生を終った。】とされています。

◇『津軽じょんから節』
♪四 ハアー時に辻堂常縁和尚 先祖代々位牌を背負い 高い崖から濁流めがけ

じょんから節の碑


 常縁和尚が身を投じた場所は浅瀬石川に架かる上川原(じょうがわら)橋
上川原橋
の付近で、現在はそこに「津軽じょんから節発祥の地」という碑が建てられています。
【和尚が身投げしてから数年後の夏、村の子供等が川原で砂遊びをしていると、砂の中から変り果てた常縁和尚の屍体があらわれた。子供等の騒ぎに村人が駆けつけ、相談の結果、その場所に墓を作り、手厚く葬って、常縁の墓と名づけたので、この辺一帯を「常縁川原(じょうえんかわら)」と称した。】といわれていて、「常縁川原」がやがて「上川原」となっていったとのことです。
 以来、お盆になると村人達はこの川原に集い、盆踊りに即興の唄を添えて常縁や千徳氏の霊を慰めた。 ー それが、やがて津軽を代表する民謡『津軽じょんから節』
『津軽じょんから節』の碑
となったという分けです。

◇『津軽じょんから節』
♪五 ハアーやがて春過ぎ真夏となりて村の子供等水浴びすれば 砂の中から哀れな姿
♪六 ハアー村の人達手厚く葬り 盆の供養をすました後は 昔偲んでじょんから節よ

※【】は『津軽じょんから節』説明板を参考にしました。また、じょんから節の歌詞には様々なものがあります。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

名木と不動様その2「中野神社」ーつがるみち15

 「津軽三不動尊」のひとつであるここ中野神社には、南北朝期には既に不動堂があり、地域一帯はその名も「不動館村」と呼ばれていました。戦国時代には、浅瀬石城の支城である「不動館」が築かれていたそうですが、今はその遺構は残ってはいません。
 また、黒森山に「浄仙寺」を開山した修行僧・是空は、ここ中野不動の洞穴で修行中に霊感を得て、黒森山に入ったという話が残されています。
 ↓中野神社 ※クリックで拡大します。

拝殿

田村麻呂社

稲荷社・山神堂

天の岩戸・薬師堂

本殿

樹齢500年の杉の木

樹齢700年の杉の木

樹齢600年の杉の木


 拝殿
拝殿
と本殿の周りには、いくつかの末社とともに、天然記念物の大杉が3本生えているということなので、歩いてみました。 拝殿の前、(向かって)左側に一本目の大杉
一本目の大杉
があります。狛犬の後ろにドーンと立っているという感じで、真っ先に目に飛び込んできます。この大木は樹齢が約500年。

 
 拝殿の右隣りに石造りの鳥居があります。ここには、稲荷社と山神堂
稲荷社と山神堂
がありました。いくつかの神社を巡ってきましたが、この2つを併せて祀っているところも多いです。手水舎
手水舎
の後ろの小さな赤い橋を渡ると、坂上田村麻呂を祀った祠
田村麻呂社
があり、側には不動明王像が立てられています。この不動様の足下にカエルの石像が置かれているのですが、どういう由来なのか??

 
 二本目の大杉は、そこから少し坂道を登ったところにあります。けっこうきつい登りでした。辺りの杉の木の中でも、ひときわ大きく太い姿をしていました。この大木は樹齢700年
二本目の杉
といわれており、境内の中で一番の古木です。下には渓流も見え、紅葉真っ盛りの頃に、もう一度訪れてみたいところです。

 
 再び拝殿に引き返し、三本目の大杉を目指します。拝殿の左隣りには薬師堂と天の岩戸の祠
薬師堂と天の岩戸の祠
。薬師堂はともかく、「天の岩戸」のいわれは分かりません。
 このお堂のわきには石段が延びており、「観楓台」という場所に続いています。前述の「不動館」の城は、ここに在ったのだとか。目当ての大杉
三本目の大杉
は、その石段の途中にありました。樹齢が600年といわれるこの大杉、石段から眺めると首が疲れました。

 寺社巡りをしていると、各地域の様々な古木や名木に出会うことができ、ひとつの楽しみになっています。今回も身近にある名木を「発見」することができました。

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Category: ふるさと【東北・青森】 > 黒石市   Tags: つがるみち  名木めぐり  

名木と不動様その1「中野神社」ーつがるみち14

 黒石市「中野神社」は「中野もみじ山」と呼ばれ、紅葉の名所
中野もみじ山
として知られています。享和2年(1802年)に、9代弘前藩主・津軽寧親(つがるやすちか)が、京都から百種余りの楓の苗を取り寄せて移植したといわれ、その紅葉は、10月下旬~11月中旬が見頃。ライトアップもされ、たくさんの観光客が訪れます。
 また、ここは古懸山国上寺及び長谷澤神社とともに、「津軽三不動尊」のひとつに数えられており、「中野のお不動様」
由来書き
として、多くの人々に親しまれている社です。一本の神木から造られたという「三不動巡り」の最後に訪ねてみることにしました。

↓中野神社 ※クリックで拡大します。 

一の鳥居

二の鳥居

不動の滝

お手植えのモミジ

モミの木

随神門

狛鶏


 実は、私は5月に一度ここを訪れたことがあります。(※拙記事 「中野もみじ山」 )その時は辺りの景色を楽しんだだけなのですが、今回は境内の中にある「名木」と、お不動様をじっくり見てみることにしました。
 「郷社中野神社」と書かれた社号標を見て、石造りの立派な鳥居と朱色が鮮やかな二の鳥居をくぐると、中野川の渓谷沿いに開かれた美しい境内に入ります。正面にここのシンボル不動の滝
不動の滝
が見えますが、滝見の場所に「中野神社境内にある文化財」
文化財説明板
という説明板が立っています。それによると、県や市の天然記念物に指定されている「名木」が3種あるということです。

 まず、一つ目は三本のモミジの木
「お手植えもみじ」
。これは、不動の滝と自生のモミジの鮮やかさに感動した津軽寧親が、新たに楓苗を移植する際、自らの手で植えたものとされ、「お手植えのモミジ」と呼ばれています。いくつかに分かれた枝が横に長く伸びており、葉っぱが色づく頃には、後ろの滝を背景にして、絶好の撮影ポイントになることでしょう。

 神社の方に進んで行くと、赤い神橋があり、それを渡りきったところが随神門。門の手前に一対のモミの木
随神門とモミの木
が高くそびえています。このモミの木は県の天然記念物に指定されており、説明板には「モミは暖かい地域に生育する樹木である。中野神社のモミは厳しい環境の中で育ち、樹勢は保たれている。随神の代わりに神門を守る象徴として対植えされたが、二百年以上も形態が整然と保たれている。」と記されています。それにしても、この太さ・大きさ。
一対のモミ
神門を守るにふさわしい木ですね。

 神門を過ぎると拝殿が見えてきますが、鳥居の前には雄雌の狛鶏?。。
雄雌の狛鶏?。。
何で狛鶏なのか?ここが、酉年生まれの一代様だからでしょうか。
 不動明王は酉年生まれの守り本尊とされていますが、なぜそうなのか、その詳しい理由については分かっていません。ただ、次のようにもいわれています。
(にわか勉強ですが・・)~不動明王像
不動明王像
の光背は燃え盛る炎である。この炎は「衆生の煩悩を大智慧の火で焼きつくして悟りに導きたい」という、不動明王の強い意志(本誓)を現わすものとされる。不動明王が背負う炎は、迦楼羅焔(かるらえん)といい、迦楼羅が吐き出す火炎である。ーwikipedia他よりー」~
  迦楼羅(かるら)は、大樹に住み、火炎を吐き、悪竜を常食とし、金色の両翼は広げると336万里あるという伝説上の霊鳥で、仏法の守護神とされています。この迦楼羅(鳥)に因んで、不動明王が酉年の守護神となったという分けです。さらにはまた、迦楼羅=鳥ということから、鶏が不動明王のお使いとして選ばれたとのこと。。拝殿前の「狛鶏」には、そういう意味があるのかも知れません。真偽はともあれ、そんな考えを生み出した昔の人の知恵。。感心させられます。
                           ー次回へ続きます。
 
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獅子と不動様その2「長谷澤神社」ーつがるみち13

 「津軽三不動尊」のひとつ長谷澤神社は、坂上田村麻呂が、大同元年 (806年)に東国の守護神として、 ここ長谷澤の地に社殿を創建したことがはじまりとされています。
 本尊は不動明王で、火難除の神様として、また、国上寺及び中野神社とともに、津軽では酉年生まれの一代様として、多くの信仰を集めています。創建当初から「東光山五倫寺」と称されていましたが、明治40年4月に「長谷澤神社」となりました。
                  長谷澤神社 ※クリックで拡大します。↓
長谷澤神社①

長谷澤神社②

長谷澤神社③

長谷澤神社④

長谷澤神社⑤

長谷澤神社⑥

長谷澤神社⑦


 駐車場に車をとめると、こんもりとした森
神社入り口
に囲まれた赤い鳥居が見えます。ここが境内の入口です。2本の大杉が鳥居に左右に立っており、大きな門を思わせます。

 赤い鳥居をくぐって、辺りを見渡すと無数の杉の木。太く大きな古木に混じって、小さな細い幼木
幼木
もたくさんあり、計画的に木を植え、環境を保とうとしている地域の取り組みが感じられます。
 石造りの二の鳥居を過ぎると随神門があります。かつて、「東光山五倫寺」と呼ばれていたせいでしょうか、どこかお寺の山門を思わせるような造りです。側には、小川
小川
も流れており、そのせせらぎの音が、とても心地よく聞こえました。正面を見ると、拝殿
拝殿
の屋根の上の方に、もう一つ赤い屋根が光って見えました。本殿です。

 拝殿で参拝を済ませた後、さっそく後ろへ回ってみると「不動明王」
不動明王碑
と書かれた石碑と、上に向かって真っ直ぐに延びた急な石段
石段
が見えます。その数、およそ100段以上でしょうか。。手すりにつかまりながら休み休み登りました。
 ここが「津軽三不動」のひとつであることを示すためでしょうか、本殿(不動堂)の正面には、三体の不動明王の画像がありました。先回、ご紹介したように、三体を兄弟に例えるならば、順序からして(向かって)右側が次男の中野不動(中野神社)
中野不動
、左が三男の古懸不動(国上寺)
古懸不動
。そして、中央が長男の「長谷澤不動」だと思うのですが、しかし、残念ながら、お不動様はお留守でした。
長谷澤不動??


 さて、先回、ここ上十川は「鹿獅子踊り」が伝わる地であると述べましたが、実は、この神社からもう少し山の方へ行くと、「獅子ヶ沢」と呼ばれている地域があります。

しし石①

しし石②

しし石③

しし石④


 その獅子ヶ沢には、鹿の頭が掘られた大きな岩があり、「しし岩」
しし岩
と呼ばれています。行ってみることにしました。

 説明板
説明板
によると、鹿の頭が描かれたこの「しし岩(※この地方では鹿のことをししという)」が造られた年代は分かりませんが、寛政10年(1798年)に、あの菅江真澄が紹介していることから、それ以前にはここに在ったもののようです。造られた理由は鹿の供養のためだとか。。

 説明板の場所から、少し山道を登って行くと「岩」を祀った2つのお堂があります。古い岩の表面には苔が張りついていて、はっきりとは分かりませんでしたが、「ししの頭」らしきものが描かれていました。
「鹿獅子踊り」、「しし岩」・・上十川は、古くからの伝承を伝えている地域です。
ーそして長谷澤神社は、そんな地域の人々を見守っている社です。

                            ☆つがるみち☆

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 まだまだ雪深い津軽です。雪解けを待ち、ゆっくりペースで神社・史跡めぐりを続けたいと思います。拙い記事ばかりですが、読んでいただければ幸いです。ごゆっくりどうぞ!
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